金玉均の近代思想と甲申政変(下)
―甲申政変の展開と歴史的意義

韓国・鮮文大学校教授 李 起 勇

 

<目 次>
 (上)
 1. はじめに
 2.金玉均の生涯と思想形成
 3.金玉均の近代開化思想
 4.清国の対韓西洋開国および属国化政策
 (以上,「世界平和研究」第162号掲載)

5.甲申政変の展開と開化政綱の公布

(1)甲申政変と開化政府の樹立
 甲申政変は,1884年12月4日,金玉均・洪英植等の開化派要人たちが,韓国を新しい近代的体制に改革するために起こしたものである。均弘集・金允植・金晩植・魚允中等の改良主義者,または戚臣の閔泳翊等も各自韓国の改革を企てたが,各々どの外勢を自派中心に利用するかが問題であった。すなわち,閔泳翊一派と金弘集に代表される守旧派は,清国の勢力を利用しようとしたため,開化派は彼らに対立して日本の勢力を利用しての急進的改革を企てた。

 対外的に国際情勢が急変して,安南(ベトナム)問題で清仏戦争が勃発すると,日本の対清政策が変動して朝鮮に対しても積極政策へと変化したのである。すなわち,当時日本の対清政策の主な立場は,当分の間,清国の対韓宗主権の行使による政治干渉を傍観して,日本自体の実力を育成して後日を図ろうという方策を取っていた。それは軍事的にも,国際関係においても,全ての面で清国を相手に競うにはまだ時期尚早であるという判断からであった。清仏戦争が勃発し,「清国の安南における宗主権が喪失した。」という情報が伝わることによってこのような政策が変化し,日本は清国に対する積極的政策は勿論のこと,韓国に対しても積極的態度を取るようになった。1)

 この好機を開化派は逃さず,日本公使,竹添進一郎の個人的な指示と約束を得て,政変の構想を練ったのである。2)

 これについての井上角五郎の評言を借りれば,「日本政府の対韓方針が一変するとともに竹添公使の態度もまた,改まったのは当然のこととは言え,公使はあたかも性格まで一変した如く,従来柔軟温順であった人がすこぶる活発果断となり,しかも言動過激に流れ,大言壮語してはばからず」3)であった。

 政変を前にした11月25日,金玉均は竹添進一郎公使との交渉で,「内政改革および奸類を除くの策は,惟れ我が任ずる。事発してのち兵を発して,暴発を防ぐは公使之れを担当すると決めて,之れを誓った。」4)

 ここに見られることは,実力行使による閔氏一派の打倒とそれに続く内政改革を推進する主体は,金玉均を指導者とする開化派自身であり,当時,ソウルには1500名の清国軍が袁世凱の統率のもとに駐留していたことと関連して,外部の干渉に対しては外部の力,つまり日本軍をもって対抗させるという明確な分担ができていたことである。したがって,政変推進において竹添との交渉事項は,一貫して内政干渉そのものではなく,それを防衛する日本軍の協力,および改革推進のための財政上の協力に限定されていた。

 一方,このような開化派の意図とは別に竹添公使は,政変開始時に本国政府に対韓政策として二つの案を建議し待機中であった。すなわち,その一つは清国と一戦を覚悟し親日的な開化派を扇動して韓国に内乱を起こす方案と,他の一つは清国との衝突を避けるべく韓国自体の運命に任せながらも,開化派が害を受けないように保護することにとどまる方案であった。

 これら二つの方案は,どちらも政変に対して積極的参与ではない傍観の姿勢を取りながら,漁夫の利を得ようとした意図が含まれていたのである。5)
それを看破した金玉均等の開化派は,「如何に日本政府が改革派を援助すると言っても,万一その態度が変わったという返答を千歳丸が持ってきた場合,我々の計画が水泡に帰するために,そのような連絡が来る前,現在竹添公使の協力の意向が確かな時に決行するのが得策である。」6)として,千歳丸の入港前に決行日を早めることにしたのである。7)

 甲申政変は開化派が計画した通り,1884年12月4日,洪英植を総辨とする郵政局開設宴に外国公使とともに,朝鮮軍の四営使である守旧派の閔泳翊,韓圭稷,尹泰駿,李祖淵を招待し,午後10時,その隣家に放火して宴会から脱出する閔泳翊を負傷させたことから始まった。金玉均は急ぎ昌徳宮に入り,国王高宗に清国軍が乱を起こしたと報告し,日本軍の護衛を要請した。さらに高宗を広大な昌徳宮から少人数でも防衛可能な景祐宮に移し,大門内外を警護し,申福模,李圭完,徐載弼らを始めとする士官学生と開化派同志,およびこれに呼応した前営小隊長李景完の率いる兵卒をも加えた行動隊が殿上,殿門内外に配置された。ここで王宮護衛の任務から,または国王召命によって入闕する三営使,尹泰駿,韓圭稷,李祖淵,および守旧派の巨頭閔台鎬,閔泳穆,趙寧夏らが処断された。また,国王および閔妃の側近にいながら閔氏一派の手先であった,宦官柳在賢がその罪目によって処断された。8)

 金玉均等の開化派は,改革に先立ってそれを遂行するための開化派を中心とする新政府を組織し,5日の「朝報」で発表した。そこには反閔的人士を網羅したが,要職をあげれば次のとおりである。9)

領議政 李載元(国王従兄)
左議政 洪英植
前後営使兼左捕将 朴泳孝
左右営使兼右捕将兼外務督辨代理 徐光範
左賛成兼左右参賛 李載冕(大君院庶子)
吏曹参判兼弘文提学 申箕善
 曹判書 金允植
兵曹判書 李載完(李載元の弟)
刑曹判書 尹雄烈
工曹判書 洪淳馨(大妃の甥)
漢城判尹 金弘集
判義禁 趙敬夏(大王大妃の甥)
藝文提学 李建呂
戸曹参判 金玉均
兵曹参判兼正領官 徐載弼
都承旨 朴泳教
同副承旨 趙同冕(大王妃の従孫)
同義禁 閔肯植
兵曹参議 金文絃(順和君の弟)
水原留守 李煕善
平安監司 李載純(大院君の至親)
説書 趙漢国
洗馬 李竣鎔(大院君の孫,すなわち李載冕の子)

 この他,辺燧,尹致昊は,参議交渉通商社務に,李寅鐘,申福模らは領兵官に,士官学生12名は別軍職に任命された。新政府は多くの王族を含めて過渡的な性格を帯びているが,それゆえにその保守的側面のみを強調するのは正しくない。新政府の構成をよく検討してみれば,国家最高機関である議政府に左議政として洪英植が入っており,軍事,司法,警察,外交,通商,人事,財政など国家の主要部門には金玉均を始め,朴泳孝,徐光範,申箕善,尹雄烈,徐載弼,朴泳教,辺燧,尹致昊らが配置され,新政府の革新的性格を規定する中核となった。この他,政変には中立的立場をとった穏健的開化主義者である金允植,金弘集も登用した。

 ところが,開化派の中心人物で政変の指導者であった金玉均は,戸曹参判(次官級)という比較的低い地位であったが,戸曹判書が空席であったため,財政の全責任を担っていた。「我が派の中心人物であり,総理格の金玉均を戸曹参判に任命したのは少し異常であるが,これは実権を握るためのことであった。いかに新政権が新政令を発したとしても,政務の実現は財政の調理にあるから,金玉均に新政改造の政費調達に対する責任を任せたのである。」10)

 さらに王族の中で大院君系の人士が目立つが,金玉均は大院君の保守的な攘夷論に反対しながらも,その政治の「正大」であることを高く評価し,壬午軍乱後,清国軍が彼を保定府に拉致したことを,主権に対する重大な侵害だと憤慨したことは前号でふれた。11)

 5日に高宗は李載元宅に移り,さらに同5時ごろ,閔妃らの策動によって,少人数の軍兵では防衛困難な広い昌徳宮に移った。閔妃のこのような策動は,当日入闕した前京畿監司,沈相薫が,外部の守旧派,および袁世凱と内通し,清国軍の武力干渉を予定した計画的なものであった。
ともあれ開化派は,金玉均主宰のもとに李載元,洪英植,李載完,朴泳孝,徐光範,朴泳教,申箕善らによって革新伝教,つまり新政綱が作成され,6日の「朝報」で発表して市内要所に掲示した。

 12月6日,開化派は新政府の樹立と新政綱の発表を終え,その成果を守り,改革事業に着手するための自立自営の対策を推し進めた。このように開化派が新権力を自衛するための準備に奔走していたとき,竹添は日本軍を引き揚げようとしたため,金玉均は自衛態勢が整うまで3日間猶予すること,および改革事業のための資金調達についてその協力を求め,承諾を得た。しかし,結果は日本軍引き揚げを3日間猶予する問題も,資金調達問題も,竹添の空約束のために完全に水泡に帰した。

 5日,既に前京畿監司沈相薫が国王問安の名目で入闕し,袁世凱と閔妃との間に内通する結果となったが,彼の入闕を許したのは開化派,特に金玉均の大きな失策であった。12)袁世凱は前右議政沈舜宅に清軍出兵の口実としてその出動を要請せしめ,午後3時,500名の一隊は呉兆有の指揮のもとに宣仁門から,800名の他の一隊は袁世凱の指揮のもとに敦化門から,それぞれ昌徳宮に攻撃をかけた。普段から清国軍をけなして大言壮語していた竹添は日本軍引き揚げを命じ,閔妃は清軍陣営に脱出して情勢は不利になった。中福模,尹景完らの指揮する士官学生,開化派同志および,一部前営兵100名は,弾丸が発射できない銃剣をもって奮闘したが,高宗さえも開化派から離れて閔妃のもとに行くことを固執した。

 洪英植,朴泳教および申福模ら7名の士官学生は,最後まで高宗に随行し,他の同志らは再起を誓って惜別の情を分かち合った。洪英植,朴泳教ら一行はいずれも清国兵に惨殺され,金玉均,朴泳孝,徐光範,徐載弼ら9名のみが日本に亡命した。国内に残った開化派はほとんどが斬刑に,一部は流刑に処せられ,それはその家族まで及んだ。

(2)新政綱の公布と改革思想
 開化派は守旧派政権を倒した後,直ちに開化派を中核とする新政府を樹立するとともに,12月6日には新政府の政治綱領を発表した。この新政綱は、長期間開化派によって培われ,その内外活動によって検証されてきた開化思想を,国政改革において具現することを意図した歴史的産物であり,その政策的指標であった。これらの革新伝教は,政変が失敗した後12月8日,王名によって還収されたために全文はないが,『甲申目録』にはその「略録」として,次の14カ条が残されている。13)

一,大院君を早急に帰国させ,清国への朝貢虚礼を廃止すること。(大院君不日陪還事。<朝貢虚礼設行廃止>
一,門閥を廃止し,人民の平等権を制定し,才能によって人材を登用すること。(閉止門閥,以制人民平等之権,以人択)
一,全国の地租法を改革し,奸吏を根絶し,窮民を救済し,国家財政を充実させること。(改革通国地租之法,杜吏奸,而叙民困,謙裕国用事)
一,内侍(宦官)府を廃止し,そのうちで才能のある者だけを登用すること。(内侍府革罷,基中如有優才,通同登用事)
一,前後の時期に国家に害毒を及ぼした貧官汚吏の顕著なる者を処罰すること。(前後奸貧病国最著人,定罪事)
一,各道の還上米は永久に免除すること(各道還上米永臥還事)
一,奎章閣を廃止すること。(奎章閣革罷事)
一,早急に巡査を設け,盗賊を防ぐこと。(急設巡査以防盗事)
一,恵商公局を廃止すること。(恵上公局革罷事)
一,前後の時期に流配または禁錮された罪人を再調査して釈放すること。(前後流配禁錮之人,酌放事)
一,四営を合わせて一営にし,営中から壮丁を選んで近衛隊を急設すること。陸軍大将は王世子をもってすること。(四営合一営,中沙丁急設近衛事。<陸軍大将首擬世子宮>)
一,一切の国家財政は戸曹で管理し,その他の財務官庁は廃しすること。(汎属国内財政 由戸曹管轄,其余一切財簿衙門革罷事)
一,大臣と参賛は(新差大人はその名を使う必要なし),日を決めて閤門内の議政府で会議し,政令を議定,執行すること。(大臣与参賛<新差大人今不必書其名>課日会議於合門内議政所,以為稟定而布行政令事)
一,政府六曹のほか,不必要な官庁を閉止し,大臣と参賛をしてこれを審議処理せしむること。(政府六曹外,凡属冗官, 行革罷,令大臣参賛酌議以啓事)

 この14カ条は,革新教案の中の「略録」であり,他の文献によればそれは80余条目に達しており,国王殿下を改めて陛下と称し,伝を改めて勅と称すること,内外公債を募集して運輸,教育,軍備の拡充を期すること,国民は一斉に断髪を行うこと,青少年の中から俊秀の者を選択して外国に留学生を派遣すること等が知られている。14)

 新政綱は以上のように封建国家を近代国家に変えようとした,真に革新的な内容であった。主要な要点を見てみると,第一に,大院君の帰国を促し,清国に対する事大外交を廃止することによって自主独立国家建設を目指した点は,当時深刻な民族的危機を打開せんとした全民族的要求を代弁した内容である。第二に,封建的身分制度の廃止と人民平等権の確立は,近代的民主国家を形成せんとした内容である。第三に,納税制度の改革は封建的搾取の制限と国民生活の救済によって,新しい経済秩序を確立せんとした意図が含まれている。その他,殖産興業,留学生の派遣,軍事・警察制度の改革,国王専政の廃止と内閣会議の権限拡大など,「金玉均をはじめとする開化派の長期にわたる国の自主独立と近代的な富強発展のための政治改革活動と開化思想の一貫した念願を体現したものである。」15)このように甲申政変は近代的国家を形成せんとした政変であったのである。

6.甲申政変に対する従来の評価と歴史的意義

 甲申政変に対する従来の歴史的評価は,時代と状況,そして誰が評価の主体になるかによって分かれてきた。それだけではなく甲申政変自体が,実学思想の発展を通して得られた自主的近代意識の脈絡の中でその思想的基盤が理解される反面,それが表に現われた様相は外勢との結託,または依存的な側面も見られるために,評価の観点をどこに置くかによって違った結論が導き出されもするのである。

 従って,甲申政変に対する従来の評価の代表的なものは,「近代化運動の先駆」16),「上からのブルジョア革命のためのクーデタ」17),「近代韓国民族主義の先駆的運動」18),または,「政治勢力間の主導権争い」19)等である。

 甲申政変と関連して,独立解放前に韓国で発表された文献は次の如くである。
朴殷植,『韓国痛史』(1915)
朴殷植,『独立運動之血史』(1920)
朴泳孝,「甲申政変」,『新民』第14号(1926)
金辰九,「金玉均先生の三日天下が成功していたら」,『別乾坤』第2巻,第5号(1929)
権東鎮,「壬午軍乱と甲申政変」,『学海』1937年12月号
黄義敦,「甲申政変の原因と結果」,『照光』第5巻,第11号(1939)

 以上の論文は,金玉均個人に対する側近者たちの懐古談が主流をなしており,それらが甲申政変の歴史的性格に対する評価というよりは,却ってこの問題を研究するのに必要な史料の性格が強いと言える。

 朴殷植が甲申政変を「如此一流才士が日人に利用され一大錯誤を犯した」20)事件として否定的に評価しているのに反して,黄義敦は「革新運動の初記録を半島史上に残したのは正に壮快である」21)とその歴史的意義を肯定的に評価した。しかし,彼も政変の発端を「頑固党と開化党の暗闘」22)と分析し,政変主導勢力の思想的根拠に対しては関心をもてなかった。以上のように,解放前の論文はいくつかの例を除いては懐古談の性格が強く,その叙述内容も一致しない点が発見される。

 解放直後,韓国史に対する一般の認識を新しくするために出刊されたいくつかの通史類は,甲申政変に対する再評価としての否定的見解が多く見られる。
しかし,この時期出版された閔泰 の『甲申政変と金玉均』23)は,厳密な意味における評価書と見ることはできないが,『甲申目録』と既存の懐古談,そして著者自身が得たさまざまな史料をもとに,甲申政変が起きる直前の1884年11月29日から10年後の1894年3月25日までの金玉均の業績を追跡しながら,政変当時の主導勢力が打ち出した近代国家樹立の意思をも言及した。これは皮相的な段階にとどまっていた甲申政変に対する理解の幅を,思想的な領域まで拡大させたという点でその意義が発見される。

 その他,解放後の本格的な研究の一例は,北韓史学会が提示した金玉均に関する研究に見られる。24)北韓の近代史研究者たちがほとんど全て総動員して著作した『金玉均』(社会問題研究所,1964)では,開化運動を反封建,反侵略のブルジョア改革運動として,そして甲申政変を上からのブルジョア革命の一類型と見た。25)

 これとは違って日本の学界では,1960年代より甲申政変に対する本格的な研究を始めた山辺健太郎の見解がある。彼は甲申政変の首謀者は金玉均であるが,政変の原因は韓国の外部より起きたとみた。すなわち,韓国をとりまく清日両国の対立が韓国宮廷内に親日派と事大派を生み,両者の対立が政変を招来したとみて,政変は政権奪取の陰謀に過ぎないとする山辺をはじめとした何人かの研究者によって価値剥奪的な評価が提起された。
1960年代,韓国内で発表された研究も日本の学界と同じく申国主は,「韓国の進歩と発展を却って妨害し,反植民地化を可能にした」と批判的な見解を提示し26),また,1970年代初め,韓  は「清・日両国の直接的な内政干渉の結果を招来するもう一つのきっかけとなった」27)として批判的な見解に同調している。

 一方,山辺健太郎の見解とは違って,甲申政変の主導的力量が実学派の思想的基盤の中で成長した近代指向的な開化派から自律的に胚胎されたという論議とともに,開化派の理念的側面と政変遂行方法の側面から,甲申政変の性格を総合的に理解しようとする見解が提示された。28)李光麟は,「甲申政変の結果,韓国社会の行くべき方向が正しく明示された」29)とこの点を特に強調し,姜在彦は甲申政変を「近代開化運動史の第一段階を画するもの」としながら,「開化思想,およびその改革運動は甲申政変を頂点として・・・その後の時期に至るまでブルジョア民主主義運動に大きい影響を与えた」30)と同じく肯定的立場をとっている。

 その後,甲申政変をめぐる評価は主に自律的内因論と他律的外因論の二つに分かれたが,1970年代半ば以降は,より多様な側面からの評価が試みられ始めた。研究方法も史料に根拠を置いた実証的方法と並行して,当時の社会構造の性格31),政変指導者たちのリーダーシップ32),彼らの動員能力33),そして政綱の政治的性格分析34)など,多様な見解をみせている。

 以上のような従来のいろいろな評価がある中,甲申政変の歴史的意義を今日的な立場から再び検討したい。
金玉均を始めとした開化派思想的内容である開化思想は,韓国の思想史上,豊かな遺産であった。特に,「実事求是」の実学思想を継承発展する中で形成され,それを内在的な発展の契機とし,先進文物を積極的に受容せんとする自覚から近代国家に対する関心を傾けるようになった。そのため韓国社会に新しい世界の志向,すなわち,世界史の発展方向に焦点を合わせた開化派の政治活動と甲申政変が表出したと言えよう。

 開化思想と開化派,そしてその指導による甲申政変は韓国社会の発展における歴史的事件であり,加えて開化思想とその改革運動は甲申政変を頂点として,その以前の時期と以後の時期に至るまで歴史的連続性の中で展開されてきた。
しかし,開化思想を含めた彼らによる目標としての政変は失敗に終わった。その原因としては二つの点を指摘することができる。始めに当時の韓国内の状況の中で,特に清国と日本の関係の中で日本の武力を利用とした点である。これは日本自体の実利によって変動する問題であると同時に,漁夫の利を得んとする清日両国の意図が含まれているためである。二つ目に,甲申政変において,一般国民の支持基盤が確保されなかった点である。いわゆる上からの改革であったためである。すなわち,当時,急進開化派勢力は両班(貴族)と中人(中間階層)出身の先駆者だけで構成され,民衆とは遊離していたために開化に対する認識は勿論,開化思想自体がまだ一般的に普及しなかったためであった。

 事実,開化思想の本質と意図を知らない広範な層の目には,開化派が日本の侵略勢力と結託したと目され,その反撃を受けたのである。35)
いずれにせよ,甲申政変は失敗に終わったが,19世紀後半期の開化思想それ自体,および開化派による部分的な改革の成果は実に至大なものであった。すなわち,政変後において一連の韓国民の近代化,および民族主義運動に継承されたのである。特に,1894年の甲午改革,そして以後に継続された独立協会,および万民共同会などによく表れている。
このように金玉均を中心とした開化派は韓国の近代史における先覚者たちであり,自主的開化運動の先導者たちであったのである。今日の韓国が時代が違っても同じく周辺列強に取り囲まれる中,自主的に先進化を達成しながらさらには主体的な外交力を発揮して南北統一をも実現しなければならない。当時に劣らずの厳しい状況下で,開化派先覚者たちの遺産が貴重なときである。

7.おわりに

 金玉均は西勢東漸の激動期に成長しながら,当時韓国の封建社会に対して少なからぬ懐疑を持つと同時に,国の改革を構想した。彼の意思が開化派同志たちとのつながりをもたらし,彼は世界史の潮流を把握しながら,世界状況の中において封建的韓国社会を近代国家へと導こうとした人物であった。

 結局,彼自身と開化派によって主導された甲申政変は,彼らが信奉していた理想,すなわち,開化思想を政治的現実に適応せんとしたところにその目的があったのである。
当時まだ韓国社会は,伝統的な儒教的価値観と倫理観を固守していたために,開化思想は,儒学→実学→開化思想という内在的発展の延長線上に現れたものの,実に画期的な革新思想であった。さらに甲申政変が失敗した点も,当時,封建的な農本国家では驚くべきことではないといえる。それは何よりも,彼らがもっていた思想が民衆まで一般化されず,少数の知識人たちだけがもった思想に過ぎなかったために,民衆からの支持を受けられなかったからである。この原因は,当時の国民に対しての開化への認識が先になされなかったため,一方的にならざるを得ず,外勢を利用しながらも国民の意思と力量を引き入れることができなかった。

 これには金玉均を含めた開化派が日本に傾きすぎたことに対して,分別の度を越えたという非難を避けがたい面もある。しかし,後の日本の露骨な韓国侵略,および植民地化という歴史的な過程とは別に,当時まだ韓国の自主的な近代化が可能であった歴史的時点において,開化派がその力量不足の一部を近代化のモデル国家である日本への依存でまかなおうとしたことは理解し得る点でもある。さらに当時の国際情勢の中で,列強諸国が植民地確保に血眼になっている時点で,特に日本の膨張と清国の韓国に対する宗主権確認等の多変化した国際関係も理解する必要がある。

 金玉均は当時の国際情勢下の中で落後していた韓国を,近代国家へと躍進させようとした人物である。これには金玉均の成長において直接・間接的に影響を与えて朴珪壽を通しての実学思想の継承と,劉大致・呉慶錫等の中人出身、また僧李東仁を通しての開化思想の確立によるところが大きいのである。結局,金玉均はこの近代思想をパターンにして,当時の封建的社会秩序と封建的思潮,封建体制に対する一大挑戦をしたのであった。さらに金玉均は,彼の革新思想を理論だけにとどまらず,実践を通して,すなわち,甲申政変を通して韓国の近代化を実現せんとした中心人物であったのである。今日,金玉均の思想と行動に対するより一層の深層研究が要望される。  (2005年6月12日受稿,7月16日受理)

*注
1)金玉均,『甲申日録』p45,白鐘基,『韓国近代史研究』p136
2)金道泰,『徐載弼博士 自叙伝』,乙酉文庫99,乙酉文化社,pp436-440
3)井上角五郎先生伝記編纂会,『井上角五郎先生伝』,p53
4)前掲,『甲申日録』,11月16日條
5)李 根,『大韓国史』6巻,新太陽社,1973,p393
6)前掲書,『徐載弼博士 自叙伝』,pp124-125
7)金玉均の予想どおり,12月7日に仁川に入港した千歳丸によってもたらされた日本外務卿回訓は,直接行動に反対するものであった。田保橋潔,『近代日鮮関係の研究』(上),pp941-942
8)姜在彦,『朝鮮近代史研究』,日本評論社,1970,p95
9)前掲,『甲申日録』,12月4日條,および『徐載弼博士 自叙伝』,pp122-124
10)前掲,『徐載弼博士 自叙伝』,p125
11)前掲,『朝鮮近代史研究』,p97
12)前掲,『朝鮮近代史研究』,p98
13)前掲,『甲申日録』,12月5日條
14)前掲,『徐載弼博士 自叙伝』,p131
15)前掲,『金玉均』p323
16)李 根,『韓国史;最近世論』,乙酉文化社,1961,p670
17)姜在彦,『朝鮮の開化思想』,日本評論社,1975
18)李光麟,「甲申政変の再評価」,『韓国史の再照明』,読書新聞社,1975,p518
19)金達中,「1980年代韓国国内政治と外交政策」,『韓国政治学会報』第10輯,1976,p246
20)朴殷植,『韓国痛史』,朴魯慶訳,達成印刷株式会社,1946,p62
21)黄義敦,「甲申政変の原因と結果」,『照光』5巻11号,1939,p94
22)上掲書,pp91-92
23)閔泰 ,『甲申政変と金玉均』,国際文化社,1947
24)前掲,『朝鮮近代史研究』
25)金永鎬,「開化思想・甲申政変・甲午更張」,韓国史研究会編,『韓国史研究入門』,知識産業社,1981,p439
26)申国柱,『近代朝鮮外交史』,通門館,1965,p244
27)韓  ,『韓国通史』,乙酉文化社,1970,p440
28)李 根,『韓国史:最近世編』,pp615-670
29)李光麟,『開化党研究』,一潮閣,1970,p182
30)前掲,『朝鮮近代史研究』,p115
31)愼 夏,「上からの近代化の為の政変」,『韓国近代史と社会運動』,文学と知性社,1980,pp24-26
32)金永模,「開化期 政治改革家の社会的性格」,『韓国政治学会報』第10輯,1976,pp99-121
33)金永国,「韓末民族運動の系譜的性格」,『韓国政治学会報』第3輯,pp87-107
34)金達中,「1880年代韓国国内政治と外交政策」,『韓国政治学会報』第10輯,1976,pp231-252
35)前掲,『朝鮮近代史研究』,pp114-115