人格・価値教育の新しい発展

信州大学名誉教授 武藤 孝典

 

1.コールバーグ理論から統合的道徳教育論へ

 米国の道徳教育の系譜の中では,コールバーグ(L.Kohlberg)が代表的人物とされているが,その後彼の考え方を受け継いだ人々の中に,マービン・バーコウィッツ(Marvin W. Berkowitz)がいる(以下,敬称略)。この節では,彼の考え方を中心として説明したい。

 私が彼と初めて出会ったのは,スコットランドにあるゴードン・クック財団(道徳教育の振興財団)からの招聘で,スコットランドのダンディ市にあるノーザン・カレッジに滞在中のことであった。1995年,私が現地調査のためにスコットランドを訪問した折であった。そのとき彼から彼の論文の提供をも受けたが,それは「道徳教育への包括的アプローチ」というテーマのものであった。その論文では,社会における中心的価値として正義(justice)・人格の尊重(respect for person)・博愛(beneficence)の三つを取り上げ強調していた。私は,単に「正義」のみを中心的な価値とするのではない,彼の包括的な視野に感銘を覚えた。それは,コールバーグ自身は,中心的価値として「正義」のみをあげていたからであった。

 そこで私は,「一般に米国社会では正義を中心的価値と考えているようだが,それは米国社会だけのことであって,世界の他の地域でもそれが通用するとは限らない。例えば,日本の中心的価値は調和である。」とバーコウィッツに疑問を投げかけた。すると,それに対して彼は積極的に応じ,深く交流するきっかけとなった。

 このように中心的価値を幅広く捉えることなしには,人を育てる道徳教育・人格教育は成り立たないと思う。彼の論文は,米国の道徳教育学説を包括的にイギリスに紹介するという性格をもって書かれており,その意味で,これを日本に紹介することは意味があると考えるので,ここでそのポイントを述べてみたい。(以下,『人格・価値教育の新しい展開』より一部改訳引用を含めながら述べる。)

 その前に,米国におけるcharacter educationの邦語訳について,ひと言説明しておく。一般にcharacter educationの訳としては「品性教育」「人格教育」となっているが,私はそれを「人格・価値教育」と訳出し使用することにしている。

(1)諸理論の統合を目指して
 正義という価値を頂点に置くコールバーグ学派の限界を指摘し,別のアプローチも包摂しながらもっと包括的な立場から進める必要がある。それに成功した人の一人がトーマス・リコーナであり,彼の著書で邦語訳されたものとしては『こころの教育論』(慶応大学出版会,1997)がある。リコーナはコールバーグ派の道徳教育論者とはその論調の点で一線を画しているように見えるが,この点がバーコウィッツらコールバーグ学派の論客をいらだたせる理由なのであろう。リコーナは,学校における生徒の成長に効果をもつと思われる教育的手立てを彼の論説の中に貪欲に取り込んでおり成功しているが,これは彼の「文化的諸問題への(統合的)立場」からくるものであろう。私(武藤)もこの点でリコーナの考え方に賛成で,彼の視点は道徳教育・人間形成の教育を考えていく上において,まず間違いはないものと思う。それはリコーナの考え方が,学説や理論にとらわれずに実践につながる叡智をもっているからなのである。

 ここでリコーナの人格教育のポイントをいくつか簡単に紹介しておく。(『こころの教育論』より抜粋)

1)学校は配慮(caring)のあるコミュニティでなければならない。
(互いの人格を尊重しあうように児童・生徒に教える。学級崩壊やいじめが起こるのは,配慮のない学級であるといえる。日本では,その学びのために小中学校の「学級活動」の時間,高校の「ホームルーム」の時間が設けられている。)
2)民主的学級環境を作る。
3)カリキュラムを通して価値を教える。
 (日本では,小中学校に道徳時間がある。)
4)教科の学習でも協同的学習をする。

(2)道徳的相対主義者探しはやめよう
 米国の道徳教育学説の中には,「価値明確化」という考え方があるが,コールバーグ学派の人たちはそれに対して排撃する立場に立つ。また,価値中立主義に対しても同様の態度を示す。ところが,バーコウィッツは,かえってそのような立場をも許容して手を携えて取り組もうと呼びかける。

 コールバーグは,(ある範囲の)品性教育論者と,道徳的相対主義を体現しているロマン主義者との双方を非難している。(ある範囲の)品性教育論者は,道徳的相対主義に基づく倫理を宣伝しているような価値教育論者や道徳的推論教育論者(例えば,コールバーグ)を非難している。倫理的相対主義は,教育における望ましい哲学的根底でもなく,子どもたちに伝えたい教訓でもない。しかし道徳教育において,誰が,そして何が相対主義を促進しているのかは極めて不明瞭である。繰り返すと,中心となる点は,道徳教育論においては,そのような論争を解決するのは困難であり,その代わりに,統合的であろうとし,コインが落ちるままにさせようとする。

(3)道徳的ジレンマ討議とジャスト・コミュニティ
 コールバーグは前期においては,「道徳的ジレンマ討議」を中心に考え,後期には「ジャスト・コミュニティ」を強調する。
 ジャスト・コミュニティは,大きなプロジェクトであるが,これまでに学校,寄宿センター,刑務所,作業所など多様な文脈の中で上手く運用されている。ジャスト・コミュニティ・アプローチの中核は,正義とコミュニティの感覚を促進することにつながる民主的自治にある。直接民主制と議会の手順によって意思決定が下されることを大切にするが,明確な焦点は決定における公正の最大化と集団の中に共有的アイデンティティの感覚を作り上げ確認する試みに当てられる。

(4)道徳的アイデンティティのための教育
 道徳的アイデンティティのための教育を議論する時,われわれは再びほとんど知らない領域の中にいる。Erikson(1968)は,もし@それ以前の人格が健康的であり,A実験と選択の模索の機会が与えられるならば,青年はアイデンティティの形成を自然に試みるという。もっとも効果的な道徳的アイデンティティは,仲間同士の生活における平等主義的な共同構造の中から生まれたものである。道徳的アイデンティティは,健全な仲間同士の争いやその解決の中で育てられる。同様に,役割,モデル,価値の内面化と実地によって育てられるものであることは明らかである。同じく明らかに,青年が考察し評価することができるように選択と模範を供給することが道徳的アイデンティティの形成へと役立つのである。

(5)道徳的教育への総合的アプローチ
 バーコウィッツが試みてきたのは,道徳教育に対する構造的な障害について明らかにし,道徳的人間の本質についての枠組みを記述することにより,完全に道徳的な人間をより総合的に教育する方法について素描することである。道徳の解剖学的構造図を肉づけすることと,さらに,道徳的人間の様々な構成要素へ様々な教育的過程をつなげることを含む道徳的教育への総合的アプローチを開発することとの双方において,より多くのことがなされなければならないということである。
 バーコウィッツはまた,道徳教育は,倫理学の理論に立脚しなければならないこと,すなわち道徳教育への様々なアプローチに底通する倫理学的前提を批判的に吟味しなければならないと主張している。

 さて,道徳教育学説というとコールバーグ学派が米国の教育を制覇しており,それがまた世界にも大きな影響を及ぼしている。しかし,果たしてそれが現場の中にどれほど浸透しているかというと,これはまた別問題である。道徳教育の授業時間がないところでは実際としては行えない。学校全体をあげてジャスト・コミュニティづくりをし地域社会との連携を進めながら,一人一人の子どもに対して配慮のある教育を行おうと努力しているところもある。
 ところで,リコーナが中心となってつくった教育団体に「人格・価値教育協会」(Character Education Partnership)というのがあるが,そこで11の綱領を制定した。この協会は,配慮のあるコミュニティをつくることを目標にしており,具体的には,人を思いやる心,他人の人格を尊重する,責任,信頼,家族である。この内容は比較的全米に広まっているように思われる。(11の綱領については<参考>参照)

2.新しい生活主義の道徳教育の提唱

(1)子どもの潜在的アイデンティティを育てるために
 日本では何か問題が起こるとすぐさま「道徳教育をしっかりやらねばならない」という結論が導かれる。しかし,現場ではそれほどそのような掛け声に通りには改善されていない。そのために実は,スクール・ガイダンスが大切になってくる。

 それぞれの国の教育システム(学校教育)の構造を価値教育(道徳教育)の視点とスクール・ガイダンスの視点によって,その特色をとらえることは,一つの妥当な方法である。その場合,価値教育の側面とスクール・ガイダンスの側面とを切り離してとらえるのではなく,ひとりひとりの生徒における自己指導の力を育てるという意味でのガイダンスのいとなみによって支えられながら,価値教育がどのように実現しているのか,ということをそれぞれの国の教育システムに即して見極めていくことが大切である。このような基盤からの教育のことを日本では従来「生徒指導」と呼んできた。しかし,現場の学校の先生方にはその本来の意味がよく理解されていないようである。

 そこで,新たに「ガイダンス」という言葉が注目されている。実際,中学校の学習指導要領の中に「ガイダンス」について書かれている。例えば,ボランティアをやるのかどうかを自分自身で決めるというような例において,そのように自己指導できるようにすることが生徒指導の本質なのであり,ガイダンスの本質なのである。

 道徳教育を学校の中に定着させていくためには何が大切なのか。それにはガイダンスを踏まえて進めなければならない。道徳教育を通して人間形成の教育を行うに際して,一体何が大切なのか。それは子どもの生き方を育てることであり,それを日本の学校教育では「生徒指導」「生活指導」と言いならわしてきた。

 それでは,道徳教育が目指すものは何であるべきか。私はそれをまず端的に,ひとりひとりの子どもの生き方を指導することである,と述べておきたい。教育のはたらきの本質は,現実生活のもとで子どもたちひとりひとりに対して,生きる力を育てるところに求めることができる。

 教育のはたらきを根底的にこのようにとらえたとき,教育作用の一端をになうものとして道徳授業においても,子どもたちが現実生活のもとでいかに積極的に生きるかということを課題にして,推進されるべきであると考える。

 今日,不登校などの現象に示されているように,子どもたちの生きる力がとみに減退しつつあると思われるとき,子どもたちひとりひとりの生きる力にはたらきかけ,生きる力を育てることが,強く期待されるのである。そのようなはたらきかけが求めるものは,子どもの内面における“生活性”を育てることである。そのことをいっそう具体的に述べれば,子どもの“生活の足場”を手がかりとしつつ,子どもの“生活の足場”をより確かなものとして育てることに求めているのである。

 子どもの「生活の足場」とは何か。これまでのところ,それは「子どもの内面においてその子どもらしいものの考え方や感じ方を生みだすもとになってはたらいているもの」である,と繰り返し述べてきた。

 いま新たに,このことを言い表すのに,“子どもの潜在的アイデンティティを育てることである”と述べようと思う。アイデンティティとはいうまでもなく,子どもが内面的に自己をいかに定義づけるかということである。
ひとりひとりの子どもの生き方は,彼自身においてもつねに明示的にとらえられているのではない。むしろ子どもの内面では,それはおぼろげなものとして成立し,ひとりひとりの子どもにとっては,それをより確かなものとして模索しつづけることが大切なのである。
いかに価値を指導するか,いかに資料を活用するかに力点をおくのではなく,道徳指導をとおして,子どもの内面における潜在的アイデンティティをいかに育てることができるか,このことに道徳指導の基本的な意義を見いだしたいと思うのである。つまり,学級活動と道徳の時間を足し合わせた時間を中心として,学級(学校)生活全体の中でどのように子どもを育てるかを考える必要がある。

(2)子どもの思考を育てる指導展開
 昭和30年代の終わりに,私は道徳指導のあり方を研究することになった当初から,道徳授業の指導展開は多時間主題の構成を基本とすることが大切である,といささかの疑念もなく考えてきた。子どもの生活の足場(潜在的アイデンティティ)をよりどころとしつつ,子どもの生き方を育てていくためには,道徳授業は1時間こっきりの細切れのものではなく,多時間主題の構成をとることが大切である,と考えつづけてきた。

 それは,授業の中でひとりひとりの子どもの思考を大切にするために,@既成の価値観の洗い出しの段階,A問題的な対立的な価値観の段階,B対立的もしくは共存的な確からしい価値観の段階,C深まった価値観の段階,という流れをたどるものであった。
授業の中でひとりひとりの子どもの考え方を大切にしながら育てることを願うならば,道徳授業はおのずからこのような形態を取ることになる,と思ったのである。また,このような指導過程を実現するためには,第1時にはおよそ「問題的な対立的な価値観」の段階のところまで,1週間なりの間隔をおいた第2時には,「問題的な対立的な価値観」の段階を繰り返しつつ,第2時としての深まりを求めていくことになる。このような指導構想を組み立てることになった。

 実際,2時間主題として展開する場合には,第1時の終わりのところで,その時点での考え方を学習ノートに記録させておくならば,子どもの思考を次時につないでいくことが,充分可能なのである。一般に,道徳授業の充実した実践例を考察してみれば,たといそれが1時間主題のものであっても,実質的にはこのような指導構成をある程度は実現していることに気づくのである。

(3)価値の内面的自覚
 価値の内面的自覚の問題を言及するに当たっては,「価値の存在性」をどのように理解すればよいか,この点から論議を深める必要がある。

<価値の存在性の主体的側面>
 コールバーグにしてもバーコウィッツにしても心理学者である。遠慮なく言わせていただくならば,彼らは倫理学の基礎はもたない人たちであり,そのような人が価値の問題についてどうして堂々と発言することができるのであろうか。そこで,私はあえてこの価値の問題を扱うのである。

 この点に関しては,デューイの価値論は極めてすぐれている。彼によれば,価値には二重の意味が含まれている。一つには,価値判断に際し,何かあるものを「尊ぶ」(prizing)という意味において,それは情緒的性質をもつ。二つには,あれやこれやと「秤量」(appraising)するという意味においては,それは知的な性質を持っている,ということであった。例えば,道徳的ジレンマの問題を考えたときに,その問題について話し合うことが子どもたちにとってどのような意味があるのか,つまり,自分とのかかわりを感じることのないところで話し合いをしたところでそれが実際に子どもたちの内面に果たして残りうるものなのかという疑問である。その問題を解決するためには,まず事前に子どもたちが一体何を尊ぶのかについてとらえておく必要がある。それでこそ価値が子どもたちにとって意味あるものになっていくのである。価値とは,上から一方的に与えられるものではなく,子どもにとって抜きさしならないものとしてどのような価値が大切なのかということなのである。例えば,ある子どもが「正義よりも思いやりが重要だ」と考えるならば,その観点からスタートさせなければいけない。

 生活の問題場面のなかで子どもが何をどのように貴ぶか,あるいは子どもはいかなる状態の実現を貴んでいるのかということは,その場面において子どもがどのように自我関与しているかということを言い表している。価値の内面的自覚とはこのようにして,子どもの価値判断が彼の「貴ぶ」ものと強く結びついて行われるとき,すなわち彼の内面で対象への自我関与が強く行われるときにこそ成立するのである,と考えることができる。ここで,自我関与とは対象を自我の中にいかに取りこむかということを表している。

 授業場面で考えてみよう。私はこれまで繰り返し,道徳授業の終末段階において,子どもたちが同一の結論に達する必要はない,むしろ,ひとりひとりの子どもがそれぞれにその子どもらしく価値判断を深めていくことが大切である,と述べてきた。対象への自我関与は,それぞれの子どもに固有の形で行われものだからである。

<価値の存在性の客体的側面>
 ところで,われわれは“価値は客体として存在するものである”という意識を常にもっている。すなわち,これは“価値の存在性”の客体的側面である。この点に関して最近の分析哲学におけるヘア(R.M.Hare)の“価値の普遍化可能性”(universalisability)の視点は興味深い。
 ヘアによれば,人びとが互いの選好(preference)を理解しつつ,互いの価値判断が他者の存在にかかわりをもって成り立つときに,そこに価値の普遍化可能性が成立する。いわば客体としての価値は普遍化可能性として存在するのである。
小・中学校の段階において,子どもたちが互いの“選好”を理解しつつ価値判断を行うということがどこまで可能であろうか。むしろ,それは簡単には成立しないというところから出発し,そのことを常に踏まえつつ行うところに,道徳授業の基本的特色を見出すことが大切である。

(4)道徳とは何か
 道徳とは,望ましい行為とはこのようなものである,とその社会の人々の間で相互主義的に成立している常識的観念が存在することをまず想定し,それらの望ましさの根拠を社会の人々が批判的に問いただすところにおいて成立するものである。日本社会でいえば,「調和」という価値を例にして考えればきわめてわかりやすい。

 それぞれの人は行為の望ましさにについての考え方・感じ方の様式を内面的に保有するが,他の人々も行為の望ましさに関して自分と同様に考え・感じるであろう,と人々が互いに信じあうところにおいて(したがって,実際にはずれをはらみながら),相互主観的に妥当するものとしての常識的観念が成立する。それゆえ,望ましさに関する根拠がつねに批判的に検討されることをとおしてこそ,道徳観は社会生活のなかでよりよく機能することが可能になる。

 分析哲学者ヘアの道徳理論は,近年の道徳思想の展開の中できわめて興味深い。彼は,価値判断は@行為の指令性としての選好と,A普遍化可能性としての批判的思考とからなると考える。すなわち,価値判断はそれぞれの人がもつその人らしい行為選択の選好(好み)において始まり,問題状況を構成する事実関係のもとで自己の行為選択を批判的に検討することを通して成立すると考えるのである。

 いわば客観的価値があらかじめ“べし”として存在すると考える立場を取るのではなく,批判的思考のふるいにかけることを通してこそ,“べし”が普遍的に成立することの可能性を追求することが可能になると考えるのである。

 例えば,中学校学習指導要領(2002年度施行)に即して公徳心を育てるという場合で考えてみよう。公徳心とは,“社会の秩序と規律を高める心”(指導内容4-(2))を育てることを意味している。公徳心が育てられない状態とは,“秩序”や“規律”が自我包絡(ego-involvement)されていない状態を表している。このような場合,単に上からの“べし”によって道徳性を指導するのではなく,子どもの内面における批判的思考を通して,どのようにすれば子どもがみずから秩序や規律を自我包絡することが可能になるか,このような問いかけを教師は子どもとともに行うことが大切なのである。

3.フランスの学校における市民性教育

 日本では一般に米国社会のあり方やシステムを一つのモデルと見る傾向が強いが,フランスの社会状況の中でも参考にすべきことが少なくない。
フランスでは1990年代後半,伝統的に行われてきた「知識の教育」中心から「人間教育」中心への改革が著しく進展している。その中の一つとして,「市民性の教育」を学校教育のすべての面で実現していこうとする動きが際立っている。
青少年非行の増大などの社会変動に対応するためには,これまでの教科としての公民教育科のもとで知識中心の教育によるのみではなく,新たに「市民性の教育」という視点のもとで,公民教育科を含めたすべての教科の指導を通して,また学校生活のすべての側面を通して,市民性の教育を実現しようとしてのである。

 現代のフランスの教育改革を推進している政府・国民教育省のキーパーソンは,ロワイヤル学校教育担当大臣とラング教育大臣である。1998年7月,通達「市民的・道徳的教授―小学校および中等学校における市民性の教育」(ロワイヤル大臣署名による)において,尊重および連帯の価値を軸にして公民教育科を改善充実していくこと,および市民性の教育を通して市民的自発性を育成することが強調された。日本では,「連帯」という価値を中心とした教育は明確にはなされてこなかった。

 続いて,1999年5月,公文書「2000年代のコレージュ」(ロワイヤル学校教育担当大臣署名)において,コレージュ教育(公立中学校教育)を改善充実するために,教科横断的学習を実現していくこと,および「学級生活の時間」の指導を実現していくことが提唱された(中高で年間10時間,小学校では学級会を実施)。

 2002年度から施行された新しい小学校教育課程に関する省令によれば,小学校・中学年および高学年の公民教育科の「共同生活(討論)」の目的として,「公民教育…は,生徒の性格や彼の自立性を自ら確かめることができるように,学級や学校の共同体に彼自身をよりよく統合することを可能にするものでなければならない」と述べられている。中学年および高学年では「討論を通して共同生活を構築すること」,低学年では「ともに生きる,生活する」を目標とした。

 また,通達「2002年度開始に向けて『2000年代のコレージュ』の準備」には,市民性の教育において達成されることが期待される諸価値について,次のように明瞭に述べられている。これらは学級生活の中で学ぶように指示されている。

 「市民性の学習―――おのおのの生徒は,責任を引き受けることを学び始めることができなければならない。どんな集団的生活もその外側ではできないのだから…。コレージュは,相互の尊重に気づかいながら,対話やディベートの修練をできるように,耳を傾ける日々を生徒に用意しなければならない。」

 国民教育省は,1998年の通達において,すべの地域において「健康と市民性の教育のための協議会」を設置することを推奨した。それは生徒が麻薬や非行に走らないようにするために地域ぐるみで子どもたちを育てることを目的としている。2000年10月の広報資料によれば,この協議会は学校ごとに設置することが想定されており,協議会は学校のスタッフ,生徒,両親,外部のパートナーによって構成される。この協議会のもとで,生活体験的な学校プロジェクトの活動が推進され(例えば,ボランティア活動など),非行予防のアクターとして責任ある自立的な生徒にみずから成長することが期待された。この協議会にはコレージュで約70%の学校が参加している。

 教科横断的学習(日本でいう「総合的学習」)を強力に推進したのは,ラング教育大臣であった。2001年4月の公的文書「共和国のコレージュのためにーコレージュの将来についてのオリエンテーション」において,「多様な学習の道程」(発見のための学習)を用意し,ひとりひとりの生徒の中に「社会性の形成」を実現しようとした。それにより,コレージュを構成する生徒の多様性に対応しようとしたのである。ここでは,教科指導の中でも,ひとりひとりの生徒の生き方を指導する(faire vivre la situation)というガイダンスの発想が積極的に取り込まれているといえる。

 2001年3月に,国民教育省を訪問した折に,教育内容局のブランシャール氏から,faire vivre la situationという言葉を聴いたときに,フランスの学校・教師の間に「ガイダンスの心」が分厚く抱かれていることを直感した。学級生活の時間は,ひとりひとりの生徒の生き方を指導することを意図した時間であるといえる。

 今まで独仏の小学校においては,放課後のクラブ活動は行われていないというのが日本における一般的な認識であったが,私のここ5年余りの調査の結果,そうではないことがわかった。現実には,その教育的意義を認めて両国ともにクラブ活動を用意しているのである。

 また,日本における市民性教育を考えると明治維新期までさかのぼって市民の問題を考えざるを得ない。日本社会において「市民性」とは,どのように認識されているか。例えば,学校選択制度を研究している人の話によると,「もう学校はあてにしていない。学校では適当に勉強をやって,下校後に塾やお稽古に精を出し実質を教育する」と言っている親がいるという。そのような考えをする親は,果たして市民と呼ぶにふさわしいといえるであろうか。また,この学校選択制度の問題は,東京など大都会では可能であろうが,北海道などでは実際無理な側面があるし,競争を促すことによって生徒間の文化的格差が拡大してしまうことになる恐れはないのかなど,さまざまな問題が指摘される。

 近年,これまでの道徳教育を「人格教育」と称して推進しようとする動きがあちこちに見られるが,私はそれに「市民性教育」という考え方を加えることによって,より豊かなものになっていくのではないかと考えている。(2004年10月31日発表)

 

[参考文献]

1)武藤孝典ほか編著,『人格・価値教育の新しい展開』,学文社,2002
2)武藤孝典,「新しい生活主義の道徳教育の提唱」,『道徳教育』No.385,明治図書,1991年12月
3)Von Mehring,O., A Grammar of Human Values, University of Pittsburg Press, 1961
4)J.デューイ,『評価の理論』,関書院,1975
5)R.M.ヘア,『道徳的に考えること』,勁草書房,1994
6)武藤孝典ほか編著,『ヨーロッパにおける市民性教育の発展―フランス・ドイツ・イギリス―』,2005年(近刊)

[参考]
人格・価値教育協会(Character Education Partnership)の11の綱領
1)人格・価値教育は,良い性格の基礎を育てるために,中心的な倫理的価値を推進する。
2)“性格”は,思考,感情,行動を包括的に含むものとして定義づけられねばならない。
3)効果的な人格・価値教育は,学校生活のすべての側面において中心的価値を推進するような,意図的,積極的,包括的な方法を必要とする。
4)学校は配慮ある(caring)コミュニティでなければならない。
5)性格を発達させるためには,生徒は道徳的行為を行う機会をもたなければならない。
6)効果的な人格・価値教育は,すべての学習者を尊重し,彼らを成功に導くような,意味ある挑戦的なカリキュラムを含むものである。
7)人格・価値教育は,生徒の固有の動機づけを発達させるように努力すべきである。
8)学校のスタッフは,すべての者が人格・価値教育のために責任を共有し,生徒の教育をリードする共通の中心的価値を守るように努力するような,学習と道徳のコミュニティをつくらねばならない。
9)人格・価値教育は,スタッフと生徒の双方に道徳的リーダーシップを要求する。
10)学校は,両親とコミュニティ成員を性格形成におけるまったきパートナーとして迎え入れなければならない。
11)人格・価値教育の評価は,学校の性格,学校スタッフが人格・価値教育者としてどう機能するか,生徒がどの程度に良い性格を育てたかを評定する必要がある。