戦後教育の質的転換としての教育基本法改正

筑波大学名誉教授 鈴木 博雄 

 

 いじめによる子どもの自殺が頻発する暗い世相の中で,永年の懸案だった改正教育基本法が成立したことは日本再生の鍵を握る教育の前途に一縷の光明を見た教育関係者も少なくないことであろう。思えば戦後間もない昭和22年に教育基本法が新教育の理念を高々と掲げて発足して以来,半世紀を経たが,その間,戦後の教育は保守と革新の政治的対立によって混乱の渦中を歩んで来た。その混乱の大きな争点の一つが教育基本法の改正問題,とりわけ,愛国心にかかわる改正にあったからである。

 改めて言うまでもなく,国は家族や地域社会とともに人間存在のありように密接にかかわっているものだが,戦後の日本では戦時中の国家主義が国民を悲惨な戦争に引き摺り込んだことから,国家権力に対する強いアレルギーが存在していた。そうした社会状況の下で制定された教育基本法には国民に国及び公共に対する誇りと責任を自覚させる教育という観点が欠落していた。このことが人々の利己心のみを増大させて他人との協調や公人として守るべきルール無視の風潮をもたらし,それがひいては今日のいじめ続出の背景ともなったのである。

 このように考えてくると,改正教育基本法の成立は単に愛国心云々の問題に止まらず,戦後教育の質的転換点となる深い意味を蔵していることを理解しなければならないものである。本稿はこうした観点に立って教育基本法制定の経緯という原点から再検討を試みるものである。

占領下という特殊な状況下で制定

 敗戦直後の占領下という特殊な状況の中に置かれた日本の教育界はそれまでの軍国主義,国家主義の教育体制が崩壊したものの,つぎに来るべき教育については全く五里霧中であった。そうした中にあって,占領軍は進駐直後の10月22日に「日本教育制度ニ対スル管理政策」を日本政府に示したが,その中には「軍国主義的及ビ極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト」と「議会政治,国際平和,個人ノ権威,思想及集会,言論,信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想ニ合致スル諸概念ノ教授及実践ノ確立ヲ奨励スルコト」が含まれていた。これが教育基本法の性格を示唆する最初の動きであった。(注1)

 GHQはまず,日本国内に残存する「軍国主義的及ビ極端ナル国家主義的イデオロギー」や制度,人員の徹底的排除に乗り出した。「学校教員及ビ教育関係者ノ調査,除外,認可ニ関スル件」や「修身,日本歴史及ビ地理停止」はその具体的措置であった。そうした過去の教育体制の排除をした後に,GHQは新しい教育の建設に着手した。

 1946年(昭和21)1月,GHQは日本の教育改革に関し,米国の教育学者の助言を得るために米国陸軍省に対日教育使節団の派遣を要請すると共に日本政府に対してはこの使節団に協力する日本側教育家の委員会の組織を指令した。これが教育基本法制定の端緒となったものである。

 使節団に与えられた任務はつぎの4項目について調査研究し,その結果を報告書にまとめて提出することであった。

(A)「日本ニ於ケル民主主義教育」 
  学科目,学科課程,教科書,教師用参考書竝ニ映画ラジオ等ニヨル(視覚聴覚的)補助教育等

(B)「日本ノ再教育ノ心理的部面」
  教育方法論,言語ノ改革,時宜ヲ失セズ且優先的ニ実施セラルベキ教育刷新,学生生徒ノ創意ト批判的分析ノ発展竝ニ教員ノ再教育等

(C)「日本教育制度ノ行政的再編成」 
  即時且広範囲ニ亘ル行政的刷新,文部省ノ再編成竝ニ地方分権ノ問題等

(D)「日本復興ニ於ケル高等教育」 
 
  図書館,記録保管所,学術研究所,博物館等ノ高等教育ニ於ケル利用,学生生徒竝ニ社会生活国家生活ニ対スル一層活発ナル参与等(注1)

 この4項目とそこに盛られた項目を見ると,GHQが日本の教育の全体的な再建を全く新しい発想によって構想していたことがよく理解される。当時の日本のレベルではこれだけスケールの大きく斬新な構想を描くことすら出来なかったと思われる。

 さらに加えて,この使節団に協力する日本側教育家30名を教育界の各方面より集めて委員会を組織することを指令している。そして,この委員会は単に使節団に協力するのみならず,将来「日本教育の革新につき,文部省に建言すべき常任委員会」とし,使節団の帰国後もその使命であった4項目の研究を継続し,その結果を文部省で総括して定期報告すべき旨が定められた。

米国教育使節団の勧告と意義

 第一次米国教育使節団は46年3月初めに来日し,日本側教育委員会の協力を得て,日本の教育改革に関する調査研究に従事した。(注2) 

 同委員会は精力的に活動し,早くも3月末には報告書を提出して離日した。この報告書がその後の教育改革の方向を示唆するものとなったのである

 この報告書は(1)教育の目的と内容,(2)国語の改革,(3)初等中等学校の教育行政,(4)教授法と教師の教育,(5)成人教育,(6)高等教育,の六章から成っており,その基調は,「民主政治下の生活のための教育制度は,個人の価値と尊厳を認めることが基本である。それは研究の自由と,批判的に分析する能力と訓練とを助長するものでなければならない。画一と標準化を避けなければならない。このため地方分権化が必要である。」と述べているように,個人の価値と尊厳を認めることを教育の基本とし,教育内容面では,近代市民の育成を目標として,これに必要な内容が提案されている。教育制度については,民主主義の原理に基づく教育の機会均等化が力説されている。さらに教育行政では,教育の民衆統制と地方分権の思想で一貫している。これらはいずれも当時の日本の教育者の考え方からすれば百八十度の転換であり,その成り行きについては想像もつかないものであった。

教育刷新委員会の役割

 日本政府は使節団報告書の勧告に基づき,教育改革を実施に移すために,いったん解散した日本側教育委員会を基礎として1946年8月11日に教育刷新委員会を組織した。同委員会は内閣総理大臣の所管に属し,教育に関する重要事項の調査審議に応ずるもので,各界の代表37名の委員で構成されていた。特に後の中教審とは違って,首相の諮問を答申するだけでなく,進んで首相に建議する権限が付与されていた。

 そこでは教育の根本理念及び教育基本法の問題を特に重要と考えて第一議題として取り上げた。この議題を審議するために特別委員会が設置されて9月末から11月末にかけて12回の審議を行ない,その結論が総会で可決され,内閣総理大臣に建議された。この建議の内容がほぼそのまま教育基本法の内容となったのである。この特別委員会の討議は委員の一員であった南原繁東京帝大総長の回顧談によれば,「一回も総司令部から指令や強制を受けたことはなかった。 … すべてはわれわれの自由の討議によって決定した」という。特別委員会の顔触れを見ると,南原総長など当時オールドリベラリストと言われた人々で占められており,思想的には自由主義を堅持しているつもりでも,現実の社会認識には疎いところのある人々であって,こうした点が教育基本法が理想に走り過ぎて現実から遊離したものになったところであり,改正の理由にも挙げられてきた点である。

 加えて,教員の方では戦前からの国の教育支配から漸く脱した解放感と初めて教育の 自由を味わった喜びを味わっていた時期だけに国の関与を認める基本法の改正には強く反発した。さらに教員組合が組織されてからは,この改正運動が政治運動に利用されるようになった。世論もこれに同情を示していた。このようにして,教育基本法はその制定当初から教育界を始めとする厳しい社会的状況の中で発足したのである。

日本国憲法との関係

 教育勅語が帝国憲法と密接な関係にあったように,教育基本法の制定には当時ほぼ同時に進められていた日本国憲法の制定過程が深く影響していた。

 日本国憲法の制定については,占領軍が占領を開始した直後に,日本国政府をして速やかに憲法改正を行なうように決意し,日本人自身をして「その向うべき目的と,その建設のための強固な基礎」を確立させることを時の幣原首相に強く指示した。政府は直ちに松本国務相を委員長とする憲法改正調査委員会を組織して検討に入り,46年2月1日にはその草案がGHQに提出された。しかし,その草案は「明治憲法の字句の最も穏やかな修正にすぎず,日本国家の基本的な性格はそのまま変わらずに残されている」としてGHQから即座に拒否された。同時にGHQ自らが基本原則を明らかにした憲法草案を作り,2月13 日にこれを日本政府に示して以来,このGHQの草案をもとに政府案の作成が進められて3月6日に一切の手続きを完了したのである。

 教育基本法の制定に関与していた委員らは,こうした憲法草案の制定の苦い経緯を繰り返すことのないように慎重な注意を払って事を進めたことは言うまでもなかった。ことさらに「国を愛する」という表現を使うことを差し控えたのもこうした当時の社会的状況に対する配慮があったわけである。

 条文の上での日本国憲法との具体的な関連は第三条から第十条にわたって教育上の原則として掲げられている。即ち,第三条(教育の機会均等)は新憲法第十四条一項及び第二十六条一項の精神を,また第四条(義務教育)は新憲法第二十六条二項の規定を,其々具体化したものである。第五条(男女共学)は新憲法第十四条一項の精神に基づいている。
このように教育基本法と日本国憲法とは密接不可分の関係にあり,同一の精神により貫かれているのである。

GHQの内面指導

 占領初期の段階では,GHQはすでに充分に研究され尽くした教育管理政策に基づいて,軍国主義や超国家主義の教育体制の一掃に努め,さらに対日教育使節団報告書の勧告を得て,新しい民主主義教育の建設に向けて着々と実施して行った感が深く,日本側はそれを理解し,追従するだけで精一杯だった。(注3)

 しかし,実際に教育再建を進めるに当たっては,日本側の民主主義教育の考え方に関する理解に不徹底があり,日本の教育現実に対するGHQの理解には限界があった。そこから実施の段階で両者の間に幾多の誤解や齟齬が生じた。

 文部次官としてCIEとの折衝に当たった有光次郎は,「彼等(GHQを指す。筆者注)     がある方針を決定する場合には,こちらの意見や陳情は,はたしてどれだけ考慮されたか,いささか疑なきを得ない。ことに,彼等がある方針をワシントンから与えられ,または極東委員会や対日理事会等の要請や空気からなんらかの態度をとろうとする時は,いくら当方で陳弁しても力及ばぬことがあったような気がする」(注4)と述べているし,剣木弘もCIEとの折衝過程を「血涙の歴史であった」(注5)と回顧している。

 この点が新教育を実施して行く上での具体的な障害となったが,政治的には直ちに法改 正が出来る状況ではなかった。1956年(昭和31)に教育基本法改正を目指す「臨時教育制度審議会」の設置法案が野党の反対で審議未了,廃案となってからは,文部省はストレートに教育基本法の改正に努めるよりも,個々の教育法規を制定または改正することで新教育の不備を補う方針を探った。それは51年の教育課程審議会の答申を受けた道徳教育の改善,56年の「地方教育行政法」の公布,57年の道徳教育の時間特設,59年の学習指導要領の全面的改定となってつぎつぎに実施されていったのである。

 こうした流れが当時の文部省対日教組の厳しい現実がもたらしたものとはいえ,教育基本法の精神の空洞化を意味するものであり,決して健全な形ではなかったわけである。

教育は常に王道を踏み行なうべきものであり,その理念の改正も政治的戦術などに捉われずに公正になされるのが望ましい。その意味では今回の改正教育基本法の成立によって教育の態勢は平常に復したものということが出来る。この精神に基づいて,今後の具体的な改革の進展が期待されるところである。
(2006年12月22日)

注1 昭和20年10月22日 GHQ覚書
注2 この教育使節団はストダード(Stodard,G.D.)団長以下27名で,カウンツ (Counts,G.S.)やキャンデル(Kandel,I.L.)などの著名な教育学者も含まれていた。
注3 GHQで教育改革を担当したのは民間情報教育部(Civil Information and Education Section)であり,初期の段階では,日本政府に対して指令(Directive)あるいは覚書(Memorandum)を与えて指示していた。後半は日本の自主性を尊重して指令や覚書はあまり出さなくなり,主として内面指導の形をとるようになった。
注4 有光次郎『文部時報』1952年8月号「占領下の苦心談」
注5 剣木 弘『教育技術』1952年9月号「わが文部省時代の回顧」