チンギス・ハーンの魅力とモンゴル学

東京外国語大学名誉教授  小澤 重男

 

1.「モンゴル学」のユニークさ

 私がモンゴルを初めて訪れたのは,1959年にモンゴルのウランバートルで第1回「国際モンゴル学者会議」(英文名称:The First International Congress of Mongolists)が開催された折に,恩師の坂本是忠先生(東京外国語大学元学長,1918-81)とあべ松源一先生(大阪外国語大学名誉教授)にお供して参加したときであった。当時のモンゴルは,1921年に人民革命を起こし,24年にモンゴル人民共和国を樹立して以来,ソ連に次ぐ二番目に古い社会主義国の時代であった。そのころ日本とは国交がなかったので,日本でビザを取得することができず中国でビザを申請・取得して初めてモンゴルに入国することができた。日本から約2週間の日時を要する旅であった。いまと比べれば格段の違いである。

 「国際モンゴル学者会議」は,1959年の第1回から第5回まで「モンゴル科学アカデミー」(the Mongolian Academy of Sciences)が中心となって会議を招集した。以後,ほぼ5年ごとに開催し,1987年第5回のときに,現在の名称the International Association for Mongol Studies(日本名,「国際モンゴル学会」)の学術団体として組織され,同時に学会規則も制定された。また翌第6回のときに私が同会長に推挙され,現在に至っているが,第1回から前回(第8回,2002年)まですべて参加しているのは私くらいのものであろう。

 この会議が開催された背景を考えてみると,モンゴルは1961年に国連に加盟したが,その数年前から世界にモンゴルを認知させていくような意味で,世界のモンゴル学の研究者を集めた会議を開催したのであろう。第1回会議は,59年8月末から9月にかけてモンゴルの首都ウランバートルで開催された。共産国家における開催であったが,そのような緊張感はなかったように記憶する。米国,英国,東西ドイツ(当時),中国,北朝鮮など十数カ国からの約30名を含めて,全体で100名あまりの,文献学,言語学,歴史学,国際関係論などの専門家が集まって開かれた国際会議であった。

 考えてみると,モンゴル学という学問が存在し,それを中心として世界に散らばる学者・研究者が一堂に会するということは,とても興味深いことである。日本については「日本学」(Japanology)があるが,その研究集会や世界総会の如きものはない。中国についてもChinologyという言葉はあっても,その学会や世界的な団体があるわけではない。然るに少数に属する民族の学問(Mongology)について,学会や世界的な組織があり,世界から学者が集まるのは面白い現象である。

 その背景には,第1回からずっとモンゴルのウランバートルで開催してきたことがあるかもしれない。モンゴルのウランバートルそのものに関心を持つ人々もいたことであろう。一般に国際学会は各国持ち回りで開催していくが,この学会はずっとウランバートルでのみ開催してきた。

 そして,第6回,7回ごろからは韓国からの学者も参加するようになり,最近では中国の内蒙古からも多くの方が参加している。研究分野も拡大し,2002年の第8回大会には海外から100名以上参加する大きな国際学会となった。とくに中国からは大型代表団が参加し,日本からも毎回20〜30名参加している。国際学会としてはりっぱなものだ。この学会の目的は,モンゴル学の振興とその研究者への支援,さらには世界のモンゴル学研究者相互の交流を促進するところにある。現在,世界の多くの学会など研究団体も加入している。

 前回第8回は2002年であったので,本来は5年毎の開催なので第9回は2007年となるはずである。しかし,2006年はモンゴル帝国建国800年記念の年であるために,それとあわせ一年早めて今年8月に開催される。

 ところで,日本のモンゴル学は世界的にみてもその水準はきわめて高いものがある。それは初期の学者たち,とくに歴史学者が大きな業績をあげてくれたおかげである。例えば,東京では白鳥庫吉(1865-1945),言語学の服部四郎(1908-95),京都には内藤湖南(1866-1934),羽田亨(1882-1955),安部健夫(1903-59)など錚々たる人々がいた。那珂通世(1851-1908)による『元朝秘史』の翻訳書『成吉思汗実録』は明治時代に出されたものだが,立派な内容であった。

 ドイツもモンゴル学が盛んな国で,立派な学者がでた。学問は優れた学者がでないと育たない。ドイツ・フランス・ロシア(旧ソ連)など世界各地にすぐれたモンゴル学の研究者が分布していたので,それが国際的なモンゴル学を育て上げる素地となったのだろう。

2.『元朝秘史』の魅力

 モンゴル学,そのなかでも言語学,歴史学,文献学の中心史料は『元朝秘史』(以下,「秘史」と記す)である。現在,「秘史」の研究者は世界的に散らばっており,例えば,英・仏・独・露・中・韓国・フィンランド・ハンガリーなどその翻訳書が出されている。一つの文献に対する研究としてはすごい蓄積がある。

 私はモンゴル語学を専門とする者であるが,その中でとくに「秘史」の言語をかなり長い間研究してきた。この「秘史」と通称される書物が,モンゴル民族の古い歴史を誌した古典であることは,とくに東アジアの歴史・風物に関心をもつ研究者の間において,わが国でも以前から知られていた。「秘史」という,異体のモンゴル語文献が,現在まで伝存していることも興味ある問題である。さらにこれは,モンゴル史学,モンゴル語学をはじめとして,12-3世紀チンギス・ハーン時代のモンゴル人の社会・宗教・習俗など,いわば文化一般の研究のためのかけがえのない貴重な文献でもある。

 また,世界的にみても,「秘史」に関する学問レベルは,洋の東西を問わず,モンゴル民族の古典研究の点では異例の広がりをもっており,「元朝秘史学」とも呼ぶほどの一分野を形成している。しかし,学問の世界ではこのように関心の高い文献ではあるが,一般の人々にはそれほど知られているわけではないように思う。

 「秘史」が世界の学者に多く読まれるようになり,さらにその研究を通してテムジン,チンギス・ハーンという人間像が浮かび上がってきた。それがなかったらモンゴルの一英雄にすぎなかったであろう。

 ところで,通説によるとモンゴル人が文字をもつようになったのは,チンギス・ハーンの時代であった。その詳しい経緯は次のとおりである(『元史』巻124より)。

 宿敵ナイマン(乃蛮)部族を1204年の春,ナクの懸崖に破ったチンギス・ハーンは,ナイマン帝タヤン・ハーンに仕える高臣タタトゥンガを捕えた。彼はタヤン・ハーンの下で,金印を持し,物品・財政を司った文臣であった。チンギス・ハーンは,印璽をみてその何たるかを尋ね,ウイグル文字の存在を知り,そのウイグル文字を自ら学び,諸王子にも学習させ,モンゴル語を表記させた。モンゴル人の文字使用はこのときに始まり,このウイグルから字を借用したモンゴル文字はウイグル式モンゴル文字と呼ばれ,現在「内蒙古自治区」などで用いられるモンゴル文字の基礎となった。現在のモンゴル文字は,ウイグル式モンゴル文字の字形に若干の改変を加えたもので,基本的には大きな差異はない。

 このように13世紀初めに,モンゴルの人々はこの文字を使って己が部族の英雄チンギス・ハーンの生涯の歴史を記録したのであった。これが今日に伝わる「秘史」の原典になった可能性はあるであろう。

 実は,チンギス・ハーンの時代のモンゴル語で書かれた「秘史」の原典はすでに失われて現存しないが,幸いなことに,特異な形態で今日まで伝承された。つまり,本来的には私的な「隠れたる」文書が,歴史の偶然から思わぬ姿で世に現れ,その外形と内容が後世の学者たちによって探究され,今日13世紀のモンゴル草原を埋めた人々の歴史の一端がチンギス・ハーンという稀有の人間とともに蘇ったのである。

 その「秘史」のテキストは,すべて漢字で書かれているのだが,それを読んでも中国人には分からない。それはモンゴル語を漢字に音写したものであり,漢字で書かれていたがゆえに残りえたと考えられる。元の次の明の時代に,この本が見つかったときに「漢字で書かれているが(中国人にも)読めない。一体何だろうか。」との思いが「秘史」の焼却を免れしめたのではあるまいか。それ以外の元朝の文献は焼かれたり処分されてしまった。これだけが残ったのである。

 すなわち,漢字音を借りてモンゴル語を表記する方式によって書写されたテキスト(漢字音写モンゴル語)が,「秘史」の根幹をなしている。さらにその各モンゴル語の単語ごとに漢語訳が施されている(傍訳)。そして一つの節ごとに漢語訳の「総訳」がつけられており,これら三者一セットによって構成されている。

 漢字音を借りて他の言語を表記すると言う点では,日本の「万葉集」の字音読みの方式と軌を一にするものではあるが,「傍訳」「総訳」が施されている点は,大きな違いといえよう。

 この「秘史」の内容について,一言で言えば,その中核はチンギス・ハーンの一代記といってもよい。モンゴル人の族祖伝説――モンゴル族が,蒼き狼と薄栗毛色の牡鹿から生成発展したという族祖伝説――から説き起こし,テムジン(後のチンギス・ハーン)の出生にいたるチンギス・ハーン前史。そしてチンギス・ハーンの没した以後,最後までは,チンギス・ハーンを継いだ2代目オゴデイ・ハーン(太宗)の若干の物語,いわばチンギス・ハーン後史である。この前後にはさまれた中核部こそは,チンギス・ハーン一代記であった。言ってみれば,「秘史」は,モンゴル人が書いた最初のチンギス・ハーン伝とみることができよう。チンギス・ハーン一代記は,分量的に見ても,全体のほぼ五分の四を占めているので,そう呼ぶゆえんである。

 チンギス・ハーンには,人間的魅力がある。非常に単純明快に,「人の道からはずれたことはやるな」という生き方の原則(プリンシプル)を示しながら生きてきた。例えば,人間は人が困ったときには助けてやらなければならない,うそつくな,など一般的道徳律のようなものをしっかりと守った人であり,東洋的徳目をしっかりと備えた人であった。時には,「自分のいったことばに責任を持て。それができないときには,責任をとらねばならぬ。」とまで言った。このように「秘史」のなかには,チンギス・ハーンをはじめとしたモンゴル人の考え方,生き方がふんだんに出てくる。チンギス・ハーンの考え方,生き方は,日本人のそれと通ずるものがあるように,私には思える。

 東洋史の研究者がよく言うことには,チンギス・ハーンが東の世界と西の世界を切り拓いて道を作ってくれたと。モンゴル人は,中央アジアのちょうど真中にいても,東と西とをシャットアウトしなかった。むしろ東と西とをコネクトしてくれたといえる。これから将来に向っても,こうした役割をモンゴル高原の人々に担って欲しいと願うものである。
(2006年6月17日)