縄文文化とその現代的再評価

宇都宮大学元教授 石部 正志

 

1.はじめに

 これまで学校教育のみならず日本史学において旧石器時代や縄文時代は,無視ないしは軽視される傾向があった。しかし,時間の長さの点から言えば,縄文時代は少なくとも一万数千年あり,それ以降の時代は二千数百年足らずである。さらに旧石器時代(私たちのいう「岩宿時代」)は更に長い時間があった。当時日本列島は島嶼状態ではなく大陸と陸続きの半島のような時代であった。地理的に現在の日本列島に近い形となったのが約1万2〜3000年前頃からであったので,縄文時代が日本の始まりと言ってもいいと思う。
人間の生き方から見た場合に,縄文時代は現代の視点から再評価されるべき内容が少なくないと思う。そこで,本稿では,そうした視点をいくつか取り上げてみたい。

2.縄文文化の特質

(1)豊かな自然環境
 まず縄文時代の日本の自然環境は,当時の世界をみてもまれに見る恵まれた条件のもとにあった。日本は大体温帯地域に属しているために気候が比較的穏やかで,湿潤温暖気候により植物の繁茂が旺盛である。それに伴って動物相も豊かなので,人間が生きていくには好都合であった。日本列島は南北に長くその中央に比較的高い脊梁山脈が走っているので,太平洋側と日本海側とは対照的といってもいいほど違った気候を示している。そして日本列島全体の環境が同時に悪化することは歴史を通じてほとんどなかった。例えば,北日本の環境条件が悪くなれば,南に移動することができ,東日本の環境条件が悪化すれば西に移動して生きていくことができた。その意味で,原始社会という縄文時代の日本の環境は,抜群にすぐれた環境条件であった。

 縄文時代の自然環境について大雑把に言えば,採集生活者であった縄文人にとって圧倒的に住みやすかったのは,中部・関東・東北・北海道南部であって,西日本,中でも近畿の中南部・山陽・四国地方は縄文時代には「過疎地」であった。特に,関東地方から中部山岳地帯にかけて火山灰台地が発達しているが,そのようなところに縄文遺跡が多く発見されている。それは土地が柔らかく広葉樹が豊かに繁茂していたからだろうと考えられる。

 私の大学在職中に,北関東の宇都宮大学と中国地方の鳥取大学の農学部学生に同じ条件で森の木の実(ドングリ)を採る競争をさせたことがあったが,結果は宇都宮大学の方がはるかに多く採れた。ドングリを稔らせる樹木の種類は西の方が多いようだが,一株あたりの結実量と雑木林の広がりの度合いに差があったためであった。また東日本は,寒流系の魚(サケ・マス・ニシンなど)が毎年産卵に集まるために漁業資源も豊かであった。

(2)ゆとりから生まれた個性豊かな社会
 縄文時代は,狩猟・漁撈や木の実採集などを中心とする自然採集社会である。当時の日常生活を想像してみると,朝涼しい間に採集に出かけ,夕方に狩りに出かけるような生活で,日中の暑い時間帯はくつろいでいた。西欧近代文明の視点では,未開社会の人々はあまり働かず怠け者だと批判的に見ているが,動物の生態をみても空腹になった時だけエサをとる行動に出るのであって,それ以外の時間はほとんどのんびりしている。近年「ゆとり」の必要性が声高に叫ばれるが,「ゆとり」という観点からは縄文時代人の方が格段にゆとりがあったかもしれない。

 縄文時代の最盛期は東でも西でも土器一つをとっても華やかで芸術の極致を行くようなものであった。それは余裕のある生活から生まれた結果であったと思う。例えば,私が大学で教鞭を取っていた時,学生を歴史博物館に連れて行き縄文土器と弥生土器とを見比べさせ,両者を比較・評価させると圧倒的に「縄文土器の方がいい」という。縄文人は時間的余裕があるために土器を作るにしても時間的制約を気にせずに精魂込めて取り組める。ところが,弥生時代人は,稲作農耕が始まったために年中忙しくなり片手間に土器・焼き物を作らなければならなくなった。量産の必要性もあって形はスマートになるなど改良されたものの,手の込んだものを作る余裕はなかった。縄文時代の土器と比べて弥生時代のそれは多様性(模様のつけ方,形など)に乏しい。一口に縄文土器といっても,時期により,地域により,形や模様は千差万別で,一つとしてまったく同じものはないといっていいほどだ。それは地域ごとに独自の文化を持っていたので,専門家の目には縄文土器をみるだけでどこのものかがわかるほどに地域色が豊かなのである。

 現代は東京一極集中に象徴されるような中央集権的体制の時代なので,地方の特色が薄まって貧しくなっているように思える。当時は,いまの東京のような「センター(中心)」はなかったので,それぞれ住んでいるところがセンターであった。よく学生に「世界の中心はどこか?」と聞くとなかなか答えられないが,私は「あなたが住んでいるところだ」と言っている。日本の現代社会では全国どこに行っても同じような風景が広がっているが,縄文時代の豊かな地域性は今はやりの地方分権化や村おこしを考える上で示唆的でもある。

 もう一つの特徴として挙げたい点は,当時の人間関係は平等であったことである。例えば,埋葬を見ても,地域によっては長老格の人は尊敬されて丁寧に葬られている例も見られるものの,そのような人を別の場所に特別に隔離して葬ることはなかった。生活の道具や住む家にしても,誰が使うものもみな同じものであった。男女の差別についても,当時はむしろ女性の役割の方が大きかったので女性が差別されることはなかった。逆に男性の方が低かったとさえいえる。男性は遠くまで狩りや漁などに出かけるわけだが,これは収穫に当たり外れがつきものである。一方,女性は家を中心として植物質食糧の採集を分担したので一家を支える経済的な主導(イニシアチブ)を握り,家庭の中での役割が大きかった。

(3)お祭りと人の移動
 縄文人は,現代人などより,ハレの日(祝祭日)とケの日(ふだんの日)の区別を大事にし,大きな祝祭の時期には,部族の全員がその日のために用意した晴れ着に身を飾り,おいしいご馳走を持ち寄って遠近から集まったようだ。つまり定期的・周期的にフェスティバル(お祭り)の場があった。その場が縄文時代の拠点集落であり,数キロメートルごとにあった。特に大きな祭りは数年に一回は行われていたと思う。オリンピックもギリシアの祭りがその起源であったことを考えれば類推されよう。

 こうした集まりの場は,平素離れて暮らしている人々が,情報を伝達しあい,自分たちのところでは得にくい品物を物々交換しあうとても大切な機会でもあった。そして若い男女が最愛の伴侶を見つけるチャンスでもあった。

 例えば,土偶はどこの縄文遺跡からも出土するかというとそうではなくて,拠点的大集落の大遺跡から集中して出土している。そのような場は,各集団の母なる村,聖地で,現代のイスラム教徒がメッカ巡礼をするようなところであった。

 ところでヒスイの玉は,一つの縄文遺跡からだいたい一つしか出土しないことが多い。当時のヒスイの産地は新潟県しかなかったが,このヒスイについての私の考えは次のようである。遠方の地方に出かけて交易などをするときに,もっていく信用を与えるもの(威信財)がヒスイの玉であったと考えている。それを所有していることによって出かけた先で信用されるが,そのヒスイの玉はその場に置いていく。今度はその村の人が出かけるときにそれを持っていく。このように遠隔地に出かけての交流時の威信財として渡し,渡されるものがヒスイの玉であった。

 このような生活を考えた場合に,縄文人たちは狭い生活圏にだけ留まっていたのではないことがわかる。私たちが考える以上に彼らの行動範囲は広く,そこを定期的に交流・移動していたと思う。

3.縄文時代から弥生時代への質的変化

 縄文時代とその後の古代(古代国家成立以降)とは社会の質的な差が歴然としているが,弥生時代はさまざまな面で縄文時代とは質的な変化が起きてきた時代であった。前述したように縄文文化は相対的には「西低東高」と言われるように東日本の方がさかんであった。とは言っても,もちろん大阪など関西圏にも縄文遺跡は多くあった。しかし,弥生時代の遺跡となると,量的に見ると東日本と西日本で逆転してしまう。

 そこでその時代変化の過程がどのようであったかについて,簡単に見てみよう。
弥生時代の特徴の一つに水田稲作の普及がある。農業は一種の「バクチ」の性格をもつ。稲作では,春に苗代に種を蒔いて苗を育て田植えをしても,収穫は秋にならないと得られない。その間,冷害・病虫害・旱魃や台風などの自然災害に襲われる可能性があり,期待したとおり稔ってくれる保証はない。現代でも大凶作や台風などによる大きな被害を被ることがある。当時その被害を最小限にするためには,耕作面積を増やすしかなかった。必要最低限の耕作面積では対応できないので「保険」をかけて農地を増やすわけだ。その結果,必要以上の生産が上がるようになる。ここから人間の「強欲」が起きてきたと思う。

 縄文時代は住居の周囲の自然が「冷蔵庫」であり,腹が減れば必要な分だけ採集して食べる。縄文時代には(土地に対する)自分の財産という観念はなく,自然の恵みに感謝してつつましく生きる時代であった。しかし,弥生時代になるとそうした社会とは大きく様変わりした。農作業のために人間は朝早くから仕事を始めて夜まで働き,余裕があればさらに田を増やすために開墾しようと考える。土地を開墾して農耕を営むようになるとそれを自分の財産と考えるようになった。土地はもともと誰のものでもないはずだ。そうした開墾などに伴う土地争いや,豊かなところに出かけての略奪・戦争が起きる。このような「進歩」の代償は非常に大きかった。

 さらに水田稲作農耕の場合は,灌漑用水路を作るなど多人数の協業が必要になる。そうした作業は家族単位では難しい。その結果,労働の組織的編成が必要となり,それらをコントロールする役割の存在が出現するようになる。現代人でもそうだが,人間とは弱くはかない存在でもあるので,神や仏などにすがる思いが自然の発露としてある。それゆえ当時のリーダーの最大の任務は,イネの神様や太陽・大地・水の霊への祈りをなしながら集団に富と繁栄をもたらすことであった(祭祀行為)。その流れの中から王侯貴族・大王が生まれてくることになる。

 縄文時代の最盛期は東でも西でも土器一つをとっても華やかで芸術の極致を行くようなものであったが,縄文時代晩期後半の文化を見ると,土器の模様も手抜きしたようにお粗末な感じになる。それとともに遺跡の数も激減する。縄文人は自然物に依存した生活をしていたわけだが,ある程度人口が増えると,気候変動や病気の蔓延,動物相の変化などの環境変化によって人口減少が起きたと考えられる。一万年に及ぶ縄文時代の繁栄の中で,採集のしすぎ,自然の荒廃が起きた。また,大陸で秦・漢帝国が拡大するに伴い,周辺の民族が圧迫されて移動を始める。特に韓半島を経由して人の移動が起きてきた。また縄文晩期から弥生初めにかけては気候の冷涼化が進んだが,それがそのような動きに拍車をかけた。つまり中国北方は寒くなるので民族が南下し始め,中国との間に摩擦が起きたのである。

 気候の冷涼化によって「海退」が起こり,海岸線が徐々に沖合いに退き出して干潟が多く現れた。これが逆に稲作栽培の絶好の土地となった。特に西日本の方が平野が早く形成された。また日本海に暖流が流れ込むことによって日本海側の地域が稲作に適した土地となり,稲作技術を持った人々はあっという間に日本海沿岸を進んで青森方面まで達した(青森県弘前市砂沢遺跡の弥生時代前期の水田跡など)。縄文末〜弥生初期の人々の動きは活発で,全国的な水田開発とその展開はじわじわという速さではなく飛び石伝いにあっという間に進むフロンティア開拓のようであった。そのため,北関東など内陸部の方が青森よりも遅く稲作が伝わった。

4.最後に

 縄文文化を考えた場合に,賞賛する面ばかりではなく,現代社会から見ればもちろん困難さもあった。例えば,当時は集団の一員としてしか生きていけず,個人が自立して生きていくことが難しい社会であった。また寿命も短かった。(10歳まで生きた人の)平均寿命は,女性で30〜35歳(お産に伴う産褥熱などのため死亡する確率が高かった),男性で40歳程度(狩猟による骨折など)であった。

 それでも既に述べたような観点の他に,現代文明の視点から再評価されるべき内容が少なくない。縄文人は自然と一体で生きており,自然物にはすべて霊魂があると信じるアニミズムが支配していた。このように自然が豊かでその変化に富んでいる地域は,一般に神様が無数にいる多神教の社会である。多神教の社会では宗教紛争が起こりにくい。日本はその典型だ。一方,一神教は異教を排除する性質がある。この点で,宗教にかかわる紛争の多い21世紀において日本は世界平和に向けて多面的な発想ができる国であり,これからの社会に貢献する潜在力を秘めていると思う。
(2006年2月10日)