教師の教育力向上と学校・大学改革

九州大学大学院教授 八尾 坂修

 

ここ数年,青少年をめぐるさまざまな事件や問題が頻繁に発生するとともに,学校教育に目を向けても,いじめ,不登校,学級崩壊,学力低下,教員の指導力不足など課題が山積しており,危機的状況にある。家庭,地域社会,学校が一致協力して当たっていかなければ,こうした問題の解決は難しい。その中でもとくに学校教育に対する期待が大きいが,教師をめぐる昨今の状況は大きく変化しており,それを担う教員の資質能力が改めて問われている。 

 昨今の教育界では「教師力」「学校力」「人間力」がキーワードとなっている。それは,教師力の向上が学校力の向上につながり,さらには子供の人間力を高めることにも連結しているからであり,そこに問題解決の糸口があるように思われる。そのような中,06年7月に中教審答申「今後の教員養成・免許制度の在り方について」が出された。改革の大きな方向性としては,@大学の教職課程を教員として必要な資質を身に付けさせるものに改革する,A教員免許状を,教職生活全体を通じて教員として必要な資質能力を確実に保証するものに改革するの二点である。さらに具体的方策としては,@教職課程の質的水準の向上,A教職大学院制度の創設,B教員免許更新制の導入の三点が挙げられた。

 そこで,以下,それらの内容について説明してみたい。

1.教員の教育力向上のための施策

(1)教職課程の質的水準の向上
 中教審答申「今後の教員養成・免許制度の在り方について」の「答申のポイント」には,次のように述べられている。

現在,教員に最も求められていることは,広く国民や社会から尊敬と信頼を得られる存在となること。養成,採用,研修等の改革を総合的に進める必要があるが,とりわけ教員養成・免許制度の改革は,他の改革の出発点に位置付けられるものであり,重要。

改革の方向としてまず,教員養成・免許制度改革を出発点におくことが示された。現在,教員養成は全国のおよそ800の大学に置かれた教職課程を中心として行われているが,大学の教職課程を,教員として必要な資質能力を確実に身に付けさせるものに改革しなければならない。

 教員になるには,養成教育と採用試験を経て,その後現職生活のなかで自己研鑽のために研修(研究と修養)を受けるというプロセスを経るが,その改革を総合的に進める必要がある。実際,学生が教員採用試験にパスしてもその後どうなっているか把握していない大学もあり,教員養成に片手間で取り組んでいるようでは困る,というのが答申の発想である。

 そこで,教職課程の質的水準を向上させ,大学の学部段階で確実に教員として必要な資質能力を身に付けさせる。具体的には第一に,「教職実践演習(仮称)」が新設・必修化されることになった。これはすべての大学を対象とし,多くても20〜30人程度の少人数で,教師になるための基本を学んでもらうシステムである。人件費もかかり,学内だけでは実施できない大学も出てくるかもしれない。それで教員採用試験の合格率がゼロに近いような大学は,自主的に教職課程を検討していただくしかないだろう。

 ところで,全国の教員の平均年齢は45〜6歳くらいであるが,これは政策的に考えれば人件費の負担が大きいということになる。今後十年間に退職年齢に達する教員も多いので,新たな教員の採用が増えると予測される。この点も含めて,教師の教育力向上のために大学における組織的指導体制の整備が求められるのは確かである。

 第二に,教育実習における大学の責任ある対応が法令上,明確化される。教育実習は,学校側から見れば義務ではないので仕方なく引き受けているというのが現状である。とくに教員養成系大学には付属校があるが,残念ながら実習のための学校が進学のための学校となっている。一般の大学には実習校がない。もちろん大学と学校が協定を結んだりしてはいるが,大体は学生の母校に実習の受け入れをお願いしている現状である。しかし母校で実施すると評価が甘くなるという問題がある。愛知県などでは,母校には送らず母校外の学校で実習させている。送り出す側も受け入れる側も責任をもって教育実習に取り組まなければならない。大学のアカウンタビリティとして,指導能力や適性に問題のある学生は実習に出さないということも必要であろう。

 第三に,「教職指導」の実施が法令上,明確化される。教職課程を設置する大学のトップに,どのような教師像で教育するかを明言するよう期待するということである。トップが責任をもってやる以上,組織としての責任体制が保証されなければならないからだ。大学として適当に取り組んでいればいいという時代ではなくなった。

 答申ではこのように提言しているが,文部科学省も教職課程をかなり厳しくチェックするようになった。例えば,シラバスについては,タイトルと内容が違うとか,四人の先生が同じ授業科目でまったく違う内容を教えているなどと指摘することもある。教師になる前段階の養成課程のあり方から見直そうということである。

 「教職課程に係る事後評価機能」も,これまであまり見られなかったことである。場合によっては是正勧告や認定取消も可能な仕組みにして,以前よりも認可後の責任が問われるようになってきた。

(2)教職大学院制度の創設
 近年日本の大学でも,米国の大学を参考にしたビジネススクールやロースクールなどの専門職大学院が設置されている。教育分野においても通称「教職大学院」と呼ばれる専門職大学院を作ろうという動きがあり,平成20年度から実現する方向となった。兵庫教育大学のように,それに近い条件で既に大学院を設置したところもある。教員養成系の国立大学や早稲田大学や玉川大学などの私立大学の中にも,教職大学院設置に向けて名乗りを上げているところがある。

 実は2年前にこの制度について審議会で審議をしたとき,当初学校側は大学院教育そのものを信頼していない様子で,「大学院を出たからといって,優れた先生とは思いません」と述べる委員も存在した。学校側には,大学側は本当に優れた教師を送り出そうとしているのか,との不信感があったようだ。

 しかしこの教職大学院は,単に教育の理論を教えるだけではない。理論をベースにした実践,あるいは実践をベースにした理論を取り入れ,学校における指導力に直接的に結びつく内容を教育することを特徴とする。すでに医療教育分野では,このような考え方があったが,これまで教育分野ではあまりなかった。大学で教える側も学校現場の教員を務めた経験のない人が多かった。一方,米国ではほとんどの人が教員経験を持ち,その上でマスターやドクターの学位を取得して大学で研究者になっている。近年,日本でも実践的経験のある研究者が大学で教えるようになり,かなり様子が変わってきた。

 この教職大学院は,これまでの教育に対する意識を大きく変えるものである。したがって教員組織の中の実務経験者を四割以上とすることが要請され,実務経験も研究能力も兼ね備えた人材が求められている。ビジネススクールやロースクールでも同様の考え方に立って,会計士や弁護士など実務経験者が教壇に立っている。

 従来は大学主導ですべてやってきたかもしれないが,そのような時代は終わった。教育委員会との協力があって初めて成立する大学院なのである。東京では一つのモデルを打ち出した。中教審の答申に基づき,東京都教育委員会が教職大学院の活用案を作成した。それに賛同する大学院が今後,都教委と連携するようになると思う。カリキュラムも含めて,教育委員会と大学が一緒に検討した上で教職大学院を作るのである。そのようにしなければ文部科学省が認可しないし,教育委員会が責任を持つ大学院なら学校も教員を送り出すだろうという発想である。内容にもフィールド・ワークや事例研究がかなり入っている。

 教育委員会との協力によって,この教職大学院を卒業した人はある程度の能力があることが保証されるようになる。それゆえ出口としても,現場で指導力を発揮したり,昇進で考慮されたりすることも当然あるだろう。そうなれば希望があるので,入学する人も増えると思う。ロースクールも弁護士になれると思って入学してくるのである。

 一方,大学側には教職大学院を設置するとどのようなメリットがあるのか。教職大学院が認可されないような大学は評価が下がるので,教育分野でも大学間である程度の競争が起こってくるだろう。

 教職大学院の目的として新任教員,つまり学部を出たばかりの若い教員(ストレート・マスター)に道を開こうという意図もある。現職教員は「スクールリーダー」と呼ばれる中核的・指導的役割を担う教員として養成する。さらに免許のない人も大学院に入学させ,学部で基礎単位を取得できるようにすべきだとの意見もある。これは大学のサバイバル策としても意義がある。今後小学校の教員が増えると予想されるので,従来の大学院でも小学校の教員養成課程を設置した大学は倍率が高くなっている。それが移行して教職大学院となる可能性もある。

(3)教員免許更新制の導入
 日本の教員免許は終身制であるが,今後は現職教員や「ペーパー・ティーチャー」,これから志願する人も含めて免許を何らかの形でリニューアル(刷新)するようにし,その時々に求められる内容を学習してもらおうという発想である。自動車の運転免許のようにビデオを見て終わりとするものではない。イギリスでは医師免許でも更新制が始まっている。

 更新制というのは免許が有効期限付きであるということを意味する。十年ごとの更新なので,30年勤めても三回しかない。更新講習は直近二年間に30時間で通常のものとは異なるが,その時々に求められる資質能力を刷新(リニューアル)する内容である。更新の要件を満たさなければ免許が失効し,教員の資格を失う。しかしこれで落とされる人はほとんどいないだろう。学校の教員は従来から初任者研修や十年経験者研修などを受けることが法律で義務付けられており,特に十年経験者研修で落ちたという話は聞いたことがない。

 ここで求められているのは職能成長(professional growth)であって,指導力の低い教員を排除することが目的ではない。更新制という言葉が一人歩きして誤解されているようだが,あくまでも教員の自己研鑚のためであり,長い教員生活の中でリフレッシュしてもらうための学習機会だと考えるべきである。例えば,十年前ならコンピュータが使える先生はほとんどいなかったが,研修制度などを通じて学習すると教育に活用できることが分かった。現職はもちろん,免許を持っていていずれ教員になる意志のある人も更新した方が良いだろう。

 また「ペーパー・ティーチャー」の場合,免許が失効した後でも一定の講習を受ければ再び免許が有効になる制度も準備されている。ここが従来と違う点である。本当に教職に就きたい人にはチャンスを与えようということである。制度としての是非について多少の論議はあるが,来年度以降に更新制が導入される見通しである。

(4)新たな教員の人事評価の導入
 その他,答申では勤務実績を適切に評価する「上進制度」や,分限免職処分を受けた人の免許の取上げを可能にする「取上げ事由の強化」などが提言されている。

 従来から教員の勤務評定はあったが,どこの県でも形骸化していたのが実状である。これをもっと実のある制度にしようというのが新しい評価の考え方である。ここで勘違いしてはいけないのは,基本的視点は「育てるための評価」だという点である。民間企業では能力がない社員は即刻辞めさせることも不可能ではないかも知れないが,学校はそういうわけにはいかない。辞めさせるための評価ではなく,「自己に対するリフレクション」という意味で人事評価は必要だと思う。

 アンケートを実施してみると,実際に評価制度を導入して良かった点の一つとして,評価者である校長・教頭と教員が個別に面談する機会が持てるようになったことが挙げられている。校長の研修会で聞いてみても,これまでは教員と個別に話し合っているという人はほとんどいなかった。

 人事評価は言葉として悪者扱いされているようだが,個々の教員を育てるためにコミュニケーションを図るチャンスであるととらえるとよい。また面談することによって,管理職に対する誤解があったことが分かったという教員も少なくない。コミュニケーションを図らない限り学校力は向上しない。そのような意味で人事評価をプラス思考で活用すべきだと思う。

 逆に評価する側のリーダーシップと能力も期待されている。校長は単に評価するだけでなく,指導力を発揮することが期待されている。ゆえに人事評価を通じて教職員育成,学校力向上という発想で取り組んでもらいたいと思う。

 評価には客観性があるのかという指摘もある。人間である以上完璧な評価はできない。今まで校長が一人で勤務評定をつけて誰もその内容を知らないし,本人へのフィードバックもなかった。そこで新しい人事評価では面談などを通じて本人に結果をフィードバックすることになった。自己評価を踏まえて他者評価を行い,多面的評価観を取り入れるのが基本である。他者の意見を聴きながら,なるべく評価のバイアスを少なくするという発想である。

 例えば,五段階評価で「二」だった教師がいたとしても,むしろもっと頑張ってもらおうという働きかけが求められる。「二だから駄目だ」ではなく,「支援的リーダーシップ」が必要である。これは教師と子供の関係においても同じである。

2.学校の自己評価・外部評価の導入

 ―評価のプラス思考
 最近,「教育困難校」と呼ばれる学校を評価のために視察する機会があった。その中学校は生徒数が390名程度だが,不登校の生徒が40名もいた。それぞれの生徒は不登校になった背景も理由も異なり,家庭の教育力もまちまちである。今年からそのような状態を変えようと努力し始め,まず挨拶の実践から取り組んだ。教師も子供も朝の挨拶,来客への挨拶をきちんとして,学校の雰囲気を明るくすることから始めた。そのことでかなり学校の雰囲気が変わってきた。またその学校では保護者の希望で全盲の生徒が普通学級で授業を受けていたが,そのクラスにはお互いに助け合う雰囲気がありまとまっていた。

 その校長は,「以前は教師たちの意識がばらばらで,徐々に疲れて誇りもなくなっていった」と語った。「この学校はどうせ三年で転勤する」と考える教師もいたという。教師がそのような意識では困る。しかし,それが改善に向けた努力によって今は一体になって盛り上がり頑張ろうというように変わってきたという。

 このような様子をみると,すぐには成果が出なくても,何か特定の課題を通して学校改善の戦略を考えるということが必要である。最終的には,皆が組織の一員として学校を良くしていこうと連携して頑張っているかどうかである。

 それから一般に,学校は情報発信が上手ではない。例えば,学校としては問題を隠したいと考えがちだが,だからと言って問題・課題となっていることをそのまま情報発信すればよいというわけではない。むしろ自分たちの学校の良いところを発信した上で,課題を検討するという発想が必要である。また保護者の姿勢も問題で,新任教師に対して何かあるとすぐにクレームをつけてくる人がいる。保護者側も,多少課題があったとしても,この若い教師を育ててあげようという意識をもって長い目で見てあげることが必要だろう。自分の子供だけをベースにして考えるべきではない。両者が一緒に学校を改善していこうという発想が大切である。

 学校評価は特定の学校同士を比較するために行うのではないし,学校にランクをつけることが目的でもない。自分の学校を改善するための評価である。ただ学校ごとに温度差があり,中身はまちまちである。現在,学校評価は努力義務だが,いずれは義務化されるだろう。大学では既に義務化された。一番やりたくないのは外部から評価されることである。評価者が「懲らしめてやる」という発想であら探しをするから外部評価が反対されるのである。そうではなく,学校の良いところを見ながら建設的にとらえて課題に対するアドバイスをすべきである。

 学校評価には新たに行政からの支援も含まれるようになった。これからは報告を求める一方で,行政もできる限り支援を行う。これは大切な発想である。困難校であれば教師の加配を求めることもあるだろうし,学校だけで解決できないときにはどうしても人的,物的な条件整備が必要となるだろう。

 もともと学校評価は,戦後まもなく米国から輸入した考え方であったが,実際にそれが浸透し始めたのは50年過ぎた21世紀になってからであった。当時から学校評価はあくまでも学校改善のためのものであり,生徒や保護者から評価してもらうのは良いことだとされていた。しかし,評価観として,検察官と被告の関係のように学校を評価しようとしたら必ず失敗する。評価する側もされる側も,意識を変える必要がある。学校と子供の教育を良くすることが目的である。

 子供が教師の授業を評価するという授業評価もその中の一つの領域に含まれている。一部の地域では行われているが,あまり進んでいない。子供が教師の授業を評価することに抵抗がある教師もいるようである。評価と考えるより,自分が気付かないことについて子供なりの良いアイディアを聞く機会と考えるべきである。保護者に対するアンケートでも,授業を良くするための建設的なアイディアを出してくださいとお願いするのと,ただ評価をするので書いてくださいというのとは全然違う。生徒に対しても同じである。評価をやる以上は目的を明確にした工夫が必要である。

 管理サイクルの一つにPDCAサイクル(Plan-Do-Check-Action)という発想がある。今までは評価はしても,その後どうアクションを起こして変わったかという点は問われなかった。義務教育制度の中で学校が潰れることはないということも理由の一つである。だから危機を与えるということではないが,評価によって課題が明らかになったらそれをどう改善に結びつけるかが期待される。これは学校に限らず,大学や役所でも同じである。

 学級作りは究極的には担任教師と子供の関係である。それが明るいか暗いかは,学級担任の教師の力量に期待されるところである。それは新学期に入ればその教師のもとで指導を受けなければならない子供にとって学校・学級は選べないからである。教師の個々の指導力が発揮される場が授業である。単なる教科の授業だけではなく,教師と子供のコミュニケーション・チャンネルがきちんと成り立つことが基本である。例えば,ちょっとした教師の言動を子供がとても気にするという場合もある。いくら周りが「あの先生の授業は凄い」と思っていても,そのクラスの子供が「あの先生は嫌いだ」と思ったらどうか。ゆえに子供との人間関係を築く能力が重要で,児童・生徒に対する理解力,カウンセリング・マインド,ソーシャルスキルはすべての教師に必要であるから,前述の研修にも含むべきだと考えている。学校評価も最終的には,学級運営をどうするかという観点で自己点検するのが良いだろう。

 10月に伊吹文明文科相と対談する機会にめぐまれたが,子供の規範意識と最低限の基礎学力の重要性について強調しておられた。これから学力調査も行われるが,これも学校を比較するためではなく最低限必要な学力を身に付けさせることが目的である。実際,私が訪れた中学校でも小学校三年生レベルの読み書きが身に付いていない生徒がいた。最低限の国語と算数を身に付けさせることが学校に期待されているが,それを学校だけに責任を帰するのではなく,そのために保護者や地域の協力も必要である。

 (2006年10月29日,PWPA九州支局主催「教育問題懇談会」において発表したものを整理して掲載)