アフリカの持続的発展と人間開発

京都大学名誉教授  杉山 幸丸 

 

これまで30年余,私は毎年のように西アフリカに出かけて,チンパンジーなどの野生霊長類の行動と生態について調査研究をしてきた。そして霊長類研究所を退官してからは,私立大学で大学大衆化時代の教育現場を肌で体験してきた。そうした経験を通して高等教育のさまざまな局面をみてきたが,ここではそうしたことに関連していくつか述べてみたい。

1.アフリカ体験から学ぶ

(1)食糧援助より教育支援
アフリカはいま,援助漬けになっていると言われる。先進国が先を争って援助の手を差し伸べ,おんぶにだっこで何でもしてあげる。だから,手さえ出せば何でもしてもらえると思っているように思える。失礼な言い方かもしれないが,これは言いすぎだろうか。

 私自身,西アフリカのギニアに科学研究の充実のために立派な研究施設を建設してもらいながらも,その後の管理・維持の問題で苦い経験を味わったことがあった。発展段階を考えずに文明の利器を持ち込んでも,必ず便利になるわけではない。文明の利器にはそれを維持するだけの部品や技術,維持費がかかるのである。このところを無視すると,せっかくの援助も台無しになってしまうことを知らなければならない。もし援助される側が理解できないのなら,援助する側が十分わきまえてやらなければならないだろう。アフリカのある村の片隅に,かつてソ連から供与されたらしい大型ブルドーザーが1台,朽ち果てて転がっていた風景が思い起こされる。

 これまでアフリカには生活向上のための食糧など物資の援助が多くなされてきた。それによって人々はいくらかでも満腹感に浸ることはできただろうが,食べてしまえばそれでおしまいだ。機械や装置も壊れるまで使って,それでおしまいである。もらったものを元手にしてもっと増やそうという未来志向の気持ちと努力がない限り,これではいつまでたっても同じ援助を受け続けなければならないだろう。貧しいから直接腹をふくらますものを送るのではなく,貧しくても,長続きする方策に手を貸してあげる方が,結局は豊かになる道だと思う。

 アフリカの多くの国々では,長い歴史の中で教育や文化にあまり金をかけてこなかった。もちろん土着の教育や文化がなかったわけではない。何もないところに文明の利器が入り,外の世界ではどれほど物質的に豊かな生活を享受しているかを知ったときに,そこに直行しようとする欲望を少し抑えて,持続可能な資源利用の道に進むには,先を見通すための教育が必要である。国民全体のレベルアップと指導者の養成,その両方である。このような分野に,今までの小規模な社会ではお金を使ってこなかった。これは国レベルで遂行しなければならない事業である。しかし,今までなかった分野へのお金の出所は少ない。だからこそ,先に文化のレベルを上げた国が手を差し伸べる必要があるのだと思う。その意味で言えば,「パンのためにこそ,パンよりペンが必要」なのである。


(2)共存共栄の関わりあい
日本人研究者は今,世界の多くの途上国に出かけてさまざまな分野の調査研究を行っているが,現地の人々のための教育に協力した人が果たしてどのくらいいるだろうか。文科省は調査研究のための費用の援助はするのだが,現地での教育支援などに対する費用の負担はしていない。このような相互関係を収支関係で見れば,「一方通行」であり,「研究搾取」と言わざるを得ない。本来はもちつもたれつの関係,共存共栄の関係を維持していくべきである。まずわれわれが調査研究の成果を得たのであるから,こんどは現地にお返しをするというように意識を変えていく必要がある。

 私はこれまで30年以上にわたりアフリカに出かけて,そこの自然環境を観察しデータを取って研究してきたが,現地の人に対してはたいしたお返しをしてこなかった。しかし最近それではいけないと思い,これまで調査のために訪れた現地への恩返しをしたいと考えるようになった。研究者としての私ができることは,教育分野での恩返しである。そこで最近は,ギニア共和国の3つの大学を回り集中講義をしている。自分の最先端の研究成果を話すだけでは,理解できない人も少なくないので,その分野全体の講義をする。

 日本のような遠方からやってきて講義をすることには,もう一つ現地人に日本びいきを増やす,好日度を上げるという意味もあるだろう。本来は,文科省こそがそれを考えるべきだ。日本の科学技術研究振興費は相当の額があるので,その1%でも割いて,研究先の発展・貢献のために拠出して欲しいと思う。日本の研究者が教育のためにアフリカに赴くといえば,大半のアフリカ諸国は喜んで受け入れてくれるだろう。私の場合も,ほとんど手弁当で出前講義をやっている。しかし,そのような貢献をすることによって,われわれの研究グループ全体の現地における評価が高まり,研究を進める上でもやりやすい環境が醸成されることにつながるのである。

 一般にアフリカ諸国では,最富裕層は子弟をイギリスやフランスなど欧州に送り,その次のエリート層の子弟の多くがその国の大学に通っている。ただ,大学を卒業してもなかなか就職口がないという厳しい課題もある。それでも最近,アフリカの国々はどこでも教育に力を入れている。かつてはヨーロッパ人を教師として教育を行っていたわけだが,最近ではやはり自国の人を教師として養成し,自前でやっていけるよう熱心に努力している。そのようなことの助けに少しでもなればと,私も出前講義をしているのである。

 今後は政府や外務省も,どのような貢献の仕方が本当にその国のためになるのかをよく考えないといけない。例えば,日本のODAは,相手国からの要請が前提となって始まる仕組みになっている。贈与を別にすれば,日本側から先に申し出て援助をすることはできない。さらにアフリカ諸国では,援助要請のための計画書の作成からしてあまり慣れていないためにうまく書けないことがあるので,きめ細かな貢献方法を考える必要がある。

 また日本の外交官なども,現地とのつきあい方を改めていく必要があるように思う。世界のほとんどの国に日本の大使館や領事館があるが,そこの外交官たちは現地の一般の人たちとほとんどコミュニケーションをとっていない。外交官の多くは現地の上層の人たちとのみつきあうことが多いようだ。そのため,外交官が現地の庶民と接するのは,車の運転手,事務員などで,庶民の行くようなマーケットに行く人は極めて稀だ。普通の人が何を考え,どのような生活をしているのか,そのような庶民の皮膚感覚を外交官も肌で感じてこそ,外交官としての役割を果たすことができるのではないだろうか。

 ところで,アフリカの教育においては,図書館,実験施設,自習室などの設備が非常に貧弱であることは確かであり,そのために潜在的能力のある人材がいてもなかなかそれを十分に活かしきれていない現状にある。しかし学生の意識は高く,日本の学生は及ばないほどにハングリー精神が旺盛で熱心に授業を聴いてくれる。アフリカの学生は日本の学生よりはるかに反応がよいし,元気がある。アフリカも就職難であり決していい状態ではないのだが,多くの学生は上を見て生きている。日本の学生に上を向かせる,すなわち,向上心を持たせる方法を考え出さないといけない。日本では一流の大学ですら,必死になって世界のトップに立とうとする気概をもった学生が少なくなってしまった。それを社会全体,とりわけ社会のリーダーたちが強力に推し進めていく必要がある。

(3)開発と保護のはざまで
現在,アフリカの野生動物は国立公園で保護されているか,あるいは人間もほとんど住まないような僻地にしかいない。それは,アフリカもいたるところが開発されてしまった結果である。

 一般に欧米の研究者はアフリカでの研究において,車を持ち込み家を建て,食料を町まで出かけて買い入れるなど,便利な生活をしている。私はそのような経済的余裕もない上,辺鄙なところに出かけたために町まで買い物に出かけることも難しかった。そこで現地人の家に間借りしながら住み込み,現地人と同じものを食べて生活した。私と同時代の日本人研究者は似たようなやり方であった。

 私は終戦直後の悲惨な生活を体験したので,アフリカの生活もそれほど苦にはならなかった。最近は,アフリカの居住環境もだいぶ改善された。それでも,日本の若い研究者は居住環境がよくないとフィールドワークについていけないので,住環境などを整えなければならない。

 私がチンパンジーの研究のために永年通ってきたギニアのボッソウ村は,今から30年前は社会主義国で,文明からかけ離れた生活をしていた。自分たちが作ったものを食べて自給自足の生活しているだけで,本当に一部の人だけが文明の恩恵を受けるという状態であった。ところが,経済発展と共に流通機構が整備されてトラックや車が村に入るようになると,同時にさまざまな生活物資も流入するようになった。また自分たちが食べる以上に余剰生産して農産物を町に売り出し収入が得られると,いろいろな物資を購入することができる。そしてお金を持つようになると,自転車,電気製品,自家用発電機等を購入して生活が豊かになっていった。

 そうした欲望の味を占めると,耕作面積を増やしてさらに生産しようとするために,開発が一層進んでいく。以前であれば,野生のチンパンジーが栽培バナナを取っても気にしなかったのに,より多くの生産をあげようと考えた場合には,チンパンジーが取ることに寛容でなくなるとともに,野生動物などいなくてもいいと考えるようになってきた。

 また,これまでアフリカでは焼畑農耕などの粗放な農業を行ってきた。森を伐採して草木を焼き,焼いたあとの灰を肥料として農耕を営んできた。現在でも山の上の方はそのような農業を行っている。耕作面積を増やすためにどんどんと森をつぶしていく。脱森林化が進むと野生動物を絶滅させることにつながる。しかし,森の役割についてはほとんど考えずにそうしてきた。森は雨水を蓄え,それが少しずつ地下水になり,その結果として人間が1年中飲み水を得ることができる。ところが森をなくしてしまうと,水が一気に流出して有効利用することができなくなってしまう。とくに乾季になると本当に水のない生活になる。

 そこで国連やNGO,NPOが来て井戸を掘ってくれる。しかし,その後,再び水が枯渇したときには,それまで掘った井戸よりもさらに深く掘らなければ水が出なくなるという悪循環を繰り返すことになる。「なあに,また誰かが来て掘ってくれるさ」では,済まない問題である。

 乱開発にはこのような問題が伴うことを現地の指導者に教えていく必要がある。それで私はアフリカの大学の講義でこのような環境問題についても話をしている。大学のエリートたちがよく理解するようになれば,持続可能な開発をアフリカでも進めることができていくに違いない。

 例えば,山の上部は森を残し,畑は低地に作るようにする。川から人工支流を作って低地は水田にし,上流部から少しずつ低い畑に水が落ちるようにすればよい。そして高い土地には乾燥に強いキャッサバを植える。バナナは成長が早くて日陰をつくるから,やがてはパパイヤやオレンジ,マンゴウの林にすることも可能だろう。施設をつくる場合にしても,現地で入手できる資材と人力で,村人たちのノウハウで何とか回復,維持できるものにしておく必要がある。

 自然資源の永続的利用のためには,もとの資源を大事にしてできるだけ利子を増やし,その利子を利用してゆく方策が必要である。森や動物などの生物資源は,幸い,うまく利用すれば利子が増える。元資源は温存して利子だけを使うためには,資源量を測ったり利用量を調節したりする必要がある。これが環境研究である。これは国レベルでしなければいけない。いま現在の生活レベルの向上よりも,将来の自立のためにこそ手を差し伸べるべきであろう。

 先進国においても開発と自然保護はいつも対立して問題になってきた。アフリカは非常に貧しい状態に置かれているために,開発を抜きにしては考えることができない。保護を優先して貧しい状態をしいることはできない。そこでわれわれは先に経験したものとして,開発と保護のバランスをはかる知恵を教えていく。物質的援助はバランス維持のためでありたい。このようなところに高等教育機関の果たすべき役割があるように思う。

 大学教育は直接的には,リーダーの教育につながるものであるが,私は現地に赴いたときには,リーダーだけではなく,一般の人たちに対しても教育的アプローチを試みている。例えば,発電機を持ち込み村の子供たちにビデオを見せたり,話をしながら,環境と開発の問題などについて啓蒙している。これは間接的ではあるが,未来に対する投資・教育と言えるものである。

2.生物社会の原則と現代若者の教育

(1)競争社会の中で
ここで生物世界における競争について考えてみたい。生物の世界では,生存競争の中でより強い個体がより多くの子孫を残して,それが広まってきた。しかし,競争があまり激しすぎるとそこで「特殊化」して,競争に勝つことが目的化してしまう。その結果,エサを獲得して生存すること以上に,周囲のものから勝ち残っていくことに特化してしまう。そしていびつな体になってしまう。極端な競争に走った場合には,生物でも,例えばマンモスや恐竜のように絶滅してしまった。これは軍拡競争といっしょだと思う。極端な競争は個体も社会もダメにする可能性がある。ある程度の競争は必要だが,それをどの程度に抑えられるかが問題なのである。競争の一方で,他者と共存していく手立てを打たなければならない。

 地球にはいろいろな場があるので,生物はその場に応じて適応し生存している。そうすることによって周囲の他個体とそれほど厳しい競争にならずに,まあまあやっている。それが共存の原理となる。動物の場合は,それを考えてやっているわけではなく,環境条件に合うように体の仕組みがそれぞれに作られて,うまく共存するようになってきた。

 ふつうの自然環境においては,順位や強弱を剥き出しにする必要はあまり多くない。個体間に強弱や順位の関係が顕在化するのは,資源の争奪をめぐって過度の競争が起こるからにほかならない。資源が集中して取り合いの状況が厳しくなるほど,周りの誰よりも上に立って多くの資源を自分のものにしようとする傾向は,どの世界でも同じである。つまり,「上昇志向」は資源をめぐる競争が厳しいほど強くなる。逆にいえば,自然界では,通常,食物資源の集中が少ないから順位や優劣,強弱の関係はあいまいなのである。もっとも,繁殖パートナーという資源をめぐっては,とくにオスは,自然界でも激しい競争にさらされることがあるが。

 ところが,霊長類集団内にある個体間の明瞭な優劣・順位の関係が明らかになると,あまりに人間社会に似ているために,世間にも知られるようになった。しかし,イギリスのマイケル・チャンス氏は,霊長類集団で大事なのは,むしろ「注意構造」(attention structure),お互いに周囲の個体に気をつけ合っていることだと主張した。平たい言葉で言えば,「気配り」とでもなろうか。

 人間社会の場合,ややっこしいのは,欲しい資源が食物以上にダイヤモンド,邸宅,土地,現金という墓場まで持っていけないほどの財産にまで膨れ上がることである。さらに名誉や社会的地位,権力など,最大最高の資源として獲得競争の対象になる。これらは無限と言ってもいいほどに大きくなり得るために,ときには他人を引き摺り下ろしてでも獲得しようとすることになる。動物にはない,人間だけが犯す堕落の要因の一つは,この名誉や社会的地位や権力という資源を求めることに急すぎることだ,と言っても過言ではないだろう。

 人間社会にもそれなりにバランスを取ろうとする力が働いているのだが,その一方で,競争の力の方が現代社会では過度に強いためにそうした調和をとろうとする力の作用はどうしても弱まってしまう。例えば,一方で炭酸ガスの排出を抑制しようと叫びながらも,他方では消費拡大を声高に叫ぶ。これは完全に矛盾するものである。このような場合は,ルールを設けて調和を図らざるを得ない。そうしないとどうしても消費拡大という安易な方向,すなわち自分勝手な道に流れやすいのである。

 学生には長いスパンで物事を考えてほしいのだが,それだけでは今の学生はついてこない。そこで目の前のことに結びつけて話をする。多くの人は目の前の競争しか見ていない。例えば,有名小学校,有名中学,有名高校,有名大学を目指し,そして大手の会社に就職しようとする。その後,どうしようとするのか。最終的にどのような人生を送り,どのような社会にしたいと思っているのか。そんな先のことなど考える余裕もなく,多くの人は目の前の競争にのみ関心を寄せている。今まではそれでもある程度やってこられたが,最近では大企業に勤めても将来の安定が完全に保証されるわけではない。目前の過度の競争が広い視野を失わせてしまっているのである。だから,目の前の環境が要求してくる必要性に合わせるだけでなく,将来を見通して新しい状態に合わせて自ら変身できる余裕を残しておくことこそ大事なのである。

(2)コミュニケーション能力
われわれ人間は,社会の中に生きている。その社会から完全に離れて生きていくことはできない。そうなると他人とのコミュニケーションをとりながら生きていかざるを得ない。コミュニケーションはすべての行動の基礎になるはずである。とくに学生たちは,就職するにしても,周囲の人々とのコミュニケーションがうまく取れないと,いくら頭がよくても世の中の役に立つことができない。

 最近は,大学生に限らず,若い人の中に人とのコミュニケーションをうまく取れない人が多くなっている。それは自分の人生全体を見た場合に,非常に「損」である。うまく付き合うことができれば,そうでない人よりはさまざまな道の可能性が広がっていく。コミュニケーションをしっかりできることは,何をするにしても「得」になる。損得だけで判断するのはよくないかもしれないが,生物はある意味で損得を勘定して生きているとも言えるので,人間も例外ではない。この場合の得とは,長期的展望に立った得である。

 人と話をする,人とコミュニケーションをとることにおいては,人によって得意,不得意があるだろう。しかし,不得手であればこそ,自覚的に努力していくことが大切である。もしそうしないと,自分の「損」な部分がますます広がっていってしまう。例えば,面倒だと思っても声をかけてみる。「挨拶」一つにしても,くだらないかもしれないが,しかし非常に大切なことなのである。「おはよう。今日はいい天気ですね」と声をかける。空を見ればわかることだが,それでも声をかけることには別の意味がこもっている。

 もちろん問題があるといわれる現代の若者を育ててきたのは,その前の世代である。その人たちがやってきたことの問題点をいちいちあげつらうよりも,私としては今の目の前の若者たちを元気にして,周囲の人々とコミュニケーションがうまくとれるようにするために,自分のできるところから実行しようと考えて実践してきた。

 若者に希望を与えることができれば,彼らも積極的に生きていくだろう。かつて一部の人しか大学に行かなかった時代には,大学生の多くが自分の生き方について考えてから入学してきた。ところが,現在は多くの学生が大学に入る大衆化時代を迎え,目的意識に乏しい人が多くなった。それならそれで大学在学中に,自分がどのようなことに向いているのか,自分探しを徹底することが重要である。そのためにはいろいろなことに関心を向けてチャレンジしてみることが大切だろう。その中から自分で力をふりしぼれる何かが見つかっていくに違いない。

 日本の国内では,大学の大衆化によって多くの大学がいわゆる「高等教育機関」というよりは,「教養教育のための機関である」と考えた方がいい時代になった。大学人はそのような現実をまず自覚することが大事である。その上で,普通の人間としてやっていけるように教育していく。生半可に「高等教育機関」だと背伸びしていては,現実との乖離が進むばかりである。

3.最後に

アフリカの多くの国で公的な力,すなわち権力と武力が人々の生活の安定のためではなく,その位置に立つ人の私腹を肥やし,自分と自分の家族,拡大ぶら下がり家族を肥やすために使われているらしいことは,しばしば口にされることである。腐敗や汚職の追放をスローガンに掲げて,新しく権力の座についた新政府もまた同様の掛け声によって倒れていった例がたくさんある。

 この悪循環から脱出するためには,自らは清潔な為政者が先見の明を持って強力なリーダーシップを発揮し,汚職を追放することが第一だろう。しかし,今までの例からもそれが非常に困難なことは明らかで,これを打破するためには,同時に国民全体の文化的質の向上がどうしても必要である。そのためには初等教育の普及と国のさまざまなレベルにおけるリーダーを養成する高等教育の基盤を立てることが急務である。国民みんなが自分で考え,判断する素地が必要なのである。

 アフリカにも部族や宗教の壁を超え,人々のために全力を尽くす指導者が輩出して欲しいと思う。アフリカもモノや情報の溢れるグローバル化時代に入り,人々は自由に意思表示をしながらも,ときには我慢をしなければならないことを学ばなければならない。その力の集約によって,国レベル,さらには国を超えたレベルの社会をリードする建設期の指導者が,トップから末端までの各段階に必要だ。そのためにこそ幅広い教育が必要なのだと思う。

(2007年3月8日)