体験的アジア・アフリカ会議変遷史
―連帯から非同盟へ(上)

吉備国際大学前教授 安延 久夫

 

1.はじめに

 2005年4月20日,アジア・アフリカ閣僚級会議がインドネシアの首都ジャカルタで開会された。1955年同国の高原都市バンドンで開かれたAA会議(アジア・アフリカ会議)から,ちょうど半世紀を経た会議で,新アジア・アフリカ戦略的パートナーシップに関する行動計画を打ち出すための,いわばアジア・アフリカ諸国に新しく息吹を与えるためのものであった。

 しかし,今回の会議をつぶさに眺めると,参加したAA諸国の間には,50年前の,あの燃えるような気概と米・ロ・中何するものぞという挑戦的雰囲気に代わって,できるだけ有利な受益者の立場を獲得しようとする弱者の立場が見られたことである。
なぜAA諸国は,このように変化したのか。それは一言で言えば,当時の対立的国際情勢から協調の世界へと変化した世界の動きと密接に関係している。

2.AA連帯の変容

(1)AA連帯の分裂から幻滅へ
 1955年,バンドン会議でウガンダ代表の一員として出席したジョン・ケール(ウガンダ国家協議会書記長)は,黒い顔に涙を流してこう叫んだ。
「私は初めて国際会議に出席し,各国の閣僚と組み合って話し合った。私は初めてわれわれのことが真剣に取り上げられたのを知った。彼らは(中・ソ)われわれを初めて平等に扱ってくれた。」

 大粒の涙と歓喜の輝きが,そこにあった。
当時この会議に出席した周恩来中国総理は,AA会議グループを強力に支持して,同席していたインドのネール首相,主催国のスカルノ・インドネシア大統領,エンクルマ・ガーナ大統領,ナセル・エジプト大統領らを結集して,ソ連(当時)に対する強力な城砦を築こうとしていた。

 中国がソ連の共産主義を修正主義と呼び,ソ連は中国のそれを教条主義と呼んで互いに非難した中ソ論争は,このころ,既に芽生えていた。
この中で香港(当時は英国領),ビルマ,ネパール,インドに対する中国の強硬態度は,この地域の反中国感情を激化し,もはや55年の,あの燃えるようなバンドン精神は,ひとかけらも見られなかった。こうした中国疎外の空気は,突然に生じたものではなかった。米ソ二大国の協調という国際情勢とAA諸国の政治的成長は,AA連帯よりも一国ナショナリズム重視へ傾いていたのである。

 一方,こうしたAA連帯の衰微を盛り返そうとする努力もあったが,ほとんど徒労に終わった。最大の原因は,中国の性急かつ強引な手法にあった。
1967年2月,AA首脳会議の準備委員会に当たるAA人民連帯機構理事会がニコシア(キプロス)で開かれた時のことである。同理事会は次期首脳会議のアルジェ開催を決定した。ところが中国は,同理事会をソ連修正主義者の追随者集会と非難して,これをボイコットした。しかし,同理事会を取材した中国の記者は,記者会見で毛路線を支持するパンフレットを配布したり演説を行い,「外交官」並みの熱心さで,中ソ対立を理事会に持ち込んだりした。とどのつまり北京は,理事会の決定を無効として北京での開催準備を推進,AA人民連帯は,形の上でも,はっきりと二つに分裂した。
だがこうした決裂状態以前に,アフリカ諸国指導者の間には,すでにAAへの幻滅と冷淡さが,はっきりと根をおろしていた。

 この前の年,1966年11月,エチオピアのアジスアベバで第4回アフリカ首脳会議が開催されたときである。アフリカ・ホールのプレスセンターには,世界各国の記者や東西の外交官,それに会議出席のアフリカ諸国代表が入り交じって真剣なロビーイングが行なわれていた。その中でも米大使館の婦人書記官の頑張りぶりは,各国の注目を集めた。連日深夜の1,2時までプレスセンターにねばり,記者団とも親しく話し,会議終了ごとにアフリカ諸国代表のところに駆け寄って,会話を始める。これに対するアフリカ諸国代表の態度は,きわめて印象的であった。彼等は東側の外交官で,ソ連のプラウダ,中国の新華社記者に対するのと同じ態度で,西側の外交官に接した。これは1964年カイロで開かれた第2回アフリカ首脳会議(AA首脳会議ではない)におけるアフリカ代表の対米態度が冷淡で疎外であったのと,著しく対照的であった。

 急進派として知られたカンボーナ・タンザニア副大統領(当時)は,この婦人書記官の熱心さがお気に召したらしく,会議の内容をそれが秘密に属さない限り説明し,そのあと米国の“ジェニュイン・アシスタンス(純粋な援助)”をもっと欲しいと要望した。
この発言は,相当皮肉な意味を含んでいる半面,アフリカ諸国の本心を半ば現していた。つまりアフリカ諸国は,革命闘争支援よりは,物的援助による建設の段階にあったが,こうした援助要請についてケニアの一代表は,「ソ・中両国政府代表には打ち解けて言える雰囲気がない」ということであった。では米国の援助は頼みやすいのか。この点に関して,ウガンダ代表は,「頼みやすいのは確かだが,それにいちいち条件をつけてくる。必ずしも政治的なヒモではないが,アフリカ人の考え方を理解しない条件が多い。」ということであった。援助が有効に使われることを気にするあまり,“米国製”の正義や能率を問題にし過ぎるというのである。

(2)中ソの対アフリカ工作
 米国や西側の経済援助は,よく新植民地主義の謀略といわれる。だがソ連(当時)は,アスワン・ハイダムの完成の1年繰り上げの代わりに,第2回AA会議へのソ連の参加支持を要請した。
中国はコンゴ・キンシャサ(当時)のグベニエ,スミアロ一派の反乱軍を支援し,政権獲得時における中国承認を要請した。つまり,援助に対する条件は,程度の差こそあれ,東西ともに変わらなかったのである。

 これに関する問題で,ケニアの国連代表が,カイロのアラブ連盟会議室で,中国と南アフリカ連邦(現在の南ア共和国,当時はまだ白人政権)との貿易量増大を国連統計によって駐エジプト中国大使に質問した時,同大使がこれを真っ向から否定すると,ケニア国連代表は,「国連の統計と,どちらが真実性があろうか」と皮肉ったいきさつがあった。
アフリカ諸国が,西側の援助の中に新植民地主義の要素を認めていることは事実であるが,アフリカ統一機構事務局のナイジェリア代表が,東側の援助(中・ソ)もイデオロギーによる植民地化を狙う面があるとして警戒していたことは,援助に対する黒人指導者の態度が,東側が考えるほど甘くはなかったということである。

 1966年2月,ガーナのクーデタによるエンクルマ大統領の失脚は,反帝国主義,民族主義革命の前進に対する一つの逆流と見られた。アジスアベバのプレスセンターで会った新華社記者から,「これは帝国主義の陰謀であるが,むしろこの事件は階級闘争の激化を意味し,革命解放闘争が今後ますます昇華発展するスプリング・ボードである。」と説明された。

 ココアのモノカルチュア農業に依存するガーナの経済が,その主要輸出市場である米英西独(当時)などににぎられ,トン当り90ポンド(56年当時は400ポンド)という暴落によって経済破綻を引き起こしたことは新植民地主義による搾取であったと言い得る。しかし逮捕状もなく反対派を逮捕し,拘置するための“予防拘禁法”を成立させ,クリスチャン・ボルグ城に多数の護衛兵を配置して身辺の警護を固め,一方ではアフリカ首脳会議だけのために国家予算の約2割という巨額の費用で会議場を建設し,外国からの長短期負債が合計3億ポンドにのぼったエンクルマ大統領の施政がガーナ国民の圧倒的な支持を受けていたとは,どうしても考えられない。

 65年10月,アクラの第3回アフリカ首脳会議で,ガーナの新聞記者4人からガーナ国民の窮状を綿々と聞かされた。情報省の一高官は当時,予防拘禁法は,国家目的に反する反動は蠢動を防ぐための予防措置として当然だと説明した。これに対する中国の非難は全くなかった。しかしこうした理屈が成り立つならば,スハルト・インドネシア政権の共産分子弾圧やケニア政権の左派弾圧も中国は非難できなかったはずである。

(3)アフリカ民族主義の高まり
 65年11,12月の2カ月間,私がローデシア(現在のジンバブエ)の首都ソールズベリ(現在のハラレ)に滞在していた時,スミス白人少数政権を打倒して,黒人による多数派支配を実現しようとする闘争が激化し,OAU会議(現在のAU会議)でローデシア問題は最大のテーマの一つとなっていた。

 ある夜,黒人バーに入ったとき,PCC=暫定人民評議会=ジンバブエ・アフリカ人民連帯の後身の党員だと名乗る一黒人は,「OAU=AUは,奴隷商人の販売拡張会議であり,AA連帯は,奴隷商人からピンハネする黄色植民地主義者の集まりだ。」と口角泡を飛ばして睨みつけた。AA連帯とは,反帝国主義,反植民地の解放闘争を目指す団結ではないかと反論した私に,周りの黒人は一斉に叫んだ。

 「OAUはわれわれの独立闘争に何をしてくれた? AA連帯はわれわれに何をした? 具合的に説明してくれ。」
少なくとも,ローデシアの黒人には,世界的展望に立ってAA連帯に寄与するといった自覚はなかった。

 これはベトナム問題に対する見解を質した時,さらに明瞭になった。PCCの一党員と名乗る黒人は,「ベトナム?」とおうむ返しに言ってからキョトンとした顔になった。
「あれは遠い国の出来事だ。われわれはそこまで手が回らない。」と一瞬間をおいて彼は答えた。ベトナムに対する関心は,OAU(AU)会議を除いてはダルエスサラームでもレオポルドビルでもアジスアベバでもナイロビでも,同じように低かった。

 ベトナムに忙殺されていたアジア諸国とは,これは大変な相違であった。逆に彼等はAA連帯がアフリカの問題に一つも手を貸してくれないと不平をもらしていた。事実65年のOAU会議では,ベトナム,印パ紛争の討議は拒否され,コーヒー農業の合理化,道路,通信網の整備,鉱物資源の開発に重点を置くことを,ボカサ・中央アフリカ共和国大統領は閉会演説で強調した。

 アフリカ諸国の民族主義政権は,西側の経済援助が,全て,かつ直ちに新植民地主義の侵蝕とする見方を取ったわけではなかった。言い換えれば,アフリカ民族主義は,東西の援助を現実的な立場から主権侵害を受けない条件で利用しようというところまで成長していた。従って共通命題について,実行の段階でAA諸国が団結したというためしはほとんどなかった。例えば,当時ローデシア(現在のジンバブエ)問題に対して,対英断交を要求したOAU(現在のAU)外相会議の決議は,わずか9カ国が実行しただけに(このうち,スーダン,ガーナは復交した)とどまった。革命解放闘争という共通の理想は色あせて,優先したのは各国の利益となった。

 言い換えれば,アフリカ大陸内の諸問題解決の場合,アフリカ諸国だけの武力行使や経済制裁は意味のないこと,中国ないしソ連の支持が解決の基盤にはならないこと,西側諸国の影響力を無視し得ないことを,国連という国際外交の場で知ったアフリカ諸国は,冷静な打算を始めたといえる。

 アフリカ諸国は,中国方式によるAA路線に,なお未練を残しながら,AA諸国が半ば経済闘争へ目を向け始めた時でもあった。こうしたAA諸国政府の姿勢は,やがて国内AA人民連帯に反映した。つまり後進国特有の独裁的管理指導体制のため,AA連帯を政府,人民レベルともに衰退させる結果となった。

(4)中国のアフリカ工作
 一般には65年の第2回AA会議の流産が,政府間のAA連帯に大きなヒビを入れたといわれるが,ここで中国が取った態度は,アフリカ諸国の指導者のみならず,人民連帯委にも強い疑惑の念を与えた。

 中国はベンベラ政権をクーデタで倒したブーメディエン政権を同日,いち早く承認した。ブーメディエン政権が,ベンベラ氏より右寄りで,フランスとのサハラ石油利権交渉でもよほど妥協的であり,国有化に対してもベンベラ氏より消極的であった。

 AA会議の会場に予定されていた“松の木クラブ”で中国の同日承認の理由を質した筆者の質問に対して,中国代表団はブーメディエン政権が革新政権であるからだと答えたが,AA連帯の重鎮としての立場を強固にするためのパフォーマンスであった印象が強い。
当時中国は,AA会議の開催強行によって,中国路線への支持獲得に(特に,激化していた中ソ論争に対して)なお自信を抱いていた時であった。つまりアルジェにおけるAA会議開催は,65年6月の時点で,中国にとってはAA諸国(特に中東,アフリカ諸国)の右傾化を防止する絶好の機会であった。

 しかしそうだからと言って,武力によってベンベラ革新政権を倒したブーメディエン政権を即日承認したことは,中国の革命解放路線がきわめて“ご都合主義”だとの印象を与えた。コンゴ・ブラザビル(当時)代表は,私とガーナの記者がいる前で,「コンゴ・ブラザビルでクーデタが起きたら,中国は新政権をすぐ承認するに違いない。」と語り,エンクルマ政権下のガーナの記者(ガーナAA人民連帯委員)は複雑な微笑を浮かべたのを記憶している。

(5)中ソ論争の影響
 さらに同年のウィネバ会議(第4回AA人民連帯会議)で心ある黒人民族主義者に中ソに対する不信の念を抱かせる事件が起きた。
当時ウィネバ会議から戻ってきたカイロのアル・アハラム紙の著名な外交記者は,筆者に,第5回AA人民連帯会議の会場が決定される前に,札ビラを主とする大量の実弾が,同記者の眼前で飛びかった事実を説明し,これはアフリカ民族主義者を堕落させるものだと非難した。当時ソ連派といわれていたカイロの記者が、中ソ両方を非難したのだから間違いない事実であろう。

 手段を選ばぬこのやり方が革命路線の原則を踏みにじった点で,これまで一定のフィロソフィーをもつといわれていた社会主義陣営の援助原則に,黒人指導者の多くは疑いの眼を向けた。

 現在アフリカ諸国指導者が民族ブルジョアジー化したというのでれば,その責任の一端は少なくともAA人民連帯の諸会議における社会主義陣営代表が負わなくてはなるまい。
中ソ論争がAA連帯に与えた影響は,その後もますます強まり,66年秋以来,AA人民連帯機構カイロ事務局における中国側の言動は極めて攻撃的になった。例えば,67年1月,AA作家会議(3月下旬ベイルート開催)についての記者会見の際,新華社記者が,ソ連修正主義を批判し,セバイ事務局長がこれを制止したのに対し,「あなた方は真実が恐ろしいのか?毛路線こそ勝利への道である。」と演説を始め,この記者会見が混乱に陥ったのをはじめ,イエメン革命軍設立記念日のレセプションで中国大使が,ソ連大使を呼び止めて,レーニン論争をアラブ人の通訳で行うと提案し,これが拒否されると,イエメン大統領サラル氏に挨拶なしで退場した。

 カイロでは中国大使館内のビーナスなどの美術品をブルジョアジーの遺物として破壊し,毛沢東中国共産党主席の肖像と置き換えるなど,アフリカ大陸全土に異様な印象を与えた。当時カイロの中国大使館のトップは大使ではなく,政治局員であった大使館の外交官ナンバーの車の運転手であったといわれた。

 もちろんアフリカ諸国は,中国の文革そのものに対しての批判には慎重であった。しかし中国路線の押し付けや,AA人民連帯の諸会議における中ソ論争の持ち込みは,中ソ両国のご都合主義と映り,大国主義の押し付けと映った。
筆者がカイロに赴任した63年,中国のイメージはアフリカ諸国には,まだ新鮮で,強烈であった。

 カイロで筆者と会うアラブ人,アフリカ人は,ほとんど「あなたはチャイニーズか、あるいはインドネシア人か?」と質問し,「日本人か?」と聞く人には会わなかった。63年といえば,中ソ論争は,すでにはっきりと顕在化していたが,それでもカイロの新聞は,中国との貿易協定更新を大きく掲載し,中国はやはり,植民地撤廃闘争,民族解放戦争の雄であった。つまり55年のバンドン会議の燃えるような植民地解放闘争,反帝国主義闘争の精神は,このころ,まだ鮮やかであったといえる。

 バンドン精神の魅力は,57年カイロで第1回AA人民連帯会議が開かれたとき,ソ連首席代表ラシドフ氏がクレムリンの目的を次のように言明した時に倍化された。
「この会義が新植民地主義を打破し,西側の植民資本主義の経済的奴隷となることから逃れることを保証するために、ソ連は寛大な経済援助を与えることを約束する。」
参加した40カ国の代表は,これを正義に基づく進歩的な、そして人道的なものとして万雷の拍手を送った。

 処女地のアフリカ大陸は,植民地問題で手の汚れていなかった社会主義諸国の進出にとって極めて好都合な土壌を提供していたわけである。
しかしカイロに前述のAA人民連帯事務局が設置され,植民地解放,反帝国主義闘争が具体化するにつれて,AA民族主義者の喜びは,「石油の増産は,わが国にとって致命的利害であるのに,社会主義陣営の代表は,石油労働者のストを先導しようと計画した。」(イラク代表)という不満や,「特定のイデオロギーを押し付けようとした。」(インド代表)という不平に替わることが多くなった。

(6)米ソ共存時代の変化
 この背景には,国際情勢の大きな変化が作用した。米ソの対立の時代は,ソ中団結の時代であり,ソ中二大国が植民地主義を代表する西側諸国への対抗勢力として,AA諸国の眼に頼もしく映じたことは確かであろう。

 アフリカにおいて英仏両国が,非植民地化問題で忙殺されていた時も,米国の立場は,極めて有利とはいい難かった。それが米ソ共存体制の固まりとアフリカ大陸の現実主義への進行の時点で,経済援助を主要武器として登場させた米国の立場を大きく変えたことは否定できない。

 このことは中ソの拠点ともなっていたギニアの変化を見れば明らかであり,アフリカ諸国にとっては,援助の選択権を得たことを意味した。
さらに平和共存を強調したソ連が,当初のコミンテルン方式の誤りに気づいたことは,アフリカにおける中ソの立場を大きく変えたといってよい。ソ連の非スターリン化政策が,AA諸国の発展段階に一致し,ソ連の優位を保証する運命となった。
カイロのアルジェリア大使館筋は,独立記念日の席上,AA連帯がさらに分極化する可能性として核拡散問題を挙げた。

 同筋によると,当時問題となっていた西独の核武装は,たとえそれが実現されても,英仏の核軍事力と同列に置かれ,東西の核バランスに影響は少ない。しかし,もし中国がその親しい同盟国に核拡散を行うならば,日本を含むアジア諸国は,米国ないし中国いずれかの核の傘を要求せざるを得まい。すなわちアジア諸国はどちらかに“強制された同盟”を行わざるを得なくなり,この場合中東,アフリカも強制される同盟に参加せざるを得ず,かくてバンドンの連帯は,ますます衰微するというのである。

 こうした可能性の問題は別としても,AA諸国の大半が経済的非植民地化―南北問題に眼を向けるようになってから,1955年のバンドン会議当時一体であった政府レベルと民間レベルのAA連帯精神は,分裂対立してきた。
当初,新興民族主義諸国は,社会主義国の国家目的をそのまま踏襲していたため,政府と人民の関係は極めて密接で,例えば第1回AA人民連帯会議(カイロ)は,ナセル・アラブ連合共和国大統領(当時,シリアと連合共和国を形成していた)の積極的支援の下に開かれ,AA人民連帯機構の執行委員会には,廖承志,故ラメシュワリ・ネール,イスマイル・トーレ,故パトリス・ルムンバなど政府,議会の大物が顔を揃えていた。

(7)非同盟路線への萌芽
 ところが政治的独立闘争が終了し,経済建設の段階に入ると,アフリカ諸国のAA人民連帯委員代表のうち,中国支持派は,政府と対立関係にあるいわゆる少数派の民族団体となった。
これはフランコフォーン諸国(フランスが旧宗主国)の多くが,いまだに貿易と教育は旧宗主国の協力が必要なことを意味し,チャド,マラウィ,ガンビアでは,国家予算の成立には旧宗主国の援助がどうしても必要な国内事情があったからである。

 アフリカ諸国では,ブルンジ、コンゴ・ブラザビルなどで中国の立場に変化が生じた。ブルンジでは65年2月,大統領暗殺事件とともに中国外交官は国外退去を命ぜられ,コンゴ・ブラザビルは,中国と友好関係を保ちながら,大使館の行動は監視され,逆にフランスとの関係は緊密化された。

 ニエレレ・タンザニア大統領は,西側と共産主義社のバランスばかりでなく,中ソとのバランスをも維持し,象牙海岸,アッパーボルタ,ニジェールでは中国の内政干渉に抗議が行われ,ケニアとガーナ(クーデタ後)とナイジェリアでは,中国大使館の活動を破壊的として非難するなどの事件が起こるにつれて,これら諸国のAA人民連帯委と政府の関係は悪化した。

 もちろんアフリカ大陸あるいは中南米にバンドン型のAA連帯が再生する余地はある。
アフリカ諸国に対する西側の援助攻勢が,新植民地主義の色彩を深めるならば,これに対する反発は強まろう。西側のAA対策が,いままでのように経験と対症療法にとどまるならば,社会主義陣営のAA連帯,特に中国パターンのAA連帯が芽を吹き返す可能性は残される。
ただ戦争や革命の段階を終えて生活がノーマルになった時,教義的,理想主義的な力はインパクトを失い,物質的誘因が自然となるケースが多い。

 中部アフリカのボカサ大統領は,「土地が部族ないし個人に属するという部族主義が,依然強いアフリカで,革命解放路線は基本的に相容れない。AA連帯運動は,中国方式である限り,結局はイデオロギーの輸出を狙っている。」と述べたが,さらに否定し難いのは,西側の政治概念と訓練が,アフリカ指導者の中に根強く生き延びていることである。
このような地理的概念,つまりアジア・アフリカ(AA)による連帯に代わって,一つの信念,一種のイデオロギーによる団結によって中ソ,アメリカに影響力を及ぼし,拒否権を行使して,これら大国を牛耳ろうというのが非同盟路線と言われるものである。
しかし,1961年にユーゴ連邦の首都ベオグラードで開かれた第1回非同盟首脳会議は,その後どのような発展を遂げたのであろうか。(以下,次号に続く)
(2005年6月13日受稿,7月16日受理)