モンゴロイドの文化と哲学の再発見
―生気論的宇宙観と孔子哲学

高麗大学名誉教授 金 忠 烈

 

1.西洋文明と東洋文明の出会い

 第二次世界大戦直後の1947年,A.トインビー(Arnold J. Toynbee, 1889-1975)は「21世紀は太平洋の時代になるだろう」と予言した。彼は文化を重視した歴史家であったから,多分この言葉の意味は,「ヨーロッパから始まり英国を経て米国で花を開かせた西欧物質文明は,アメリカ大陸を横断してカリフォルニアに至り,太平洋を渡って東北アジアに向うようになる。また,インド・中国で構築された精神文明は,韓国・日本を経て太平洋を渡り米国に向かう。こうして西洋と東洋の文明が出会って偉大な新世紀の人類文明ができる。」という展望ではなかったかと思われる。

 また,B.ラッセル(Bertrand Russell, 1872-1970)も死に際にあって,「21世紀は中国の時代になる」と予言したという。これは19世紀以降東洋を征服し,全世界を支配した西洋の物質文明,征服文化は,結局その中の禍根が弾けて人類の危機がもたらされる時,東洋の精神文明,包容文化がもしかすると西洋の限界を克服してくれるかもしれないという希望から出た言葉であったと思われる。

 それと同時期の1972年,ローマ・クラブがMITの協力を得て『成長の限界』という本を出版した。その中で危機克服策として打ち出した4つの命題,すなわち @かけがえのない地球(only one earth)A成長の限界 B進歩・発展ではなく(段階的・漸進的)進行・連続(progressではなくprogression)C生態系のバランス(ecological balance)は,東洋哲学の原始基調である有限宇宙,物極必返,循環の中の永遠,平衡と調和などの命題をそのまま援用したもので,東洋と西洋の文明の大々的な交流はすでに始まっていたと見なすことができる。

 ここで思い出されることは,20世紀末サミュエル・P.ハンチントン教授(Samuel Pillips Huntington, 1927- )が唱えた「文明の衝突」という警鐘である。人々はこれを深刻に受けとめたが,東洋哲学者の立場から見ると,文明という言葉を宗教という言葉に置き換えなければ,かえって読者は錯覚を起し,東洋と西洋の文明の交流を否定的に見るおそれがある。

 東洋哲学の立場から見ると,西洋の征服的な文化はそういった面があるかもしれないが,文明や文化はある一方が征服的な態度に出ない限り,決して衝突はしないものである。むしろお互いに必要で有益なものだけを受容し,新たな刺激と未知の分野を受け入れて自己の創造的発展の契機となすのである。結局双方は一つの空間の中で同じ時間の流れに乗り,最後には大河・海へと合流して行く。

 宗教の場合も同様である。東洋の仏教・儒教のように絶対唯一神を振りかざさず,他の宗教に対してシンパシーをもって理解し,かえって文化の多様性,緩慢性を期するのに与するとしたら,お互いに補完しあうことはあっても絶対に敵対,互いに戦い合う道に進みはしないであろう。インドの仏教が,中国,韓国,日本で文化の主流の一つになったことがその証拠ではないだろうか?東洋の歴史の中に宗教戦争はなかった。宗教衝突による戦争は西洋の宗教の独占物であり,それは各々唯一絶対神を振りかざして相手を排斥し,さらには不倶戴天の恩讐のように敵対視するためである。インドの仏教がヨーロッパに伝えられず東北アジアに伝わって大成したのは何故だったのか省察する必要がある。それは西洋の唯一神宗教のせいなのである。

 そして20世紀に入り起った二つの世界大戦,韓国とベトナムで昨裂した民主と共産のイデオロギー戦争,冷戦時代の国際政治の葛藤・対立,21世紀に入るやいなや勃発したイラク・中東の宗教衝突。昔は土地と食べ物を奪うために戦ったが,今は宗教と種族感情の対立であり,憎悪と信仰の違いのために相手を殺し自分も共に死のうとして戦っているのではないだろうか?それも大規模なテロ形式で。物質や政治理念の戦いは勝負が決定されると戦争は終わるかもしれないが,宗教と種族間の戦争は怨恨と憎悪の戦いであるために終わることがなく,子孫代々伝えられていく。もしかすると敵を討つことにより子孫代々癒えない傷となり伝えられて行くこともあり得,いつどこで何が起るかわからないため,全人類を不安に陥れる。なぜこのように反目と対立・争いを続けなければならないのか?

 ドイツの哲学者リヒャルト・クローナー(Richard Kroner,1884-1974)は,科学・哲学・芸術・宗教・政治など,さまざまな方面を探索した結果,西洋の全ての経験範囲内には世界と自我との二元対立がすべての経験の中の根本要素として存在することを発見したと言う。彼は言った。「私たちの経験と思想が接触する一切の対立のうち,一番根本的な対立はすなわち世界と私の対立である。」と。

 デカルトの哲学的二元論,近代科学上の二分法的運用から形成された物質の第一性質(primary quality),第二性質(secondary quality)の分別,そしてさらに恐ろしいことは西洋人のほとんどが受け入れているユダヤ教の原罪意識,神性と人性の分裂,それでいながら謙遜であることを知らず,倣慢と偏見で他人を蔑視する態度,すべてを力で征服することを唯一の方法と心得る意固地さ,これらが今日全世界,人類を不安に震えさせる中東の宗教戦争の根源にあるのではないか。

 それではこの難解な対立の問題をどのような方法でどのように解くべきか?プラトンはこの二分法(dichotomy)から生じる困難さを解くために第三者の弁論(argument of the third man)を打ち出した。しかし二分法が依然として残っている限り,それはまた二分のうちの一つとなり,決して両者間の橋としての役割はできないというのが今日の現実である。万が一第三者として東洋の中庸や和解の論理に従うなら話は別であるが。

 ところで,これから世界の中心軸は,米国と中国に両極化されるはずである。万が一これら二つの軸が激突するとしたら,今日の中東宗教戦争よりさらに恐ろしい人類の破滅に至るおそれがある。しかしありがたいことに,この両国の周囲をわれらモンゴロイド諸集団が囲んでおり,中国は何千年も前から殷裔聖人である孔子の人文主義,和諧共流思想を文化理想としてきた。戦後唯物的共産主義に揺るがされもしたが,今はそれから回復しなくては本当の文化大国とは言えないという自覚のもとに孔子哲学の復旧を急いでいる。米国は今日最強大国であることは間違いないし,目先の世界秩序,紛争解決はどうしても強大な力によって制御されることは間違いない。しかしそれは一時的な彌縫策であり,長期的にとるべき方法ではない。したがって早く殷文化に代表される孔子哲学の中庸思想が第三の解決者として現れ,米国が力で押さえ付けようとする代りに包容と和解の哲学をもって問題を解決しなくてはならない。このような歴史的,必然的使命からモンゴロイド諸集団の連合体を通じて回復しなくてはならない至急な課題は,殷代宗教の復興と孔子哲学の実践であると考える。

2.孔子哲学の再発見

 モンゴロイド諸集団のうち今日の危機を克服し,平和と幸福を構築するのに寄与できる文化と哲学を持つ部族は,一時中原に入り中国の天下を支配した殷族の宇宙宗教=万有含神観と孔子の人文主義=天人合徳思想である。これ以外にモンゴロイドの歴史の中には骨身に染みて反省すべき悲しい遺産があるが,それがチンギス・カンが武力でヨーロッパを踏みにじった歴史である。しかしこの武力侵攻はモンゴロイドだけでなく,全世界の人類歴史に大きな教訓を与えた。即ち,武力で征服することは一時的には可能であるが,長くは続かず多くの怨恨関係を残すということだ。言うなれば,武力による支配はその後に非常に文明的でない警戒の対象として記憶されるのである。

(1)モンゴロイドの世界観:生気論的宇宙観
 モンゴロイドが普遍的に持っている世界観は,生気論的宇宙観である。それによると,この世界には普遍的生命が充満しており,それがめぐり集って流れ生命体として生を享けるが,その生存の唯一の場がこの宇宙なのである。原始宗教的信仰では,宇宙創造の神秘的力によって創造された一切の万象にその神性がそのままあらわれており,この世界には神性を含まないものは一つもないという物活論的汎神論であった。人は天地創造の至高神と出会うと,自分の心の中に先験的に存在していた神性の源が触発されて,その神性を今度は一切の万象の中に交感するようになる。このようにして全世界を神聖な雰囲気に充満させる第2の創発機能がまさに「祭祀行為」なのである。その結果,天空の太陽・月・星から地上の山川草木まですべてのものが敬虔な宗教的感応の対象になる。

 このような宗教的信仰を唐代の詩人李白の詩を借りて説明すれば,「攬彼造化力,持為我神通」(「贈僧崖公」より)となろう。即ち,あの万物万象の背後にある調和の神秘力を探しだすと(万物を通して自分の中にある神性の核を確認し触発すると見るべきである),自分自身の神秘力(原始的純粋の情感)と万象との一体感を体感する。すべてのものに先験的に与えられていた神性を呼び起こし,上下四方,前後左右と一体感を体感して交流する時に,この世は神性に満ちた生気の場となる。

 宗教行為とは,超越神をより高い所へと持ち上げ,相対的にこの世の人間を価値のないものとし,さらには人間を罪悪の存在であることを確認させて屈従を強調する神本位の行為ではない。それはまさしく,宗教信仰,祭祀行為を通じて,創造の至高神と神性が創造過程を経ながら既に万象の中に含まれていることを確認し,その神性を触発して体感・交流することによって,生命の息吹と共にすべてを神性に陶酔させる行為,つまり生命を吹き込み神性を体感させる触発行為なのである。これは神人(物)二界,聖俗二元,特に神のみが唯一神絶対者であると固執し,それ以外のものを排斥し悪魔視した上それを征服し壊滅させなくては,自分は天国に立つことができないという超越神の宗教とは根本的に本質が違う。逆に自己とは違う多くのもの,天地にある全てのものが一カ所に集って交わる時に,この世界はより豊かになり,さまざまなものが一大調和をなす。そのような創造的発展によって美しい世界になるという,排他的ではなく包容を存在の根本行為としている。東洋哲学の名言として知られる「非全即無」(全体が交わらなくては作用されない)という言葉はこのような背景から出てきたものである。

 振り返って見て,今日宗教の衝突によって起ったテロの蔓延,征服文化がもたらした自然生態系破壊の原因を探ってみよう。宗教の衝突は,双方が自己の宗教神が唯一・絶対であることを掲げて,両立・共存が不可能であるとき必然的に起る矛盾行為である。これを鎮めることができる宗教を探すとすれば,今まで人類が持っていた宗教のうちどれを取り上げるべきであろうか?私は,殷族が崇高なものとしてきた「宇宙宗教=万有含神論」を復活させることではないかと考える。この宗教観によれば,興奮と怨恨,高き神と低き自分,これらが直接通じることができ,自分以外の全てのものとは関わりを持たない人々の心を目覚めさせ,宗教間の壁を崩し,種族間の心を開いて手をとり抱き合い,人情と自分の心の奥深くにある神性を交感させて一つになることが可能だ。

 自然を生かす問題についても同じである。考えてみれば,人間が自然を破壊した原因もやはり価値の貧困化であった。自然を神の被造物,つまり人間が治めなくてはならない対象として見なしたために,人間が勝手に改造し結局「世界の非世界化」を追求したためではないのか?自然はそのまま存在できるもののうち最善の存在であり,一切の生命の唯一の内因であり,生存の基盤であり,何ものにもかえることのできない唯一絶対の存在であるということを骨身に染みて反省しなければならない。そうすれば自然にもまた神性が備えられているので,人間も敬虔かつ厳粛な雰囲気を造成する方向に根本的認識を変えていくことができるだろう。

(2)社会における家庭の根本機能
 古今東西を問わず,人間の生存組織の基本単位は家庭であった。さまざまな組織,さらには国家王権が滅びても今まで存続してきたのは家庭だけである。家庭の存在機能には大きく分けて三つある。

 第一は,生殖によって生命を永遠に繋げていくという生命機能で,それは必ず夫婦和合(結合)によってのみ成し遂げられる。「易経」の第37「家人」下彖伝にある「男女正,天地之大義也」(男女が愛し合い夫婦になり家庭を成すということは,天と地が和合し万物を生成するという意味)と同じである。

 第二は,夫婦は共同で生業を営む最初の分業であり,生産の基本単位であるということ。人という字を二人が互いに依存して立っている形に解釈する人もいるが,その最初の依存関係は夫婦である。従って婚姻を易は「生民之始,萬福之願」であると定義したのである。言い換えれば,生殖と生産の基本単位が家庭なのである。

 第三は,道徳教化と人間教育の基盤としての機能である。人間の伝統文化の基本知識と機能を受け継ぐ基本もまた家庭で形成される。特に道徳心を芽生えさせ育てて上下四方の人間関係を習い秩序を立てる基本もやはり家庭の中でなされる。したがって家庭は人類文明の理想を薀蓄して,発揮・実践してゆく起点(基点)であり,幅射の光源でもある。極端な言い方をすれば,家庭は人類生存の核であるため,家庭がなければ人類は存続することができない。

 このような家庭が今日に至っては,その存在機能を喪失して組織(血縁)体の凝集力(愛)を失い,解体の危機にさらされている。国家公権力によって制定された法が道徳・倫理の領域まで侵入し(かつて東洋の法概念では,家庭倫理・道徳領域は法の範疇に入っていなかった),実定法でもって伝統的家庭の機能と秩序を変えようとしている。

 家庭構成の中心となる夫婦は,「易経」の第32「恒」下象伝にある「婦人貞吉,従一而終」(夫は外で強い風霜を防いで家庭の垣根となり,妻は家の中で安定をなして子どもたちを懐に抱いて守る。最後まで一夫一婦の道を守るのが家庭の正道である。)という言葉のごとく,本来はいったん夫婦になり子どもを産んで育てると,天と地が別れることがないように何事があっても耐えて道徳の力で愛を守り天倫の情で愛を拡充するものである。しかしこのような伝統的夫婦観と家庭観が,今や崩壊の危機に瀕している。

 韓国の場合,離婚率が世界でも上位を占めるといわれるが,これは何を意味するのであろうか?前述したように,家庭は天下道徳秩序の基本綱紀である。そうだとすれば,夫婦の離婚,家庭の解体はすなわち社会道徳秩序の破壊をもたらし,一切の人間問題,社会問題を呼び起こす悪の根源になるのではないか?人間関係の基本を回復し,社会危機の根本を治めるためには夫婦の道,家庭の機能から回復しなくてはならない理由がここにある。

3.モンゴロイド各集団連帯の道

(1)大夷文化研究所(Pan Mongoloid Cultura1 Center)設立の経緯
 1992年4月29日,米国・ロサンゼルスのコリア・タウンは,黒人,ヒスパニックによる放火と略奪により生存の基盤を失うという惨禍を被った。この事件によって茫然自失となった在米韓国人たちは,やっと他郷,異なる民族,異文化からの疎外と脅威,そして違和感を感じとり,本能的に祖国と同胞を懐かしみ,再び「自分は誰なのか?自分のアイデンティティは何なのか?」について自問するようになった。当時私はUCLAの客員教授であったが,志のある人々が私を訪ねてきて,「われわれ韓民族の歴史・文化・哲学を講義し,この痛恨を自らの反省の契機とし,韓民族の移民文化を創造的に発展させる糸口をつかめるようにして欲しい」との切実な要請を受けた。このようにして始まったのが,実は私の「殷文化と孔子哲学講座」であった。

 講義の内容は,@われわれの根っこは「殷族」(注)である。(現在の)モンゴル地方付近から南下して,東側から中原に向かって西進し,ついには漢族が打ち立てた夏王朝を滅亡させて殷王朝を築き上げ,600年以上もの間中国の中原を支配した強大な民族であり,その後,漢族の連合勢力に押されて遼東を経て韓半島に退却する民族移動の長旅を経た苦難の民族でもある。Aわれわれが漢族に制圧された原因は,われわれはわが民族の氏族神,至高神のみを信じて,わが民族だけが世界を治められるという選民思想と唯我独尊,そして排他主義をもっていたためである。初めにはそれが民族団結の求心力となり力を得て天下を得るのにプラスの役割を果たしたが,最後まで他民族との包容,同化がなされずに結局華夏族の連合勢力に滅ぼされるマイナスの役割をもたらしたのである。B孔子は殷族の末裔として,「殷族」がもつ長所と短所を看破していたために,華夏族の長所である連合と包容を受け入れ,氏族神,至高神崇拝思想,そして天地生命全てを包容し,それらすべてが持つ機能を補完し,一大和諧(A11 Comprehensive Harmony)を成す道徳精神を構築した。それは孝悌(仁,感天)と忠信(誠,盡性),賛化(成物,参天)などの広大な哲学思想であった。

 従ってわれわれの言うところの儒教思想は華夏族のものではなく,わが「殷族」から輩出された孔子という聖人が「殷族」の宗教を基にし,われわれの弱点である選民思想と排他意識を漢族の長所である和合と包容で補完し製錬した,「殷族」の文化・哲学であることを知らなければならないと強調したのである。

 また,私が調査したところによると東洋人がアメリカに移住し,自ら構築した文化においては,中国人は道教思想を基にし,日本人は仏教思想のうち特に禅思想を発展させたことがわかった。そうだとすればわれわれ韓国人は東洋思想のうち何を根っことすべきか?それは孔子が創出した「殷族」の哲学思想,すなわち儒教の人本宗教,家族倫理,共存道徳であるべきではないかと提唱した。

 このような内容の講演は意外に大きな評判を得て,前後14 回も続き,その内容を拡大し体系化して周易から四書,老荘,大乗仏教(特に華厳と禅)を講義した。しかしここでは好意的反響のみがあったわけではなかった。特にキリスト教信者たちの批判が強かった。ついには(キリスト教系)某研究所では韓国から牧師,学者を連れてきて私を批判するセミナーを開きもした。私は何の組織も力もない一介の学者である。ただ私の考えを表明したに過ぎないのであり,それを受け入れるか受け入れないかは世の人々の選択であると考える。そうして空しい気持ちで帰国した。しかしその後 2年ほど後であっただろうか,私を激烈に批判した人から電話があった。彼の話は,「よく考えてみると金先生の考えが正しいようだ,一度一緒に仕事をしないか」というものであった。その人とは当時,韓国日報米国支社の編集局長であった金善敦(後に昊泉と改名)氏であった。

 私は1996 年定年退職後,苦労して旅費を工面し,ロスに行き金善敦氏にお会いした。金氏はその間死に至る病気に侵されたのだが奇跡的に回復し,私と同じ考えを啓示で受けたと言いながら「殷族」に関するかなりの量の資料を収集していた。意気投合した二人はまさしく空想家,夢遊病者のごとく殷族連合運動の設計を始めた。日曜ごとにマリブ(米国の国立公園)の山々をさまよいながら本部を置くに値する場所を探し歩いたり,スポンサーと研究者を物色したりもした。そして帰国後これに同調し後援してくれる人を探していたところ,ちょうどソウルロータリークラブで講演に招かれたこともあって,そこでこの旨をアピールしようと考えた。しかし何人かが関心を寄せただけで空しく終わり,反響はなかった。

 私が少年時代出家し,方漢巌和尚に弟子入りしていた折,下山するように申し渡されて別れる時に,師匠が私にくださった詩句の「世事黄金能用後男児白髪未生前(この世の生活は使うだけの金がなければ成立せず,人の活動期間は白髪,すなわち老いる前に基盤を築かなくてはいけない)という言葉が思い出される。この詩のとおりだとすれば,私はお金も無く,歳もすでに70を越え,志を成し遂げるのは難しいという気がした。それで 2003年の冬休みにまたロスアンゼルスを訪れ,金善敦氏と「このままでは設計も終わらずに無のままで終わりそうなので,架空のものでも研究所を作りあなたは創立者と理事長を請け負い,私は研究所の所長を担おう。またそのうちわれわれの志を知って一緒にやろうという人が出てくれば実践できるようにあなたは資料収集をし,私は大夷哲学という本を書こう」と約束した。そしてできたのが「大夷文化研究所」(英語名:Pan Mongoloid Culture Center)である。

(2)モンゴロイド諸集団の連合・連帯の道
 私たちがモンゴロイド諸集団を連合することにおいては目的・趣旨がなくてはいけないのはもちろん,モンゴロイドという実体が持っている文化と哲学などの同質性と,だれもが認めることのできる内容がなければならず,少なくともその内容は文化思想的にはっきりとした史的実証とその存在価値も認められるものでなくてはならない。そしてさらに重要なことは,その文化と思想が今日の人間関係の問題解決に少なくとも有用に寄与できるものである時,この運動を展開する意義と価値があるものである。

 幸にも上で大略的に見たように,モンゴロイド諸集団のうち中国に入り文化を発展させ強大な帝国までも形成した「殷族」の場合,偉大な宗教文化を持っておりその末裔である孔子は,人間がその本性を啓発することによって宇宙万有の各々の存在機能を発展させてそれを利用し,遠大で高貴な道徳王国を現実世界に建設することのできる理想とその実現設計図を描いた。それが天人合一,整体大用(=全体的・一体的作用),価値創造の人文主義的文化哲学である。

 今後われわれが,このようなモンゴロイド諸集団が作り上げた文化と哲学を発掘して現在に復活させ実践普及運動に力を注げば,必ず世界平和と人類幸福を成し遂げるのに,今まで考えもつかなかった意外で偉大な寄与をすることができることを確信する。
(2004年9月21日〜24日,韓国・ソウルで開催された第1回蒙古斑同族世界平和連合世界大会における発表論文である。)

*注 殷族

 この新王朝をたてた殷人は,黄河の北から南下してきた,東北アジアの狩猟民であった。『史記』の「殷本紀」によると,殷人の高祖母神は簡狄といい,・・・つまり戎,すなわち草原の遊牧民の娘であったが,姉妹三人で水浴びに行ったところで,玄鳥が卵を落としたのを見,簡狄がこれをとって呑んだところが,孕んで契という子を生んだ,という。この,女神が野外の水浴で,鳥の姿で天から下った神に感じて妊娠するというのは,大興安嶺以東の東北アジアの森林地帯の狩猟民に共通した始祖神話の形式である。夫餘,高句麗,鮮卑にも,おなじような話が伝わっている。・・・・・・こうした点からみて,殷人が東北アジアの狩猟民,つまり「北狄」の出身であることが知られる。殷人は山西高原を通って南下し,夏王朝を倒したのであろう。(岡田英弘,『中国文明の歴史』,講談社現代新書,2004より一部引用)