教育立国日本のビジョン

早稲田大学学事顧問・元総長 奥島 孝康

 

1.はじめに

 日本は現在,様々な問題に直面している。教育だけを見ても非常に大きな問題を抱えている。学力低下や体力低下が問題になり,その結果として学級崩壊が起こっている。それだけでなく,「援助交際」に見られる如く,社会における子どもたちのあり方がまるで変わってしまった。ゆえに大学教育も,そのような問題にどのように対処するかを考えず,単に高等教育や専門職業教育だけに取り組んでいてはいけない。

 日本はかつて「軍事大国」を目指して失敗し,戦後は「経済大国」を目指して失敗した。その後何を目指すのかと思えば,政府は「生活大国」を目指すというので呆れてしまった。そんなことより日本は「教育大国」を目指すべきだ。「大国」という言葉が耳障りであれば,「教育立国」を目指さなければならない。

 近年政府は「科学技術立国」「知財大国」といったスローガンを盛んに使用しているが,これらは国の方向性としては狭すぎるのではないか。科学技術で特許を独占し,頭で勝負をしようという意気込みは確かに良い。しかし日本だけが特許を独占することができるわけではない。文化という国民のアイデンティティをもっと磨き上げていくため,教育のあり方を真剣に考えるべきだと思う。かねてから私は,「教育立国日本の実現」をスローガンとして,その組織のあり方を考えてきたが,ここでその一端を紹介したい。

2.教育立国構想

(1)中途半端な日本の教育政策
 海外では教育問題に対して積極的な取り組みをしている。例えば米国では,レーガン政権の時代に1983年の「危機に立つ国家」(A Nation at Risk)という報告書がきっかけとなり,それ以降現在のブッシュ政権に至るまで,常に教育を国政の最重要課題に位置付けてきた。

 日本では小泉首相が以前所信表明演説で「米百俵」の話をしたが,この戯曲の作者である山本有三はそれと違う意味で「米百俵」を書いている。その話の本来の意味は,人を育てる教育こそが「百年樹人」,すなわち,穀物を作るのは一年の計,木を植えるのは十年の計だが,人を育てるのは百年の計だということである。

 残念ながら,小泉首相の真意は,日本を変えていくためには「欲しがりません,勝つまでは」という耐乏生活が必要だということだったらしい。後になってそのことに気づき,私は大きく失望した。なぜなら,米国でレーガンが大統領を務めた1980年代から現在に至るまで,日本では本当に教育に力を入れた時期がなかったからである。

 最近も政府は教育制度を改編してはいるものの,資金はあまり投入していない。例えば国立大学89校に対しては総額で約2兆3000億円が投入されており,その上,独立法人化するために4年間限定で毎年1500億円ずつ,計6000億円投入されている。しかし実際はその程度ではなく、国立大学にはもっと多くの資金が投じられているだろう。それに対して私立大学542校(平成16年度)に対して投入されているのは,約3300億円である。

 高等教育への公財政支出の対GDP比を他の先進諸国と比べても,米国の三分の一,フランス・ドイツの二分の一であり,イギリスも日本より上である。先進国の中で日本の教育投資は微々たるものである。これはある意味で,日本の高等教育を私学が支えてきたからだとも言える。仮に私学が存在せず,国立大学並みの投資が必要だとすれば約6兆円かかってしまう。それが3300億円でごまかされているようなものだ。

 米国や欧州では「イコール・フッティング」といって,国公私大間で競争条件だけは同じにしようという考え方が取り入れられている。日本でも,私立大学への投資額を国立大学と同じ金額にはできないとしても,その教育が国家・社会に対して果たす実際上の効果に応じて国公私の教育機関をバックアップするという姿勢が必要である。私学が果たしている国家・社会への貢献に対し,3300億円という金額はあまりにも少ない。

 ちなみに,「バウチャー制度」(注1)の導入を唱える人々がいるが,文部科学省はもちろん,有力校といわれる学校はこれに反対している。なぜなら有力校にとっては資金が個人ではなく,教育機関に配分される方が都合がいいからだ。文部科学省も資金配分の権限がなくなれば存在意義を失ってしまうだろう。

 ともかく,日本の教育行政は非常に中途半端なところで足踏みしている状態である。これをどのように方向付けるかはきわめて重要な問題だ。その意味で,日本の進路はできるかぎり教育に大きな比重を置いて考えるべきだ。

 しかし,日本は教育以外の分野ではその方向性が決まってきているように見える。橋本内閣は「フリー・フェア・グローバル」ということを訴え,それを何の準備もせずにやってしまった。そして皆で渡れば怖くない式で赤信号を渡りきってしまい,一斉に奈落の底に落ちてしまった。そして空白の十数年を過ごし,今ようやくその「フリー・フェア・グローバル」に対応できるような社会態勢が整ってきたようである。最近の司法制度改革により日本もようやく法律的にも市場経済への対応ができるように整備されてきた。

 これまでは行政国家であって,行政指導によって国民を右往左往させていた状況だが,これからは司法国家として国民の自由性にもとづき自由にやっていいということになった。しかし責任は取らなければならない。いわばネットワーク型の資本主義から,個人の競争力を大切にするマーケット型の資本主義に大きく方向転換したのである。このように世界中が市場国家になっているので,その良し悪しを論じて棹差すことはできない。ただ,私は「競争」よりも「共創」が必要だと考えているが,国家の大勢としては世界の競争の中に入らざるを得なくなっている。その中で教育をどのように意義付けるかが大きな課題となっている。

(2)米国の教育政策と生涯学習
 レーガン大統領は,米国の教育が落ちるところまで落ちてしまい,何とかしなければ米国が世界における優位性を保つことができないと考えた。そこで専門の委員会を設けて2年間かけて出した結論に基づき,教育の建て直しを図った。その報告書「危機に立つ国家」の中の「米国」を「日本」と読み替えれば,そのまま我が国に当てはまる内容である。

 1980年代の米国の状況は,2000年代に入った日本の状況と非常によく似ている。ゆえに米国が教育に力を入れて立ち直った経験を活かすべきだ。日本は今,危急存亡の時を迎えている。そのような時に何が確実に未来を作るのかという観点から考えれば,教育に投資するほど確実な方向性はない。

 クリントン政権が打ち出した政策が私にとって大きなヒントとなった。それは「ライフタイム・ラーニング・クレジット」,日本語で「生涯学習減税」ともいうべきもので,大学一,二年生の子どもを持つ家庭には年間1500ドル,三,四年生の子どもを持つ家庭には年間1000ドル減税するという内容である。高等教育にそのような形でインセンティブを与えた。

 ところが日本では大学入学者数が多いので,そこまでする必要はないと考える人々が多い。しかし少子高齢化の状況を見れば,これからどうやって日本が競争力を保ってゆくのかと疑問に思う。ひとつには多くの外国人を受け入れる方法があるが,それ以上に少ない子どもたちを一騎当千に育て上げることを考えるべきである。

 同時に,高齢者にリカレント教育を施したり,キャリアアップするなどの生涯教育(学習)を本格的に進めるべきだ。米国の州立大学に行く機会があれば,ぜひ夕方の五時頃訪ねてみて欲しい。その時間帯になると,大学全体が熱気を帯びてくる。なぜなら米国の州立大学は多くの三年次編入者を受け入れなければならないし,社会人教育が義務付けられているからである。

 日本では私立大学が社会人教育に取り組んでいるが,国立大学では誰もそんなことを考えていない。文部科学省も社会人教育を義務付けようなどと思っていない。しかし法律でしっかりと義務付けるべきだろう。文部科学省の官僚は,国立大学はエリートを育てる場だと思っているようだ。

 ところで,「エリート」とは何か。エリートとは単に頭が良いことを意味するのではない。最近『学はあってもバカはバカ』(注2)という本を読んだが,これは「週刊朝日」元編集長の川村二郎氏によるエッセイ集で,その中で宮沢喜一・元首相(在任1991.11〜93.7)について書いている。宮沢氏は日本の政治家にしては珍しく英語も堪能で頭も良い。誰が見ても素晴らしい人物である。ところが彼は首相になって何もしなかった。一番大事な時期に首相に就任し,皆が期待したのに,何もしなかった。つまり,どんなに学があってもそれを活かさなかったら何にもならないのである。

 大学教員は「学」を活かすということをあまり考えない。彼らが考えることは荒唐無稽なことばかりで,学生たちを発奮させるようなことはしない。本当の学問は学問として優れているだけでなく,それが学生たちの魂をゆさぶり,「やる気」を起こさせるものである。「志」を植え付けるようなものでなければ学問とは言えない。

 教育立国のあり方を考える上でも,「学」をどのように活かすかを考えなければならない。日本は少子高齢化が進んでいる。子どもたちを育てると同時に,高齢者を生涯学習によってもう一度キャリアアップし,世の中で働いてもらうことを考えるべきだ。生涯学習が重要だということは誰でも言っている。しかし文部科学省は生涯学習局を筆頭局にしておきながら,それは私学や自治体でやれという姿勢である。

 これまで文部科学省関係者から国立大学を生涯学習機関にするという話を聞いたことがない。国立大学の場合,社会人を受け入れる大学院であっても非常に入学が難しい。高校や大学を卒業した直後なら試験を受ける力があるが,社会に出てからもう一度勉強しようと思っても,若い現役の連中と競争して大学や大学院に入学するのが難しいことは明らかだ。

 生涯学習機関は入学希望者のキャリアを評価し,この人ならこの内容を勉強すれば社会にもっと役に立ってもらえるという観点から,入学を認めるべきである。大学や大学院は社会人に「来てもらおう」という感覚がまったくなく,「入れてやろうか,やるまいか」という判断の問題と考えている。それが日本の生涯学習の現状である。

 地方のある村に行ったときに「生涯学習センター」の看板が掲げられている施設があったので,何をやっているかと覗いてみると,老人たちがお茶を沸かしながら世間話をしていた。もちろん料理の講習会などもやっているのだろうが,これでは生涯学習と言えない。単なる社交クラブであって,「老人クラブ」の看板があれば十分だ。文部科学省はそのような状態でも日本人には生涯学習が普及していると考えているようだ。こんな現状で世界を相手に勝負するなら,日本が教育で這い上がれる余地はない。国公立の高等教育機関そのものが国民を教育する生涯学習機関として機能しなければならない。

(3)横並び型から重点投資型へ
 米国だけでなく,欧州でもECからEUに変わる頃に教育問題について非常に大きなステップを踏み出した。当初ECでは「エラスムス計画」という800万人の若者の交流計画があった。それが「ソクラテス計画」へと引き継がれ,EU内でひとつの「高等教育圏」を作ることを目指している。この計画の下で各加盟国の大学は補助金を得て,お互いの学生を交流させている。

 この学生交流は大きな意味を持つ。教育効果が大きいからである。丸い石ばかりそろえるより,いろいろな角のある石が川の中をゴロゴロ転がるうちに丸くなる。擦れる角があればあるほど,擦れ合って智恵熱が出てくるという,いわゆる芋洗いの原理である。
 そのような交流と同時に,欧州では注目すべき取り組みが行われている。例えば数学の高等教育をするに当たって,イタリア,フランス,ドイツ,スペインなど各国のトップクラスの大学から優秀な学生を一人ずつ選抜し,半年間合宿させて徹底的に鍛える。このようなやり方をすると,ひとつには学問のレベルが平準化されるという効果がある。同時に,各国の最優秀の学生が競い合うことで米国に負けないような新しい理論の開発ができるという期待がある。

 フランスやドイツも最近まで大学はすべて国立だった。どこの大学に入学しても同じだったし,学期ごとに異なる地域の大学へ行くこともできた。ドイツではフンボルトがベルリン大学を創設した頃は違ったかもしれないが,戦後東西に分かれてからは,どこの大学が優れているなどという話は聞いたことがなかった。しかし,それでは駄目だということでドイツでも「トップ10大学」を作り始めた。フランスはグランゼコールがあるために大学は下に見られているが,グランゼコールに入学できる学生数は限られている。それだけでは国の未来を確実なものにすることができないということから,大学のレベルを引き上げざるを得なくなった。そこで地域ごとに拠点大学を作る方式を採り,重点的な取り組みをしている。

 そういった動きを見ると日本も考えなければならないと感じる。ドイツの「トップ10大学」のように,日本でも「トップ30大学」構想を始めた。この構想はその後,選ばれない大学に対する配慮から「21世紀COEプログラム」と名称が変わった。しかしできる者はできるし,できない者はできないのだから,はっきり言えば良い。何も選ばれないからといって全部を否定しているわけではなく,ある部分,ある分野でトップかどうかが比較されているだけのことなのである。

 今までの日本の高等教育政策で問題だったのは,すべての大学を良くしようという観点から総花的な政策をとってきた点だ。東大や京大は人も予算もたっぷりあるので,どの分野でもトップを狙おうと努力するのは結構なことである。しかしそれ以外の大学が同じことをやったのでは,全部が中途半端になってしまう。日本の民主主義は良いことをすれば評価するというより,横並びを好む。結果的に,駄目な人に優しい政策をとった人に対する評価が高くなる。そのような社会慣行が長い間続いてきた。

 その意味で,早稲田大学なども中途半端だった。学内にいるだけで人生の目的を達成したと感じているような人たちが大学を構成していたのだから,どうしようもない。そのような状況の中で,助手から教授に至るまで研究費は毎年一万円ずつ上げるなどとやっていた。日本の大学政策も常に同様で,文部省も資金を一律に配分していた。しかし,今や競争的に資金を配分する方向に向かっている。

(4)社会貢献と人類知の追体験
 これからの教育政策を考えるならば,小学校の「ゆとり教育」と「詰め込み教育」の論争が未だに続き,大臣が変わるたびに方向性が変わるようなフィロソフィーのないやり方では未来を築くことができない。恐らくどちらもそれほど極端なことを言っているわけではないのだろうが,言葉だけが空中戦を展開している。そんなことをするより,もっと教育に資金を投じなければならない。それによって教育を実質的に変えることができるはずだ。

 大学では以前,フンボルト的な研究教育が中心だったために世間からどんどん離れていった。教育を語る人たちは皆,抽象論で物事を考えていた。しかし今ようやく英米の動向を見て「そうだ,大学の目的には教育と研究のほかに社会貢献があった」と言い出したのである。早稲田大学でも「早稲田大学教旨」(1913年制定)には「早稲田大学は学問の独立を全うし,学問の活用を効し,模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す」として,「学問の活用」という表現で明確に社会貢献が唱われていたのに,大学の歴史の中でいつの間にかそれが忘れ去られていた。それをもう一度再確認しようとしている。

 米国や英国では学問の社会貢献は当たり前のことで,学問が社会に貢献しないでどうするのかという考え方が根底にある。早稲田大学は英米の教養人が創設したために,最初から社会貢献が大きな目標となっていた。しかし歴史の流れの中で「大学は世間と違うのだ」と考えるようになっていき,いつしか一高の寮歌のごとく「栄華の巷低く見て 向ケ岡にそそり立つ」となり,世間と関係がないところで学問が行われるようになってしまった。

 それはそれで良い面もあり,学生たちが言っているなら問題はない。しかし研究をしている人たちがそんなつもりで研究をしていてはいけない。研究のための研究だけではいけない。基礎研究が何の役に立つのかと問われると簡単には答えられない。しかし全体として学問が社会に貢献するということを考えて研究がなされなければならないし,そのような思いを伝えることで学生たちが奮い立ってくるのである。

 幸い21世紀が“knowledge based society”(知識基盤社会)に向かって進んでいることは各方面で見解が一致している。その知識社会とは,単に利益に換算できるものではない。元来,社会主義と資本主義の違いはそこにあり,社会主義にはソロバンの基準がなかった。それに対して資本主義は利益という基準があって,それによって効率性を保っていた。しかし今から我々はもう一度新しいソロバンを作らなければならない。それは“sustainable development”(持続可能な成長/発展)という考え方を織り込んだシステムである。

 皮肉なことに,資本主義によってすべてがソロバンで弾ける世の中になったかというと,やはりそれだけではない。一方,社会主義の持っていた理想も決して否定すべきものではない。それは社会主義が主張したわけの分からない議論とは違い,本来それが目指したはずの“sustainability”(持続可能性)が世の中の価値基準のベーシックな部分となってきている。そしてそれが強調されればされるほど,学問の社会貢献を考えなければならない時代だと言える。

 従って,常にソロバンばかりで考えるようなスローガンではいけない。教育立国を目指してもっと広く物事を考えるべきである。そのためには,子どもたちに人類五千年かけて積み上げてきた知の体系を追体験させる必要がある。小学校,中学校の義務教育は一人前でない子どもたちが本来の人間になるための教育である。ここをきちんとやらなければいけない。

 今はレベルの違う子どもを一緒にして教育している。一緒にやると授業では上と下のどこに焦点を合わせたら良いか分からなくなってしまい,結局おかしなことになっている。もしどうしても一緒にやるなら複数担任制にすべきだ。レベル分けをしてやるように主張しても世の中の流れがその方向に行かない。悪平等主義がはびこっているからである。行かないならば,問題を解決するには複数担任制しかない。場合によっては三人ぐらいで一教室を持たなければならないかもしれない。それが果たして良いことかどうか分からないが,今の子どもたちを一騎当千にしようとするなら安い投資である。このように現実的に対処すべきである。

 いずれにせよ,このように人類の知の体系を勉強した上でなければ,「百尺竿頭一歩を進む」であり,新しい創造はいつの間にかどこかで生まれるものではない。そうでなければ政府がいう「科学技術創造立国」など簡単に実現するものではない。やるべきことをやらずにスローガンだけが空中を舞っている。日本が科学技術に投入している資金は莫大だが,それを本当に使いこなせる人たちを養成しなければならない。それをせずに一部の人にその金を使わせても成果が出るはずがない。

 そのように考えれば学問の底辺は広いものであるから,多様な個性が切磋琢磨する必要がある。例えば米国のメディカルスクールには文学や音楽,美術をやっていた学生たちが入学してくる。医学を通じてどのように社会に貢献できるかを考えて,医学の道を目指すのである。一方,日本では嫌でたまらないのに親が跡を継がせたいからという理由で,お金をかけて医学部に行く。あるいは国立大学の医学部へは偏差値が高いから行くというだけの話である。そんな志の低い人に診てもらってどうなるのか。

3.教育改革への提言

(1)初等・中等教育には「遊び」を
 初等・中等教育のキーワードは「遊び」である。「遊び」の中で他者の痛みを知ることができるようになり,それによって社会性を身につけ,初めて社会人,つまり「人間」として相応しい人格ができる。それに対して高等教育のキーワードは「旅」である。これは他者の文化の理解と尊重を意味するという意味である。他者の文化,すなわち歴史や宗教,風俗に対する理解と敬意を身につけさせる。生徒や学生は,それによって国際人,さらには地球人となることができる。これからの教育はそのように考えなければならない。

 今の初等・中等教育には「遊び」がなさ過ぎる。早稲田の場合,高等学校の先生は自分を大学教官のように考えていて,自分の授業のときだけ教室へ行き,終わるとさっさと家に帰ってしまう。そんなものではないはずだ。私たちが高等学校に通っていた頃のことを振り返ると,先生と一日じゃれ合うだけでなく,土日にも迷惑を省みず,場合によっては徹夜してまで人生を語ったものである。今はそんな先生がほとんどいない。そんなことで本当に教育ができるのだろうか。教室だけが自分の責任ではない。子どもたちにとっては教室の外がとても大事である。

 今はむしろ小学校より大学の方が先生と学生との深い付き合いがある。私も正月になれば狭い我が家に学生が百人ぐらいやってきて,天井が抜けるのではないかと心配するほどだ。早稲田大学の教員たちはそのような付き合いをしている。本当は大学になれば大人の付き合いをすればいいのに,逆になっている。我々の中学・高校時代の付き合いと同じである。

 人間は他人との関わりの中で生きているのであり,それを思い出すたびに心の中がぱっと明るくなるような体験があれば,一生勇気付けられるものだ。早稲田が小学校を作るとき,私は子どもたちが学校へ来るのが楽しくて楽しくてたまらないと感じるような学校にしなければならないと言った。私は楽しくなければ学校ではないと思っている。自分の学校生活を振り返ると,すべての学校が楽しくてたまらなかった。特に田舎は学校以外遊び場がないので,楽しくないわけがない。新設の小学校はそんな学校にしなければならないと言ったが,親たちに聞いてみるとこれは成功しているようだ。

 学校が楽しくてたまらなかったらどのようなことが起こるか。精神の集中力が高まるので,勉強したことが自ずと吸収されて頭に入ってくる。そのような教え方が必要である。それさえ心得て子どもたちの心をつかめば,子どもたちは勉強そのものも遊びだと思って楽しみながら吸収してしまう。

 今の子どもたちに一番欠けているのは,他人の痛みが分からないということである。自分のことしか考えず,他人の都合など何も考えていない。他人の心の痛みが分からない子どもをどうすれば良いか。簡単である。痛い目にあわせることだ。痛い目にあわせるために,私は自然体験をさせるべきだと考え,自然体験についての研究会を主催し,自然体験活動推進協議会を作った。

 現在そこに約250の青少年団体が加盟している。しかし,そこで子どもたちにすぐに自然体験をさせるのではない。自然体験をさせたいが,その前に親たちに自然体験の楽しさを知らせる必要がある。日本の学校の自然体験は,一般に一週間ほど準備して出発し,目的地に着いた日に一泊して翌日帰る。日本ではまず1週間やることはほとんどない。

 しかし,欧州の場合は違う。ドイツにはワンダーフォーゲルがあり,フランスにはコロニー・ド・バカンス(日本の林間・臨海学校に相当)がある。コロニー・ド・バカンスは自治体などの援助金を受けながら,ボランティアが子どもたちを40日間ほど山や海へ連れて行く。その時期にはパリ市内から子どもがいなくなるほどだ。親たちはその間,グラン・バカンスを楽しめる。子どもたちは戻ってくると歓声を上げて親に抱きつく。そのような光景を見ると羨ましく思う。子どもたちは裕福であろうと貧しかろうと皆一緒に連れて行くし,その期間はほとんど勉強させずに自然の中で楽しませる。そして活き活きとして戻ってくる。親たちも活き活きとして元の仕事に取り組める。日本は夏休みになるとこのときとばかり塾へ行かせる。親は一回くらいはどこかへ連れて行かなければならないので仕方なく満員電車で連れて行き,二,三日してへとへとになって帰ってくる。新学期が始まったときには皆疲れ切っている。こんなことで初等・中等教育ができるわけがない。

 そこでまず親に自然体験の楽しさを知らせなければいけない。自然体験活動推進協議会に加盟する団体では,親を自然体験リーダーとして早急に100万人養成しようとしている。リーダーが100万人いて一人が十人連れて来れば1000万人になり,大体足りる計算である。

 そのように準備して子どもたちを自然の中に出せば,子どもたちは怪我をしたり,ひっくり返ったり,喧嘩をしたり,蛇に出会ったり,蜂に刺されたりして痛い目にあう。家の中で王様のように勝手に振る舞い,好きなものだけを食べていた子どもたちもそれができなくなる。自分でご飯を炊き,火も燃やさなければならない。そうすれば自分勝手なことを言っていては暮らしていけない,痛い目にあったときには助け合わなければいけないということが分かる。昔の子どもは手加減することを知っていたが,今の子どもは喧嘩をしないからそれが分からない。喧嘩しても一方的にやる。喧嘩を通して仲良くなるということがない。

(2)高等教育には「旅」のすすめ
 高等教育段階(高校以上)になれば,1年間か半年間くらい外国に出すべきだと考えている。もちろん国内でも良いが,国内の場合も,なるべく文化の背景が異なるところに行くのがよい。中世の欧州の社会には「グランド・ツアー」と呼ばれる成人への通過儀礼があった。それは貴族が半年から二年ほどかけて欧州を旅するものであった。日本でも昔は若者が「武者修行」で諸国を回って鍛えられた。米国では一学年の二割ほどが1年間,交換留学で海外の大学へ行く。とりわけアジアの大学へ留学している。これは米国人の豊かな進取の気性であり,体験というものの大切さを知っているからである。

 日本の学生は年間17万人近くが海外へ留学しているが,これは留学という名の遊びがほとんどである。その中でアジアに行っているのは1万人足らずで,そのうち8000人が中国である。アジア全域にはまるで行っていないのが現状だ。なぜかというと米国や欧州へ行った方が評価されると思っているからである。

 学部の一年間ほど留学するのにその国の学問レベルの高低は関係ない。それより外国へ行くこと自体,旅自体が勉強である。孤立無援の中でどうやって切り抜けてやっていくか,ひとつ屋根の下で同じ釜の飯を食べてどうやって友達になるか。そのことが大事である。米国人はそれを知っている。だから普通の大学でも二割の学生を出している。中には四割,五割の学生を出す大学もある。

 早稲田大学は同志社大学と国内留学の制度を設けている。また,外国との間では,私が総長就任当時に29校しかなかった協定校を400校まで増やした。これはダントツの日本一である。京都大学は約350校と協定を結んでいるが、そのほとんどが研究機関である。早稲田大学の場合,私が結んだのはすべて学生交流協定である。私は早稲田大学の学生の二割を外国に出したいと思っている。そうすると一学年1万人のうち,2000人を出さなければならない。従って相手の学校が500校は必要になる。以前韓国の高麗大学から一度に100人の交流をやりましょうと提案してきたことがあったが,私は一国に集中するのではなく,日本の将来的な安全保障の観点からも,あらゆる国に行かした方が良いと考えた。そうすれば多様な経験,多様な文化との触れ合いが可能となる。それによって若者が鍛えられることがどんなに日本の未来にとって役立つことかと思うからである。

 そのような体験をさせることで,若者たちの心に火をつけることができる。大事なのは彼らに志という火をつけることである。今までそのように考える人が非常に少なかった。すべての学生が学者になるわけではない。多くの学生たちの心に世のため人のために汗を流すという決意の火をつけて,俺はこれをやるという高い志を持たせることが本来の学問のあり方である。

4.最後に

 先述した「危機に立つ国家」という報告書の中に次のような言葉がある。
「歴史は怠け者に厳しい」(History is not
 kind to idlers.)
 これは当然である。そうでなければおかしい。日本が厳しさに直面しているのは,ある意味で日本が長い間怠け者だったからではないか。産業の面では頑張ったが,人間は経済的な生き物として生きているだけではない。経済的な生き物として生きるにしても,もっと勉強しておかなければならなかった。その勉強を怠った。

 戦後一貫して,加工貿易立国で生きてきた国が,どうして準備もなしにいきなりマネー・ゲームに走るのか。もし本気で取り組むならしっかり準備してベテランを養成してからにすべきである。そのような準備もなしに取り組んだために戦後50年かけて営々と貯めこんだものを全部米国に取り戻されてしまった。それは我が国が高度成長に酔いしれているうちに,いつの間にか次の手をどう打つかを考えず,油断していたからである。怠けたことに対する厳しい評価が,これまでの失われた十数年という痛みであった。

 これから考えなければならないことは,もっと大局観を養うことだ。もっと全体を見なければならない。そしてもっと行動力のある若者を育てなければならない。学校は大局観を与えるという意味ではそろそろ機能し始めている。しかしその若者たちにモチベーションを与え,行動力をつけるという面ではまだ準備が十分ではない。行動力の強さは志の高さに比例する。志が高く行動力のある若者をどうやって育てるかが今後の課題であり,もう一度日本の未来のために考えておかなければならない問題である。(2005年6月4日発表)

 

*注1 バウチャー制度
 教育バウチャー(education voucher)とは,政府が父母に対して私立学校の授業料に充当できる一定額の現金引換券(バウチャー)を支給することにより,私立学校選択を支援するとともに,公立学校と私立学校との間に競争原理を働かせ,公立学校改善を促そうとする制度である。つまり,生徒を奪われたくない公立学校は自主的に教育環境を整えざるを得ないことになる。教育バウチャーの起源は,経済学者フリードマンが1962年に著した『資本主義と自由』にさかのぼることができる。フリードマンは両親に公立学校の教育費と等しい額面のバウチャーが政府から支給されれば,このバウチャーは子どもが入学した公立・私立の学校教育費に充当されるため,両親は子どもを希望する学校へ転校させることによって,転校前の学校に不満を表明することができるとした。政府によって換金されるバウチャーのもと,生徒獲得のため,その要望を満たす多様な学校が設立され,学校間の競争が起こり,教育の質向上が促されると考えた。この場合の政府の役割は,学校が一定基準を満たすことを保証することに限定される。(財団法人自治体国際化協会HPより引用)

*注2 
 川村二郎著,『学はあってもバカはバカ』,かまくら春秋社,2005。かまくら春秋社のHPには,「記者一筋に生きた著者が『エリート』という『バカ』に支配されたこの国の『今』を豊富な体験,多彩な人物を通して鋭く抉る。司馬遼太郎は宮沢喜一総理をどう評価したか,白洲次郎が好んだ『役損』とノブレス・オブリージュ,深沢惇郎ら先輩朝日記者の群像,アナウンサーの物知らず・言葉知らず…」と紹介されている。