イランの核開発問題と中東和平の道

(財)日本国際問題研究所軍縮・不拡散促進センター所長  須藤 隆也

 

1.イスラームの復興運動と欧米諸国のかかわり

 20世紀末の東西冷戦構造崩壊後,21世紀の国際政治においてイスラームの占める位置には大きなものがある。その背景には,イスラームの復興運動がある。実は私の体験から言っても,9.11同時多発テロ事件以前からイスラームの復興現象が見られた。
 
 私が最初に中東地域に出かけた1960年代,当時エジプト・カイロ大学の女子学生でヘジャーブ(女性の頭髪をかくすスカーフ)を着けた人は一人もいなかった。次に赴任した80年前後,カイロ大学の女子学生の中にヘジャーブを着けた人がちらほら出てきたが,それを着けていると目立つほどであった。そして2000年前後に三度目にエジプトに赴任したときには,イスラーム教徒の女性はほとんど全員がヘジャーブを着けていた。これは一つの目に見える象徴的な現象ではあるが,イスラーム世界全体にイスラーム復興現象が起きていることは明らかな事実である。
 
 このようなイスラーム復興現象の原因について宗教的解釈もあるだろうが,政治的説明としては,グローバリゼーションの進展に伴い欧米文化が押し寄せてきたことに対するリアクションの一現象とみることができる。第二次世界大戦後,アラブ諸国は国民国家体制の中で独立したが,それぞれのアイデンティティを求めてさまざまな民族主義運動があった。例えば,エジプト・ナーセル大統領(1918-70)のナーセル主義,シリア,イラクなどにあったバース党(アラブ社会主義復興党)などである。しかし,1967年の第3次中東戦争における敗北を受け,大半は挫折してしまった。
 
 欧米文化の波にさらされるという状況は,ちょうど明治維新期の日本と類似していた。日本は「和魂洋才」という形で克服したが,アラブ諸国はこの過程を現在進行させている最中といえる。アラブの中も一枚岩ではない。一つの動きは,イスラームを基本にしながらも欧米と協調してやっていこうという考え(穏健派,マジョリティ)である。その対極にはイスラームの原点に戻れと叫ぶイスラーム原理主義がある。後者は少数派ではあるが,宣伝活動も活発であり現象的には目立つため政治的影響力は大きい。現在の中東情勢は,その二つのグループのせめぎあいの過程にあるといえる。大部分のイスラーム教徒は,欧米と仲良く共存してやっていきたいという気持ちをもっていると思うが,彼らは表立った運動をしないのでサイレント・マジョリティとなってしまう。

 また,米国の中東政策が結果的にイスラーム過激派を活発化させることになったという側面があったことも否定できない。米国にそうした意図がなかったとしても,行った政策の波及的効果として過激派を利することになった。

 例えば,イラク戦争開始前のエジプトでは,当時から既に反米感情がだいぶ高まっていた。そのような状況下で,エジプトの政治指導者は「イラクへの武力行使だけはやめてほしい」と本音を漏らしていた。エジプト政府は米国と協調して外交を進めざるを得ない立場にあったが,民衆レベルでは反米感情が鬱積していたために,発火点に火でもつけば内政的に大変なことになりかねない危険な状況にあり,非常に苦労していた。

 米国はイラク戦争開戦時において,「これはイスラームとの戦争ではない。サッダーム・フセインとの戦いだ」と明言してはいたが,現地アラブ諸国の受け止め方はそうではなかった。多くは「(中世時代の)十字軍の再来」と受け止めた。

 もちろん9.11事件は,許しがたいテロ行為ではあるが,アラブ諸国の側に立って考えてみると,米国に対する積年の恨み辛みの結果だと見ることもできる。多くのアラブ人はテロという行為自体は悪ではあるが,その根底にある過激派の心情にはシンパシーを感じている。それゆえオサーマ・ビンラーディンに対してアラブ地域では意外にも支持者が多い。このような矛盾があるので,テロとの戦いは容易でない。

 歴史的に言えば,米国が中東に直接的に関与するようになったのは第二次世界大戦以降であり,それ以前の中東諸国はもっぱら欧州諸国とのつながり,つまり植民地支配・被支配者の関係としてつながりが深かった。その点から言えば,そのような欧州に対するカウンター・バランスとして米国は当初歓迎される側面をもっていた。ところが,イスラエルが建国されて以降,米国が親イスラエル政策を推進したゆえに,次第にアラブ側を敵に回すようになった。

2.イランの核開発問題

(1)核開発疑惑
 国際政治における重要問題の一つであるイランの核開発問題について考えてみよう。
 
 実は,イランが原子力エネルギーを利用したいという考えは,イランのイスラーム革命(1979)以前のシャー(国王)の時代(パフラヴィー王朝,1941-79)から一貫して存在した。革命前のイランは,米国とも良好な関係にあったので,原子力開発に関して米国や欧州から技術協力を得ることができて,23基の原子力発電所の建設計画を立てていた。

 石油産油国でありながらなぜイランが,原子力エネルギーを必要とするのかといぶかる人もいるかもしれない。将来的にはいずれ石油不足が生じることは明らかであるし,たとえ今石油が余っていても原子力エネルギーを使って石油を節約すればそれを輸出に回すこともできる。また,イランは自国内に石油精製能力がないこともあって大産油国でありながらガソリンの約40%を輸入に頼っているという矛盾した状態にある。その意味でも原子力発電などの平和利用,ポスト石油時代への準備という考えに一理があることは否定できない。私は,イランに原子力開発計画をまじめに追求している側面がないとはいえないと思う。

 しかし問題は,イランの原子力開発計画が本当に平和利用目的に限定されたものなのかとの疑問が残ることである。そう信ずるにはちょっとおかしいこともやっているために,イランの意図が疑われ,イランの原子力開発計画は核兵器を作るためのみせかけ・口実であり,実態のないものだと非難されることになる。

 例えば,いまだ原子力発電所が一カ所も稼働していないのに,ウラン濃縮の研究を始めたり,濃縮ウランを作るパイロット燃料濃縮工場を作ったり,重水研究炉(プルトニウム抽出に適し核兵器開発への転用が容易)施設を建設したりしている。さらに,ウランを金属にして半球型に加工する技術に関する文書まで見つかった(専門家は核兵器製造以外には用のない技術であると指摘)。このようなことを国際原子力機関(IAEA)に申告してその監視下で行うのであれば違法でないものもあるのに,すべて隠れて行っていた。しかもそれがイランの反体制派の暴露によって明らかになった経緯(2002)があるために,なおさら疑念が広がってしまった。本当に平和目的ならば隠して行う必要はなかったのではないかと,彼らの平和利用の意図それ自体まで疑われてしまったのである。

 そして,これまでのIAEAの査察結果(核開発に関する報告)では,これまでのところ核兵器を製造するために転用したとの証拠はないが,他方,イランには申告されない(undeclared)設備がないことも証明できないとしており,白とも黒ともつかないどっちつかずの結論となっている。IAEAによれば,それをはっきりさせるためには,イラン側の資料の追加提供,IAEAがどこにでも行って査察できること(full access),科学者への面談などの協力がなければならない。しかし,それが実現されずに疑問とされる事項(unanswered questions)がたくさんある現状なのである。

 そこで欧米諸国は,イランのウラン濃縮活動は核兵器を作るためのものだと断定しながらも,ウラン濃縮活動を阻止するためにアメとムチの作戦で臨んでいる。それに対してイランは,ウラン濃縮活動は平和目的であるので,ウラン濃縮停止については受け入れられない,実際イランがやっている濃縮活動は,3〜5%までに濃縮させる機械を使用しているに過ぎない,としている。しかし,問題はウラン濃縮はその過程を何度も繰り返していけば同じ機械で原子爆弾にも使える90%以上の高濃縮ウランの製造が可能なのである。それゆえ施設だけでは平和目的か否かは区別ができないために,判断が難しい。

 あとは意図の問題になるが,それは証明が不可能だ。仮に今の政権担当者が平和利用と宣言していたとしても政権が変われば意図が変わることもありえる。また,日本のようにIAEAからお墨付きをもらっている国でさえ,周辺のアジア諸国は「日本は将来原爆を作るつもりではないか」と疑ってかかるほどであることを考えれば,イランの場合はなおさらであろう。

 また,イランは「エネルギーの自給体制を確立するために日本と同じことをやっている」という。つまり,いまイランが進めていることは,平和利用のための核燃料サイクルの推進だという。

 日本は原子力開発を始めてすでに40年の歳月が経過した。それでも米国・カナダ・豪州など,もとになる天然ウラン,濃縮ウランを提供してくれる国の許可がなければ原子力の平和利用が始められない仕組みになっている。もし軍事利用した場合には,機材のみならず開発技術もなしにするとの厳格な協定を結び,IAEAから厳重な査察を受け,その査察技術の発展にも協力している。またIAEAの査察予算の20〜30%が日本の査察に使われている。その他にも,非核三原則,平和憲法などあらゆる努力と犠牲を払って世界からの信頼を得る努力を行ってきた。もしイランが「日本のようにする」というのであれば,イランは世界から信頼を回復する努力をすることが先決だろう。一度ごまかしたので,日本以上に信頼回復の努力をしてIAEAからのお墨付きをもらうことが重要なことである。

 現在,ロシアはイランのブーシェールにロシア型軽水炉の建設を進めている。燃料(濃縮ウラン燃料)もロシアが提供し使用済み燃料もロシアが持ち帰るという条件でなされており,米国もこれを認めている。このように当面は軽水炉に徹していればいい。ウラン濃縮のような機微な技術は,信頼を回復してからゆっくり導入すればよい。急ぐから疑われるのである。このようなやり取りの中で,交渉は膠着状態に陥っている。

(2)イランの国内事情
 前述の核開発疑惑問題に加えて,イランの内政問題も複雑に絡んでいる。
 
 多くのイラン国民は,イラン政府の核技術開発はあくまでも平和利用だと信じていると思う。なぜなら,イランの最高指導者ハーメニー師(在位1989- )も,「核兵器はイスラームの教えに反する。イランとしては核兵器を持つ必要はないし,意図もない。」と明言している。そうなると,現在進行中の国際社会とイランとの交渉は,イラン人の目にはイランの原子力の平和利用の権利が妨げられていると映ることになる。このような感情にナショナリズムが結びついて,核不拡散条約(NPT)で認められているイランの核技術開発の平和利用の権利を国際社会(先進国)が認めないのはけしからんとなる。

 イランはイスラームのシーア派を国の宗教としているが,シーア派は,イスラームの歴史の中でも異端,少数派としてしいたげられてきた歴史があり,殉教者精神が強い。それが「世界の大国からいじめられているイラン」という図式とパラレルに映る。

 さらに殉教者フサイン(ムハンマドの孫,625-680)が歴史的存在を超えて今日のイスラームの人々の心に刻まれている。ウマイヤ朝の手によって殉教し犠牲になったそのフサインのイメージと今日のイランのイメージが一致してしまう。

 このような国民感情をアハマディネジャド大統領がうまく利用している。核技術開発の権利が行使ができるか否かは,イランの国家威信の問題だと論理をすりかえて国民に訴え,かれらを糾合しているのである。

 また,イラン国民は1979年のイスラーム革命後,シャーの時代と違って,平等な社会が実現すると信じてきたのに,実際には貧富の格差が拡大してしまった。現在,国民の半数以上が貧困な状態にある。アハマディネジャド大統領は,イラン革命の原点に戻って社会正義の実現と貧困問題を解決することを公約にして当選した。しかし,その政策はうまくいっていないために,大統領の政治基盤が不安定な状況にある。核問題は,同大統領にとって自己の政治基盤を固めるのに非常に好都合な政治課題となっている。「イスラエルを地図から抹殺せよ」という極端な発言も,そのような国内的な発言の色彩が強いともいわれている。

 ここでイスラエルからの見方を考えてみたい。イスラエルは第二次世界大戦後,度重なるアラブ諸国との戦争を経ながら,大きな軍事力を持つエジプトとまず平和条約を結び(1979),その後,ヨルダンとも平和条約を結んだ(1994)。シリアは単独でイスラエルと戦争をすれば負けるのが明らかなのであえて戦争をするつもりはない。またレバノンは,ヒズボッラーが戦いを挑んでくるが本格的な戦争をするところまでの能力はない。残る脅威の国は,イラクとイランとなる。そこで最初の脅威はサッダーム・フセインのイラクであった。イラン・イラク戦争(1980-88)のときに,イスラエルは敵の敵であるイランを支援した。しかし,サッダーム・フセイン政権が崩壊してからは,最後に残った脅威がイランとなったのでイラク戦争後,イラン脅威論を声高に唱えるようになった。

(3)イラン政府の意図
 それではイラン政府の核技術開発の意図はいったいどのへんにあるのか。
 
 欧米諸国は,イラン政府は核兵器を作るために秘密裏に着々と準備をしていると見ている。私は,そうとは断定できないが,かといって日本のように純粋に平和利用目的に徹しているとも断定できないと考えている。ただ少なくとも,平和利用の名の下で許されるぎりぎりのところ,作ろうと思えば核兵器を作ることのできる段階にまで,物資的基盤と技術力を高めておこうと考えていることは確かであろう。意図の証明が不可能である以上,核不拡散条約(NPT)4条(注1)に認められた権利として,平和利用の名の下にnuclear optionを持つことを目指しているのではないかと思われる。

 もちろん原子力開発を推進しても,平和利用に徹する限りにおいては,ウラン濃縮や再処理もNPT4条に認められた権利である(但し,米国はこの点に異論がある)。もしイランがIAEA追加議定書(注2)に批准すれば,ごまかして核兵器を作ることはなかなかできなくなる。但し平和利用の名の下に必要な資材と技術を入手した上でNPTを脱退すれば北朝鮮と同じ状況となる。しかし,もしイランがNPTをごまかして核兵器を作り出しているとか,NPTを脱退して核兵器を持つことが明らかになった場合には,国際世論はもちろんだが,イランの国内的にもいろいろな議論が起きてくることは必至であろう。その意味で,私見ではイランが核兵器を作ることを思い留まらせる余地はまだ残っていると思う。強い制裁その他の措置でイランをIAEAやNPTから脱退するような方向に追い込むことは得策ではなかろう。

 ブッシュ政権は,ヒズボッラーを支援しているイランを「テロ支援国」として非難しているが,イランとヒズボッラーとの関係はどうなのか。イランのヒズボッラーへの援助は,同じシーア派ということからくるもので,さらにはレバノンの政治情勢(レバノン人口の約20〜30%がシーア派)に影響力を行使するための「てこ」として更には他のアラブ諸国や欧米との交渉のカードとして使っている。

 イランは,自国の国益を犠牲にしてまでパレスチナのために本気で戦ってやろうという気持ちはないように思う。パレスチナ紛争を政治的に利用できるところは利用してやろうということであって,イランの国益を損ねてまでもパレスチナ解放のために犠牲になろうという気持ちはないと思われる。

 革命前のシャーの時代から日本は,イランと緊密な関係にあったが,イラン革命後も革命政権と直ちに友好的関係を築き,イランとの友好協力関係を一貫して維持してきた(engagement policy)。一方,米国は革命政権に対して制裁措置,封じ込め政策(containment policy)をとり,欧州はその中間的な立場(critical dialogue)であった。こうした

 国際社会の温度差を利用してイランはその国益にそうよううまくやってきた。

 現在進行中の6カ国高官協議(米英仏ロ中独)に関していえば,これまでの日本とイランとの関係を考えれば,その中に日本も当然入ってしかるべきところであるが,どういう理由か入れてもらえない。そうであればこれを幸いに日本として独自の仲介工作が行なえるような立場にあると思う。もちろん,現時点では(国際社会が一致団結してイランに対して安保理決議により圧力をかけようとしているとき),それを乱すような別行動を取ることは適当でないが,もしイランとの交渉が決裂したような場合には,日本もその役割を果たす出番が回ってくるかもしれない。

3.中東和平の道

 中東和平の展望については,いまは余り進展できる雰囲気にはないように見えるが,1990年代以降何度か非常にいいチャンスがあった。クリントン政権時代の93年8月にノルウェーが秘密裏に仲介してオスロ合意ができ,イスラエルとPLOが相互承認をして和平交渉をはじめようとした。当時イスラエルは和平推進派のラビン首相で,実際にも和平交渉が始まった。日本もそのプロセスを全面的に支援しイスラエルのラビン首相を日本に初めて公式招待し,イスラエルとの関係を増進する政策決定を行った。当時,私は外務省中近東アフリカ局長をしていたが,それまで日本とイスラエルとは関係が薄かったこともあり,中東情勢に日本がそれなりの影響力を行使するためにも双方との関係がなければならないとの判断からであった。残念であったのは,ラビン首相が暗殺され(1995),和平交渉はいったん挫折してしまった。

 またクリントン政権末期(2000年末)にも,イスラエルとPLOの両者をキャンプ・デービッドに呼んで本格的に和平交渉を行った(キャンプ・デービッドU)。クリントン政権が提出した和平仲介案を,イスラエルは条件付で受けたが,アラファト議長は拒否した。アラファト議長に言わせると,「自分は交渉を続けるつもりがあったのに,交渉を拒否したと受け取られてしまい中断した」という。イスラエルは「Yes, but 」であったが,アラファト議長は「No, but 」であったために,そのように受け取られて交渉中断にいたったとの裏話がある。

 その後,エジプトが仲介して,エジプトのタバでイスラエルとパレスチナが直接交渉をし,ほぼ合意に達するところまで行った(2000)。ところが,そのときはすでに遅すぎた。それを担っていたエフド・バラク首相(労働党の和平推進派)が,直後の選挙で政権を降りることが確実となったために(2001),交渉が中断してしまった。

 更に2001年の9.11同時多発テロの発生や第二次インティファーダ(パレスチナ抵抗運動)が激しくなり,また最近ではレバノン南部の紛争もあり,話し合う雰囲気が消滅してしまった。現在でも交渉再開の雰囲気にはまだ至っていない。

 しかし,冷静に考えれば,解決策はあると思う。これまでの努力から解決策の原案はできている。すなわち,上述したクリントン政権時代の和平案,タバ合意案,その後,(政府間交渉ではないが)両者の和平推進派が協力して作ったジュネーブ和平案というものもある。これらはよくできている。解決策があるとすればこれしかないというほどのものだ。ただ,それが実現するためには双方において和平推進派が政権を担うと同時に,それぞれの国内においても国民的支持を得られなければならない。そこに中東和平への道の難しさがある。それでもまだ希望の道はあると信じている。

 中東和平における日本の役割は,双方の和平推進派を育て勇気づけていくことではないかと考えている。中東地域においてエジプトも同様の立場にあり,実際これまでも積極的に中東和平にかかわってきた。イスラエルと互角に戦える力を持つ国は中東地域ではエジプトを置いてないからである。それゆえイスラエルもエジプトと手を握って交渉を進めるのが得策である。アラブ諸国ともイスラエルとも米国とも良好な関係を維持している日本としては,エジプトやヨルダンと連携しつつ,将来適当なタイミングで中東和平の推進のため積極的なイニシアチブを発揮すべきであろう。
(2006年9月4日)

 注1 核兵器の不拡散に関する条約(核不拡散条約,NPT)
 
 第4条<原子力の平和利用>
 
 1 この条約のいかなる規定も,無差別にかつ第一条及び第二条の規定に従って平和的目的のための原子力の研究,生産及び利用を発展させることについてのすべての締結国の奪い得ない権利に影響を及ぼすものと解してはならない。
 
 2 すべての締結国は,原子力の平和的利用のため設備,資材並びに科学的及び技術的情報を可能な最大限度まで交換することを容易にすることを約束し,また,その交換に参加する権利を有する。締約国は,また,可能なときは,単独で又は他の国若しくは国際機関と共同して,世界の発展途上にある地域の必要に妥当な考慮を払って,平和的目的のための原子力の応用,特に締約国である非核兵器国の領域におけるその応用の一層の発展に貢献することに協力する。

 注2 IAEA追加議定書(Additional Protocol)
  
  IAEA追加議定書とは,IAEAと保障措置協定締結国との間で追加的に締結される保障措置強化のための議定書である。1993年,イラク及び北朝鮮の核兵器開発疑惑等を契機に、IAEA保障措置制度の強化及び効率化の検討(1993年より2年で検討を行うこととしていたため,「93+2」計画とも呼ばれる)が行われ,その結果として,モデル追加議定書(INFCIRC/540(corrected))が,1997年5月にIAEA理事会で採択された。
  
  追加議定書を締結した場合,IAEAは,その国において保障措置協定よりも広範な保障措置を行う権限を与えられる。具体的には,追加議定書を締結した国は,(1)現行の保障措置協定において申告されていない原子力に関連する活動に関し,申告を行うこと,(2)現行協定においてアクセスが認められていない場所等への補完的なアクセスをIAEAに認めることが義務付けられる。
  
  06年2月現在で,追加議定書の締結国は日本を含む74カ国であり,イランは署名しているが未締結。(外務省HPより引用)