教育の崩壊
―大学教育の醜態は,初等中等教育の崩壊に起因する(上)

九州大学大学院元教授 藤原 昇

 

1.初等教育の危機的状況

(1)留年する小学生
 先般,河村前文部科学大臣が,新時代の義務教育改革について,恐ろしい発言をされた。それは,小学校から,落第(留年)制度を導入するというものである。この制度が導入されると,日本の教育はどうなるのか。なぜ,今この時期に,この制度を取り入れるのか? どんな理由で,落第(留年)させるのか。不透明な部分が余りにも多い。これも玉虫色というのだろうか。

 落第(留年)は,教師の力不足が原因で,生徒の責任ではない。実力のある教師が,「理解させる」術を知って教えれば,全ての生徒は理解できるはずである。相手に「理解させる」ことが教育の基本で,生徒が解らないのは,教師の教え方が未熟(下手)だからである。それが出来ないのであれば,教師を辞めさせるべきで,責任を子供に転化するのは本末転倒である。

 空しい受験勉強に疲れた,大学生の怠惰な生活からくる留年とは,全く意味が違う。幼い子供には,家庭の事情で,自分ではどうすることも出来ない宿命がある。小学校入学前に体験した人生の一コマが,学校での教育に大きな陰を落とすこともある。子供達の生い立ちや家庭の事情も考えず,学業成績だけで,落第というレッテルを貼ることは許されない。

 また,子供達の様々な能力を,正確に判断することは,教師にはできない。主観と独断と偏見が伴った,大きな間違を犯すだけである。したがって,義務教育に落第制度を導入する,という発想は根本的に間違っている。

 大人達が,自分の小学生の頃を思い出すべきだ。小学生に,落第(留年)制度が必要かどうか,自問自答してほしい。日本語には,「大器晩成」「十人十色」「たで食う虫も好きずき」など,人間の生き様を表す美しい言葉がある。人間の個性を伸ばすのが教育で,上から一律に,しかも一方的に「教える」のは,真の教育ではない。上意下達方式の教育システムは前世紀の遺物である。

 最近,「三位一体」という触れ込みで,地方分権が盛んに論議されているが,もしも,これが実現し,上述したような危惧が,徒労に帰すようにでもなれば,日本の教育は改善の方向に進むかも知れない。国も,役人根性は捨てて,自由な発想で教育ができる場の実現に助力してほしい。

 人間は,自由にされると,予想外の力を発揮する場合がある。その人の能力は,それぞれの個性を教師が引き出すことによって発揮され,決して教師が強制して,何かをさせることによって導き出されるものではない。これは,小学生や中学生でも,全く同じことで,年齢相応な教育を行えば,子供達は,それなりに能力を発揮する。人間の能力は,何時の時代でも,無限の可能性を秘めている。教師の無能(非力)さのために,小学生が「留年(落第)」というレッテルを貼られることは納得できない。物心着いた大学生ならまだしも,何も分からない無邪気な小学生にまで,このような無謀な制度を導入するとは,言語道断と言わざるを得ない。

 よく考えてほしい。例えば,小学校低学年の教科内容とその程度から推察して,どうして「留年」させるほどの差が生じるのか。たとえ算数の授業であっても,数時間の補習で理解させることができるはずだ。もし,差がでるとすれば,それは学童の所為ではなく,教師の怠慢以外の何ものでもない。

 筆者は,非常勤講師でありながら今,大学でこの補習授業形式を実施しているが,程度の差こそあれ,学生は確実に理解するようになってくる。したがって,小中学校で,この方式が導入できない理由はなく,しかもそれは教師の熱意如何による。教育はサラリーマン思考ではできず,教師が体を張って行う神聖な場である。人生における「寝食を忘れて!」という日本語はもう死語になったのであろうか。時代は変わっても,人生の勢いに時代差はないはずである。

(2)崩壊した小学校教育
 先日,知人から,小学生のお孫さんの授業参観に行かれた時の話を聞いた。3年生のクラスで,授業中に後部座席に座っていた児童の中に,漫画をよんだりゲームをしたりする者がいたとのこと。その児童に対して,教師は何も注意しなかったことに,知人は驚いたらしい。授業参観後,教師に問いただしたところ,教師から,彼らが自ら目覚め授業に参加するのを待っている,という返事が返ってきたとのこと。知人は,開いた口が塞がらなかった,と嘆いていた。

 また,ある友人の話で,小学校の高学年に在学中のその人のお孫さんは,ある時,クラス全体がうるさく,授業にならないので,自分でかってに早退して帰宅した,ということもあったという。これは,授業中の私語に対して,教師が注意しなかったことに立腹して早退したのだ。学校に嫌気がさしてきた,とその児童は親に告げたという。恐らく,これに類する事態は,我が国の小学校で,至る所で見られるはず。

 これが,今の小学校の授業態度なら,あとは推して知るべし。教師は,教育とは何かが全く分かっていない。人生にとって,最も大切な小学校で,この有様では,返す言葉もない。この現実と,最近頻発している小学生の様々な事件が無関係だと,教師は断言できるのだろうか。

 この話を聞いて数日後,筆者が体験した,孫(小学校1年)の運動会参観日の出来事を紹介したい。全校生徒数約500名の小さな学校であるが,今風に言う「名門校区」と,噂のある小学校である。

 まず,全校児童による準備運動が行われたが,その際,児童の態度に一瞬目を疑った。学年別の列の後方に位置している児童の中には,前方中央で陣頭指揮をとっている体育教師の号令,注意などおかまいなしの態度,ろくに体操もしていない学童,私語をしている児童,それは筆舌に尽くしがたい光景であった。

 それにも増して,筆者が驚いたのは,児童の周囲で一緒に体操している多くの教師が,これらの児童に対して,何も注意しなかったことである。昔のように「往復ビンタ」は問題としても,一言も注意をすることが出来ないのは,何故なのか。この情景を見て,筆者は冒頭に記した,3年生の授業中の態度が納得できた。これが,「有名中学」あるいは「名門高校」への進学(合格)率が高いと,評判の小学校での出来事である。いずれにしても,これはどうしても理解できない状況であった。これが,一事が万事なのか,とやるせない気持ちでその日が過ぎた。

 ついでに驚いたもう一点は,この運動会に「賞」がなかったことである。今の学校に,差別がないように配慮されていることは重々承知している。しかし,子供達の個性は認めてやらないと,彼らは何事に対しても,やる勇気が湧いてこなくなる。人間は,自分の「良さ」が認められて初めて,ものごとをするという意欲が湧いてくる。走るのが得意な子供には「1等賞」を与え,絵の上手い子供には「金賞」をやり,習字の上手い子には「秀」を与え,そして教室や廊下に展示する,という風に,とにかく子供達の様々な能力を,引き出すような教育現場にしないと,子供達は何をする意欲もなくなってしまう。

 しかし,学校側に言わせれば,これらも全て,国(文科省)からのお達しで,現場ではどうすることもできない,という反論が聞こえる。これが,悲しいかな,我が国の義務教育の現実である。

(3)小学校教育の意味
 学校とは,子供達が自分の個性を発揮して,それぞれの能力を発見する場所であって,ただ単に教科書に書いてあることを必至で暗記して,知識として脳みそに詰め込むだけの場所ではない。こんな教育を,12年間もやらされると,子供達の頭脳は思考力の停止した,単に物事を記憶する機械になってしまうだけである。いずれにしても,何時の頃から,このような小学校になってしまったのか。筆者が,初めて体験した,現在の小学教育の実態の一コマである。

 このような教育環境で,小中高と12年間過ごした彼らが,大学に入学して,急にとやかく言われる筋合いはない,と思うに違いない。ここまでくれば,もう,何をどうすることも出来ない,我が国の小学校教育の実態であると言わざるを得ない。しかし,だからといって,「小学生の留年(落第)」制度が必要だ,という積もりは毛頭無い。それとこれとは別で,本末転倒した教育改革と指導体制は,是非とも改訂してほしい。いま,巷間大きな問題となっている大学生の学力(程度)あるいは授業(教育)に対する姿勢なども,実はその根源は小学校時代にある,ということは余り知られていない。

 また,最近まで問題となっていた「ゆとり教育」も,理念が明確であれば実践もできただろうに,机上の空論に近い教育理念であったために,効果的な教育が展開できなかったのは残念である。この訳の分からない時間帯のために,小・中学生の学力が低下した,というが,果たしてそうなのか,いささか疑問である。誰かの責任転嫁ではないのか。確かに,過日の国際機関による全世界の子供達の学力検定の結果は,このことと関連性があるようにも考えられるが,果たして,そうなのか。

 そこで,文科省は,これを急遽変更して,教科の徹底と学力の向上を図ることを再度検討し,挙げ句の果ては,また「土曜日登校」と珍現象を始めようとしている。これも,具体的な対策あるいは最終目標が何なのか,今ひとつ不明確で,単に,国際的学力テストで,高い成績をあげることのみを目指しているのであれば,まさに泥縄式・猫の目的・支離滅裂的教育行政と言わざるを得ない。

 いずれにしても,小学校の教育は極めて重要で,一朝一夕に解答が出せるほど簡単なことではない。例えば,小学校に入学した子供達にも,容易に理解でき,彼ら自身で人生の目標が立てられるような,教育環境を創り上げていく必要がある。小学校に入った時点から,すぐに大学進学を目指すような教育をするのは早計である。何時,子供達の人生の目的がはっきりしてくるのか。それには,教師の実践的指導が重要な意味をもつ。小学校時代は,それほど大きな目標を掲げる必要はなく,自由な雰囲気のなかで,自然に発想し,勉学や運動に専念できる環境を提供するのが学校である。彼らの毎日の生活の中で,知らず知らずのうちに,自分の人生の方向が見つかるような教育をする,それが義務教育である。自由に勉学出来る教育環境をつくるために,まず父母と地域の人達と教師が一丸となって取り組む時代になっている。

(4)教師の人間教育から
 小学校教育にもう一言。最近の小学校には,昔のような通信簿(通知表)はない。いい加減な紙片が配布され,その評価が「出来る」と「もうすこし」の2段階だけである。しかも,内容は意味のない項目が羅列してあるだけで,昔のように子供達が,終業式に密かに開いて自分の成績に一喜一憂するというものではない。これでは生徒の励みになることは何もなく,これによって,次の学期に対する目標も何も感じることはない。これは,先に述べたような殺伐とした授業風景の結果であろう,と筆者は容易に想像がつく。教育とは,子供達に「夢」を与えることであり,その夢の実現に向けて,教師と生徒が一緒になって邁進することである。生徒達が,嬉々として,そして元気溌剌に,動き回る小学校時代が懐かしいのは,筆者一人であろうか。

 筆者は,山奥の百姓の倅であったが,結構足が速く,運動神経も発達していたので,中学卒業まで,勉強などしたことはなく,暇さえあれば,走ったり飛んだりして,遊んでばかりいた。毎年,村や郡や県の大会に出場し,入賞しては意気揚々としていたことを思い出す。しかし,それでも社会にでれば,十分に人間として生きてきたし,定年を迎える時には,ちゃんと一人前に「つじつまが合う」から不思議である。人生は長丁場,60年が勝負で,極端は言い方をすれば,小中学校の成績など殆ど意味をなさない。古人は上手いことをいっている。「神童も二十歳過ぎれば只の人!」,けだし名言である。勿論,これは筆者が神童であったという意味ではなく一般論である。しかし,こんな話,今の時代には通じない,という御仁が多いと思うが,果たしてそうだろうか。現代の学生,とくに大学生の能力を,昔と比較して見ると,一目瞭然である。

 もう10年近く前であるが,実業高校で教鞭をとっている知人から,小・中学校だけでなく,高校教育の現場も崩壊してしまった,という話を聞いた。それは半世紀近くも昔,筆者も高校の教師であったことから,話題が高校教育の話になった。当時,彼の高校では,生徒がオートバイで校舎内を走り回り,2階まで乗り込んでくると,当時は信じられない話をしてくれた。しかし,今,マスコミで報道されている「荒れる中学校」などという実態を知ると,彼の話が納得できる。ということは,あの頃の高校生の態度が,いま小学校にまで低年齢化した,ということを物語っているのかも知れない。もし,そうだとすれば,最早,我が国の義務教育,すなわち中等教育は,完全に崩壊してしまったのかも知れない。

 先日,寝屋川市で起こった教師殺傷事件は,少年が学校時代に「いじめ」にあったことを恨んで殺害に及んだものである。学校側は,「いじめ」の事実は無いと否定し,不審者が学校内に侵入しないようにすることだけに腐心している。

 昨年,長崎で起こった小学生による女児殺害事件も,学校側に落ち度はないと言い,クラス担任の談話もないまま,教育委員会が責任回避の弁明をして終わった。
この事件直後に,小学生に「死」について討論させるという愚行が報道された。彼らに必要なのは,「死」や「命」の話ではなく,いかにして楽しい学校生活を送るかということである。

 これまで,学校を狙って事件を起こした人達は,学生時代の何かを恨んでの犯行であることを考えると,その対策は明白で,彼らにとって懐かしい思い出の学園を創り上げることである。

 今回の事件でも,学校側は「いじめ」はなかったと発表した。しかし,現実は逆で,いかに時代は変ろうとも,学校に「いじめ」があるのは常で,最近その程度がひどくなり,陰湿になっただけである。

 若い頃,私も教師をしたことがある。クラスの札付きの学生をクラス長にすえて,クラスの統率を任せたところ,クラスは団結し,全てがいい方向へ転換していった。教師が,生徒一人一人を掌握すれば,学校で問題が起こることはない。今は,体を張った教師がいないのが寂しい。

 今のような一時的な対症療法で,この種の事件を防止することはできない。教師の人間教育からスタートすることが先決であろう。

2.教師道を求めて

(1)実力のない教師
 今は昔,筆者が大学生の頃「でもしか先生」という言葉が流行った。今の人達はこの言葉をご存じだろうか。戦前は「教師は聖職」と言われた。その姿を,筆者は愚母(他界)の姪御さん(86歳)にみることができる。

 彼女は島根県の中国山脈の麓の寒村に生まれた。実家が貧農であったために,満足に学校にも行けなかったが,独学で勉強し戦前の師範学校に入学した。当時,県庁所在地松江にあった学校に行くために,家から国鉄山陰線の益田駅まで徒歩で往復したという話をよく聞かされた。昔風に言えば4〜5里はある遠い道のりであるが,今はトンネルと国道ができたので,あっとうまに到着するが,筆者が小中学校時代のことを思えば想像を絶する情景である。

 そんなにまでして勉強した彼女が小学校教師として勤務された時のことをよく愚母から聞かされた。今改めて,その頃聞いた「教師は聖職」ということを思い出す。と同時に,筆者が小・中学校の頃は,確かに「学校の先生」は一目置かれた存在であった。それが今はどうだろう!「でもしか先生」以下の教師が多い。このことは,最近,多発している教師の信じられない事件からも,容易に想像できる。

 もう半世紀も昔,筆者が大学に入学した頃でさえ,「教育学部」の学生の程度の低さに驚くことがしばしばであった。あの頃はまだ「偏差値」はなく自分の希望する大学に進学できた。しかし,最近では,この「偏差値」という魔物(偽数字)によって,若者の実力あるいは人格までも数値化されている。

 現在の「教育学部」に進学する学生の多くは,必ずしも「教師」を目指している訳ではなく,仕方なく入学している人たちである。とくに,男子学生の場合にその傾向が強い。このような状況下で,教育学部を卒業した学生が教師になったとしても,果たして彼らがどれほど,真の教育に取り組んで行く情熱があるのか甚だ疑問である。教員採用試験では,教育学部出身者が優先的に採用されるケースが多く,これが「でもしか先生」の登場の主因である。したがって,現在の教育学部出身者が,教師には不適であるというケースが多く,世間を騒がせている教育現場の不祥事が,このことを如実に物語っている。大学生の教育に対する情熱が重要であるが,面接試験でそれを発見するのは難しい。教師に必要なものは,能力ではなく熱意(情熱)である。

 筆者も40年前,千葉県で高校の教師をしたことがある。当時,明日の日本の農村を開く若者を育成する,と豪語して農業高校の教師になった。勤務地は故郷(島根県)ではなく千葉県であったが,日本全国ならどこでも同じだ,と言いながら寝食を忘れて,農業教育に没頭したことを懐かしく思い出す。

 この年(1965),丁度「日本青年海外協力隊」が発足したので,筆者も教職を辞して参加し,東南アジアの最貧国ラオスで2年間を過ごした。あの国で2年間生活しながら,国を興すも亡ぼすも教育如何による,ということを知らされ,退職した教師にもう一度と決意して,採用試験に臨み再度教壇に立った。このような事情から,高校教師として足かけ5年間教育の現場で奮闘したが,故あって学問の道を進むことになった。しかし,現在でも教育の重要性を認識しており,当時から筆者は教師の給料2倍論者であった。優秀な実力ある教師を求めるには,給料を2倍にすべきであると思っており,この考え方は今でも変わっていない。このようにしてでも,優秀な教師を学校に置かなければならない,という考え方に立っている。激動の今の時代にこそ,特に優秀な教師を確保するためには,このような特例でも設けて,学校教育を充実し改善する必要がある。

(2)大学教員の教育力
 筆者は某大学を定年退職して3年が過ぎたが,最近とみに教育について真剣に考えるようになった。近隣の私大や短大でお世話になっているが,ご多分に漏れず,教師がいい加減な講義をしているのを目の当たりにすると,怒りがこみあげてくる。これまで述べたことは小中学校の教師をやり玉にあげたように思えるかもしれないが,教師は何処も同じであるということを痛感している。

 例えば,私大の多くは一学年数百人の定員で,彼らが一堂に会して講義を受ける様は異常である。いま巷では,大学の講義中の「私語」が話題になっているが,これは不可避的な現象でどうすることもできない。今の学校教育現場では,私語は常識になっている。なぜだろう。

 先日,外務省を定年退職して私大の教授になった知人の一人が,その大学の学生部長に,講義中の私語について問いただしたところ,私語は常識で,これをもとに小説を書いた教授がいる,とまで言われた,と激怒していたのが滑稽であった。すなわち,現下の日本の大学では,授業中の「私語」は仕方のないこととして問題にもされていない。これは教育ではなく何なのか,筆者もそのことを痛感している。なんとも虚しい現実である。マイクを使っての熱弁も,「騒音」と「喧噪」の中に消えていく。自己嫌悪に陥りながら講義をしている自分が哀れに見えてならない。このような状態で,講義をする目的は何なのか,いかにも不思議である。多分,何人かの学生には,どうにか講義(話)が耳に届いているだろう,というかすかな望みをいだいて,90分間を堪えている。しかし,現実は,諦めの境地で,淡々と時間を費やしている教師が殆どである。

 一方,現在では,殆どの大学で,「学生による授業評価」なるものが実施され,一応,社会への対面を保とうとする涙ぐましい努力もなされている。しかも,その評価を尤もらしく整理して,教師にフィードバックし,教師に不愉快な思いをさせている。果たして,このような授業実態で,学生の正しい評価ができるのであろうか。しかも,このような調査結果が,正しい講義をする土台となりうるのか。本音は,対外的に役目を果たしている,ということを示す証拠だけを作成しているに過ぎない,と筆者は思っている。

 とにかく,日本の大学,とくに私立大学は,学生の講義スタイルを全面的に改組すべきである。最大でも1クラス40〜50人が限度で,出来れば20〜30名が最適規模である。しかし,この話をすると,多くの大学で,これは不可能だ,と一蹴される。
ところが,私立大学でも,このような「少人数クラス」体制で講義を行っている大学(NZ)が実在するので,大学人が知恵を絞れば,対策はいくらでもあるはず,と筆者は確信している。筆者も,この大学で講義をさせてもらったが,教育効果は明白であった。しかも,この方式で行えば,学生が,学ぶという意欲を強く持つようになる。しかし,この場合でも,問題は「教師」である。

 例えば,この大学では,科目によってクラスを10〜12に分ける場合もあるが,このような状況で授業をすれば,学習の習熟度によって,きめの細かい講義ができる。我が国の大学では,これほどまで細分化しなくとも,3〜4クラスに分けることは可能である。

 一方,国立大学の場合は,幸か不幸か,大学入試センター試験によって,ある程度の区別(偏差値)がなされているので,学生の能力に,私立大学ほど極端な差はみられない。
ところが,多くの私立大学ではこの偏差値を利用していないので,学生の程度(能力)に大きな差があり,多くの場合,1クラスに100点から0点までの学生が混在する。したがって,授業の内容によっては,全く理解できない学生が存在する。このような「玉石混淆」式授業を行えば,理解出来る学生にも出来ない学生にも,悪影響が生ずるので,教育にはならない。まさに悪循環である。

 私立大学では,経営上の問題もあり,入学定員を極端に少なくすることはできない。ならば,150〜200名の学生を,3〜4名の教師で1科目の講義を分担すれば,かなり少ない学生数で,授業を実施することができる。真の意味ある教育を行おうと考えれば,常勤の教師なら,これくらいの負担は負うつもりで,対処しないと何も出来ない。これによって,その大学の評価が,自然と高まって行くことは確実である。昔風に言えば,「寝食を忘れる」くらいの覚悟が,今の私立大学の教師には求められている。教育も「金」だと考えるのであれば,話は別で,学生が哀れである。

 このような状況でも,筆者は,教育とは「教える」ことではなく「解らせる」ことだ,という信念で講義を行っているが,その効果が見えた時,何とも言えない満足感に浸る。このような,おおよそ大学の講義とはほど遠い状況でも,教師の一途な願いと熱意が通じる時と場所がある。(次号に続く)
(2004年12月29日受稿,2005年2月23日受理)