東アジア経済発展のエートスを育んだ水田稲作社会

―水田稲作の起源からの考察

日本大学教授  池橋 宏

 

1.はじめに

 われわれ日本人は農業といえば水田耕作を思い浮かべる。そして農耕といえば,水田という農地にイネという作物を栽培することだと考える。ところが,世界中を見渡しても,農地に水を入れて浅い池のような状態にして,その水の中に作物を植えつけて穀物を生産する「農耕」は他にはなく,きわめて特殊な形態である。水田とは,水をかけられる灌漑(irrigated)農地ではなく「水を湛えられた(flooded)農地」である。実は,畑に穀物の種を播いて栽培することと,水田という水を張ったところへ穀物を栽培することは,同じ農耕といっても,見た目以上に違いがあり,それにかける労力も生産力も全く違う。さらに,それによって生きる人々の生活も全く違ってくるのである。

 ここに人口分布とコメの生産を示した一対の地図を示す(図1)。この図から,稲作の行われているところと世界の人口密度の高いところが大体重なっていることがわかる。このことは,雨量の多い地域でいかに稲作が農耕として優れているかを示すとともに,それが一つの特異な社会を形成してきたことも示唆している(この図は,1970年代半ばに作られたもので,その後のアジアの経済発展および人口増加以前の様相を示しているので,その相関関係を示すのに役に立っている)。

 このような水田耕作が,東アジア農耕(とくにモンスーン地帯)の基本的な性格を形成したことは間違いない。ところが,水田稲作の起源に関する従来の説(イネの畑作起源論)からは,水を湛えて作物を栽培するという奇妙な水田稲作の特性が見えてこないし,その起源についても納得のいく説明ができていないのである。そこで本稿では,根栽農耕との関連を視野に入れて水田稲作農耕の起源や特性を見つめ直し,あわせてアジア・モンスーン地帯の水田稲作社会のあり様との関連性についても考えてみたい。

2.イネの畑作起源論と根栽農耕

(1)照葉樹林農耕論
 これまでの稲作起源論は,日本では照葉樹林農耕論の立場から次のように説明された。イネという作物は夏作の雑穀であり,雑穀栽培の本場であるインドから渡来したか,あるいはその影響下で,山地の焼畑で栽培された。稲作の実態からの考察からは,多様なイネが栽培されているのは,亜熱帯の丘陵地であり,インドシナ半島北部から中国・雲南省,さらにアッサムにつながる地帯でイネが栽培化された。また,ヒマラヤ南部の乾季と雨季が交代する熱帯地方で一年生の野生イネができて,それから栽培化されたという説もあった。

 そして東アジアの熱帯雨林の中に生まれた根栽農耕,つまり株分けで作物を増殖させる根栽農耕は,雑穀栽培に先立つ原始的な農耕とされた。そして根栽農耕が変形して,熱帯の北方に広がる高地の照葉樹林帯に,ソバ,マメ,オカボなどを含む雑穀農耕ができ,それが水稲栽培に発展したと主張されてきた。

 さらに,イネの栽培化の過程については,一年生の野生イネの直播から始まったとの考え方や,初期のイネは陸稲的な栽培であったという見方が有力であった。種子を播いて栽培が始まるという点では,これまで大方の意見は一致していた。

 このようなイネの栽培化の説明に対して,イネの栽培や育種の経験を踏まえて検討を加えてみると,さまざまな疑問が出てくる。第一に,湿地でのイネの直播は,現代でも大変難しいのに,原始人がそれを数百世代にわたって続けたとする見方への疑問である。さらに,温暖な地域でイネの種子を直接広い水田に播くと,水田での発芽や除草の困難に直面する。第二に,畑に水がたまって棚田になるという見方にも不自然さが残る。第三に,現在の栽培イネは多年生の傾向を示すから,一年生の野生イネから栽培されたとする見方と矛盾する。陸稲はある程度特殊化の進んだものであるから,陸稲栽培が水田のイネに先行すると考えることも無理である。

 さらに,照葉樹林農耕論の主な提唱者である民族植物学者・中尾佐助(1916-93)は,華南からインドシナ半島に至る農耕,あるいは生業の実態を見たわけではなく,ミクロネシア,ネパールおよび華北など,自身の見聞の及んだところを照葉樹林ということばでまとめたのである。そして華南からインドシナ半島に至る地域の農耕が,山地の焼畑とは対照的な状況であることが見落とされた。

 照葉樹林農耕文化論は,柑橘類,茶,ウルシのほか酒や寿司などまで含む,東アジアの農耕文化の全体像を説明するものとして受容されたが,それらの要素の組み入れ方は全く便宜的であった。その中で稲作がどのように発展したか,またどのような役割を果たしたかは,深く考察されなかった。

(2)根栽農耕の視点
 これに対して,インドシナ半島から華南に広がる高温多湿地帯では,漁撈と根栽農耕が原始時代から重要な生業であり,それを基礎にバナナやサトウキビなどが栽培化され,農耕が発展したと見たのが,米国の地理学者・サウアー(O.C. Sauer,1889-1975)であった。また彼は,高地の焼畑から水田が出現するという畑作起源論の見方とは対照的に,根栽農耕で一般的に見られる作物の湿地での株分け栽培が,多年生であるイネの栽培化と栽培方法に関連があるだろうと推測した。

 私も彼の考え方にヒントを得て,この考え方から水田耕作という特殊な農耕の起源が説明できる可能性を考えた。そこで私は,華南からメコンデルタまでの地域を実際に踏査してみた。その結果,この地域には,多種多様な植物が野生と栽培の連続状態の中で利用されていることが観察された。根栽農耕,とくに水辺の有用植物を株分けで栽培することが広く行われていることが再確認された。

 そのなかで半ば野生状態にあるサトイモの生育状況はきわめて興味深いものであった。野生植物ではないが,丁寧に管理されてもいないという姿をいたるところでみた。つまり,かつて人間によって手を加えられたが,いまはほとんど放置されているのである。雲南省からラオスでは,小さな「水田」や屋敷内の小水田で,サトイモが栽培されているところが見られた。どうしてそうなったかを改めて問うてみれば,かつてはイネもサトイモも同様の環境で同じように栽培されていたが,弟分であったイネが圧倒的に広まったために,サトイモは隅に追いやられたのであろうと推察される。このような考察から,イネはかつて広く存在した漁撈=根栽農耕を背景として,株分けで栽培化されたのではないかと考えたのである。

 サウアーの根栽農耕論は,漁撈とともにそこで利用されている株分け繁殖の植物の多様さを指摘した。このような観点からみると,長江流域からインドシナ半島北部に至る広い地域の湿地の根栽農耕のなかで,イネの株分けによる栽培化の潜在的条件があったと考える。そこは多年生の水辺の野生イネの認められるところである。イネと似たような地域で栽培化されたハトムギが,実は装身具用植物であるジュズダマから栽培化されたように,イネも初めは玄米茶などのために,家屋の裏庭の浅い小さな水たまりで株分けで栽培されたのであろう。そこでイネは,無意識的に選抜され,多くの穀粒をつける作物となり,「農耕」の対象にまで成長したとみられる。

 このように考えると,イネという作物がなぜ水を湛えた水田で栽培されるようになったか,またなぜ苗代や田植えが必要であったかが,無理なく説明できる。またこの仮説は,イネの栽培遺跡の考古学的な発見とは別に,イネの栽培化の始まった地域の推定に有効である。実際に古い稲作遺跡は,長江の中・下流域に集中しており,野生イネの栽培化は,その地域で始まったと考えられる。このように小さな水田で株分けによって始まった稲作は,次に種子をとって苗代に播いて栽培されるようになると,その適応範囲を拡大し,株が越冬できない地方にも,また陸稲としても普及した。

3.水田稲作の卓越性と「越」人によるその伝播

(1)水田稲作の利点
 実は,古代の人たちには考えも及ばなかったことかもしれないが,水田稲作は農業としては奇跡といえるほどすぐれたものであった。このような水田稲作の卓越性がなければ,水田稲作の波及も稲作民の広い地域への発展もなかったはずである。水田農業の核心は,水を湛えることによるさまざまな効果であるが,その主なものを挙げてみる(水田は,単なる農地ではなく,また灌漑される耕地でもなく,「水を湛えるために構築された人工の施設」である)。

 第一に,肥料分の保持と有効化である。作物の栄養としては土壌中からの窒素(N)の供給が第一に重要で,それは「地力」あるいは土壌肥沃度と呼ばれるものとほとんど同じである。畑では,有機物に含まれる窒素が酸化され雨水によって流され,作物に利用できなくなる程度が高い。一方,水田では土壌が水によって空気から遮断されるから窒素の酸化が抑えられ長らく利用される。欧州の農業では,このために畑の地力が維持できず一作ごとに肥沃度が逓減し年々収量が減るので,家畜を飼養してその排泄物を利用したり,休閑地を設けて地力の回復に努めてきた。日本での試験結果でも,水稲は肥料の施用がなくても完全肥料に比べ80%近くの収量を上げるが,陸稲を含めた畑作では,無肥料での収量は40%に留まる(図2)。

 第二に,連作を可能にしたこと。畑作では,前作の残りものから病原微生物が蓄積され病害が増える。一般に畑作では連作ができないので,ローマ時代には2年に一度の休閑(二圃式),中世ヨーロッパでは三圃式農法(2年の輪作と1年休閑)などが取られた。水田では,湛水によって土中の好気的な病原微生物が死滅するから,連作によっても病原菌が次第に増えることがなく,毎年同じ土地に栽培ができる。また,畑作では,土壌中のリン酸が鉄やアルミニウムと結合して植物に供給されない状態(不可給態)になるが,水田ではそれらの結合が弱く,イネに利用されやすい。

 第三に,水田では畦を築いて水を湛えるために,降雨によって土が流れることがない。一方,畑では,土壌浸食によって畑が荒廃する恐れが常にあった。
さらに,湛水状態では,土壌の極端な酸性あるいはアルカリ性に対して緩和作用がある。そして湛水状態では,耕作するときに土の塊が半分水に浮いた状態になるから,その扱いに要する力は軽減される。雑草についてみると,ある程度の深さの水を張ると,それに耐えて伸びる草の種類は少ない。このように,水田稲作はまさに奇跡的といえるほど恵まれたものとなった。

 中世ヨーロッパでは,ムギの播種量に対する収穫の割合は4倍であるが,日本の奈良時代でも,水田耕作は播種量のおよそ25倍の収量が基準であったという。一般に,狩猟・採集社会から農耕社会へと移行すると,直接の生産者の生存に必要な量以上の穀物が生産されるようになる。その際に,水田稲作がいかなる畑作農業に比較しても人口保持に必要な食糧生産性にすぐれ,最も経済的であるからであった(永井威三郎『米の歴史』)。

(2)水田稲作の担い手=越人
 実際に古代から水田耕作の発展を支えたのは,長江中・下流域に住んでいた「越」=タイ系の人々であったと推察される。1970年以降,河姆渡遺跡,彭頭山遺跡,草鞋山遺跡など長江中・下流域で多くの遺跡が発掘され,あわせて稲作の跡が発見されたことから裏付けられる。また,雲南からはこれらに匹敵する古い遺跡は出ていない(図3)。

 最古の稲作遺跡の一つ河姆渡遺跡が春秋戦国時代の「越」の故地会稽の近くにあり,同様の草鞋山遺跡が「越」と隣接する「呉」にあるということは,水田での稲作の栽培化とその伝播を考える上で有力な手がかりを与えてくれる。「越」は紀元前4世紀に楚によって滅ぼされ,その住民は南に逃げて「百越」といわれる小さな国々を建てた。越人は今日のタイ語に近いことばを話し,中原といわれる黄河流域の人々とは違った独特の文化をもっていたといわれる。したがって,原始の水田稲作はタイ語に近いことばを話した越人によって主として行われたと考えられる。

 最近の中国の考古学的研究を踏まえた森本和男の説などによると,華南の新石器時代人は,古くから野生イネを目にしていたにもかかわらず,イネの採集は強化されず,豊富に繁殖する貝類の採集をならわしとしていたという。このような推論は,華南から東南アジアにかけて栽培文化よりも前に漁撈文化があって,漁業者が植物の栽培を始めたとみるサウアーの考え方と大筋で一致している。

 根栽農耕と漁撈は一つの生業の二つの面であって,それぞれデンプン質の栄養と脂肪・タンパク質の栄養とを補完的に供給した。さらに水を湛えてイネを栽培する水田稲作と淡水漁撈も補完的に発展した。イネの栽培化の潜在的条件は,このような漁撈・農耕文化の地帯に広くあったのだろうが,その中で,長江中・下流域のいくつかの地点がたまたまイネの栽培化で先行し,運よく発掘されたと考えるのが妥当であろう。

 最近,ダイアモンド(J. Diamond)とP.ベルウッド(Peter Bellwood)は,「農業は世界各地で不均等に発生し,農業を発展させた民族は社会的に優位な立場に立ってその農耕方式と言語を拡大し,狩猟・採集民族にとって代わった」という仮説を提唱し,北米を中心にいくつもの例について検証を試みた(2003)。この観点を援用すれば,次のように考えられる。華南からインドシナ半島にかけて焼畑の移動耕作と狩猟を生業とするのは,一般にチベット系あるいはモン・クメール語系の言語をもつ少数民族である。水田耕作に長けた民族は,チベット語系にも認められる。例えば,チベット語系のビルマ族は,タイ語系民族の横の回廊を縦断して,9世紀から11世紀にかけてビルマに進出し,後にイラワジデルタに出て稲作を展開した。大理王国(937-1254)を築いた雲南の白族も稲作に長けている。チベット系の焼畑を生業とする民族に対して,定住で水田耕作をするタイ語系の民族の生業には多くの利点があるから,タイ語系のことばを使う民族が華南からアッサムまで拡大したと理解できる。

 長江中・下流域での稲作の展開は先史時代のことであるが,歴史の記載がある時代にも,民族移動によって稲作は広く南に展開したと推察される。「越」の滅亡によって,長江下流域の進んだ水田稲作を持った人々が四散し,朝鮮半島を経て日本へもわたると同時に,ベトナムなど近隣地帯にも進んだ水田稲作を持ち込んだ可能性は大きい(図4)。
次に,水田稲作の伝播の担い手であったタイ語系の人々の暮らしの技術,すなわち生業の豊かさに目を向けてみたい。

 タイ,ラオス,ベトナムからビルマ(ミャンマー)のシャン高原に至るまで,村に相当することばとして「ムアン」(漢字では孟力)がある。この地域を踏査した私の見たところでは,雲南省の景洪からその周辺では「孟力」を冠する地名のところには例外なく,やや開けた谷があり,水田があり,タイ人の集落が見られた。この地名は定住の水田農耕集落を示し,水田耕作をするタイ語系の人々の広範な分布を示している。この生業とともに味噌や醤油などの発酵食品や鵜飼などが維持され,サウアーの指摘のとおり,ショウガなどの香辛料への執着が漁撈農民の大きな特徴である。雲南省南部の景洪はタイ人の自治区であり,彼らは漁撈と水稲耕作と鵜飼,高床住居をもっている。

 なお,モン人,クメール人などの勢力は,縮小・停滞をみせてきた。

 その点については,稲作の方式から説明が可能かもしれない。タイ語系諸民族の稲作では,雨季の雨に頼る河川灌漑によって水田で集約的に営まれるが,クメール稲作では,インド式の池水による灌漑であり,外見上は水田になるが,その基礎には畑作農業がある。すなわち,雨季のくる前の畑状態の農地に直播して,水位が上昇すれば水田になるというもので,集約の程度は低い。この方式は,カンボジアからタイの中央平原で,乾季と夏の洪水が繰り返される環境に適したと見られる(深水イネ,浮きイネの栽培)。畑作を基礎としているために,このような稲作の収量は,現在でもヘクタールあたり2トン前後かそれ以下である。

4.水田稲作社会とは

(1)畑作社会の特徴
 水田稲作社会のあり様・特徴を考えるには,畑作社会のそれと比較考察することでより明確になるので,まず畑作についてみてみる。

 畑作は,一般的に言えば乾燥地帯の穀物農業であり,湿潤・多雨の東アジアには導入が難しいものであった。畑作農業は,メソポタミア地方あるいはその周辺で,1万年くらい前から始まったと考えられている。この地方の気候の特徴(地中海性気候)を挙げると,秋から早春にかけては冷涼・多雨で,晩春から夏にかけては高温・乾燥である。夏でも葉をつけていられるのは,カシやオリーブなど硬葉樹だけで,草は枯れ,人々は日蔭に涼を求める。

 地中海性気候の地域に適した植物は,秋に芽を出して晩秋から春にかけて青々と生育し,晩春には開花して結実する。秋から春の短い期間に種子に十分に養分を蓄えて地面に落として厳しい夏を過ごし,秋にはまた発芽する。このような気候では,植物は茎葉の繁茂の少ないわりに大きな種子をつけるようになったのだろう。このような地域では,季節の特徴に適応した越年性の一年生の植物となる。このように野生状態の中から栽培植物に近い特性をもつ穀物ができていたような状況であった。このようなところから最古の穀物栽培農業が始まったと考えられる。また,これとは対照的に夏に雨季がきて冬に乾季に見舞われるインドやアフリカ北東部,サハラ砂漠以南などでは,ソルガム、シコクビエ、トウジンビエなど春に播いて秋に収穫する穀物が栽培された。

 いずれにしても本来の雑穀農耕は,起伏の緩やかな大陸的な地形で,畜力を利用して大面積を管理し,必要な収穫量を上げる性質のものである。そのため強制力によって組織された労働が必要であった(例えば,ローマ時代には家畜的境遇の奴隷がたくさん耕作に使われた)。東アジアの雑穀農耕は,中国・華北の黄河地域で栄えた。ムギの導入が周王朝発展の基礎になったが,基本的に華北の農耕は畑作農耕であり,淮河以南の華南地域とは違う社会を育てたのである。

(2)東アジアの水田稲作社会
 水田稲作の卓越性は既に述べたが,このことと東アジアの文明的発展とは相関関係があるように思われる。もし水田稲作がなかったならば,温暖・多雨の東アジアにまともな文明ができただろうか。

 永井威三郎は,水田稲作の卓越性と社会発展の関係について,「安定社会の発展を促し,動的社会から静的社会への移行を誘致した」と述べた。このことを労働生産性の見地からみると,手労働の及ぶ範囲の3〜5反(30〜50アール)ほどの水田があれば,一家族の生存に必要な最低の食糧が得られる。中国の司馬遷は,『史記』「貨殖列伝」で「(華南は)イネと魚を食べ,地に植えて豊かに食べ,飢饉の憂いなし。凍餓の人もない代わりに,千金戸(富豪)もなし」と述べたが,まさにそのとおりである。

 日本の農業政策の根本は,戦前から「自作農維持・創設」にあった。家族労働が水田稲作の耕作できる規模とだいたい釣り合いが取れているということから,あたかもそれが自然的原理であるかのように認められてきたからであろう。実は,これは自然的原理ではなく水田耕作という農耕によるものであることが,日本の中だけで見ているために理解できなかったのである。

 他方,1986年当時のイギリスでは,一農場平均100ヘクタールを経営していた。ここでは農場は「農家」ではなく,経営される組織である。当時西ヨーロッパのフランスなどの畑作では,家族あたりで30ヘクタールほどの面積を耕作していた。人力の範囲を超えるので畜力か機械の助けがどうしても必要である。20世紀になり化学肥料から窒素が供給されるまで,畜力と家畜から出る肥料なしに再生産可能な畑作を考えることは難しかった。このようにヨーロッパ式農業では,農場主と雇用される労働者などの人の組織がないと生産ができない。東ヨーロッパの農地改革で,小農民に土地を分配して経営が分解されると生産力がガタ落ちしてしまったという話もある。また,牧草を家畜に食べさせて乳・肉から栄養を取るとすると,穀物から栄養をとるより7倍の面積が必要であるとされている。歴史的にみてもヨーロッパの農業では,肥沃性の維持と家畜の飼養のための苦闘の跡が見られる。そこには産業革命と並行して農業革命が行われながら発展してきた歴史があった。

 これに対してアジアの灌漑水田農耕は,古代からほぼ完成しており,かなり安定した性質(小さいが自足的社会)があったために,劇的な変化はほとんど見られなかった。中国・長江の中流域の湖北省の広い農村で1987年に私が見たところでは,農家当たりの耕作面積がおよそ30アールであった。冬にはアブラナを栽培した後,イネを二作していた。このように水田稲作では,手作業の及ぶ範囲で家族の穀物が自給できるのである。

 こうした一連の流れは,古くは中国の『農家』の思想,日本の二宮尊徳の勤労哲学に至るまで,東アジア地域に「農本主義」として脈々と受け継がれてきたのである。そこには畑作を基調とする社会に見られる強制力を伴う姿はなく,むしろ自発的な勤労精神の基礎があったように思う。

 日本の場合には,それが自発的で勤勉であるという農民の特性に現れ,さらには産業労働者や中小企業の中に生かされて産業発展の基礎となったと見られる。これはまた東アジアや東南アジアの水田稲作社会の潜在力の考察にも有効な視点を提供している。こうした基礎が近代化による東アジア諸国の経済発展を後押しするエートスを形成したと考えている。(2006年6月27日)

<参考>アフリカの稲作
 
 アフリカの稲作には水田農法の考えがないために,稲作のたびに沃土が流出してしまい,残りは砂となり,一作ごとに土地が貧弱化していく。一方,アジアの水田は一作ごとに土地がよくなっていく。それでアフリカでも水田を作れば土壌が安定するとともに食糧問題も解決できるのではないかとさえいわれている。
 
 アフリカのなかでは,エジプトがイネの最大産地である。エジプトの畑作では塩分がたまるので定期的に除塩作業が必要になるが,そのときに水をためる水田稲作を行う。湛水によって土壌が回復すると翌年から再び畑作に戻る。その他の主なイネの産地は,西アフリカである。とくに西アフリカでは,約4000年前からアフリカ独自のイネ(アジアのイネとは違った種類)を栽培化している。
 
 アフリカの穀物農法は,メソポタミアなどにおける畑作農法が普及し確立した後にその農法が導入され,地場植物をそのやり方で栽培化したものである。つまり,アジアでは,稲作によって農耕が始まったと考えられるが,アフリカのイネは,農耕がすでにあるところに,地場のいろいろな植物を試していくなかでイネも栽培化されたのである。その後,大航海時代にアジアのイネもアフリカにもたらされた。また,アフリカイネ,トウジンビー,ソルガム(キビ)などは,史前にアフリカとインドで共通して栽培化された。
 
 コートジボアールには西アフリカ稲作研究所という組織があるが,そこに日本は相当の財政援助をしてきた。それはアジアの稲作の経験をアフリカに生かすという試みである。アフリカの農民および農業指導者は水田の利点を知らないので,これからはアフリカの農民たちをアジアに連れてきて研修することが重要ではないかと思う。近畿大学農学部の若月利之教授は,「水田がアフリカを救う」といっている。