病める社会と道徳の再武装

世界新教育学会理事 加藤 一雄

 

1.はじめに

 アメリカでは子どもが銃を乱射し,日本では少年が無差別に人を殺す。動機は,人を殺してみたかったからー。彼らはなぜ,「人を殺してはいけない」という基本的なモラルとルールをわきまえずに成長してしまったのか。友人の教師は,やや考えて答えた。
―母親が子どもを恐れ,父親が権威を失ったからだ。
―人間が撃ち合い殺し合うゲームソフトを親が買い与え,あるいは,子どもが暴力や殺人のゲームソフトを買ってきても叱ることも出来ず,見て見ぬふりをし,子どもの歓心を買おうとして甘やかしたからだ。
―人間を尊重するという価値観を育てなかったからだ。

 確かにどれ一つとして間違いはなかろう。しかし,これだけだろうか。まだ,何か,足りない気がする。
本来,子どもの教育は,大きな集団の教育以外は,親がわが子を幼児期から手塩にかけて育てるべきものである。ところが,最近は親が子どもの教育にお手上げになると,その“つけ”は学校の教師に回ってくる。後述するが,これまで教師は学校で「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな」と道徳の基本を教えてきた。しかし,むなしいー。

 なぜならば,大人の殺人や窃盗が日常茶飯事のように行われ,嘘がばれて謝罪する社長や政治家の姿が毎日のように報道されている。さらに,エリート官僚の不祥事は後を絶たない。学校で教える価値観が次々に崩壊していくからだ。教師が子どもに注意して,「大人だってやっているじゃん」という返事が返ってくると,教師には次の言葉が出ない。

 現代は間違いなく人のこころが貧しくなっている。大人たちが政治家や官僚の不正にも目をそらせ無関心を装うとき,悪を退ける心は弱くなる。困っている人を見ても見ぬふりをし係わり合いにならないように立ち回る。このような大人と同じことを,子どもたちは真似ているのである。一方では,悪質ないじめによる少年のうめきや全国で十三万人を超える「引きこもり」の子どもたちの悲鳴が聞こえてくる。

2.青少年をめぐる現状

(1)競争社会の激化と心の荒廃
 バブル経済が崩壊すると弱肉強食の競争社会が激化した。それは,家庭から学校の中にまで持ち込まれた。環境に適応したものだけが生き残る。これを社会的ダーウィニズムと呼ぶ。大人と子どもの社会にも二極分化が顕在した。勝者か敗者か,合格か不合格か,エリートか落ちこぼれか,大邸宅に住む金持ちの子どもか,アパートの住人か。この両者を結ぶつながりが見えてこない。

 親と子の断絶,教師と児童・生徒の断絶,このつながりがキレたとき暴力がはびこる。
少年の凶悪犯罪でも殺人,強盗,強姦などが増え続け,暴行,傷害,脅迫,恐喝などの粗暴犯罪は,弱い人間に向けられた。また,対物的な暴力である校舎破壊,器物損壊など机,椅子,ガラス窓などを叩き割る集団暴力も跡を絶たない。これら校内暴力のほか,家庭内暴力も吹き荒れている。荒れ狂う子どもを前にして親はなすすべを知らない。

 親が子を殺し,子が親を殺す。企業は詐欺まがいの嘘をつき,政治家は私利私欲に走る。
人間の良心はどこへ行ってしまったのか。その原因はどこにあるのか。いま,日本もアメリカも,そして,先進国といわれる国の社会が病んでいる。このまま病める社会の病理現象を放置して置く限り,健全な道徳は望めない。それでは,何が原因で病める社会になってしまったのだろうか。

 かつて,世界の各地から食材を集め,飽食の限りを尽くした古代ローマもカルタゴも豊かな時代の中で人々は道徳心を失い,滅亡した。今の日本が置かれた状況もこれと類似している。このままいけば,日本も滅亡するしかないだろう。それでは,どうしたらよいのか。

(2)これまでの道徳指導の誤り
 学校における道徳指導が徹底しないのは,担任の指導力が不足しているからだといわれる。すべての教師とは言わないが,担任は,どこかの副読本からコピーした資料を持ってきて,それを読ませ,感想を言わせ,あるいはノートに書かせて,チャイムが鳴るのを待つという。教育のプロとしては恥ずかしい。教師の誇りはどこへ行ったのか。

 いま私が憂うるのは,子ども不在の道徳になっている現状である。親の次に子どもの実態をよく知っているのが学級担任である。その担任の道徳の指導力不足だけを取りあげて,道徳の時間を「道徳科」とか「人間科」と呼んで教科に改訂する意見が一部に出始めている。しかし,道徳の専任教師が学習指導内容に精通し,学習指導要領に準拠した資料を豊富に持っているといっても,何クラスもの学年や学級の道徳授業を掛け持ちして,何を教え込もうというのか。

 それこそ,戦前・戦中の修身は,専科教師が「忠君愛国」など与えられた徳目をそのまま信奉させる教科であった。その二の舞をしたくないからこそ,戦後,道徳の時間は学級担任が指導することを原則として,「評定は行わない」ことになったのではなかったか。

 確かに担任の指導力不足は認める。しかし,最近これを補う指導方法として,教科をはじめ道徳授業にも校内でT・T(ティームティーチング)を取り入れたり,同一資料を校内放送で流したり,新しい学年道徳(神奈川大学心理・教育研究論集・第22号「500人を越える学年道徳の試み」加藤一雄,参照)として,教師と生徒の役割演技を取り入れたり,授業に工夫と変化が見られるようになってきた。外部からゲストティチャーを招くなどの授業も行われている。

 このように多様な手法をとること自体は決して悪いことではない。しかし,これらの手法を用いても,どこか安易に流されてはいないだろうか。TT間の十分な打ち合わせや,学年主任を中心として道徳資料の選考と主題を検討する学年会に白熱した討論は見られるか。外部の方を招いたときの礼儀作法などの事前指導は十分行われているのだろうか。授業内容はもとより,外来者への接し方,言葉使いなど人間として美しく生きるための礼儀を教えることは,社会人となるための生きた道徳指導である。このような場面での指導こそ手抜きをしてはならない。

 私が考えている「生きる力」をつける道徳授業とは,資料に出てくる主人公や登場人物を批判したり,弁護したり,賞賛することよりも,「自分だったら,そのとき,どう動くか」と主体的に考えることに主眼を置く。もう,他人ごと,キレイごとの道徳はたくさんである。

3.これからの道徳教育を考える

(1)道徳的価値
 価値あるものとは,大切なもの,望ましいものをいう。それは,自己の要求,特に感情や意思の要求を満たすものについて言われるものである。とくに,人間が求める精神的な価値は,一般に真,善,美,聖の四つが挙げられている。夏目漱石は,この聖を荘厳と呼んだ。これらの価値は時代を超え,民族を超え,変わることのない不易のものである。
さらに不易の価値を,昔の母親は,自分の子どもに幼い頃からこう教えた。
「自分がして欲しくないことは,人にしてはいけませんよ」。
「正しいことをするのに,ためらってはいけませんよ」。
「弱いものをいじめてはいけませんよ」。
<してもよいこと>と<してはいけないこと>,善と悪。道徳の根源は,このように親と子の愛情と絆の中で作られてきた。昔の母親は「うそ」をついたときは厳しく叱った。いまの母親は「成績が悪いと叱る。勉強しろ!」とガミガミ言う。しかし,「人間はどういうふうに生きたらよいのか」「何をしてはいけないか」ということになると,ほとんど教えていない。

 1980(昭和55)年ころから「赤信号,みんなでわたれば怖くない」とか,「カラスの勝手でしょ」という言葉が流行した。そして,1982(昭和57)年ころになると世の中がおかしくなった。ロッキード事件の年である。政治の腐敗は青少年の心を汚染していった。『積木くずし』が映画化され,「心身症」「ほとんどビョーキ」などの言葉が流行した。さらに1984年には,(くれない族)が流行する。「親がきちんと育ててくれない」,「先生が教えてくれない」,「夫がかまってくれない」など,自分のいたらなさを親や先生や夫のせいにする風潮が現れ,自己チュー,自己中心,自分の欲望を最優先する社会が出現した。

 学校教育のなかにも競争原理が導入され,教室の中でエリート教育にシフトされた教育改革が進行した。落ちこぼされた子どもとの二極化が顕在化した。授業中,児童や生徒たちは立ち歩き,勝手に外へ出て行く。学業成績は振るわず,学力の低下が問題となった。部活,行事も不活発。不登校,引きこもり,高校では中途退学の比率が年々高くなり,学級や学校の崩壊が始まった。かつての「ひとりはみんなのために,みんなはひとりのために」という平等・一斉型の教育に,ほころびが出てきた。

 モグラたたきのように問題が山積して休まる暇もない教育困難校の教師に救いはないのか。いや,ある。それは,「道徳の黄金律」による原点に立ち返ることである。道徳の黄金律とは何か。三つの視点から道徳の再武装について見ていくことにしよう。私がここで用いた「道徳の再武装」というのは,「道徳再武装」とは異なる。この違いにご注目いただきたい。

 「道徳再武装」を広辞苑で引くと,MRA運動とあり,さらに「MRA運動」を見るとMoral Re-armament+運動,即ち「キリスト教精神に基づく平和運動」とある。私がここで用いた「道徳の再武装」は,上記の意味とは多少異なる。もう一度,道徳及び道徳教育の再武装という視点から原点に立ち返り,道徳教育の目標を達成するためには,何が問題なのかを再検討し再武装しようではないかという呼びかけである。

(2)黄金律による道徳の再武装
 アメリカのロス保護区にいるインディアン酋長は言い切った。「嘘をつく,盗む,喧嘩する,人を殺す。白人文明はもうたくさんだ。子どもたちをあんな大人には育てたくない」。道徳の黄金律と呼ばれる三つがこの酋長の言葉の中にある。「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな」である。

@「殺すな」の教育
 いまの少年の心の中に,どこかで「人を殺しても悪くはない」という気持ちが隠れているようだ。

 イラクや中東では毎日のように人が死んでいる。殺されている。アメリカとそれに追随する軍隊は,テロと称する集団の大量殺人と虐殺を繰り返し,誰も止めない。止められない。国内でも親殺し,幼児虐殺,保険金殺人,暴力団同士の殺し合い,通り魔殺人。以前,中学生が教室で英語教師を刺した。今回は,十七歳少年による行きずり教師の殺人も起きた。キレると,相手かまわず殺す。相手の痛みが分からないから良心の呵責もない。ケロリとしてタバコを吹かしている。

 これまでも,「命を大切にしましょう」という主題で道徳の時間に教師は「生命尊重」の指導を行ってきた。既成の資料を使い,ひとつひとつの発問を吟味して授業を行ってきた。しかし,それは,どこまで説得力を持っていたのだろうか。
21世紀の「いのちの教育」の要諦は,いのちの有限性,連続性,偶然性,神秘性に触れながら,「殺すな」「無益の殺生はするな」に重点を置き,命の繋がりについて<生と死の教育>に徹することであろう。人類が絶滅しないためにも。

A「盗むな」の教育
 校内における文具や金銭の窃盗,校外の万引きなど,これまでの対症療法的な生徒指導では問題の本質的な解決にはならない。そこで道徳の出番となる。「嘘つきは泥棒の始まり」と故人は言った。詐欺行為=「嘘」+「盗み」の構図は,人間の欲望を手玉に取った行為である。ここには良心の片鱗も見られない。

 良心の教育は,自分の中の自己を見つめることから始まる。他人の目はごまかせても,自分の中の自己は自分のしたことを見ている。ごまかせない。そして,弱い自己と自分の間に葛藤が起きる。「どう動くか」。損得だけでは図れない何かがささやく。「本当にそれでいいのだろうか」と。

 この葛藤,迷い―私はこれを大切にしたい。この「迷い」の中にこそ良心があるのだから。盗んだ品を返すとか,返さないとかの問題ではない。道徳の時間は,自分の中の自己の声とどう向き合うかが大切なのである。

B「嘘をつくな」の教育
 黄金律の中でもこれが難しい。いまの日本は許容社会である。見て見ぬ振りがまかり通る。世の中は嘘で塗り固められ,コマーシャルは嘘の宣伝を流しても良心に恥じない。見つかったのは運が悪かったとしか考えない。

 どうして人間は,嘘をつくのだろう。正直になれないのだろうか。仏教では嘘のことを妄語といって,みだらな言葉,真実でない言葉と捉えた。だから,昔は「嘘をつくと地獄で閻魔様に舌を抜かれるよ」と親や宗教家は教え諭した。また,「正直者に神宿る」とも教えた。状況によっては許される嘘もある。これを「嘘も方便」という。周囲の人の温かい気遣いから生じる嘘。相手を喜ばせようとか,人を救う嘘はあってもよい。

 これに対して,許されない嘘は,人を騙す嘘,人に被害を与える嘘,偽善という嘘,私腹を肥やす嘘,お世辞,おべっか,これも嘘。家族に隠す嘘。会社ぐるみの嘘。秘書の給料を流用した政治家の嘘。このように嘘で固めた許容社会だからこそ,道徳の授業はこれまでのようなキレイごとの資料に寄り掛かった一方的な展開ではいけないのだ。

4.最後に

 特に道徳の時間で強調したいのは,人間の弱さと醜さの部分である。人間には二つの仮面(ペルソナ)がある。「ジキルとハイド」,破壊性と創造性,神性と獣性と呼んでもいいだろう。これまでの道徳は,人間の強さや気高さ,「人間 このすばらしきもの」,「人間 この美しきもの」,「人間 この尊いもの」というキレイな道徳だけを教えるきらいがあった。確かに人間の優しさや尊さを教えることは大切であるが,もう一つの側面に気づかせるようにしないとキレイごとの道徳になる。

 相田みつを(詩人・書家)の初期の作品『にんげんだもの』のなかで,彼は次のように,つぶやいてみせる。
「つまづいたっていいじゃあないか,にんげんだもの」
「ぐちをこぼしたっていいがな,弱音を吐いたっていいがな,にんげんだもの。たまには涙を見せたっていいがな,生きているんだもの」
これまで,とかく道徳というと,肩ひじを張って人間の強い部分,崇高な部分を強調して見せた。だから,「自分には道徳なんて教えられない。道徳は出来ない」と逃げ腰になる教師やこれに反発する思春期の子どもたちや学生がいた。
そこでわたしは,人間の弱い部分にまず光りを当てた。しかし,弱さや醜さを肯定するばかりではいけない。強い部分にもアクセントをつける。自分自身を主張させる。これまで道徳の授業展開では,主人公を批判したり,弁護したりと他人事のような発言や話し合いが多く見られた。これでよかったのだろうか。
自分を主張するということは,相田みつをの言葉を借りるとこうなる。
「やれなかった。やらなかった。どっちだ」
「そのとき,じぶんならば,どうする」

 資料のなかの主人公の行為や気持ちをどうこう言うのではなくて,そのような状況に自分が置かれたとき,自分だったらどうするか。善をとるか,悪を退けるか。あるいは,手近かな「快」をとるか,「不快」を快に変える道を選ぶか。「損」して「得」をするということもある。どちらを選択するか。豊かな時代というのは,「選択の自由がある」ということである。衝動的に行動するのではなく,熟慮して選択し,決断をくだす。これを道徳的判断力あるいは道徳的実践力とよぶ。いずれも「生きる力」につながるものである。
生きる力は,すぐ身につくというものではない。長い時間と努力を積み上げることによって作られるものである。したがって,道徳の時間で「嘘をつくな」という指導をする場合も,「殺すな」,「盗むな」の指導と同じように,与えられた道徳資料だけを後生大事にするのではなく,生き方の根っこに関わる話題を大切にすることである。

 子どもたちは心を開いて語りたがっている。本当のことを知りたがっている。毎日の新聞,テレビなどの情報を通して黄金律に関わる記事,内容を活用し,「自分だったら,どう動くか」「魅力的な生き方」の追求について,学校と家庭のなかで話し合い,道徳の黄金律をどのようにこれからの人生の「生きる拠りどころにしていくか」,この生き方の根っこがいま問われているのである。
(2005年3月7日)

 

[参考・引用文献]
1)押谷由夫,『道徳教育新時代』,国土社
2)加藤一雄,「五百人を越える学年道徳の試み」,神奈川大学・教育研究論集(第22号)
3)相田みつを,『にんげんだもの』,文化出版局
4)上寺久雄監修,『新しい道徳教育への提言』,世界日報社
5)上寺久雄監修,『人格教育のすすめ』,コスモトゥワン
6)梅原猛,『梅原猛の授業 道徳』朝日新聞社
7)行安茂,『生命倫理の問題と人間の生き方』,北樹出版
8)岡山県学校道徳研究会(編著),『生きる力をはぐくむ道徳教育』,教育開発研究所
9)加藤一雄,『思春期の生き方』,明治図書
10)加藤一雄,『流しびなとこころの教育』,明治図書