現代の子ども観「子ども天使論」を質す

麗澤大学講師,日本教育技術学会名誉会長   野口  芳宏

1.現代の子ども観の問題点

(1)「子ども天使論」の虚妄

 教育の本質について語る際に,よく英語のeducation(教育)という言葉を引用しつつその語源から論ずることがある。即ち,「外へ(e=ex=out)導く,引き出す(duc)」,「資質を導き,引き出す」と説明する。この考え方によれば,教育とは人間が本来持っている良い資質を引き出す営みなのだから,なるべく教育者は子どもの邪魔をしない方がいいということになる。

 一方,東洋には「教育」という言葉があり,その意味するところはeducationの考え方とはだいぶ違う。「教」の字を分解すると,「子どもに手をかけて交流する」という意味になる。そして旁の上の部分には,「鞭」がある。「鞭」には,@たたくA指すという二つの機能があると言われる。つまり,子どもに望ましい方向を指し示したり,悪い時には叩いたりしながら教えていくということになる。「引き出す」のではなく,むしろ「教え込む」ということだ。

 戦後の教育思想は,基本的に米国から入ってきたために,上述のような東洋的な「教育」観を説く人はほとんどいなかった。もちろん,これはどちらがいいかという択一の問題ではない。西洋的な考え方(開発主義)からは,「発明家」が生まれてくる。例えば,エジソンは学校から締め出されたが,数多くの素晴らしい発明をした。ただその一方で,「ギャング」も出てくる。片や,東洋の教育観の基本は,「立派な人になる」という人格主義的な考え方である。そのため,過去の伝統を否定して全く新しいものを生み出すという発明家は,東洋からはほとんど出てこなかった。しかし,私は最近の世相を見ながら,東洋の風土から生まれた教育観の価値をいま一度見直す必要があるのではないかと思っている。

 実際,私自身の体験でも,大学でeducationという考え方(「子ども天使論」)を学び,青年教師になりたての頃は,それを教育の現場に具現する中で失敗を経験した。その教育実践の中で,子どもたちから裏切られたことがいくつかあった。それゆえ時には,厳しい姿勢で子どもたちに臨んで善悪を明示し,それでも分からない場合には痛い目にあわせることもした。このような体験を通して私が学んだことは,愛と共に,もう一方の手にはやはり「鞭」も持たなければだめだということである。

 現在の教育観の主流である「支援・援助」という考え方は,豊かな社会になってから現われた思潮だと考えている。それは「迎合の思想」とさえ言いたい。昨今の青少年をめぐる犯罪・事件・悲劇は,まさに東洋的な教育がかえりみられなかったことの結末であったと思う。それが子どもたちに帰結し,子どもたち自身が不幸になっている。子どもたちは,正しい生き方について教わらず,それを教えてくれる教師もいない。そして常に「自分自身で考え,判断せよ」と言われる。しかし,自分で考え判断(自己決定)するためには,考え方の基礎(善悪観など)が必要であるのに,その根本が全くたたきこまれていない現状である。

(2)子どもは未熟だ

 「こども」という言葉の「ども」は,「野郎ども」などという「ども」と同じで一種の蔑称である(注1)。元来,こどもは「未成熟で一人前ではない」という認識から発生してきた言葉であり,そのような存在なのだから教育によって完成に至らせるというのが,私の基本認識である。しかし,一方では,「子どもという存在はそれなりに完成した存在であるから,子どもの考え方を尊重しなければならず,子どもも一個の権利の主体である」と考える人もいる。これは,子どもをあまりにも「天使」のように考えている。子どもとは,未熟・未完成な存在であるとの大前提がなければならない。

  人間に対する見方には,大きく「性善説」と「性悪説」とがある。人間社会が豊かになればなるほど,「性善説」に基づいて子どもを見るようになり,「性悪説に則って見るのは失礼であり,人権無視だ」という風潮になる。貧しい時代には,国全体が大きな目標に向かって進んでいるので,その過程においては,我慢・強制などが当然の如くなされる。ところが,経済的に豊かになるととかく子どもを完成した存在として見るようになり,未熟な子どもに迎合する傾向が現われてくる。

 私の実践体験からすれば,「性善説」は間違いである。一方の「性悪説」も極端な考え方であり,にわかには賛成しかねる。そこでその中間の説として「無記説」がある。これは「教育しなければ人間は白紙のままであり,人間は教育によってこそ人になる」という考え方である。この点が重要である。それゆえ昔から「玉磨かざれば光なし」と言った。ところが現代では,もともと子どもは「玉」なのだから磨く必要がないと考えている風がある。

(3)成長段階に応じた教育指標

 そこで,上述のような考え方を子どもの成長段階に沿って整理してみよう。

 まず,人間は生まれた直後から家庭教育が始まる。物心がつくころには幼児教育,それから学校教育が始まり,その課程が終わると社会教育,生涯学習となる。こうしたコースは,人間の本性をわきまえた論であるが,ここで重要な点は,子どもは「教育される存在」であるという認識だ。

 幼児教育(就学前)の時期を私は,「基準感覚形成期」と呼んでいる。具体的には,名前を呼ばれれば「はい」と返事をする,挨拶ができる,履物をそろえる,そうしないと気分が悪いという状態(感覚)を作ることである。この感覚形成の中心は家庭教育である。そうした教育を経て就学すれば,学級崩壊などという事態はありえない。子どもには,そのような教育をすればそれを受け入れることのできる能力が本来神によって与えられ,備えられているはずである。ところが,社会がそのようなことを重視しないがために,子どもが教育されず,結果として子どもたち自身が不幸に陥っているのである。

 初等・中等教育(義務教育)は,基礎・基本をたたきこむ時期である。つまり,基礎学力・基礎的人間性を形成する時期だ。この時期は,個性なんかを尊重してはいけない。基礎のない個性はあり得ない。わがまま・でたらめと何ら変わらない。

 高等学校の年齢期になると,自分の特性を見極める時期である。つまり,どんなことで社会の役に立てるかを考える時期だ。ところが,現代では大学生になっても何になるか決まっていない,考えがまとまっていないという学生が多い。本当は,高校の時期に自分の特性にあった職業選択をし,それにあわせた目的をもって大学に進学し,あるいは社会に出て行くべきであろう。

 そして,大学や専門学校ではエキスパートを育てる段階となるべきだ。大学に進学しない場合でも,一つの職業訓練を経てエキスパートとして社会人になっていくべきだ。この段階(高等教育・専門教育機関および社会)では,見極めた特性を磨いていく時期である。

 先の東洋的教育観はどちらかというと,幼児教育および初等・中等教育の時期により重点的に実施し,その後の高等学校以上の教育課程においては,educationの考え方を中心として進めるというのがよいだろう。

(4)個性重視が孕む危険

 現代社会では,個性尊重,個性重視の考え方が,初等教育の中にまで大きなうねりとなって入ってきている。それが間違いのもとであると私は考えている。もちろん,教育はもともと理想主義的な側面を持っている。教育は,理想を求めて当たるためにそうならざるをえない。

 また,教育に対する上からの基本方針(教育行政)は,デスクワークの中から生み出されて発信されることがほとんどである。そのためそのような崇高な理想を現実から見れば,あまりにもかけ離れて通用しないということになりがちだ。

 かつて,臨教審の答申において,学校が閉鎖的であることが指摘された(型にはめた教育,一斉画一教育)。それゆえ開かれた学校になるべきであり,多様な子どもの要求に応じるべきだと提言されたことがあった。確かにそれは批判としては正しいが,その考え方を初等教育にそのまま導入するわけにはいかない。それは理想主義すぎる。机に向かって理論だけを研究している人たちとは違って,子どもと日々向き合う学校現場にいる私たち教師は,そのようなきれいごとではすまされない現実に直面しているのだ。

2.戦後教育が齎(もたら)した問題点

(1)「国民としての教育」の欠如

 戦後教育の一つの問題は,国民を育てるという「国民としての教育」という側面が欠落したことである。その代わりに,個人(の欲求)肯定が肥大化した。戦前の教育のあり方を象徴する言葉は「滅私奉公」である。が,戦後はそれにこりごりして現在は「滅公奉私」となってしまった。極端なまでに大きな振り子の動きであった。その結果,「子どもはやがては国家を担う国家的人材なのだ」という見方がなくなってしまった。子どもはマイホーム・マイペット化してしまい,子どもが「公」の存在でもあること(公的認識)を多くの国民は忘れてしまったようだ。

 教育の目的とは一体何か。それは教育基本法の第一条に記されているとおり,「国民の育成」なのである。しかし,現場の教師たちもその目的を忘れて目の先の小さな目標達成のためにふうふう言って大忙しの現状である。「目標」と「目的」の違いがよく分からない人も多い。「目的」を達成するためにたくさんの「目標」があるのだ。例えば,目標には,都の目標,区の目標,学校単位の目標,今週の目標などとたくさんあるが,それらを「目的」と混同している人が少なくない。

 教育基本法第一条(教育の目的)には,次のように記されている。

 「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない。」

 戦後教育は,この条文の中の「人格の完成」と「国民の育成」という中心的な教育目的をみごとに忘れてしまった。そして「人格教育」「道徳教育」といえば一種のアレルギー反応を示して,「再び戦前に戻る・・・」などと批判する軽薄な人がいる。「国民の育成」とは,国家あっての国民であり,国家を守るのも国民であるのだから,国民教育を否定する論理はナンセンスと言わざるをえない。

(2)「よい差別」と「悪い差別」

 以前私は各地で,「愚者と賢者の分かれ道」というテーマで講演をしたことがあった。それに対して,ある地域で「‘愚者’という言葉は(差別用語だから)使ってはいけない」と指摘された。そこで,「賢愚の分かれ道」となおしたことがあった。しかし,そもそも,賢者という言葉は,その一方に愚者という対概念があって成り立っている。それは右に対して左という言葉があるのと同じ道理である。愚者に対して変なイメージを持つことこそが問題なのである。そして,むしろこのような言葉狩りが問題なのだと指摘した。ある言葉を使わなければ問題が解決したという考え方の方が,却って問題なのである。

 同様に,「差別」は悪で,「平等」は善という二分法の考え方が強くある。しかし,本当はそうではない。差別というものも極めて重要な概念なのである。例えば,校長の給与の体系と教頭と教諭の給与の体系はそれぞれ歴然と違うし,高校教諭と小学校教諭のそれも同様である。また,都知事の権限と都議の権限とは違う。それらは区別ではなく,差別である。そもそも,責任と仕事の内容が違うために,その職責に応じてきちんと差別し,対応し,評価するのは当然のことなのである。そのような差別概念は重要なことであるにもかかわらず,誰もはっきりと言わない。「差別」といわれただけで縮みあがっている。このように,差別にもよい差別と悪い差別とがあることを認識したい。

 その論理で言えば,体罰にも価値ある体罰と価値のない体罰があることになる。それに対して,「体罰にはそもそも価値がないのだから,その論理は破綻している」と批判する人がいる。しかし,私はそれに対して,はっきりと「価値ある体罰」を認めたいと思う。もちろん,その境界は難しいところであるが,価値ある体罰を否定しようとする人の多くは「その価値判断に,その人の主観が入るから問題だ」と非難する。

(3)「主観」の大切さ

 そもそも「主観」とは,「おびただしい客観を踏まえて形成される」ものである。何ごとでも最後には主観で判断するのであり,それが「自己決定」なのである。例えば,投票にしても最後は主観による判断である。

 最近,学校教育の中で,評価方法が相対評価から絶対評価に変わった。そうしたら「評価基準を作ってくれ」という人がいた。それは本末転倒である。絶対評価導入の意味は,教師の主体性を認めたということである。従来の相対評価では,子どもの成績(点数)はその統計学的割合(正規分布)に従って一人一人の評価が決まっていた。その点で,教師は「考える」必要がなかった。しかし,絶対評価になると,今度は教師一人一人が自分の判断(主観)に従って子どもたちの評価(「所見」)をするのだ。だから,客観的な基準をつくる必要はないし,また,そんなものはできることでもない。

 その教師の主観によって下された所見であるのだから,その評価に対しては教師が説明できる責任を持たなければならない。それゆえ「教師の説明責任」が問われることになる。この点が重要だ。それだけにふだんから子どもたちをよく見ていなければ,説明責任を果たすことはできない。このように主観は極めて大切な判断なのである。

(4)「多様化」重視の問題点

 「受験地獄」という言葉がある。その弊害に対して,「楽しむべき青春前期が暗黒になっているので,偏差値教育をやめ,高校進学を多様化し,進学のハードルを低くしよう」という考えで改革が進められている。その具体的な一策が中高一貫校の設置である。そのように進学のハードルをドンドン低くしていくと,いよいよ子どもたちは勉強をしなくなってしまうのではないか。さらに,大学が入試を多様化し,一芸入試などで多様な人材を入れようとしている。しかし,本来の大学とは,一定以上の習得学力がある者が行くところであって,多様な人材は社会で受け入れるべきものである。このように価値の多様化という美名のもとに,世の中が混乱を深めているような気がしてならない。

 またある講演会で東京大学の東洋(あずま・ひろし)教授の話を聞いた時に,「選抜は完全であってはいけない。アバウトがいい」とおっしゃっていた。東大・京大は日本でも超エリート大学であるが,その中には役に立たない人も入ってくる。逆に,二流・三流大学からも立派な指導的人材が出てくる。このように,選抜は完全ではないことによってこそ意味がある。このような主張であった。

 この考え方は重要である。この点からいえば,大学入試は,学力試験だけで良いのである。ところが,多様な人材を入れようという風潮の下に,大学本来の機能が低下してしまっている。それはまさに大衆への迎合である。そもそも高等教育とは,「高踏性」が必須である。それゆえに大衆から尊敬を得るわけであって,大衆性を完備した機関にしようとするから却って軽蔑されるようになる。低俗への迎合はもってのほかである。

3.価値ある体罰論

 現代の子どもたちには,いま身近に怖いものがない。小学生・中学生がどんなに悪いことをしても実刑を受けることはないし,ただ口で注意されるだけである。少年法によって保護され,学校では体罰が禁止されているために,子どもたちは痛い目にあうことがない。子どもたちに対する強制手段は世の中のどこにもない。ばねもたがもない教育状況である。これでは,まじめな者ががっかりしてしまう。

 やはり「おそれ(畏・恐)」は必要なのである。まじめに生きた者が称揚され,それを破ったものは懲らしめられるというシステムが学校教育にも絶対に必要な原理である。わずかな金額でも万引きをすれば捕まるという社会の常識を知らせなければならない。ここに価値ある体罰の必要性がある。

 今まで私はPTAや一般の方を対象にした教育講演会を数多く各地でやってきたが,その際「自分の子どもを本当に立派な人間に育てたいと思っているか」と質問をすると,100%の人が○をつける。「では,立派な子どもにするために,もし自分の子どもが言うことを聞かなかったり,先生に刃向かったりした場合には,ひっぱたいても蹴飛ばしてもいいからまともな人間にしてください,と教師に頼む人は○をつけて下さい」と言うと,96-97%が○をつける。これは各地に例外がなく共通した傾向だ。これが国民の「隠れた本音」だと私は思う。国民の大半は「価値ある体罰」を容認する用意があるようだ。

 体罰絶対反対論者は,体罰と暴力を混同している。体罰と暴力は異質なものだ。暴力は単なる暴挙であり,体罰は教育行為である。暴力は怨みであり,仕返しであり,攻撃である。しかし,体罰はそうではない。「愛の鞭」という言葉が示すように,その動機に「その子をよくしよう」という愛がある。体罰=暴力という考え方に立つと,単純な反対論になってしまう。

 そもそも,体罰については絶対禁止の方が教師には楽なのである。子どもがよくなろうが悪くなろうが何もしなくてもいいということになるからだ。ところが,もし価値ある体罰が容認された場合には,教師は本当にその内実が問われることになる。あの体罰はいいが,この体罰はだめだというように周囲から,社会からの評価・判断をまともに受けることになる。そのことによって教師たちにも緊張感がもたらされ,安住してはいられなくなる。

 教育の中に「おそれ」は要らない,子どもは天使なのだという考え方は,まことに滑稽な誤解である。それは幻想である。現在の教育がこのままでいいとは誰も思っていない。だが,それに対する回答はいつも幻想的理想論の側からしかでてこない。ここに矛盾の原因がある。

4.日本再生は教育の正常化から

 これまで述べてきたように,戦後私たちは,「子どもは未完成の存在である」「子どもは公的な存在であり,国家の人材である」との認識を忘れてしまった。そのことによって,結果的に現在のさまざまな問題が起きている,と私は思う。

 人類がこれまで求めてきたものは,貧困・拘束・戦争・差別からの脱却であった。その反対概念が富裕・自由・平和・平等である。そうした社会を求めて現在の世界もまた動いている。現在の日本を考えてみると,これらの四つの理想がほぼ解決している。その点で日本は「ユートピア」であり,「パラダイス」なのだ。だが,そこから新たに社会が内部崩壊をし始めているようだ。これはまさに,教育の敗北である。

 いままでの日本の歴史の中で,今のような繁栄を享受できた時代はない。ところが,教育が怠けたためにいい人間を作らなかった。そのために不幸になってしまっている。その不吉な現われが昨今のさまざまな青少年をめぐる事件である。それに対して「家庭の教育力の低下」を嘆く人がいるが,その前に指摘しておくべきことがある。それは,そのような現在の大人たち(現在の子どもたちの親世代)を作ってきた初等・中等教育の責任である。そのような大人になるように教育してきた責任を反省することだ。それを忘れてはいけない。

 現在教師たちは,一部の親にてこずり,一部の子どもにてこずっている。それゆえに,教師たちは腹を据え,将来てこずらないような子どもや親に教育していくべきである。それは可能である。初等・中等教育を今からよくしていけば,今後20年後には確実に日本はよくなっていく。時間がかかるようではあるが,教育の正常化こそ日本を再生する一番の近道であると確信している。(2004年9月10日)

注1 ども(共)
[接尾]@複数化の接尾語。体言に添えてその語の表す物事が多くある意を表す。謙譲,あるいは見下した意が加わることが多い。A一人称の語に付き,へりくだった気持ちを表す。
[「広辞苑」第5版より引用]