蒙古襲来の考古学

名古屋大学名誉教授 渡辺 誠

 

1.「蒙古襲来」の真実

 これまで日本では,13世紀の「蒙古襲来」に対する歴史認識について,「蒙古は騎馬民族だから船を操ることは不得手であり…」などの理由をあげ,さらに神風によって撃退されたと教えられてきた。しかし,蒙古の大軍は当時,世界最強の海軍といってもいいほどの海軍をもっていた。

 特に,文献に基礎を置く日本史学においては,このような認識の傾向が強い。例えば,日本史の代表的な概説書である『蒙古襲来』(黒田俊雄,『日本の歴史』8,1965)には,次のように記されている。
 
 二度とも大風が吹いて元の軍船に大被害を与えたのは事実である。この風がなければその後の状況はよほど変わった経過をたどったろうとことも明らかである。この風を「天祐神助」と見,「神風」と呼ぶ考えは,実は元の軍勢を絶対的に強力な完璧なものとみなすところから出ている。元はなぜ「風涛険阻」をのりこえるだけの戦略と軍隊をもてなかったのか。

 もともと精鋭をほこるモンゴル軽装騎兵がその機動力をじゅうぶんに発揮したのは北欧亜の平原であった。ところが大帝国が膨張してちがった地理的条件の地帯にさしかかると,進攻のテンポはゆるくなり,進攻にも限界が見えてきた。……とくに日本について考えてみれば,モンゴル軍が海を渡る作戦に不向きであったろうことは明瞭である。

 しかし海に弱いといってみても,現に一度上陸までしたのだから,それだけでは説明がつかない。わたくしがもっとも重視したいのは,高麗や中国大陸の服賊軍や降兵を動員しなければ遠征軍を編成できなかったというその軍事力の構成の弱さである。強制されてやむをえず従軍した兵たちの戦意のなさ,鞭と叱咤に呻吟して製作された軍船や兵器の粗悪さ,多様な経歴の指揮官たちの結束の不十分さ,しかもそうした将兵をあてにしなければおそらく上陸の作戦計画も思うにまかせない「海に弱い」元の将帥――こういう弱点は致命的であり,それゆえに風涛の難を克服するどころか,概して不敏で手違いが多く,消極的になって壊滅するしかなかったのである。

 他の類書もほぼ同じであり,これが文献史学者の一般的な見方とみなすことができる。そこで,ここでは考古学の立場からそれらの常識の問題点を洗いながら,歴史の真実をたずねてみたい。

2.モンゴル(蒙古)軍に対する常識の検証

(1)モンゴルの海軍
 前節で述べたようなモンゴルに対する考え方には,次のような問題点が認められる。
第一は,モンゴル軍は海に弱いという評価である。これは文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二度のモンゴル軍の攻略の時間の経過を考慮していない,あまりにも不十分な見方である。確かに日本進攻に先立つ高麗攻略の時点では海軍は不十分であった。しかし,その後南宋を攻略し江南を接収することによって,巨大な艦隊を持つことになったのであり,二つの戦争を混同することは間違いである。

 文永の役と弘安の永との間には,重要な変化があった。このことを杉山正明氏は,『クビライの挑戦』(朝日選書,1995)の中で次のように記している。

 しかし,南宋国の直属軍隊をのぞくと,なんといってももっとも有力な既存の海上勢力は,泉州を中心に,中国東南の沿岸諸都市に出入りする貿易船団であった。とりわけ,泉州をねじろとする蒲寿康とその命令・管轄下にあったムスリム商人を中核とする船団であった。
 じつは,南宋作戦のかなりはやい時期に,これらのムスリム海上勢力との接触がはかられていた。杭州無血開城後,南へ逃亡したささやかな「流亡宮廷」も,蒲寿康に期待した。ゆたかで安定した税収のある泉州には,南宋王室の一族が代々すまいしていた。「流亡宮廷」は,あわよくば,泉州の安住の地をもとめようとした。
 ただ,みずからもイラン系ないしはアラブ系の商人でありながら,たてまえはあくまで,南宋国の「提挙市舶」,すなわち船舶と通商をとりしまる行政官であった蒲寿康にたいして,かれらは不用意に尊大な態度にでた。……
 蒲寿康は激怒した。単独で「流亡宮廷」を敵にまわして激戦し,かれらを泉州湾からおいだしてモンゴルと手をにぎった。クビライは,蒲寿康をとりこむことによって,海上通商勢力をまるごと手に入れた。蒲寿康らも,クビライ政権の海上進出にすすんで協力した。泉州では,モンゴル政府による大型艦の建造も開始された。
 モンゴルにとって,南宋接収後の海上戦力の組織化をためす最初の機会が,第二回日本遠征,すなわち「弘安合戦」であった。至元18年(1281),日本の元号では弘安4年,江南から10万の兵をのせた大艦隊が東シナ海をこえて九州に達した。ふつう,これを「江南軍」という。

 先に記した文永の役と弘安の役の二度の攻略を区別できていない日本史学の一般的な見方は訂正されるべきであり,モンゴル艦隊の力を正当に評価しているとは到底言いがたいのである。

 ところで,ときは前後するが,1232年,高麗王朝はモンゴル(元代)の圧迫に耐え切れず都を江華島に移し実権回復を図った。その後,モンゴル軍の侵入に対して,近衛師団である三別抄(注1)は江華島を拠点に防戦につとめ,1270年国王元宗が降伏して都が開城に移った後も抗戦を続けた。元宗の解散命令を拒否した三別抄は,新たに珍島を本拠地に抵抗を続け,1271年モンゴル・高麗連合軍が珍島を攻撃すると耽羅(済州島)移った。しかし,1273年モンゴル・高麗連合軍の攻略によって滅ぼされた。

 済州島はモンゴル(元)が日本を襲ったときの軍隊の前進基地であった。そこでは船大工が総動員をかけられて軍船をたくさん建造した。働くのは地元の大工・人夫たちであったから,中国式の軍船ではなく高麗船をつくり,それをモンゴルの軍隊が使ったのである。
船といえば,普通丸太を使って作る筏船が基本だが,高麗船は角材を互い違いに重ねて作るために上にも前後にも長く伸ばすことが可能であり,大型船を作るのが比較的容易であった。このつくり方はその後中国にも伝わり,新安宝物船に応用展開された。これはちょうどバイキングに使われた船の形式と同じであったが,相互に関連はない。のちに船は,アラビア資本と中国の造船技術,インド人の労働を総合してさらに発展していったが,そのもとの技術を提供したのが高麗であった。

(2)兵器
 第二の点は,粗悪な兵器しかもっていなかったという評価である。
これは,たまたま台風によって沈没しただけで,回回砲という超強力な兵器が積まれていたことが,文献史料に見られなかったことが大きな原因である。しかし,それもモンゴルを騎馬軍団のみと決めつけていた先入観の影響も無視できないであろう。

 モンゴル軍の兵器の具体的な史料は,『蒙古襲来絵詞』のみである。これには,短弓とともに火箭・鉄砲が描かれていて,日本側の長弓,大刀とは対照的である。そしてそれらは集団戦と個人戦という戦法の違いとともに両軍の違いが指摘されているだけで,決定的な優劣の差があったことは理解されていない。この問題の唯一本格的な研究書である太田弘毅著『蒙古襲来―その軍事史的研究』(錦正社,1997)においても,回回砲についてはほとんど重視されていない。

 しかし,次の2点の引用には注目せざるを得ない。間接的ながら文献史料においても回回砲積載の可能性を示唆するものとして,きわめて興味深い。

@『元史』世祖本紀8至元18年(1281)正月の条に,回回砲匠などのための馬を給することを許可しなかった,とある。
A同世祖本紀8至元22年(1285)12月の条に,実現をみなかった第3次日本遠征の増派兵力のなかに回回砲手50人,とある。

3.回回砲

(1)回回砲の来歴
 回回砲について述べる前に,これに関する来歴について簡単に紹介しておこう。
石弾は中国春秋時代以後,戦闘に使用される最もポピュラーな抛石机と呼称される武器の弾である。反動を利用して遠くまで石を飛ばす仕掛けであるが,特に元代のそれは「回回砲」と呼ばれた強力な武器であったようで,至元11年(1274)中国国内で使用された際の記録に「威力強大,“机発”声露天地」とか,あるいは「一砲中其樵楼,声和雷雲」などの表現が見える。石が飛んで来るということの他に,音の威力によって恐怖感が倍増したものと思われる(注2)。

 回回といえば,イスラムのことであり,回回砲はアラビア語でマンジャニークと呼ばれる。その語源は,ギリシア語であり,エジプトを経てローマに伝わったとされ,そのオリジナルな地域はギリシア・ローマ世界にあることが示唆されている。
かつてBC89―88年ごろ,ローマ帝国の時代に,ローマの将軍スッラがポンペイを攻撃した。そのときベスビオ門とエルコラーノ門間の城壁を重投石器で攻撃した。そのとき使ったのは,直径19cm程度の石(重量5kg)であった。一般には,ポンペイはベスピオ火山の噴火によって一気に滅んでしまったといわれているが,実はそれだけではない。上述のように将軍スッラが徹底的にポンペイを攻撃し城壁を崩したことによって,火山の火砕流が城内に入りやすくなったのである。それが直接的な原因であった。

(2)回回砲の威力
 ところで,クビライ率いるモンゴルの軍隊によって南宋はついに滅んでしまった(1279年)。そのとき,使ったのが超大型パチンコによる花崗岩の玉(砲)であった。
ドーソン著『モンゴル帝国史』3(東洋文庫189,1971年)には,次のようなくだりがある。

 このころ,クビライがペルシャより招いていた技師たちが襄陽攻囲軍の本営に到着した。これより先,この攻囲軍中に勤めていたウイグル人出身の将官(参知政事)アリク・カヤはクビライにたいし,西域の技師(すなわち砲匠)が非常に重い重量を発射できる一種の兵器を製造しているということを奏した。皇帝はフラーグを嗣いでペルシャの王位(イル・カン)に即いたアバカにこのことを依頼した。アバカはその砲匠たちのなかから,アラ・ウッディーンとイスマーイールの二人を急使便で出発させた。かれらは大都の御前でその砲術を試演し,1272年の末のころ前線へ派遣された。
 翌年(1273年,至元10年)のはじめ,二人の砲匠は樊城の城壁に対して砲を据え,これをもって重さ百五十斤の石を発射し,壘壁に深さ七,八フィートの穴をいくつも穿った。破れ口はまもなく通行可能となった。アリク・カヤの指揮すモンゴル軍は攻撃を開始し,大虐殺をおこなったすえ,外郭を奪取した。
 樊城の攻撃に用いられた弩砲は同城の陥落ののち,襄陽城に対して据えられたが,攻撃が開始されたのは1273年11月のことであった。この器械は恐ろしい大音響をたてて城楼を破壊し,人びとは雷鳴かと思うほどであった。籠城軍は恐怖におびえ,この弩砲の威力にさらされた地点から遠ざかり,城内には落胆の空気が広まった。

 そして12月には城を明け渡すが,南宋の滅亡は1279年のことである。『中国古代兵器図冊』の原文が『元史』であることは,これによって判明するが,1274年は1273年の誤りであろう。また回回砲はその字の意味するようにイスラムよりもたらされたものであり,それ以前からある投石器とは明らかに区別されるべきものである。そして『中国古代兵器図冊』の問題点として,城壁破壊の強力な兵器であることが理解されておらず,単に音の威力のみが記されているにすぎないことが指摘される。
同様に,宮崎市定氏の『宋と元』(『世界の歴史』6,1961)における次の記述も間違いである。

 最後にモンゴル軍は新手の武器を登場させた。それは大砲であるが,もっとも今の大砲とちがい,火薬で弾丸を発射するのではなく,機械力で花火玉のようなものを敵陣に投げこんで炸裂させるものである。しかしこの新式兵器の威力の前に,力尽きた宋軍はついに和を乞うて開城せざるをえなかった。

(3)蒙古襲来
 蒙古軍が使ったのと同じ石弾が,1988年,89年に長崎県鷹島町床浪港の護岸工事に伴う発掘調査において陶磁器類,碇石などとともに回回砲7個が発見された。
上記の発掘調査報告書(高野晋司他「鷹島海底遺跡」,1992年)によると,その7個は次の数種類に分けられる。

1)直径が8cm前後で,重量が800g程度のもの
2)直径が11cm前後で,重量が1.7kg程度のもの
3)直径が15cm前後で,重量が3kg以上になるもの
この回回砲を積んだ船は,博多から長崎まで来たものの沈没して上陸はしなかった。15世紀になると,鉄の砲弾になり,18世紀になると中に火薬を詰めた。それが今日の大砲へとつながっていく。

 当時,日本には石垣のある城はなかった。ほとんどが土塀の城であった。それに対してクビライは,石の玉を運んで打ち込んできた。したがって,この回回砲を打ち込むということは,まさしく威嚇射撃であったと思われる。
 ところで,島原の乱の遺跡として鉄の玉がたくさん発見された。これは,当時ポルトガルが江戸幕府と組んで島原のクリスチャンたちに船から大量の砲撃をした証拠である。これはたとえ実際に砲撃しなくても,恐怖を与えるものである。また,第一次世界大戦のとき,ドイツがロケットXV2号を開発したが,それが命中しなかったとしてもそれを飛ばすだけで相手に威嚇するという効果を与えることができたという。

 蒙古襲来の背景には,日本占領の意図があったと思う。一般には,「クビライは征服欲が強かったために日本を襲来した」などと説明されているようだが,実はそのようなものではない。当時,元王朝は銀本位制であった。日本の江戸時代における海外への輸出品の主なものに銀があったように,当時もそのような資源が狙われたのではないかと思う。これは一つの理由だが,いずれにしてもクビライには明確な世界戦略があっての蒙古襲来であった。日本で当時,このような全体状況を認識していたのは,武士たちというよりもむしろ宗教人たちであった。例えば,当時,日蓮はその危機を感じて多くの人に書状を送り,さらに『立正安国論』(1260年)を著し世の中に警鐘を鳴らしたのであった。
(2004年12月7日発表)

 

*注1 三別抄
 高麗の実権を握った武官・崔忠献は,自らの権力基盤を安定させるために都房を組織し,次の代になって騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒のための夜別抄を組織した。これらの左右二部隊(左夜別抄・右夜別抄)に神義別抄を加え,それらを統合して三別抄となった。当初は臨時編成の精鋭部隊であったが,やがて常設化した。
*注2 陶尚義編,『中国古代兵器図冊』,書目文献出版社,1986