体験的アジア・アフリカ会議変遷史
―連帯から非同盟へ(下)

吉備国際大学前教授 安延 久夫

 

<目次>

1.はじめに
2.AA連帯の変容
 (1)AA連帯の分裂から幻滅へ
 (2)中ソの対アフリカ工作
 (3)アフリカ民族主義の高まり
 (4)中国のアフリカ工作
 (5)中ソ論争の影響
 (6)米ソ共存時代の変化
 (7)非同盟路線への萌芽
(以上,「世界平和研究」第166号掲載)

3.非同盟の誕生

(1)第1回非同盟首脳会議(1961)
 アジア・アフリカ諸国が中ソの覇権主義的介入によって,中ソから距離を置き始めたとき,地理的概念による結集,団結ではなく,信条・思想によって団結しようと呼びかけたのが,チトー・ユーゴ連邦大統領であった。AA諸国は,この思考方式に極めて好意的に反応した。なぜなら非同盟(non-alignment)という概念による結集ならば,社会主義への傾倒というイデオロギー偏向に縛られないという思いがあったからである。

 チトー大統領は,非同盟の基本的立場を“人類の良心”と呼んだ。これは1961年,ユーゴ連邦の首都ベオグラードで第1回非同盟首脳会議を開いたときのチトーの言葉であった。

 当時同大統領が,スターリン主義のソ連からの圧力をはね返し,自己政権の温存を図るため,非同盟を結成したことは否定できない。しかし非同盟の中心的存在となり得たのは,民族解放闘争の支持,外国軍事基地の一掃,植民地体制の即時無条件撤廃を要求し,恒久平和は帝国主義,植民地主義の根絶によってもたらされるという主張が,当時のアジア・アフリカ諸国の絶大な共鳴を勝ち得たからに他ならない。当時,世界には帝国主義の残滓がいまだ色濃く残っていたからである。

 従って,当時,非同盟は「左寄り積極的中立主義」といわれた。中ソがAA連帯に代わった非同盟を批判ないし非難しなかったのは,基本的に非同盟が米欧の西側に対する敵対的態度を保持していたからである。

 1961年10月,ソ連党第22回大会は平和共存路線を確認しながら,国連総会ではフルシチョフ・ソ連第一書記(当時)が西側の新植民地主義を激しく攻撃し,非同盟世界の大幅な支持を得ようと努力したことは史実が示すとおりである。当時中ソは,強力に非同盟路線を押し,これら諸国を抱き込んで国連において西側諸国との対決姿勢を強めていた。軍事的に西側よりはるかに劣勢であった東側は,非同盟諸国を利用することによって西側との政治的対等を作り上げていた。

(2)非同盟の変容
 第2回非同盟首脳会議が1964年カイロで開かれたとき,開催国のナセル・エジプト大統領,ベンベラ・アルジェリア大統領,エンクルマ・ガーナ大統領らは,ナイル河沿いのヒルトン・ホテルの前を歩いて渡った。彼らの前方に立ちはだかって夢中で写真を撮ったのを覚えている。そういえば1985年,バンドン会議30周年のときも,ムルデカ通りを行進したAA指導者たちが,自信のなさそうな,恥ずかしそうな面持ちの表情で行進したのを覚えている。どうも,第三世界の指導者は,行進が好きなようである。一種の示威行動,原点を忘れないようにとの心構えであったのだろうか。そうであったとしても,その表情には,55年のあの燃えるような目の輝きは見られなかった。AA,あるいは非同盟の穏健化を象徴していたといってよい。

 第2回非同盟首脳会議では,チトー,ナセル,スカルノ,ベンベラ,ネールの錚々たる指導者は平和と国際協力を謳い,経済的要求に重点を置いた。反帝反植民地闘争からの変わり身の早さ,世界的潮流に棹差す巧みな外交であった。この年,3-6月,ジュネーブで開かれた第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)では開発途上国77カ国が共同宣言を採択,77カ国グループが生まれた。同会議は,開発途上国(非同盟諸国の大半が参加)が,「資源をわが手に」のスローガンを掲げ,自国の地下資源を先進国に搾取されるなという資源ナショナリズムの高揚を謳い上げてから,非同盟会議は政治的機構から経済的対等性の実現を目指すグループへと変貌した。このような変化が現れるにつれて中ソ両国の出番は,かなり減少してきた。特にこの頃の中国は,現在のような目覚しい経済発展を遂げてはいなかったので,非同盟への表立った関与は少なく,中国に代わって米国がその矢面に出現したのが特徴である。すなわち,非同盟への米ソの関与という図式に変化していた。

(3)チトー大統領の存在意義
 相前後して毛沢東・中共主席,周恩来総理,スカルノ大統領,ナセル大統領など世界のカリスマ的政治家が世を去ったとき,私の胸を去来したのは,彼らが世界史の転換点で舞台から姿を消したということであった。生きながらえていたら,新しい時代の流れは彼らの政策をもはや受け入れなかったであろうとの感慨であった。こうした感慨は,結果論といえるかも知れない。

 あの当時の中国革命の進展の度合い,中東アラブ世界の動きを眺めると,後継者の政策は揃って新しい国際情勢の流れに巧みに棹さしていた。

 ところが,チトー・ユーゴ大統領の死は(1980年5月4日死去),違った印象を私に与えた。結論から言えば,チトー大統領には,もう少し生きていて欲しかった。非同盟路線が,いまだに細々ながら存在しているのは,後述するように,チトーの非同盟の定義が,極めて幅広い融通性をもち,膨れ上がった非同盟諸国の利害を包容してくれたからである。

 チトー大統領の死が,非同盟の左傾化への歯止めをなくしたことは事実であろう。その意味で真の非同盟を維持する上から,同大統領の生存は,その後の世界政治の中で貴重な存在であった。

 ソ連のアフガン武力侵攻,ベトナムのカンボジア侵入,イラン革命など世界各地で流動の荒波が押し寄せていたとき,諸大国の思惑を押しとどめて,中小諸国のプライドと存在と権利を国際政治の中で高らかに謳い上げるのにチトー大統領をおいて他に適任者がいなかった。

 いわばチトー大統領は,世界情勢の流動や変化に早くから気づきながら,国家の独立,平和が,諸大国によって乱されない限り,非同盟路線の変化に批判を加えようとはしなかった。それはサダト・エジプト大統領(故人)が米国主導下の中東和平路線を追求し,あるいはメンギスツ・エチオピア社会主義軍事政権が,エリトリア解放戦線に弾圧を加えるのに対して,黙認の態度を取ったことを見ても明らかである。

 つまりチトーの非同盟路線は,その大枠をはずさない限り,大国の力関係の変化に伴い,中小諸国がおのずからその国益に従って振り子のように左右に揺れ動くことを許容していた。そうした諸々の動きを抱えながら,一つの基本理念,大国からの独立と平和を目指して進んで行く扇のかなめがチトー大統領であった。

4.非同盟の変貌

(1)デタント時代
 1979年1月のイラン革命まで,世界は大国間のデタント(緊張緩和)の中で,非同盟の動き,あるいはその存在意義すら忘れかけていた。
 ところがホメイニ政権の成立からイスラム諸国によるイスラミック・ナショナリズムが彷彿としてイスラム世界の非同盟諸国に拡がり,1979年9月の第6回非同盟首脳会議では,親ソ国キューバのカストロ首相が非同盟路線を親ソ路線に近づける試みを強行し,この中でエジプトの中東和平(仇敵イスラエルと和を結ぶこと)が非難され,同国を非同盟諸国のメンバーとして是認せず,資格を凍結する動きに出たことは周知であろう。

 また,カンボジア代表をポル・ポト派とするかヘン・サムリン派とするかで結論が出ず,非同盟路線の分裂,ないし左傾化が報道され,チトー大統領は老躯に鞭打って,非同盟の原点に立ち返ることを強調,辛うじて分裂を食い止めた。言い換えれば,チトー大統領は非同盟の親ソ化を食い止めたわけである。

 著名な東大の学者は,1980年5月11日のNHK対談で,非同盟諸国には最近親ソ派の左傾国が続々誕生していると言明したが,これは非同盟誕生以来の歴史を見れば,かなり見当はずれではないかと思われる。

 むしろ非同盟路線は「左寄り積極的中立主義」といわれたように,1961年第1回首脳会議がベオグラードで行われたときは,反帝反植民地を重要施策の一つに掲げ反西側の色彩が濃かった。民族解放闘争を支持した中ソ両国は開発途上国(AA諸国ないし非同盟諸国,両者は,ほとんどオーバーラップしていた)のほとんどを支持者として旧植民地主義国(西側諸国)との対決姿勢を明確にして東西冷戦を深刻化していった。

 ときあたかもベルリン危機が激化し,ソ連の核実験再開が国際情勢の緊張を高めていた。
 一方,61年10月,ソ連党第22回大会が前述のように平和共存路線を再確認して以来,中ソ対立の激化は,イデオロギー論争を超えて政治的,経済的,民族的争いに発展した。

 西側諸国の中には,政治的独立は与えたものの経済的な搾取を依然行っている国があったため,中ソ両国は新植民地主義打倒を新しい標語として非同盟諸国に吹き込んだ例はあった。しかしこの新植民地主義打倒は,南北問題討議のUNCTADにおいて南の突き上げが先鋭化し,「資源をわが手に」のスローガンが第三世界に行き渡るにつれて,中ソ両国の出番はかなり減少し,中国に代わって米国が非同盟の攻撃対象として登場してきた。

 デタント(緊張緩和)のムードが東側陣営への依存度を減らすことは自然の成り行きであり,軍事面を除いて他の基幹産業では西側が優れていることを知っている非同盟諸国が西側への接近を図ったことは当然であった。

 つまり「左寄り積極的中立主義」だった非同盟路線は,中ソのイデオロギー論争の輸出と世界のデタント・ムードの二つの要素によって「中道的積極的中立主義」に変貌。この動きをチトー大統領が非難しなかったことはさすがであり,この故にこそ,チトーの存在は必要であった。

 チトー大統領に比べると,故ネール・インド首相は別として,他の非同盟首脳は,時の国際環境によって非同盟路線に従うことが自己の地位保全と威信の向上につながるとの計算に従って同路線の下に結集した感が強い。

 中ソ論争の中で,両大国との微妙なバランス外交を必要とした故スカルノ・インドネシア大統領,非同盟の雄となることでアラブ世界でのヘゲモニーを確保したかった故ナセル大統領,アフリカ大陸の中でOAU(アフリカ統一機構)=現在のAU(アフリカ連合)=の指導者を目指した故エンクルマ・ガーナ大統領など,みなそうである。

 これらの指導者は,東西冷戦の中では非同盟のかくれみのの中で自己の威信を保ち得た人であり,大国間のパワーバランスが変わっても,極端に政策を変更することは不可能であった。ナセルやエンクルマの悲劇はここにあった。

(2)サダト・エジプト大統領と中道化
 これらの指導者に代わって新しい政権を獲得した政治家の中で世界的にリーダーシップを発揮できたのは,故ネール首相の娘であるインディラ・ガンジー・インド首相と,スケールは小型だが,サダト・エジプト大統領であった。スハルト・インドネシア大統領,リマン(エンクルマの後継者)ガーナ大統領は地域的な指導者でしかない。カストロ・キューバ首相はあまりに親ソ過ぎて,ハバナの首脳会議ではアセアン諸国とアフリカ諸国から強い不信感を持たれた。

 ナセリズムのきずなを切ったサダト大統領の180度の転換に対して,非同盟諸国が取った態度には刮目すべきものがあり,非同盟の変遷を如実に現したものであった。

 中東問題の解決トランプ・カードの98%は米国の手中にあるとみた同大統領は,同盟に等しかったソ連との関係を断ち切って右寄りの政策を展開,キッシンジャー米国務長官(当時)を媒介として,イスラエルとの和平に突き進んだ。このときチトー大統領は,これを非同盟の新しい実験として見ていたのではないかと思わせる節があった。チトー大統領はサダト政策に何一つ批判も非難も加えなかった。

 1979年9月,ハバナの第6回非同盟会議では,アラブ急進派,パキスタンなどは,サダト政策を非難し,非同盟からの除名,追放を主張するものも現れた。チトー大統領はこうした分裂的傾向を戒め,“人類の良心”に反しない限り,非同盟の団結を訴えたのである。同会議が注目されたのは,エジプトへの暗黙の支持がアフリカ諸国,アセアン諸国の中で,かなり強かったことで,このためエジプトの非同盟からの締め出しは成功しなかった。

 アラブ世界では,サダト政策をアラブへの裏切りとして非難ごうごうであったが,非同盟全体としては,チトーの幅広い考え方に同調するという穏健化が拡がっていた。いわば振り子のように自由に揺れていたといってよい。

 同会議について日本の報道は,ほとんど中東問題についての強硬派の声と開催国キューバのカストロ首相の演説から,非同盟の左傾化,強硬化を会議の主流とみなすものが多かったが,私は逆だとの見方を当時伝えたことを記憶している。カストロ首相は,むしろ非同盟の右傾化潮流を食い止めようとする防御的立場におかれていた。

 この裏には中東問題で米国に主導権を奪われ,舞台から締め出されたソ連のあせりがあり,アセアン諸国の礼儀正しい,しかし冷淡な対ソ態度を踏まえて,非同盟を一挙に発足当時の左寄りにもっていこうとしたあがきが強く感じられた。

 この会議の主流は,サダトの中東政策を暗に肯定するものであったし,アフリカ,アセアン諸国が対米接近というサダト路線に自国の立場から共鳴を感じたことを示した。

 さらにOAU(アフリカ統一機構)諸国の潮流は,第1回から第17回までの首脳会議の決議が示すように,政治的スローガンから経済的要求に比重が移った。1980年4月28日にはOAU始まって初めての経済問題首脳会議が開かれたことを見ても,非同盟の中道化,合理性化が顕著となった。言い換えれば,米欧,中,日の共同行動という枠組みの中で,非同盟が右寄りにならざるを得ない国際環境に変化したのである。

 世界の緊張緩和の中で,一国では米ソの圧力に抗し切れないとみた中小諸国は,チトーの弾力的思考もあって,非同盟グループに続々と加入。その数は当初の29カ国から100以上となり,それにつれてグループ内での国益の衝突が増加した。つまり団結が希薄化される状態が出現した。

 インドで開かれた1983年3月の第7回非同盟首脳会議では,サダト大統領の後継者となったムバラク・エジプト大統領が開催国のインディラ・ガンジー・インド首相によって正式に非同盟の指導者として迎えられた。イスラエルと和を結んだエジプト路線を非同盟は認知したのである。しかもインディラ・ガンジー首相は,「非同盟は反米ではない」と言明した。

5.非同盟の将来

 この穏健化傾向が一層深まるか否かは,中東和平の進展,イラク情勢,アル・カーイダのテロ・グループの消長が一つの大きなカギとなることは疑いない。
 1986年9月1日から7日間,アフリカ南部の国,ジンバブエの首都ハラレで開かれた第8回非同盟首脳会議はムガベ大統領(当時は首相)の見事なバランス感覚で非同盟維持に見事に成功した。

 ムガベ氏には,彼が独立解放闘争の戦士であったころ,会ったことがあるが,過激なマルキストであり,社会主義を標榜していた。しかし政権の座に就くと,次第に変化して,東西双方との友好を目指し,ついで西側諸国へ重点を移すという巧妙で冷徹な指導者に変貌した。

 ハラレ会議に国家元首あるいは首相が出席したのは約50カ国,穏健派諸国は外相ないし,それ以下の代表者であった。つまり穏健派は同会議を敬遠し,出席者で目立ったのは,オルテガ・ニカラグア大統領,カダフィ・リビア元首,カストロ・キューバ首相,故アラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長という反米派の首領と過去3年間非同盟会議の議長であったラジブ・ガンジー・インド首相(インディラ・ガンジー首相の子息)であった。

 ムガベ首相の前身から見て,ハラレ会議は強硬な決議が予想されていた。ハバナ会議では14の対米非難,ニューデリー会議で30の対米非難だったのに比べて,ハラレ会議では54の対米非難で米国に対する非難の大合唱が打ち出された。実はこれがムガベ戦略であった。対米非難の強調で非同盟の存在を印象づけた。ムガベ氏は対米非難を唱えながら,議長としての基調演説の中で,世界の軍事費の増大に困惑を表明,東側の軍事物資の売り込みが主な原因と指摘した。

 同氏はまた,すべての地域における外国の干渉を攻撃,ソ連のアフガン侵攻,ベトナムによるカンボジア占領の終止を呼びかけ,南アフリカ(当時は人種隔離政策をとる白人政権)への経済制裁を求める黒人前線諸国(タンザニア,モザンビーク,アンゴラ,ボツワナ,ジンバブエ)に対して,必要なときに経済援助を供与するよう要請した。一方,スリランカ,シンガポール,マレーシアなどのアジア・グループとアフリカ諸国の中の穏健派,カメルーン,ザイール,コートジボアールは強硬派に反論した。

 シンガポールのダナラバン外相は,「非同盟とは厳正中立である。対米非難のコーラスに比べて,ソ連のアフガン侵攻に目をつぶるなど自己矛盾が多い」と非同盟の自己批判を行い,西側諸国を非難するだけでは問題解決にはならないと主張した。

 ムセベニ・ウガンダ大統領は,香水やビデオ,キャディラックを買うために借金し,経済破綻に苦しんでいる国には,一片の同情も憶えないと厳しく非同盟諸国の経済政策を非難した。マレーシアの首相(当時)は,まず南の諸国の協力が必要と述べ,「北」の諸国(先進国)を責める前に「南南協力委員会」を設立しようと呼びかけ,これが決議に盛り込まれたことは穏健派の主張が通ったわけであり,ムガベ氏が全体としては非同盟を左右両派のバランスの上に巧みに乗せたことを示したものとなった。

 中東で,太平洋で,さらに対米関係でも,平和攻勢に転じたソ連のゴルバチョフ外交は,ハラレ会議に対しても非同盟支持の祝電を早速送りつけた。これはソ連が非同盟諸国を,依然世界戦略展開の一手段として利用する意図を示したものである。

 ハラレ会議のために,ジンバブエは約3000万ドルを費やした。これは同国が旱魃救済のために要する経費と同額である。2000人を越す代表団のために政府は富豪白人の住宅を使用し,マツダ,プジョー,フォード等外車を代表団の送迎に充てた。ジンバブエ当局が認めたように,会議用の物資,つまりジェット機の燃料,コンピュータなどの大部分は,参加代表が厳しく非難した南アフリカ共和国から持ち込まれたものであった。

 ジンバブエのみならず,南部アフリカの黒人諸国は物資の輸送手段,外貨収入源を南アフリカに依存せざるを得ない状態である。南アフリカに経済制裁を強行すれば,黒人諸国の経済は破綻する。このようなジレンマは東南アジア,中南米などの非同盟の世界に程度の差こそあれ,広く存在する。独立闘争の時代と違い,国内開発の時代には西側との緊密化が,どうしても魅力である。しかし非同盟の原則は守らなければならない。ムガベ議長は精一杯この原則を謳い上げたが,時代の推移は原則の変更を求めることになるかも知れない。非同盟の原則と中小諸国の経済技術的要求が調和されるのは,米欧,一部にはロシアの出方にかかっている。だがその調和が実現するのはいつのことであろう。米ロはともに非同盟を引きつける利点と弱点を合わせ持っている。

 いまから20年前,バンドン会議からジャカルタへ合乗りタクシーで戻る途中,ピンクのカンボジャ(kamboja,プルメリアとも呼ばれる)の花が可愛く,やさしく揺れていた。これから非同盟路線が残るとすれば,あの燃えるようなブーゲンビリアの赤い花ではなく,こんな色なのかもしれない。――ふとそう思ったことを覚えている。
(2005年9月20日受稿,10月14日受理)