草原に暮らすモンゴル人の生き方と伝統

静岡大学助教授 楊 海英

 

 近年,日本では角界にモンゴル出身の力士が多く活躍しているほか,モンゴル国への一般観光客も増えて,モンゴルに対するなじみが深くなってきたように思う。しかし,モンゴルの伝統や文化について正確に理解されているかとなると,心もとない部分も少なくない。そこで,モンゴル人の研究者として私は,草原の世界に暮らすモンゴル人の生き方と伝統についてすこし紹介してみたいと思う。

1.モンゴルにおける「手写本」

 ユーラシアの遊牧民について,「遊牧民は書かれたもの,文字資料とは無関係の人々だ」とよく言われてきた。モンゴル民族も北アジアの一遊牧民であるが,そのほかにも匈奴や突厥などがある。確かに,古代の匈奴が残した文字資料は少ないが,突厥では碑文などが残っている。モンゴルは北アジアの他の遊牧民族と同様に,口承文芸が発達した社会であったが,13世紀に文字をもつようになってからは,数多くの年代記作品など文字資料を残してきた。

 チンギス・ハーンに始まるモンゴル帝国を経験した後のモンゴル人たちにとって,その域内の文化はすべて身近な存在となった。それらを客観化し,取捨選択しながら,あらゆる外来文化がモンゴル化し,新しい形で開花していった。モンゴル人たちは,自分たちの生き方を語るのに熱心で,その精神世界を築き上げるときに,あるときは長編叙事詩として表現し,またあるときは年代記などの文字資料として残した。

 モンゴル帝国の後,とくに清朝から中華民国を経て中華人民共和国に至る過程で,モンゴル人の生き方は大きく変わった。およそ300年にわたって異民族に統治されてきたためか,モンゴル人たちは常に支配者の顔色をうかがいながらものを言うようになった。それでもかれらはうまく自己主張してきた。その自己主張の手段のひとつが「手写本」であった。

 モンゴル人は,自分たちの手で書いたものを「ガル・ビチメル」,すなわち「手書きのもの」と呼んだ。このような膨大な量の手写本が残っているが,そこにはモンゴル人の世界観,生き方が凝縮されているといっても過言ではない。

 これまで日本では,多くの研究者が中国人の書き残した漢文資料を用いてモンゴル研究を進めてきた。このようなやり方は,喩えてみれば,北京の北の長城という辺塞の上からモンゴル高原を眺望するようなものといえよう。しかし,第二次世界大戦のころから日本でも一部,モンゴル語資料を使ったソ連の研究成果を翻訳し始め,塞上から降りて草原に入った研究の必要性を理解するようになった。

 私はモンゴル人の一人として,今日までこのように貴重な手写本や木版本などの文字資料をフィールド・ワークとして研究してきた。モンゴルを調査・研究する者にとって,手写本と木版本は特別な存在である。いわゆる「モンゴル学」は,近代ヨーロッパ,とくにロシアとドイツにおいて発達してきた。このようなモンゴル学は,近世以来ヨーロッパの探検家たちがモンゴルから大量の写本を蒐集したのをきっかけに一時期文献学・書誌学的研究として発達した。その研究は手写本や木版本のテキストに関する緻密な注釈と校訂に基礎を置いたものであった。この流れはいまもなお生きている。

 モンゴルでは,人望のある人の家にたくさんの客人が集まる。また手写本をたくさん所蔵している人の家にも大勢の人々がやってくる。主人の同意が得られると,読書会を開くこともある。手写本の内容は,政治,歴史,医学,天文学,文学などさまざまなジャンルに及ぶ。いわば百科全書的な存在だった。人々は自らが関心を寄せる分野の手写本を熱心に書き写した。抄写の繰り返しによっていろいろな異なる抄本が出現し,とくに評価が高いものは木版も作られ,大量に印刷されて広まっていった。

 このようにモンゴル人は手写本を貴重な財産とみなす。そのため,モンゴルを敵視する為政者側は手写本の破壊に積極的であった。清朝の乾隆年間(1736−95年)に満洲人の役人たちは大量の年代記作品を没収して燃やしたという。それらの年代記の内容が,清朝の正統性に懐疑的だったためであろう。このようなことは,20世紀に入ってからも繰り返し行われてきた。

 殊に,文化大革命期(1966−76年)においては,手写本は「人民を毒害するアヘンだ」とされ,すべて破壊の対象とされた。モンゴル語手写本のなかのかなりのものは,僧侶によって書き上げられたものであるため,マルクス主義にいう「宗教はアヘンだ」のテーゼのもと,このような処分が下されたのであろう。

 それでも手写本は残った。厳しい環境のもとにあっても,モンゴルの知識人たちは手写本を書き写し続けた。なかには没収されないようにと地中に埋めた人もいた。また,家畜は数頭しか持たず極貧にあえぎながらも,手写本類を手放して換金しようとはしないモンゴル人を,私は何人も知っている。かれらにとって手写本は,何百頭,何千頭の家畜よりも重要な意味をもっているのである。

 モンゴル人と手写本との関係はいったい何か。手写本とはモンゴルそのものである。少なくともモンゴルそのものの一部で,不可分の一部である。手写本からモンゴルを切り離してはいけないし,モンゴルを文字資料や文献と無縁な人々だと見るのも間違っている。漢文だけをいくら研究しても,モンゴルの真の生き方は見えないだろう。モンゴル語文献を無視して,漢文資料の世界のみをさまよっても所詮は軽薄なものに終わってしまう。
研究者の中にはモンゴル語文献が少ないと嘆く人がいるが,現在では,モンゴル語文献や資料はおよそすべての学術分野をカバーするほどになっている。内モンゴル自治区を例にとっても,平均して1日に1冊は人文社会科学系や自然科学系の学術書が出版されている。

 手写本の内容は多分野にわたり,かつ膨大な量に及ぶ。これをシステマティックに公開していく必要性を私は以前から痛感していた。これまでの欧米の文献学は,旧植民地を対象として蒐集された資料をもとに発達した学問である。そのような旧宗主国の研究者と旧植民地の研究者がともに協力しあいながら,双方とも自己批判と反省を怠らずに研究を進めることが,今後のモンゴル学の真の学問的発展につながると信じている。

2.モンゴル仏教

 最近モンゴル人自身は,モンゴルの仏教を「チベット仏教」といわずに,「モンゴル仏教」ということが多い。元来,チベットから伝来した仏教であることは確かであるが,その後の歴史的変遷の中で「モンゴル化」が相当進んだためであった。モンゴルの僧侶たちが仏典を著すときにたとえチベット語で書いたとしても,その視点や立場はモンゴル人のものである。また彼らが日常的に接しているのは遊牧民としてのモンゴル人であり,そのような民衆を教化するためには,チベット仏教そのものの発想ではなくモンゴル的発想でもって説話する。

 前節で述べた手写本の中に,「マニ」と呼ばれるテキストがあるが,このマニの内容は非常に仏教的である。マニには決まった旋律や抑揚がある。マニの詩をマクタール(賛歌の意)というが,マニについて研究者ナソンバトは次のように指摘した(『マニ賛歌研究資料集』1999年)。

 マニはチベット仏教のモンゴル化に伴って誕生した。モンゴルの僧たちは最初ほとんどチベット語で読経していたために,民衆たるモンゴル人たちは必ずしもチベット仏教の教義を理解できたわけではなかった。そこで学識ある僧たちは,仏教の教えをわかりやすく詩歌のかたちで書き直して広げた。この仏教的な詩文が「マニ」なのである。マニはもっぱらモンゴル語で書かれているから,仏教に対する理解を深めることができた。

 マニは仏教を称賛するだけではなく,父母や山川など,身の回りのあらゆる存在を仏教精神と結びつけて理解している点で特徴的である。いわば,民間の仏教文芸作品であった。山や川,草や木にも霊魂が宿り,それが尊崇と称賛の対象となるのは,モンゴル固有のシャーマニズムに基づく信仰である。マニは仏教とシャーマニズムとが結合して生まれた作品といえよう。マクタールは,韻の踏み方,語彙の運用などの面で,モンゴル詩の伝統を固く守っている。マニの朗誦によって,老若男女とも詩を覚え,詩を普及させることにもなった。

 その一例として,漢語バージョンでは「父母恩重経」とも呼ばれる「母親の恩に報いる賛歌」の一節を紹介しよう。

ああ! 吉祥たれ!
父と母の二人の
愛情によって生成されたひとりの人間。
天の魂を子宮にやどらせ
生命をはぐくませた,
恩愛ある母親。
十カ月に満ちるまで
胎内に大事にまもり
自らの身体を痛めてそだてた
忘れられぬ母親。
この世に生まれたあとは
汚れや不浄を清め
膝の上に温かく抱いて乳を飲ませた
偉大で優しい母親。
おおきくなったあかつきには
すべてを惜しまずに子にあげる
何をしていいかと,何をして悪いかを教え
苦痛を嘗めつくした母親。
・・・・
生涯にわたってはたらいた母親に
いまとなってその恩に報いるのは遅い。
母親の愛情を永遠に忘れることなく
来世にもふたたび命が授かるように。

この種の詩歌を仏教行事のときに集団でうたうことによって,モンゴルの民衆が慈悲深き仏教への依存を強めていったことは否めないだろう。

 また,生老病死,人生の通過儀礼すべてについて,モンゴルでは仏教の僧侶(ラマ)の存在が欠かせないものであった。例えば,子供の誕生における儀礼,お祭り,結婚式や葬式の日取りを決めるときもラマに見てもらうなどである。かつては,子供の名づけもラマに頼んでいた。

 20世紀に入り社会主義時代には一時期,仏教の信仰が政府によって禁止されていたので仏教の伝統が断絶されたこともあったが,近年では政府の規制もゆるくなり仏教的伝統が戻りつつある。それでラマたちはスポットライトを浴びてスターのようになり,あちこちに呼ばれて話をしている。

 ところで,モンゴル仏教の特徴の一つに,僧侶は非常に現実主義的であることが挙げられよう。例えば,中国仏教では肉食禁止があるが,モンゴル仏教では肉食は禁止されていない。それは遊牧社会の主食の一つが乳製品と肉であるためで,それらを禁止しては現実的生活が難しいからだろう。

 もう一つの特徴は,モンゴル仏教・チベット仏教では僧侶たちが学問に対して非常に熱心だという点である。以前私が,オルドス地域で調査をしたときに,チベット語と漢語の両方ができる人がたくさんいた。「チベット語ができないと知識人といえない。」とも言われた。モンゴル人がチベット仏教の信仰者になって以来,ラマ僧が知識界の一部を代表するようになり,チベット語は知的な言語とみられるようになった。もちろんチベット仏教はたくさんの経典を生み出し,それらが木版の形で残っているが,モンゴルでも僧侶はチベット語やモンゴル語で経典を書いたり,手写本に書き写したりするなど,非常に熱心だ。

 それゆえモンゴルには,知識を尊ぶ学者を尊敬する傾向が見られる。遊牧社会には,知識を持ち学問のある人は周囲から尊敬されると同時に,名誉のあることだと認識される風土があった。一方,中国の場合,モンゴルと比べ人口が多い割には,経典などの作品数が少ない。人口比でみるとモンゴル人やチベット人の残した経典や作品の数はかなり多いと言える。

3.遊牧社会としてのモンゴル

 古来より北アジアのモンゴル高原から中央アジアにかけての広大な地域には,多くの遊牧民たちが暮らしてきた。かれらは父系親族を基本的社会組織としながら編成を繰り返してきた。氏族内部の婚姻を禁止し,「白い骨」という高貴な氏族のみが権力を握ってきた。遊牧民はそのときどきの離合集散と勢力の盛衰によって,ときには匈奴,ときには突厥,またときにはモンゴルと称しては,歴史の舞台を駆け巡った。匈奴が強くなるとその傘下に入り,突厥が勃興すればすべての部衆が突厥と称し,モンゴル帝国が成立するとだれもがモンゴルの一員になるという傾向があった。

 それゆえ匈奴や突厥などの遊牧民は,中央アジアを西に移動していくと,その大海原に溶け込んでいってしまう。現在,アルタイ山脈を越えた中央アジア地域には,トルコ系遊牧民がいるが,当時はトルコ系,モンゴル系という厳密な区別はなかったように思う。同じ遊牧民として歴史的に西方との一体意識は非常に強く,一つの共同体として認識されていたと考えられる。ところが,アラビア半島からイスラームが徐々に中央アジア地域に入りイスラーム化すると,モンゴル人たちとのつながりが希薄化していった。しかし,モンゴル人には,中央アジアの諸民族とは奥底の根っこの部分でつながっているとの思いはずっと残っていたと思う。

 モンゴルに仏教が入ってからは,そのルーツの関係からモンゴル人はチベットへの憧憬を感じていたが,中央アジア諸民族のイスラーム化以前は,おそらくインドやチベットよりも中央アジアの遊牧民との間の一体感が強かったであろう。中央アジアから黒海,東ヨーロッパあたりまで,みな遊牧民として生活パターンが類似しており,言葉もモンゴル系,トルコ系の言語は近い関係であった。それゆえ13世紀にチンギス・ハーンが出てきたときも,あっという間に西方に拡大できたのだろう。これが,モンゴル帝国が成功した理由の一つだろうし,かつて匈奴やトルコ系民族が中央アジアを席巻できたのも同じ理由からであったろう。

 それと比べるとモンゴル人はむしろ隣の中国の方に異質性をずっと感じてきた。そこには根本的に遊牧社会と農耕社会の違いがあると思う。長城(万里の長城)は中華世界と遊牧民の境界線であった。モンゴル人にとって長城は,「白い壁」(チャガン・ケレム)と呼ばれ,モンゴル民族の侵入を防ぐための建造物だと言われてきた。
また環境の違いも影響した。環境が違えば,そこから派生する思想も違ってくる。長城以南の地域は儒教思想が主流を占めたが,それは階層に基づく統治方法であった。一方,遊牧社会では自然環境も厳しいので,階層に基づく統治ではやってゆけず実力・平等の社会が基調をなした。

 それゆえ遊牧社会であるモンゴルの中国統治のしかたは,モンゴル的なやり方を中国に強制するものではなく,それぞれの地域の信仰や伝統を残すやり方であった。中国の伝統的なものがそのまま残り,ある面では,歴代の中国王朝時代よりもはるかに自由であったと言える。宋代までは,出版禁止の書籍がたくさんあったが,モンゴル支配の時代には自由にさまざまな書籍がたくさん出版された。その後の明,清の時代になると再び逆戻りした。思想上の書物で残っているのは,意外にも元朝時代のものが多い。モンゴル支配時代は,民主的かつ自由度が高い社会であった。

 ただ,清朝の満洲人はモンゴル高原を拠点とする遊牧民ではなく,満洲一帯(マンジュリア)をふるさととする半遊牧・半狩猟民であった。もちろん遊牧民的性格も帯びていたが,正統派遊牧民というわけではない。清朝の満洲人は遊牧社会とともに農耕社会のこともわかっていたので,大帝国を築くことができた。満洲人たちは大地を自在に移動する民の力を熟知していたので,とくにモンゴル人たちのそのような動の力をけずるために定住化政策を進めた。そして行政組織の長にはチンギス・ハーンの直系子孫たちを任命したこともあり,当時のモンゴル人は,清朝・満洲人の権威を認めていた。

 しかし,モンゴル社会の内部では,チンギス・ハーンの子孫の人たちが統率するという伝統は不変であった。ある意味で,モンゴル人の歴史観はすべてチンギス・ハーンと結びついているといっても過言ではない。モンゴルそのものがチンギス・ハーンであるとの意識が共有されてきた。モンゴル人は,チンギス・ハーンを理念的・精神的な祖先とする。そして自分も何らかのかたちでチンギス・ハーンとつながっていると見ている。このつながりこそ,彼らの歴史認識の原点である。

 実際に,モンゴル社会の中でチンギス・ハーンを直接の祖先とみなす人々も大勢いる。かれらはそれを証明する系譜図を持っており,周囲の人々もそれを認知している。現在でも古文書の形でモンゴル・アーカイブ・センターに膨大な量の系譜図が残っている。彼らは「タイジ」(漢語の「太子」からの音便)と呼ばれる貴族身分である。モンゴル人民共和国が成立するまで(1924年),あるいは内モンゴルでは1950年代まで,彼らにはさまざまな特権が賦与されていた。他方,チンギス・ハーンと血縁的につながっているタイジ以外の庶民は,「ハラチョース」(黒い人々の意味)と呼ばれ,自分の出身部族や氏族がチンギス・ハーンとどのようにかかわったかなど,精神的なつながりを強調した。

4.分断国家としてのモンゴル

 南モンゴルと北モンゴルとに分断されていることは,モンゴルの人たちにとっての悲哀である。そのような分断状態は,自分たちの意思によってなったのではなく,米中ソの大国の政策がもたらした結果であった。06年初めに,米国・ブッシュ大統領がバルト三国を訪問したときに,「これらの国々が一時期ソ連領になっていたことの責任の一端は米国にもある」という趣旨の発言をした。バルト三国の歴史には,彼ら国民の意思による結果というよりは,周囲の大国の判断によって左右されてきた側面が強かった。それと同様に,モンゴル人の悲哀の心情は,中国側の内モンゴルとモンゴル国側とに共有されている。それをいまだに主張できないのは,米中露を中心として世界が動いているためでもある。

 いま「反テロ」が世界的に叫ばれているが,反テロの時代は少数民族にとって非常に不利な時代である。中央アジアの少数民族が強く自己主張すると,ロシア・中国はそれを「テロ」だときめつける。米国は反テロ政策を進めていくために,ますますロシア・中国の協力が必要になっており,国内少数民族に対するロシア・中国の締め付けに対して米国は余り口出ししなくなった。これは21世紀に出てきた新しい状況であり,少数民族,マイノリティにとっては楽観できるものではない。

 近年,中国と北朝鮮・韓国との間で「高句麗歴史認識論争」が起きている。中国の立場は,高句麗は中国の少数民族が立てた地方政権という認識である。しかし,モンゴルとの関係で言えば,モンゴルは少数民族が建てた地方政権ではない。逆に,モンゴル・契丹・満洲は地方政権ではなく,中国を征服し支配者として君臨したいわゆる征服王朝であった。モンゴルと満洲が中国の一部であったというよりも,中国がモンゴルや満洲の一部であった。中国はその概念を逆に置き換えてしまい,モンゴルや満洲は古くから中国の一部であったと自己主張しているのだ。

 こうした問題を解決していくためには,話し合いが重要である。単に日中,中韓というように二国間に限定せずに,日本,韓国,北朝鮮,中国,モンゴル,ロシアなど東アジア諸国全体が話し合うことが必要であろう。例えば,日韓や日中の間で共同の教科書を作ろうという動きがある。いますぐに教科書ができる状況ではないが,それに向けて作業を進めること,研究のレベルを上げていくことは必要だろう。何も各国が同じ歴史認識を持つ必要はない。それぞれに違いがあっても,その違いを乗り越えてこうした歴史認識の問題を考えようという姿勢がまず大事だと思う。現にヨーロッパでは,各国の違いを残しつつもヨーロッパ共通の教科書ができている。そうした努力の結果としてEUのような共同体が実現していく。一方,東アジア地域では互いの垣根がまだまだ高い。しかしそれを克服する努力を目指していかねばならない。そのような共同作業が大切だろう。

 共同作業がなかなか進まない背景には,東アジア地域にいまだに冷戦構造的な要素が残っていることがある。中日両国は勢力面で均衡してきている。そのはざまでモンゴルの国力は微々たるものだが,こうした5カ国が共同作業をする場合には,大国がイニシアチブを取るよりもモンゴルのような小国の方がむしろ重要な役割を果たすことが可能ではないか。現実にはさまざまな困難があるが,遊牧民にはいろいろな見方をオープンに受け入れられる性質があるので,それを活かせればと思う。
(2006年10月20日)