生命の起源に関する一考察

――哲学者の観点

京都大学名誉教授 渡辺 久義

 

教科書記述の愚かしさ

 わが国の高校用生物教材の一つに,生命の起源について次のような短い説明がある。

生命の起源――地球上での無生物からの生物の発生をいう。現在では科学がめざましい進歩をとげているので,ある程度は生命の起源について推論できるようになってきた。1)

 これは生物教科書共通の書きぶりを代表するものだが,こういった文章から,この著者について,あるいは著者の生きている文化について,いくつかの推論が可能である。第一にこの人は,生命の神秘といったものに驚くことも畏怖を感ずることもできない,むしろそれを恥じるような人物である。第二にこの人は,生命は物質から生ずるものであって他に考え方はない,と当然のように考えている。したがって,この前提によって研究を進めていけば,いつか必ず問題は解決すると考えている。第三に,故意か否かは分からないが,現在の科学の情勢についてウソをついている。科学,少なくとも唯物論的科学は,生命の起源という謎について,これまでより以上に分かっているわけではない。

 要するにこれは,典型的に唯物論的な時代と文化から生まれる言説である。こうした精神構造の特徴は,自分の信ずる以外のいかなる世界観をも,考えてみることも許容することもできないことである。現実には,人間の長い歴史の中で,唯物論的な世界観というものはまれな例外にすぎない。しかし我々の文化はこれを当然のこととして,問うてみようともしないのである。

 しかしこの世界観を根本から説明しようとすると,それはときに,愚かしく失笑を招くようなことになる。例えばNHKの「生物」に関する教育番組が,生命の起源の問題に踏み込んだときにそれが起こった。その講師は,生命は純粋な偶然によって始まったと言いたいために,生命体に必要な化学物質を,分解した時計の部品にたとえた。そして,もしそれらを箱に入れて何億年という長い間,振り続けていれば,ひょっとしたら時計がうまく組み合わさって動き出すかもしれない,と説明した。これは半ば冗談のように(現に二人の「生徒」は笑った),しかし半ば以上真剣な口調であった――この確率の低い出来事をそれ以外にどう説明できるか,言えるなら言ってみよ,というように。

 こんな例は,生命の始まりについての特別に滑稽な説明と思われるかもしれない。ところがそうではない。むしろこれが標準である。これに似たカクテル・シェーカーの比喩が,オックスフォードの有名なダーウィニスト生物学者リチャード・ドーキンズによって用いられている――ただ彼の場合,ダーウィンが救援にやってきて奇跡を起こすことになっている。

 一人の人間を作ろうとするなら,生化学的カクテル・シェーカーを,途方もなく長い間,この宇宙の年齢が一瞬に思えるほど長い間,振り続けなければならないだろう。だが,それでもあなたは成功しないだろう。ここでダーウィン理論がその最も一般的な形で,救援にやってくる。ダーウィン理論は,まさに分子のゆっくりした組み立ての物語が終わる時点で,あとを引き受けるのである。……ある時がやってきて,一つの特別に注目すべき分子が偶然に形成された。これを「複製するもの」と呼ぶことにしよう。2)

 ウルトラ・ダーウィニストと呼ばれるドーキンズを,例外的な風変わりな学者と考える人もあるかもしれないが,そうではない。彼への根強く広い支持を見れば,彼は現代の代表的な進化論イデオローグだと言える。反ダーウィニズムのインテリジェント・デザイン(ID)を代表する生物学者ジョナサン・ウエルズは,「最初の細胞がどのようにして始まったかは誰にも分からないが,ほとんどの生物学者はこの出来事があまりにもありそうもない(確率の低い)ことだから,それは一回だけか,あるいはせいぜい数回しか起こらなかったと考えている」と書いている。3) 例えば,ノーベル賞受賞者でハーヴァードの生物学教授ジョージ・ワルドは,かつてこう言ったことがある。

 この出来事,あるいはそれに伴う他の過程がいかに起こりそうになくても,十分な時間があれば,それは少なくとも一回はほとんど確実に起こるだろう。そして我々の知っている生命にとって,一回それが起これば十分である。時間は筋書きの主人公である。十分な時間さえあれば,不可能は可能になり,可能は有望となり,有望はほとんど確実となる。4)

 これは生物学界の唯物還元論が勢い付き始めた1954年の発言だから,公平ではないとはいえ,これが現在もダーウィニストの論理だと考えてよかろう。われわれ通常の理性をもつ者はこの強弁と独断には驚くが,これは学界や教育界では今でも大手を振って歩いている。したがって上にあげた教科書記述や,吹き出したくなるNHKの講義や,ドーキンズの唯物論的ドグマなどは,現代の標準的・正統的な生命起源の説明と考えてよい。
わが国の高校用教科書『生物U』は,いずれもかなりのページ数を「生物進化」の章に割いているが,その全体がこういった思考法で押し通されている。すなわち,いかに強弁であろうと不自然であろうと,生命の問題を考えるには,このような唯物還元主義的な思考枠しかありえないという前提で書かれている。

それは確率の問題か?

 最初の細胞であれ,その後の生物種であれ,生物の起源を自然主義(唯物論)的に,自然的要因だけで説明するのはきわめて難しい。そういったものが自然に生ずる確率は,たとえ我々が唯物論者のように,その外面的な形の完成(時計の完全な組み立て)だけで生命は成り立つと考えたとしても,事実上ゼロである。

 唯物論的科学者も,ドーキンズがそうであるように,このことの難しさは認めるだろう。しかし不思議なのは彼らが,そのようなありえない,考えられない出来事が,その圧倒的に不可能な確率にもかかわらず,ともかくも起こったのだと主張することである。生命の自然的発生は現実の事実である,と彼らは主張する――そうでなくてどうして世界が存在できるか?

 この独断的・挑戦的なダーウィニズムの主張は,哲学的観点からすれば二重の誤りである。
両側の人々とも,すなわち生命の自然発生を批判する側も主張する側も,自然主義的説明が正しいか間違いであるかを決める決定的なものは,ただ一つ数学的な確率であるかのように言う。明らかに我々の教科書もその立場であり,いわゆる「化学進化」が事実であればそれで十分であるかのように言う。そのような論争をすれば,ダーウィン側が決定的に不利なのは当然である。しかしそのような確率論争はそもそも正しい基盤の上に乗ったものであろうか? 私の意味するのはこういうことである――たとえ数限りなく化学物質の組み立てを試みているうちに,万一,運良く思い通りの完全な生命形態が出来たとしても,その幸運な出来事はこの地上で生命を出発させるのに十分だろうか? そもそもそれは生命として生きられるのだろうか? ――これはより深いレベル,そもそも生命とは何か,というレベルからの問いである。

 サルがタイプライターの前に坐って果てしなくキーボードを叩き続けても,シェークスピア作品は生まれない,とはしばしば繰り返される議論である。シェークスピアは論外である。しかし俳句ならどうか? 俳句とは17の日本語の音節(音の単位)からなる詩形であるから,サルが偶然によってこれを叩き出す確率は,シェークスピアと比べれば格段に高いことになる。そこで今,一つの俳句として通用するものがそのようにして出来たとしよう。おそらく多くの人は,俳句が偶然によって作り出されたと宣言するであろう。しかし私は「それは本当に俳句か?」と問いたい。すなわち,芸術作品が生きているように生きているか,ということである。何であれ芸術作品とは,それを作った人の人格がそこに反映されているもののことである。すなわち作品が作り手の一部として生きているもののことをいう。それがうまく出来ているかどうかは問題ではない。サルはかなり出来のよい俳句を作り出したかもしれない。しかしそれを人々が今までに作ってきた俳句の集合体の中に加えることはできない――たとえその中に,サルの作品より下手な作品が含まれていたとしても。

 偶然によって作られた俳句が,ニセモノであって生きてはいないことを証明する一番よい方法は,サルに一つ以上の,できれば数句の俳句を作らせてみて,それらを比較してみることである。その間には何のつながりも感じ取ることはできないであろう。これに対して一人の人間の作った一連の俳句には,たとえその人がどんなにつまらぬ詩人であろうと,確実にその人の人柄が現れるだろう。そしてそれこそがその俳句群が本物であることの証明である。

 生き物も,俳句と全く同じく,その作り手によって息を吹き込まれた何ものかでなければならない。ただ単に物理的条件を満たし外面的な形を完成させたとしても(かりにそんなことが可能だとして),それは生き物を作ったのではない。したがって神が最初の人間に「いのちの息吹」を吹き込んだという聖書の話は,現実の事実でなければならない。

 そして神の創造と人間の創造,特に芸術創造を,同等のものと考える統一思想の考え方もまた――これを科学的見地から見ても――真実でなければならない。こういう話を,唯物論者は頭から軽蔑して聞こうともしないかもしれない。しかし話は最後まで聞いてみるものだ。

生命とは何か?

 生命とは単に「無生物からの生命の発生をいう」ものであろうか? こんなことが無頓着に言えるということは,今日の平均的な理科教育者たちが,いかに自然主義の牢獄の中に自らを閉じ込めているかを示すものである。彼らは学生たちをもまた,その中に閉じ込めるのを使命と考え,それが学生たちの利益になると思っている。実際は,それは学生を間違いへと導くばかりでなく,彼らの質問を封じ,そのことによって科学を窒息させ,科学へのモチベーションを奪っていることに気付かねばならない。

 教科書のこの言明は,全くの虚偽だと言ってよい。生物は無生物から発生するのでないことは明らかである。少なくともそんな証拠は何一つない。しかしここでは――進化の章全体についてそうであるが――ひそかに言い逃れが用意されている。もし誰かがこれを虚偽だと抗議すれば,唯物論科学者は,あたかも理不尽な抗議をされたかのように,生物はすべて限られた種類しかない原子という非・生命的な物質で構成されていることを知らないか,とでも言うだろう。これは事実の半分だけを言うもので,明らかに詭弁である。しかしこれを全面的真理として人々に受け入れさせるのが唯物論者の常套手段である。

 「化学進化」という欺瞞的な概念がすでにそうであるが,これは必要条件と十分条件を故意に混同する不正直なやり方である。我々の生物教科書は,生命体に必要な組み立てブロックを生み出したかもしれない――それさえ仮定にすぎない――環境条件が,あたかもそれが生命の誕生に直結するかのように説明する。それはまるで「モナリザ」が誕生するためには,ダ・ヴィンチの物理的な腕力が,絵具やカンヴァスに対して働けば十分だと説明するようなものである。

 唯物論あるいは自然主義科学は,形而上学(哲学)というものを,あたかも科学には関係がないかのように考えている。実は,形而上学なしに形而下学(自然科学)は成立しない。そうでなかったら科学者は何をしてよいか分からないだろう。そして自然主義という形而上学は,明確に科学者になすべきことを指示している。すなわち,自然を自然的(物理的)要因のみによって説明することである。この方法は有効ではあるが,究極において壁にぶつかる――特に主題が生命や心,あるいは宇宙そのものである場合には。

 「生命とは何か」という問いは哲学者の問いであって,科学者の問いではない――少なくとも今日の唯物論に傾く科学者に聞いてみることではない。まず初めにこの問いを発し,少なくとも運用可能な一つの仮説に達することなしには,科学を正しく基礎付けることはできない。ところが現実には,この問いは科学者の専門分野であるかのように言われ,科学者の解釈する問題の側面がすべてであるかのように言われる。その結果として,被害を受けるのは科学そのものであり,同時にそれ以上に被害を受けるのは,人生(生命)の意味を奪われた一般大衆である。

健全な仮説を求めて

 我々は生命や宇宙そのもの,また我々自身について,究極の真理を知ることを望むことはできない。しかし少なくとも可能なかぎり最上の仮説,すなわち最も有効で包括的な説明力をもつ宇宙像を提供することはできる。我々の生物教科書に代表されるような唯物論科学の問題点は,それが自分自身を一つの仮説として考えることもできず,他のいかなる考え方の可能性をも認めないドグマになっていることである。

 教科書に関する限り,これはものの言い方,つまり表現の気配りの問題でもありうる。権威よりも正直ということが,真の教育的見地からも最上の策であるはずである。分かっていないことは分かっていないと書くべきであり,明らかに理性に反するようなことは,「別に考え方があるのかもしれない」といったコメントを正直に書き入れるべきである。謎の中の謎と言われる生命起源のような問題について,無知や自信のなさは恥ずべきことではない。真に恥ずべきことは,不正直や不誠実であり,こう考えなければ科学者になれないというような独断を,次代を背負うべき若者に押し付けることである。唯物論という

 特殊な考え方を,あたかも中立の科学であるかのように教えてはならないのである。
生命の自然主義的研究を放棄せよと言うのでは全くない。ただ,それは自分自身の限界を知っていなければならない。すなわち,それは生命の物理的側面をかなり見事に解明したが,生命の非・物理的側面については何も知らないということを,自覚していなければならないのである。

 生命に二面があるということは,我々にとって経験的事実である。我々は生き物を見ることはできるが,生命そのものを見ることはできない。「生命そのものなど存在しない,それは幻想にすぎない」などと言う者はいないだろう。おそらく無神論者でも,心の存在を信じざるをえないように,神は否定しても,生命そのものの存在は信ずるのではなかろうか。

 そこでまず初めに,生命体から区別された生命の存在は,たとえ目に見えなくとも,確実な現実であると仮定しよう。とすれば,どんな生物にも二つの側面がある,一つは目に見え,もう一つは目に見えない側面がある,と考えてよいことになる。そしてある一つの物に,右と左,長所と短所といったものでない,根本的に違った二つの側面があるとしたら,その場合には,どちらがより根源的であるか,すなわちどちらが存在論的に先んじて存在するか,という問題が生じてくる。

 当然,我々の教科書著者に代表されるような唯物論者は,目に見える(物理的な)側面がより根源にあると主張するであろう。その事実は彼らにとっては,何よりも大切なことであるから,もう一方の目に見えない側面はむしろ希薄で実体性に乏しいもの,あるいは目に見える現実の影にすぎないもの,一次的な(物理的)存在に対する二次的な存在として彼らは捉えるであろう。(彼らにとっては,心とは脳の産物にすぎない。)

 これに対して,存在の構造ということに関して,全く別の,目に見えない側面が――生物についてであろうが,宇宙現実全体についてであろうが――存在の基底をなしている,すなわち目に見えない側面が,時間的にも構造的にも,目に見える側面に先立つと考える立場がある。

二つの競合する命題

 これら二つの対照的な基本的立場は,次のような二つの象徴的に表現された命題として定式化することができるだろう。

(A)The eye precedes seeing.(眼が見ることに先立つ)

(B)Seeing precedes the eye.(見ることが眼に先立つ)

 ここで「先立つ」(precede)とは「時間的にも構造的にもより根源にある」ことを意味する。

 ところで命題(A)は,「物質から生命が出てきた」と何の躊躇もなく明言する我々の教科書によって採用されている公式である。そもそもの初めに,ただ生命を持たぬ物質があった。そしてそこから,どのようにしてか生命(生物)が現れた。換言すれば,生命を持たぬ物質が宇宙歴史のある時点で,生き始め,動き始め,食べ,交尾をし始めた。心を持たぬ機械的な構造物であるカメラが,偶然,理由もなく,まず現れ,しかる後それが,あたかも意志と目的を持っているかのように,見るという活動を始めた。

 命題(A)はダーウィン進化論の立場を言い表している。この命題の馬鹿々々しさは明白である。しかしダーウィニスト(すなわち唯物論者)は,宇宙そのものは生命を持たないのだから,眼(あるいは最初の細胞)は,彼らの言葉を使えば「無生物的に」,ともかくも現れたのでなければならない,と主張する。いったい眼という物理的構造物が最初に形成されることなしに,どうして見ることができるのだ,と彼らは言う。そう言われれば,それはあまりにも当然なので,人々は(B)よりは(A)に与する――ただその場合,眼がどうして最初に現れることができたのかは,あまり気にしないのである。これが我々の唯物論的文化の特徴である。すなわち,唯物論的な優勢な力が合法的な(理にかなった)質問を窒息させるのである。実際,教科書や他の公共メディアなどを通じて,ダーウィニストたちは,長年にわたって命題(B)の合法性を否定しようと努力してきた,と言ってもよいだろう。このことは特に,ダーウィニストとインテリジェント・デザイン(ID)派の,最近の論争(むしろ闘争)を通じて明らかになった。この論争においてダーウィニストは,自分たちへの批判を押し黙らせ,ID提唱者が提起するような問題は存在しない,と言おうとしているのである。

仮説の選択

 命題(A)は馬鹿げたものであるが,ダーウィニストに言わせれば,命題(B)はもっと馬鹿げている,あまりに馬鹿々々しくて真面目に取り上げることもできない,ということになるだろう。そして科学者は神秘をその体系に取り込むべきではない,とも言うだろう。しかし私には,もし(B)が「神秘的」であるとすれば,(A)は「不気味」であり,その方がもっと悪いと思われる。もし(B)が科学ではないと言うならば,(A)も科学ではない。もしこの宇宙の根源に,見る意志や創造的衝動がある(あった)と想定することが馬鹿げた空想だというなら,物質がひとりでに生き始め,動き始め,食べ,交尾をし始めるという考えは,最悪の空想物語であろう。

 そこで(A)と(B)は,ともに普通には考えにくいという点で,宇宙の構造の説明としては対等であると考えることにしよう。すると問題は,どちらがこの世界の現実にとってより根源的か――現実の目に見える側面(物質,眼)か,それとも目に見えない側面(生命,見ること)か――ということになる。これは仮説の選択であって,唯物論科学者が考えるような真理の選択ではない。これは証明する問題ではなく,より健全,より確か,より説明力を持つものの,直観的な選択の問題である。

 生命のない物質が最も重要であって,すべての根源だとする唯物論者の想定は,少なくとも私には,いわば病的で,心の発育不全あるいは自閉症のようなものを感じさせる。一見それは,硬い現実にしっかり根を置く健全な考えに見えるかもしれない。しかしそれは現実のきわめて狭い領域に自らを閉じ込めるもので,その領域の内部ではかなりうまく物事を説明するが,その外側では全く無力であり,最も悪いことに,外側には当然何も存在しないかのように振舞うのである。その不健全さの印象の少なからぬ部分は,この思い込みの傲慢さから来ている。

 次のことは認められねばならない。――もし物理的(目に見える)側面が現実の基底であると主張するなら,全く同じ権利をもって,目に見えないが疑いようもなく存在する「生命」もまた,現実の基底であると主張することができる。私はこれをlife-mind(生命‐心)と呼んでもよいと思う。なぜなら心は生命と全く同じものではないが,両者は不可分だからである。

 ここで言う生命(あるいは生命‐心)の概念は,単に生物学的なものでなく,形而上学的あるいは宇宙論的なものであることに注意しておかなければならない。私は生物教科書のまさに反対のことを主張したいと思う。――すなわち,生きているものも生きていないものも,すべてがこの意味での生命,すなわち先立って存在する現実としての生命から生ずる。

 私の言っているのは単に,「生命」に置き換えただけの神を主張することではないか,という批判があるかもしれない。そうではない。私は議論の哲学的レベルに自分を制限しているのであって,神学的なレベルの議論をしているのではない。すべてに先立って(すべての基底として)存在する現実としての生命とは,必ずしもこの世界を超越するものではない。それは動物や人間が死ぬときに,一つの事実として感じられ経験される。生命は見えないが存在し,この世界に浸透し,普遍的にその存在を感じさせる。ID理論の「デザイン」の根源のように,それは自然界に属するものではないが,しかし確かな事実として経験的に存在する。

「生命の場」

 私はかつて宇宙を「生命の場」として考えてみることを提唱した。それは磁場や重力場のように,場そのものは目に見えないが,金属の破片や重量のあるものをそこへ持っていけば,それは目に見え感じられるようになるのに似ている。5) 後に,同じアナロジーが『新版・統一思想要綱』(2000)に使われていることを知った。統一思想の特徴は,生命や宇宙構造そのものを,目に見えない側面(性相)と目に見える側面(形状)の二面性(の一体化)として捉えることである。

…たとえ科学者がDNAを造ったとしても,それは生命を宿す装置を造ったにすぎないのであって,生命そのものを造ったとは言えないのである。宇宙は生命が充満している生命の場であるが,それは神の性相に由来するものである。そこで生命を捕らえる装置さえあれば,生命がそこに現れるのである。その装置にあたるのがDNAという特殊な分子なのである。「性相と形状の階層的構造」から,そのような結論が導かれるのである。6) 

 宇宙を「生命の場」として考えてみることは,生命がこの地上でどのようにして始まったかを想像してみる上で,大いに助けとなるものである。断じてそれは,我々の教科書が教えるように「無生物から発生した」のではない。生物は初めから潜在的に(「性相」として,イデアとして,構想として)存在しており,そして最初の細胞あるいは生物種の実現のための「形状」的(物質的)条件が,その生命体の構成要素や,それが生きるための環境に関して満たされたときに,初めてそれが目に見える形で顕在化する,と仮定してみることは仮説として非常に有効である。生命の起源をそのように思い描くことは,唯物論的などんなシナリオよりはるかに説得力がある。

 唯物論的科学者は,これを全く科学ではないといって退けるであろう。しかし彼らのいう「科学」はこのような問題について全く何も説明することができないばかりでなく,彼らの思い込みの優越性は,ただ自然主義を死守することだけにあるのである。

 もし目に見えぬ要因を仮定することが非科学的だとして退けられるなら,科学は全く閉塞状態のままであり,科学教育は精神発達上,道徳上,有害なものとさえなるだろう。私が言っているのは,科学と科学教育が基礎付けられるべき,そしてそれに基づいて現実の科学研究が行われるべき,哲学の選択の重要性のことである。最初の想定あるいは足場が肝心であり,その選択のいかんによって全く別の世界が開けてくるのである。

インテリジェント・デザインの支持

  「生命の場」の存在は頭で考えても納得できるが,現に実証された事実でもある。この考え方はID派の科学者たちの発見,特に宇宙の「微調整」(fine-tuning),とりわけ生命を可能ならしめる我々の惑星のファイン・チューニングの証明によって,支持されるものである。天文学者たちによるこの発見,すなわち基本的な物理法則や常数が,高等動物や彼らが生きるための環境を生み出すのに必要な,考えられぬほどの精密さで,最初から微調整されていたという事実の発見は,決してダーウィニストの考えるような小さな問題ではない。どう見ても,この宇宙は高等生命のためにデザインされているとしか考えられないのである。宇宙そのものが,この惑星上に生命体が現れる前から,まるでそれ自体が一つの生命体のように,人間という高等生物を最終的に生み出すために成長(進化)してきたかのようである。彼ら天文学者は,この宇宙のすべての努力が,我々のこの地球に集中されてきたことを証明している。この宇宙には,我々のいるような生命に適した場所は他にはない,と彼らは結論する。我々の惑星は宇宙で唯一の「特権的惑星」なのである。

 記念碑的な,目を開かせる著書『特権的惑星――この宇宙での我々の場所がいかに発見のためにデザインされているか』(2004)の中で,(二人の)著者は最後の章を次のような印象的な言葉で結んでいる。

 アロウェイ(エリー・アロウェイ,カール・セーガンのSF『コンタクト』の女主人公)の探究には宇宙からの信号,暗号化された素数の配列がかかわっている。これは人を興奮させるフィクションである。現実には,そのような信号が地球に送られてきたことはない。にもかかわらず,この小さなオアシスの彼方の天空を見つめるとき,我々が見つめているのは意味のない深淵ではなく,我々の発見の能力に合わせられた一つの驚くべき劇場である。おそらく我々は,どんな数列よりはるかに意味の深い宇宙の信号を見落としていたのである。それは一つの宇宙を開示する信号であるが,それがあまりにも巧妙に生命と発見のために細工されているので,我々が好んで期待し想像してきたいかなる知性とも比較を絶して,はるかに広大で,はるかに古く,はるかに荘厳な,地球外知性(インテリジェント・デザイナーのこと)の存在を囁きかけてくるように思えるのである。7)

「生命の場」の仮説をさらに強固なものにするのは,例えば生物学者マイケル・デントンの『自然の運命――いかに生物学の法則は宇宙の目的を開示しているか』(1988)といった本である。ここで著者は,宇宙が人間のために意図的にデザインされているのみならず,我々の自然環境,例えば水,大気,光,火,生物の構成材料といったものすべてが,驚くべく絶妙にデザインされているという結論を出している。

 ここから現れてくる自然の像は,明らかに自然の目的論的見方と調和するものである。細胞がある特定の生物学的な役割のために利用する一つひとつの構成部品,時計の中の一つひとつの歯車が,その役割のための唯一の,かつこれ以上ありえない適材であるという事実は,強くデザインを示唆するものである。…部品がある一つの目的のために特別に作られているのは,デザインの紛れもないしるしである。…生命体を可能にする構成部品そのもののデザインは,カール・パンティンが何年か前に指摘したような,自然選択の結果ではありえない。生命の構成要素の間の,多くの生死にかかわる相互適応性は,そもそも生物が存在する前から,そして自然選択が作用し始めることのできるずっと前から,物理学的に与えられていたのである。8)

 このようなデザイン議論が今広がりつつあることを踏まえて考えれば,ダーウィニズム教科書の「無生物から生命が発生した」などという説明は,子供のための,悪質で有害な恐怖物語のように響くのである。
恐るべきデザインの例を一つだけあげる。我々は光を当たり前のものとして考えているが,光の生命に対する適合性の,恐るべきありえなさに言及しながら,デントンはブリタニカ百科事典のこの事項についての説明を引用している。それはこの記述が,通常の事典の標準的な,客観的な書き方から外れていて興味深いからである。

 この(電磁波の波長の長大な幅をもつ)スペクトルの,地球の大気の通過を許され,液体の水の通過を許される唯一の領域が,生命にとって有用なごくごく狭小なスペクトルの一部だという驚くべき事実について,ブリタニカ百科事典の最も新しい版(15版)は次のようにコメントしている――「地球上の生命のあらゆる相にとっての,太陽の可視光線の重要さを考えてみるならば,大気の吸収と水の吸収スペクトルの中のこの劇的に狭い窓に対して,我々は畏怖の念に打たれざるを得ないのである。」(強調はデントン)9)

唯一者の二重表現態(一元二性論)

 これまでに見てきたことから,統一思想とID理論を組み合わせることによって,生命の起源の問題がはるかに理解し易くなることが分かるであろう。
統一思想の基本的な仮定の一つは,性相(霊,心,見えないもの)と形状(体,物質,見えるもの)の二重性であるが,その場合に起こってくる問題は,これら二つのものが同質的なものか異質的なものか,すなわち関係のあるものか無関係なものかということである。『新版・統一思想要綱』(2000)はこの点について,明瞭に系統立てて述べている。
 
 それでは統一思想の「性相と形状の二性性相論」は一元的なのだろうか,二元的なのだろうか。すなわち原相[注:根源的唯一者の属性]の性相と形状は本来,同質的なものだろうか,異質的なものだろうか。ここで,もしそれらが全く異質的なものだとすれば,神は二元論的存在となってしまう。

 この問題を理解するためには,本性相と本形状[注:神の性相と形状]は異質的な二つの要素か,あるいは同質的な要素の二つの表現態なのかを調べてみればよい。結論から言えば,本性相と本形状は同質的な要素の二つの表現態なのである。
 ・・・
そのように性相の中にも形状的要素があり,形状の中にも性相的要素があるのである。したがって,原相において性相と形状は一つに統一されているのである。本質的に同一な絶対属性から性相と形状の差異が生じ,創造を通じてその属性が被造世界に現れるとき,異質な二つの要素となるのである。10)

これだけを単独に読むならば,統一思想の記述は,十分に説得力はあるものの,それでもなお秘教的で非現実的に響くかもしれない。しかしこれを先に引用したようなID派科学者たちの証言と併せ読むならば,それは秘教でも抽象的思弁でもなく,現実的な事実であることが分かる。

 もし,我々が仮説的に考えたように,さまざまな生命体が前もって構想され内的にデザインされ,物的な諸条件が整ったときにそれが顕在化されるものとするなら,もし仮にその構想と物的条件の間に全く関係がなく,統一思想の言う「異質的な」ものであるとしたら,創造はうまくいかないであろう。例えばデカルトの哲学におけるように,心(考える実体)と体ないし物質(延長される実体)の間に関係がないか,関係付けることが難しいのであれば,生物の起源を説明することは非常に難しいであろう。デカルトの二元論は心と物質の間に緊密なつながりを持たなかったがゆえに,心は物質によって邪魔者扱いされ離縁されて,結局は今日の唯物論につながっていったのである。

 しかし統一思想によれば,心(性相)と物質(形状)はこの被造世界では別々のものとして現れるが,元もとそれらは,神において「一つに統一されている」ところの本性相と本形状に起源を持つのである。「それらは根本においては同じ一つの絶対的属性である。」したがって,この二つは互いに相手の要素を持つことになる。

 このような説明を与えられるなら,我々がどうしても思い描くことのできなかった生命の起源は,はるかに思い描き易くなる。潜勢態としての生命と,その受け皿としてこれを顕在化する物的手段は,同じ根から来たものであり,だからお互いに相手の要素を共有している。もしこれらが,伝統的な西洋哲学がそう考える傾向をもつように,互いに見も知らぬもの,あるいは対立するものであったとすれば,すなわち,もし心と物質が争うような関係にあったとすれば,その調和は非常に難しく,物質は結局,心を切り離して,自分独自で生命を生み出そうとするだろう。これが教科書の「化学進化」,「無生物からの生物発生」の物語である。

生命はどのようにデザインされるか?

 「生命の場」としての,あるいは一元二性論としてのこのような宇宙観は,ID理論の中に明瞭に存在してはいないかもしれないが,それは上に引用したような議論の中に感じ取ることのできるものである。

 これら先端科学の研究から導き出されるのは,137億年の宇宙歴史の間に起こったすべてのことは,我々人間を頭において,意図的にデザインされたという解釈である。物理学上の驚くべき数値の微調整,天文学上のありえない配置的・時間的な精密さ,生命の構成材料の完全な目的性をもつデザイン性,この惑星上の環境の完全な居住適合性(それが同時に,完全な観測・発見の適合性でもあること),加えてこのような惑星がたった一つしかないこと――すべてこういったことが一つになって,「生命の場」すなわち生命の受け皿を構成しているのである。この生命の受け皿は,それ自体がほとんど生き物であり,比喩的に言えば,この時空的宇宙のどこを切っても血が出るのである。

 科学者はこれまで,こういったことを考えてみることを,宗教的だとか超自然的だとして,決して自分自身に許さなかったのみならず,ダーウィン的な「闘争」とか「生き残り」という概念に例証されるように,我々の環境を我々に敵意あるものとさえ考えてきた。彼らは生物をデザインされたものとして研究してきたかもしれないが,しかし彼らはそれを,広大な無機的な宇宙に対して異質的なもの,あるいは無機的世界の同質的な延長として考える傾向があった。今新しく台頭しつつあるパラダイム・シフト,科学における革命的な観点の変化は,この唯物論的な説明を「止揚」するだけでなく,新しい科学上の発見を約束するものと思われる。

 生命の物質的要素(構成材料や環境)と生命の霊的要素(潜在的デザイン)の二つは,ともに同じデザイナーによってデザインされ,元もとの世界では一つの調和した全体であったものが被造世界において分かれたと考えるなら,互いに相手の幾分かを自分の内部に持つのは明らかであろう。とすれば,「生命の場」としての宇宙という観点は,宇宙に内在する目的の観念とともに,生物学にとって必須のものであるはずである。

 ではいったい,いかにして最初の細胞や後の生物種(あるいはそのコード化された情報)が現実に創造されたのであろうか? それは潜在する生命と「生命を捕らえる装置」との間の相互作用,すなわち統一思想のいう,分立者の「授受作用」によって可能になるに違いない。突如として映像や音声が現れる,放送の送信側と受信側の波長合わせ――同調あるいは共鳴――のイメージが,ここでは役に立つかもしれない。

 とすれば,そのような創造は,ダーウィニズムの教える漸次進化とは違って,多少とも一気に起こったと考える方が考え易い。これは化石記録の事実によっても裏付けられる。化石には,ダーウィン理論の要求する中途半端な「移行化石」というものはなく,すべて初めから完成された生物種として現れるのは周知の事実である。

 しかし現実にはどのようにして? 現時点では,科学者にせよ誰にせよ,生物種がこの地上で現実にどのようにして生じたかを具体的に――例えばCGのようなものを使って――示してみせるのは不可能であろう。しかし創造の原理が明らかになったのは確かだと思われる。生物の創造は,統一原理とIDが相補的に明らかにしたような方法によってなされたと考えるのが,今のところ最高の仮説であろう。

単なる愚かしさでなく犯罪

 ダーウィン進化論のメカニズム(自然選択とランダムな変異との組み合わせ)ほどの,明らかに理性に反し不自然な考え方が,これほど長く学界と教育界を支配してきたということは,解明を要求するミステリーである。あの生命起源のカクテル・シェーカー理論を学生に教え込むことの愚かしさを,もうここでもう一度考えてみられたい。「生命の起源のメカニズムはほぼ解き明かされた,それは物質から出たものだ」と教えるのは,ダーウィニズムの論理に従うかぎり,「人間のいのちは無意味・無価値だ」と教えるのと同じである。これは単に間違いを教えるというだけではない。それは人類に対する犯罪行為であると言ってよい。

 ジョナサン・ウエルズが指摘しているように,ダーウィン進化論の根拠として教科書が掲載する絵(「イコン」と彼は呼ぶ)のすべてが偽造,歪曲,ミスリーディング,誇張のいずれかであり,しかもそれが咎められもせず,これほど長く我々の教科書に用いられてきたということは,一大ミステリーというほかはない。11)

 ダーウィニズムとその宣伝の歴史には,そもそもの最初から犯罪的なものがあったのである。例えば,おそらく誰にも覚えのある,あのダーウィン進化の証拠として教科書が必ず載せている,いくつかの脊椎動物の胚を比較して示した絵は,エルンスト・ヘッケルというドイツ人の偽造したものだということが分かっている。ヘッケルは当時から数々の偽造で有名であり,当時の学者たちによって告発され,偽造を認めている。12)にもかかわらずこの絵は,権威あるものとして一世紀にもわたって利用されてきた。いったいなぜこんなことが起こりうるのか?

 ヘッケルは生物学者というより政治的イデオローグであり,当時の帝国主義ドイツのためにダーウィン進化論を利用した。これは「政治学とは応用生物学である」という,ナチスの宣伝にも使われた彼の有名な言葉からも明らかである。20世紀初頭のドイツにとって(他のヨーロッパ列強にとっても同様),人種差別のための科学的根拠が是非とも必要であった。ダーウィニズムはそれを提供することができた。そしてヘッケルのでっち上げた「個体発生は系統発生を繰り返す」という法則を証拠立てるための胚の偽造絵は,当時の帝国主義的人種差別のために必要であったと解釈されねばならない。そもそもの初めからダーウィン進化論は,証拠の有無にかかわらず,またヘッケルが詐欺師であろうとなかろうと,「科学」であり「事実」でなければならなかったのである。

 ダーウィニズムという科学によれば――と彼らは論じた――生物種の間には(胚発生の各段階の間にけじめがないように)本来けじめがないのであるから,当然サルと人間の間に区別はない。本当の区別は,適応のすぐれたより高級な人種(おそらくコーカサス人種=白人)と,より劣った他の人種の間の区別でなければならない。

 ここにヘッケルによるもう一つの偽造絵(主著『創造の自然史』(1868)の口絵)がある。『生物U』を教える方々は,胚の比較絵とこれを並べて,ヘッケル(とこれを利用した人々)の意図が何であったか,学生に推理をさせてみるとよいであろう。
ヘッケルはこの絵についてこう説明している。

 最も高度に発達した動物の心と,最も発達していない人間の心との間には,ほんのわずかの量的な違いがあるだけで,何ら質的な違いはない。そしてこの違いは,最も低い人間と最も高い人間の心の差よりはるかに小さい。あるいは最も高い動物と最も低い動物の心の差よりも小さいと言ってよい。13)

 私はこの絵を,リチャード・ワイカートの『ダーウィンからヒトラーへ――ドイツにおける進化論倫理,優生学,民族主義(人種差別)』(2004)から借りた。この本の中心人物はヘッケルその人であり,著者はその結びに次のように言っている。

 ダーウィニズムそれ自体がホロコーストを生み出したわけではない。しかしダーウィニズム,特に社会ダーウィニズムや優生学というその変種がなければ,ヒトラーや彼のナチ追随者たち