現代社会における宗教の役割と政教分離

身延山大学仏教学部長  中山 光勝

1.はじめに:神道と日本文化

 政治と宗教はともに人間生活の根幹にかかわり,社会に対して影響力を持つ存在である。宗教の基本は絶対性(純粋性)であるが,政治は妥協を旨とするものである。しかしともに生活様式を構築する点で類似性があり,それらがかかわるときには,危険な側面が生じる。特に,唯一絶対神を信仰する場合は,それが顕著にあらわれてくる。例えば,キリスト教やイスラム教においては,常に血なまぐさい歴史が展開されてきた。しかし,仏教の場合はそれほどでもなく,むしろ平和的な宗教だといえる。その点で言えば,日本の神道も同様で,かえって「神仏習合」といわれるように他を包容する力を特長としている。宗教学の観点から言えば,それは純粋性に欠けると批判されるところだろうが,私はむしろ日本の調和文化の表れではないかと思っている。

 ところが,明治維新期の神仏判然令(1868)による廃仏毀釈運動により神仏が分離されることによって,日本人が伝統的にもっていた素朴な面がすべてつぶれてしまった。これが日本における明治以降の宗教問題の原点になったと思う。形式上は,西洋化され先進国入りの方向に向かってうまく進んでいったけれども,精神文化,心の観点からすると非常に貧しいものになってしまった。

 日本の宗教的伝統は,仏教が伝来したときから神仏習合の歴史であった。その調和を特徴とする伝統文化が明治政府の新しい政策によってつぶされてしまい,日本の宗教史における大きな分岐点となった。それゆえ,明治以降の宗教史,あるいは宗教と政治の問題を考えた場合に,神道の取り扱いがもっとも大きな問題となった。それはさらに,戦後から現在に至るまで尾を引きずっているのである。そのような背景があって,戦後は,神道に対して抱く思いには一般に厳しいものがある。しかし,私自身はそうは考えていない。

 もちろん,国家神道が明治政府によって人為的にてこ入れされて造られたことは事実ではあるが,神社神道には原始時代から続く日本人の素朴な信仰を体現している側面がある。その代表的なものは自然に対する畏敬・崇拝の念であるが,それらは伝統文化の中に自然と根付いてきたものである。

 それぞれの国や民族には,その歴史の中で培われてきた独特な精神文化が必ずある。そのような文化的行為は,その内容を他人に押し付けることではない。政教分離がなされている米国でも,大統領の就任式には聖書に手を置いて宣誓をする。大統領が聖書で宣誓をすることによって人々にその信仰を押しつけるわけではないし,また布教・宣伝をしているわけでもない。その行為を通して本人も神聖な気持ちになるし,国民も心の安らぎを覚えるのである。日本の場合は,その位置に神道が大きな部分を占めているということになる。戦前のように一つの宗派(国家神道)を強制したのは行き過ぎであったが,逆に一律に(神社神道全体を)否定するのも問題であると思う。神社神道一般に対してもっと大きな文化的観点から見つめ直す必要がある。

2.政教分離の矛盾と課題

(1)明治維新以降の問題点
 日本における政教分離の問題は,神道を抜きにしては語ることができない。明治憲法下では,国家神道は宗教ではないとされ別格の扱いを受けてきた。そしてその時代の宗教とは,教派神道,仏教,キリスト教その他であり,当時明治政府は教団平等の原則でもってそれらの宗教に対していた。 

 明治維新期における廃仏毀釈運動において明治政府は,神社から仏教的要素を一掃することが基本方針であった。ところが現実には,軍部が中心となり,自分たちの正統性を主張するためには絶対的なよりどころが必要で,そのために神道を利用した。その動きに国学者,神職の人たちなどが便乗して自分たちに有利なように導いていった。もちろんそれに便乗した側にも非があることは確かである。その延長線上に,国家神道の特別な位置が定められることになる。この国家神道を別扱いにした政策はいきすぎであったと思う。そして政府は一貫して国家神道は宗教ではないと主張した。

 伊藤博文は,『憲法義解』の中で近代的な意味での政教分離の原則や信教の自由を理解して解説している(注1)。もし,そのとおりに実行していれば,神社神道の問題は起きなかったのではないかとも思う。

 さらに,昭和30年代に憲法調査会の審議の際にも,「神社神道は宗教か否か」について議論された。東京大学の岸本英夫教授(宗教学)(1903-64)は,宗教を中心とする同心円を描いて「その周辺部分に相当するのが神社神道だ」と述べた。純粋な宗教の定義を当てはめれば,神道は宗教に該当しなくなってしまう。そのように神社神道を見つめるのではなく,むしろ日本の基層文化を形成する大きな部分として見ることが必要ではないか。その点では,日本における神社神道の位置というものは,他の諸宗教とはやや違う様相を呈している。

 厳格な政教分離を振りかざす人たちからすれば,大学医学部や大学病院における実験動物に対する慰霊祭や,公用車にかけられた神社のお守りなども問題になるはずである。しかしそれらを通して特定の宗教・寺院の布教や宣伝の材料にしているのではないわけで,その点への配慮が大切である。そのような人たちの多くは,文化の部分と宗教の部分とをごちゃ混ぜにしているようで,「小児病」的な考え方だと思う。

 例えば,地鎮祭にしても,ある意味でこれも日本人の伝統的宗教意識を反映している。もし建物を建てるのに地鎮祭をしないと一般の日本人はどことなく心が落ち着かない気持ちになる。現代科学の最先端の建物を建てるときでさえ,地鎮祭を行っている。それをしないとどうも心が安まらないという日本人のメンタリティーなのである。それを単純に非科学的だと否定することはいけないと思う。われわれ人間は,何でも論理で割り切れるような考え方や生活をしているわけではない。しかし,戦後50年以上を経ながらも,このような精神文化について十分に考えることもしないままに今日まで来てしまった。そのつけとして,今日の宗教をめぐる問題につながっている。これからの21世紀,さらには22世紀に向けて日本人として存続していくためには,こうした問題を今からでも真剣に考えておく必要がある。

(2)刑務所における宗教教誨
一つの問題提起として刑務所における宗教教誨の例を挙げてみたい。

 これは監獄法の中に規定されている「教誨(きょうかい)」である(監獄法第二十九条,注2)。戦前は刑務所に牧師や僧侶が教誨師として所属していた。しかし戦後は,「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法二十条第3項)との規定を援用して,ボランティアとしてのかかわりとなっている(注3)。つまり,刑務所サイドから特定の宗教者に依頼はできないので,受刑者の希望によって来てもらうという形をとることになる。そこで刑務所側で地元の宗教者に呼びかけて教誨師のグループを作ってもらいボランティアできてもらっている。そのため宗教的に偏りが生まれざるを得ない状況がある。

 かつての刑務所には,受刑者の更生復帰のための教誨堂が一番立派に建っていた。そして戦前は全国的に浄土真宗の僧侶が教誨活動に積極的にかかわっていた。戦後は,刑務所の建て替えとともにそのような立派な教誨堂は取り壊されなくなっていった。

 刑務所の機能には,懲罰的機能とともに教育刑としての機能もあるわけで,その中身として手に職をつけるという職業訓練だけでは不十分である。受刑者は精神的な悩みや心の問題があって犯罪に及んだわけであるから,更生復帰の見地から心の問題にかかわるのは当然のことである。

 現在の更生保護の治療の中心は,カウンセリングや心理学などの科学的な手法がほとんどであるが,それだけでは限界があるように感ずる。そのようなアプローチは,心理テストのような数値化されたもので受刑者を見ているような気がする。人間という存在は,科学的な数字に表れる部分だけでは捉えきれない存在であるので,そのような科学的アプローチとともに宗教的アプローチが必要であり,その両者があいまってこそ心の問題を総合的に扱うことが可能になると思う。心の問題は,根本的には一対一の関係で向き合う中で,受刑者の心を諭していくような過程が更生には必要である。それが教育刑としての趣旨であると思う。心が健全に更生されなければ,何にもならない。

 政治と宗教の問題となると一般に靖国神社問題などがマスコミで大きく取り上げられるが,このような問題もあることを喚起したい。

(3)教育・文化と宗教
 公立学校の場合は,憲法の規定(憲法二十条)を盾に宗教教育ができない状況がある。しかし,教育基本法にも規定があるように,情操教育の一環としての宗教教育,国民の共通認識であるやってはいけないことを教える善悪教育など,心を養う教育が今こそ必要である。

 学校教育においては,まず宗教に関する基本的知識を教えることである。教師の力量の問題もあるが,仏教,キリスト教,その他宗教について基本的なことを学ぶことは重要である。学校教育の中で宗教についてしっかりと学習することが,何よりも健全な考え方をもつための第一歩であると思う。

 教育の中において宗教一般についてしっかりと教えてこなかったという歴史的背景がある。戦後は,憲法の政教分離を杓子定規的にとらえて宗教から一歩も二歩も引いてしまい扱わないできた。教育基本法にも「宗教に関する寛容の態度」を尊重すべきことが謳われているし(教育基本法第九条第1項),憲法をはじめとした法律体系の中で宗教を敵視しているわけではない。宗教分離の精神として,「友好的」分離を謳っているのである。それを厳格に当てはめようと考える人が少なくない。

 また,国際理解には外国語学習はもちろん不可欠のものであるが,それ以上に自国の文化,そしてその基層を形成している宗教に対する深い理解がもっと大事であると思う。その根本は神聖なものに対する畏敬の念である。

 現代社会の考えの根本には,人間が一番偉くて,人間は何でもできるという傲慢な考えがあり,そして自分たちが理解できない範疇のものに対してはみな迷信だと切り捨ててしまう態度がある。そうなると,道端にある道祖神に対して敬虔に手を合わせて祈るお年寄りの姿に対して,「迷信だ,ばかばかしい」と見下すようになる。道端にある道祖神や仏像の前に立つと自然と手を合わせたくなる気持ち,その自然の心の発露こそ,われわれの文化の根源にあるものである。そのような行為に対して尊ぶ,敬う態度が,現代人には必要な要素である。もちろん,どんな宗教を信ずるかは自由ではあるが,そうした精神の根源にある心の性向に目を向けることが大切なことである。それは目に見えない存在を尊ぶ態度であり,それが自国の文化を大切にする態度へとつながっていく。

 宗教と文化とは切り離すことのできない関係にある。現代のようにグローバル化する社会においては,国外の人々,他民族の人々との接点が必然的に多くなるが,そのとき自国の文化に対する理解をもたなくては,自分のアイデンティティーを確認することができない。

 宗教理解という点で,聖徳太子の考え方は画期的であったと思う。彼は憲法十七条において,「篤く三法を敬え」と言ったのであって,決して「信ぜよ」とは言わなかった。一つの宗教を信ぜよとなるとそれは争いの元になる。信ずることはできなくても敬うことはできるわけであるし,むしろその心が大事なのである。それが敷衍されれば相手の立場を尊重するということにつながっていく。相手の立場を尊重して敬うことは,礼儀の基本である。一つの宗教を押し付けるのは問題であるが,そうではなく敬うということであれば,問題は解消していく。

 これまでの政治と宗教をめぐる論議においては,あまりにも形式的議論が多かった。神社とは何であるかということに対する本質的議論を避けてきたように思う。それをはっきりさせない限り,いつまでたっても平行線をたどるだけであろう。その結果として,神社神道に対する偏見した見方が横行している。

 例えば,公用車につける神社のお守りはダメでお寺のお守りは問題ないということもある。また,天理市の場合,その行政においても天理教と分離しては考えられない仕組みが出来上がっている。厳密に言えば,公共団体が特定宗教と結びついていることは問題になるわけであるが,それに対する議論は起きてこない。その他にも,警察の交通安全にあわせて僧侶が祈祷を行ったり,また逆に寺の行事に町長が参加したりしている。それらは実際上は,社交上の儀礼と一般に認識されているために問題にされないのであろう。

3.現代に生かす宗教の価値

(1)宗教の生活化
 毎日のように繰り返される殺傷・殺人事件を見るにつけ,いかに現代の人々の心がすさんでしまっているのかがわかる。その背景には,現代人があまりにも目に見える物質的なものにのみ価値を置いて生活しており,敬虔に敬う態度が欠如している。物質主義的価値観だけでは将来何も残らないだろう。ここに現代における宗教の役割がある。

 もちろん,宗教者自身の課題が山積していることも事実である。宗教者自身も含めて,世俗的なことばかりに目を向けるのではなく,宗教の原点,信仰の原点に返る必要があるだろう。

 日本における伝統仏教など既成宗教には,一般に力不足,努力不足を感じる。その間隙を縫って新興宗教が隆盛しているともいえる。それは伝統宗教が現代人の抱える心の問題に応えていないことを意味する。それはちょうど,日蓮上人のいた鎌倉時代と同様であると思う。日蓮上人は堕落した当時の仏教を批判していった。今度はわれわれがその批判されるような立場に立っているわけである。そこで,われわれの大学でも,それを打破すべく学生たちに訴えている。例えば,「葬式仏教」とよく批判されるような側面も事実あるわけで,それを超えて宗教者は本質的な活動を展開する必要があると思う。

 今後は,寺院の檀家制度も崩れていくに違いない。そうなると仏教自体も今までの制度に安住することなく改革を目指していかないと,生き残っていけないかもしれない。例えば,JRの忘れ物に(半分意図したものかもしれないが)「遺骨」があるという。それは現代人の既成宗教に対する態度の象徴的表れといえる。本来の仏教者のなすべきことは,死者に対することではなく,生きた人間に対することでなければならない。日蓮上人も死者に対する葬儀をして歩いたとの記録はない。むしろ今に生きる人々に対して教化(教育)して歩いたのであった。それは仏教に限らず,宗教の本来の使命であろう。生きているうちに幸せにならなくてどうするのであろうか。

 その意味では,福祉などの分野において幸せに生きるすべを教えながら人のためになる生き方をすることが宗教者の本来的生き様である。日蓮上人の精神は,法華経の精神を体した人となって,さまざまな職業人として生きていくことであり,それによって世の中が平和になり,清らかな社会が形成されていくことである。宗教の教えが生活化されていくことが根本である。その核心は,相手を尊重することであり,慈悲の心である。それがなければ,いくら立派な技術を持っていても本当に役に立つとはいえない。

(2)宗教と福祉精神
 これまでの福祉は,児童福祉にしても社会・介護福祉にしても,福祉の対象となるべき人に対するケアーのための技術習得がほとんどを占めて先行していたように思う。その結果,対象となる人たちを一種の「モノ」として扱っている現状も散見された。そこで福祉の対象となる人たちの立場を考えたケアーができる人々を養成しようと,本学では来年度から「仏教福祉学科」を立ち上げようと準備している。それこそが本学の本来の趣旨にも合致するし,本学の教育理念の具現化であるといえる。日蓮上人にしても,日本の人々全部を僧侶にしようと考えていたわけではないように,本学が単に僧侶の養成という狭い範囲にとどまることは本来の趣旨に合わない。

 本学は,日蓮宗の総本山である身延山久遠寺が運営する学校であるので,大学の基本方針は日蓮上人の教えということになる。本学では建学の理念として日蓮上人の立正安国の精神を謳っているが,それはわかりやすく言えば,「人の役に立つために勉強し,社会に出てからは人のために尽くそう」という慈悲の精神である。

 また,日蓮上人はその著書『撰時抄』の中で,次のようなことを述べている。私はこの国に生まれここに存在するので,私の体は国の法(王法)によって支配されるが,しかし私の心はそれには拘束されない。つまり,精神的自由,信教の自由を謳ったのである。これは西洋における信仰の自由を述べたマルチン・ルターよりも300年余りも先行する時代(13世紀)のことである。この点は刮目すべき内容である。

 また,日本における福祉事業の出発は,歴史的にさかのぼれば飛鳥・奈良・平安時代の福田(ふくでん)思想(注4),悲田院(注5)など仏教者が始めた運動であった(注6)。その意味では仏教思想をもって福祉活動を実践することは仏教の精神の原点に立ち返った出発といえるものである。かえって仏教者自身が福祉のことを忘れ,それらをみなキリスト教の側に譲ってしまったような感さえある。そこで計画中の新学科においても,そのような仏教の精神が体得できるように,日本の福祉活動の原点が仏教者の活動の中からでてきたことを授業の中で教えていくつもりである。また本学は規模の小さい大学で,仏教福祉学科も定員20名を予定しているので,その特性を生かしてきめ細かい指導をしていこうと思っている。

 このように福祉の世界には,その根底に宗教的精神が必要である。もちろん技術面の大切さはいうまでもないが,人間の心と体の関係と同様に,福祉の心を形成する宗教的な精神が不可欠である。それでこそ,福祉の対象となる児童・高齢者・障害者などの方々の人権を真剣に考えた福祉が実践できるのである。心がないと,結局はその人々がモノ扱いを受けてしまうことになりかねない。これが現代の福祉における大きな問題の根本を形成しているように思う。

もう一つの私の願いは福祉における「司法福祉」を見直してほしいということである。司法福祉については,最近認知されつつあるが,まだ不十分である。刑務所から出所した人たちの更生保護,保護司の仕事もその一つである。本学を出た人たちが,社会の中で非行少年の更生保護,教誨師などの司法福祉の分野の仕事を担ってくれればと願っている。特に,僧侶の資格(僧籍)を持った人が,役所に勤めたり,刑務所に勤めたりしながら,宗教的素養を持って仕事を進めることは地道なことであるが重要なことだと考える。新学科においては,そのような内容を盛り込んだ「司法福祉」という科目を設けて教育していこうと考えている。

4.最後に

これからの宗教の役割は,こうした分野の中で慈悲の精神を実践していくことにある。それは仏教に限らず,キリスト教でも他宗教でもそうであろう。諸宗教間における枝葉である違いの部分が前面に出てくるために,葛藤・対立が起きている。しかし,宗教の根源という共通点に戻って愛,慈悲,アガペーを実践することが今こそ要請されている。そして学校教育において必要なことは,そのような視点を教えることである。
(2004年5月19日)


注1 大日本帝国憲法第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
 これに関し『憲法義解』には,以下のように記されている。
 「蓋本心の自由は人の内部に存する者にして,固より国法の干渉する区域の外に在り」
 「信仰帰依は専ら内部の心識に属すと雖,其の更に外部に向ひ崇拝・儀式・布教・演説及結社・集会を為すに至ては固より法律又は安寧秩序を維持する為の一般の制限に遵はざることを得ず。而して何等の宗教も神明に奉事する為に法憲の外に立ち,国家に対する臣民の義務を逃るるの権利を有せず。故に内部に於ける信教の自由は完全にして一の制限を受けず。而して外部に於ける崇拝・布教の自由は法律規則に対し必要なる制限を受けざるべからず。」

注2 監獄法第29条 受刑者ニハ教誨ヲ施ス可シ其他ノ在監者教誨ヲ請フトキハ之ヲ許スコトヲ得。
 教誨とは,刑務所・拘置所など矯正施設に収容されている者の宗教的要求を満たし,心情を安定させ,規範意識を覚醒させるために,民間の篤志宗教家である教誨師が施設内で行う宗教活動である。宗教教誨には,同じ宗教宗派の宗教教誨を希望する者を集めて行う集合教誨(説教,礼拝,法要など)と個別に行う個人教誨とがある。大日本帝国憲法下では,刑務職員として教誨師を配置して宗教教誨を行っていたが,戦後の新憲法下では,宗教教誨にわたらない一般教誨のみとなり,宗教教誨は民間篤志宗教家に委ねられた。

注3 矯正施設における受刑者や少年院在院者などの改善更生と社会復帰には,専門的知識や豊富な経験をもつ民間の篤志宗教家などがボランティアで奉仕活動を行っており,それを「篤志面接委員制度」と呼んでいる。

注4 福田(ふくでん):田が作物を生ずるように,供養することにより福徳を生ずる対象。仏や僧,貧窮の人など。
 三福田:供養すれば福徳を得ることのできる三つの対象。敬田(三宝)・恩田(父母)・悲田(貧苦者),または報恩福田(父母)・功徳福田(三宝)・貧窮福田(貧苦者)。[「広辞苑」より引用]

注5 悲田院:貧窮者・病者・孤児などを救うための施設。聖徳太子が難波に建てたというが確かでなく,723年興福寺に,また730年光明皇后が施薬院と共に平城京に設置したと伝える。その後,平安京や諸国にも置かれたらしく,10世紀ごろまで存続した。鎌倉時代に忍性が復活。[同上]

注6 聖徳太子は四天王寺に,敬田院(教化施設),悲田院(救済施設),施薬院(薬草栽培・投薬機関),療病院(施療病院)からなる「四箇院」を設立した(593年)。これが日本の福祉の始まりとされ,さらに光明皇后が,興福寺に悲田院,施薬院,温室(浴場)を建設(723年)した。その他に,行基の布施屋(無料宿泊所)や空海の綜芸種智院(教育機関)を設置するなど,この時代には仏教思想に基づく数多くの事業が展開された。