中国文化の根底にある伝統思想

大東文化大学教授  蜂屋 邦夫

 

 振り返ってみれば,中国にはある時期「批林批孔」というスローガンのもとに,徹底的に孔子の思想を否定してきた歴史があった。しかし近年になり,中国は世界各地に「孔子研究センター」「孔子学院」などを設立しながら,「孔子」「儒教」を一種のブランドとして掲げ,その影響力拡大に力を注いでいる。ここには現政権の世界戦略があるだろうが,より大きな観点から中国の動きの本質をつかむためには,その根っこにある中華思想という中国の伝統思想の理解が不可欠である。そこで,本稿では,中国の伝統思想の主なものについて考察してみたい。

1.儒教思想の形成

(1)周代の農業社会と封建制
 思想や文化は,ある社会を基盤として生まれるので,思想を考える場合は,それが生み出された社会やそのシステムを分析することが重要である。その観点から言えば,中国文化の基本骨格は,今から3000年ほど前に始まる周代(BC11世紀〜BC3世紀)に形成されたと考えられる。この時代の特徴として,社会については宗族(そうぞく)制,政治については封建制,生産関係については農業などを挙げることができる。

 当時は農村社会を基本とする時代であった。その社会をうまく維持していくための共通の認識があったと思うが,それが次第に「儒教」という形に結実していった。同時代には儒家に対して墨家や道家の思想なども生まれたが,それらには農村社会を基盤として成り立つ共同体を支える思想という共通点があった。つまり,いわば右側から支えるか,左側から支えるかの違いということができよう。

 一般に,孔孟思想と老荘思想とは基本的に相容れないと言われるが,このような農村社会という共同体を支える思想という観点から見れば,重なり合う部分がかなりある。その違いといえば,力点を個人におくのか,社会におくのか,あるいは小さな社会を基盤とするか,大きな社会を基盤とするか,などということになろう。

 日本における農村のイメージは,あちこちに数軒ずつ農家が点在する姿であるが,当時の中国の農村は,城壁によって囲まれた一種の街のような形をしており,その城内に人々が住んでいた。城門を入ると中には居住地域とともに農耕ができるスペースもあって,その中で自給自足的な生活を営んでいた。言ってみれば城壁に囲まれた居住地域であり,それには大小があるものの,一種の「国」(都市国家)を形成していた。

 中国は広大な国であり,昔は現在以上に地域ごとに閉鎖された社会であったが,また北方アジアの遊牧民族の侵入などに対して防御の必要性があったので,いざとなれば,閉鎖社会とは言ってもやはり地域同士が団結せざるを得ない。外敵の侵入に際しては,一つ二つの都市国家では対抗するのに不十分なので,ある一定範囲に及ぶ政権(王朝)を建てて対応した。いったんそのような仕組みができあがると,農村共同体を支える村は,それ以前のように独立的に生存できなくなる。王朝という仕組みの中に組み込まれてしまうので,例えば,税の徴収(当時は穀物など)などがなされるようになる。

 そのなかで権力者は,自分勝手に権力を握っているのではなく,国を治めるように天からも地からも認められている特別な人なのだという権威付けが必要になる。

 周王は天(天帝)から王朝を建てよという命(天命)を受けて周王朝を開いた天子であるという建前であったので,その権威の根拠は天にあった。王が天の子であれば,天はその親であるので,子は親によく仕えなければならない。天に仕えるとは,先祖をよく祭るように天をよく祭ることであり,その行為を当時の人は「徳」という言葉であらわした。つまり,その意味は,現代語でいう道徳の「徳」ではなく「天の神に対する王の奉仕」である。具体的に言えば,徳とは決められた期日にきまりどおりの飲食物を捧げて祭るという儀式であり,王朝が開かれ世の中が平和に推移するのはすべて王がきちんと天を祭るという徳のおかげということになる。

 しかし,儀式が形式化するに従って,孔子などが神霊をだいじにする気持ちの方がより重要だということを主張して,徳の内容が深化していった。徳は,いわゆる「道徳」の意味に発展していった。天と並ぶものであった徳が罰と並んで述べられるようになった。罰は,人民に何か欠点があった場合に王や諸侯が下すものであるが,徳は王や諸侯が人民に対して恩恵をほどこす,いわゆる「徳治」という意味になった。

 これはどのような社会においても見られる現象であるが,指導者というのは,権威を持つと同時に権威付けを行なうものである。中国ではそのような権威付けの基礎を孔子が儒教という形にまとめあげたと考えられる。しかし,孔子が生きている時代は,孔子の理想からはほど遠い社会であった。そこでもう一度天下に道を行なわせるために,孔子は政治については正名(せいめい)思想を説いて君主は君主らしく,臣下は臣下らしくすることを主張し,人については家族の情愛を一般化した仁の道徳を強調した。

(2)宗族(そうぞく)制
 宗族とは,父―自分(男)―息子という男子の血統,つまり父方の一族をさす言葉である。宗族秩序の根底は血縁と父子関係にあり,親子関係が基本となって社会の秩序が保たれると考えられた。宗族制は,宗族の成員を結束させる祖先崇拝と,成員の宗族中での位置によってきまってくる日常のルール,いいかえれば「礼」を尊重することによって維持されてきた(注)。

 宗族制社会の具体的なイメージを単純化して説明すると次のようになる。

 周王朝の頂点には王室がある。王室は姫姓(きせい)の一族である。王の一族は王位継承者は別として,各地に封建されて諸侯として国(農村都市)を建てた。姫姓や異姓の諸侯の家柄を公室というが,王室を本家とすれば姫姓の公室は分家に当たることになる。さらに同様のやり方で,公室も分家していく。諸侯から分かれた家柄を「大宗(たいそう)」,さらに大宗から分かれた分家を「小宗(しょうそう)」と呼ぶ。大宗と小宗は一族としてまとまり,さまざまな儀式も共同で行なった。このように,王室を中心として中国じゅうがピラミッド型の本家分家関係を形成したが,これを基盤として宗族制が成り立っていた。もちろん,実際には中国じゅうが王室を中心とする一つの宗族によって構成されていたというわけではなく,王室と血縁関係のない異姓の諸侯や,諸侯と血縁関係のない異姓の家臣も無数にあった。大小さまざまな宗族が存在していたが,それを支配者として束ねたのが王室や公室であった。

 昔の人々は自然界に対して力が弱かったので,天を祭って自分たちの生活を安定させてもらおうと考えた。山や川,森など自然界のありとあらゆるところに神様がいると考え,そのような神様全部を時期を決めて一定のやり方でお祭りをした。「祭」という字は,肉を捧げる意味だといっても,神様が具体的に肉を食うわけではないが,心の中だけでお祈りするのではなく,儀式という実体をもってお祭りをする。いろいろな場所に神様がいるという考え方は現代中国でも部分的には生きているが,台所,かまど,家の隅,トイレなどにも神様がいると信じられてきた。自分の周囲のさまざまなところに実に多くの神様がいるので,それらをしかるべき立場の人がきちんと祭らなければ,どんな祟りがあるかもしれないと畏れた。

 ところで,当時の社会では,人は死ぬと誰でも「鬼」(き。魂魄,霊魂)になると考えられていた。だいぶ後世のことになるが,六朝(りくちょう)時代の考え方によると,人の死亡直後の「鬼」には重さがあって,川を渡るときには水音がするという。だいたい空中をふわふわと浮いていて,やがて山東省の泰山などに集まるといわれた。多くの「鬼」があちこちにおり,それらをきちんと祭らないと子孫に祟り(病気,不幸,事故など悪いこと)がもたらされる。

 ここで重要なことは,誰もがその祭りを主宰できるわけではないということである。血縁が非常に重視され,宗族のなかの特定の人しか祭りをすることができない。例えば,父親が亡くなった場合は,その嫡出長男が祭る。諸侯ならば、宗族の創始者である初代の当主(王の子弟で封建されて諸侯となった者)と代々の当主を神としてあがめ祭り,その宗族が続く限り宗族の先祖の神々を連綿と祭っていく。ただ長い年代を経ると全部の神々を祭るわけにいかないので,5つの廟を建て,初代の当主と4代前までの先祖の神々だけを祭り,それ以前の神々は一つにまとめて祭ることになる。

 個々の農村都市には,その支配者の祖先神を祭る宗廟(みたまや)があるが,そこでの祭事に参加できる人は限定されている。当主を中心に上下5世代くらいの人々が同じ宗族とみなされ,その宗族の直系当主が祭りを主宰する。一人一人は,血縁上,その宗族のどのような位置に生まれたかによって,ある祭事には参加できるが,別の祭事には参加できないなど細かな規定があった。また,ある宗族に嫁に来た女性は,ある一定期間を経て嫁としての資格をもらうと,祖先神の廟へのおまいりが許されるようになった。

 このように祭る人の資格は,その人の人格如何にあるのではなく,その家柄のどの位置に生まれたかという血統(正統性)である。それゆえ,たとえば天のように王が祭るべき対象を,王ではない人がいくら天を敬っているからといっても代わりに祭ることはできない。また,地方の名山は諸侯,天下の名山は天子(王)しか祭ることができないうえ,それぞれの祭り方が厳密に規定されていた。これが宗族社会の基本である。 

 儒教は,このような社会をうまく機能させていくための秩序をはっきりさせた。それゆえ祭りが重要な儀式となる。冠婚葬祭をはじめ,さまざまな儀式や儀礼が「礼」であり,儀式=礼を行なうことによって社会の秩序が保たれる。個人のレベルでは日々の生活のなかにおける礼であり,そのような礼が中国社会全般に及んで大規模に行なわれた。

 宗族制は血縁関係という範囲で考えるために,それを超えた国や中国全体ということはなかなか考えにくい。その考えにくいところを,天なり王室や公室の祖先などの権威によってまとめ上げていくシステムが封建制度であった。

2.中国社会と道教

 道家思想と道教との関係についてこれまでいろいろ研究されてきたが,直接的には関係がないとされている。しかし,思想の上では道教は道家思想の影響を受けていると考えられる。

 中国社会には合理化されない神秘的な物事に対する畏怖の念が根強く残っており,それは民間信仰ともなった。民間信仰には実にさまざまなものがあり,道教の周辺部分にも民間信仰がある。道教は一つの宗教体系であるが,いまだにきちんとした定義が下されないほど多様な面をもっている。たとえば,後に道教に摂取された神仙思想やある種の医学思想のようなものも古くから摂取された。教団としての道教の発生は東晋の末ごろ(4世紀〜5世紀)と考えられるが,その前身となる教団は,いちおう後漢の半ばごろ(紀元2世紀)にあったと考えられる。

 一方,道家思想というのは,老子・荘子の思想が中心であり,農村社会の中で小規模な自給自足の農民の平和な生活を理想化したものととらえられる。

 道教の教えの中には,老荘の教えを経典(『老子道徳経』など)として認めているほか,道教的教団が生まれたときに,まず拝んだ神様は「太上老君(たいじょうろうくん)」という,老子を神格化した神様であったといわれる。荘子はそうしたことになじまない性質があるが,それでも後世になると道教の聖人として扱われる場合もあった。このように老荘思想は道教に影響を与えている。

 道教にはたくさんの神と神仙(仙人)がある。中国で神と言った場合には,ほとんどが道教の神になる。ただ,その神々には民間信仰の神も混じっているので境界線はあいまいである。神の種類には,自然神(山川草木,雨風などの自然物を神格化したもの)と人格神(人が死んだあと,その「鬼」が神に格上げされたもの)とがある。だいじな点は,「鬼」と違って神には,都市を守る,家を守る,自然や天候を管理するなどといった職能があることである。人は社会生活や家庭生活を営むときにさまざまな困難にぶつかるが,道教はそうした困難の一つ一つに全部神を結びつけた。

 それでは道教の本質は何か。人が死ぬと誰でも「鬼」になるのであるが,「鬼になるのはいやだ。ずーっと人間でいたい。この命を何千年も生きながらえ,できるならば死にたくない」という願望を体現化した思想,すなわち不老不死の思想である。それを体現したものが「仙人」である。仙人とは,年もとらず死にもせず,どこにでも自由かつ迅速に移動できる能力をもつ存在である。道教が現われる前から仙人思想はあった(戦国時代から秦漢の時代)ので,仙人思想=道教とはいえない。しかし仙人思想が道教に影響を与えたことは事実である。このように道教思想の中心は,不老不死になるための道術,信仰であった。一般の人の立場では信仰であるが,専門の道士の立場では修行して仙人になる道術である。

 たとえば,『荘子』を読むと呼吸法を紹介するなど健康法にも通じる教えがある。普通の人は浅い呼吸をしているが,「真人」はかかとで呼吸すると書いてある。これは後世の呼吸法,静坐法,胎息法に通ずるものである。

 さらに進むと死なないための修行法がある(呼吸法,薬,運動,静坐法など)。とくに金属の「金」は安定した物質なので,これを身体に取り込めば永遠不変の存在になると考えて,金を飲んで修行した人々もいた。自然界に存在する金よりは人間が作った金の方が変化の過程があるので価値が高いと考えられた(そうして作られた金の丸薬を「金丹」という)が,現実的にみればその製作過程で砒素,鉛,水銀,硫黄などの猛毒が含まれており,体に害になるものであるから,たちどころに死んでしまうこともあった。それでも,死んだのは見せかけで本当は仙人になったのだと解釈されて,仙人思想につながっていった。また金丹を作るために,人にも会わずに山奥にこもり,物忌みをしながら材料を操作する過程で火薬などが発明されたと言われる。

 唐代の皇帝の中には絶対権力者の孤独さゆえに,「この金丹を飲めば不老不死になれる」と道士にだまされて死んだ皇帝も少なくなかったという。科学的にいえば,鉛,砒素,水銀などによる中毒死である。しかし唐代末になると,道士のあいだでもさすがにこれではいけないと分かってきて,金丹を飲むのをやめ,人間の体を「るつぼ」と考え,空気や唾液を薬材とし,それを体の内部に取り込んで反応を起こさせ,さまざまな修行を行なうことによって丹を作るという方法が考えられるようになった。これは体内に作る丹なので
「内丹」と呼ばれ,それに対して従来の金丹を「外丹」という。

 唐代末ころから宋代にかけて内丹法が非常に発達し,現在の道教は内丹法となっている。内丹法では静坐によって意識を統一して気をめぐらせ,体の中に丹を作っていく。体の中に一粒の金丹ができると「仙人」になると考えた。現実には,腎臓結石などの石を金丹とみなしたことから起こった発想なのかもしれない。これがもう少し世俗的に展開すると「気功」になっていく。気功は道教そのものではないが,道教の辺縁部分,道教から派生した一つの鍛錬法である。

 また道士は,さまざまな儀式を行なった。例えば,神々を祭る儀式,雨乞いの儀式,死者の安楽を願う超度の儀式などである。一般の信者に対しては,まじないの文言や神の名前などを書いたお札を与え,それを家のあちこちに貼り付けて邪気を封じ込めさせたり,お札を燃やして,それを聖水で飲ませるなどの道術を施したりした。

 道教では,「道の教え」という言葉が端的に表わすように,「道」を神格化して信仰した。道教が他の宗教と違うのは,道そのものを神として信仰したという点にある。道はあらゆるところにあるから,神もまたあらゆるところに存在することになる。道教はありとあらゆるものに神格性を認める多神教なのである。

 神々の庇護のもとに求める幸福とは,いわゆる福禄寿の現世利益である。中国人が道教に対して信仰心をもつ場合は,その大部分が打算的なものであり,ここに中国人の現実主義がよく現われている。

 現在,中国には全国各地に国レベル,省レベル,地域レベルなどさまざまな段階の道教協会がある。数年前のことであるが,協会は百,道観(道教の寺)は千,道士は1万に達したという。道教協会が発行する雑誌のトップには,よく政府の高官が道観に来て道士といっしょに会議をしたというような記事が載っており,道教側が政府の意向を非常に気にしていることが分かる。

 中国史においては宗教の反乱によって政権がひっくり返った例がたくさんあるので,権力者は宗教の動きには敏感である。それゆえ外国人が道教などの学術的研究に行っただけでも,疑われることがしばしばあった。中国においては従来「純粋学術」ということはなかった。純粋学術のふりをした政治目的の行動が多い。

3.中華思想の膨張性

 宗教や思想の伝播という点から言えば,中国はキリスト教の伝道と違って,思想を伝播する意図が強かったようには思われない。それに代わって「光被」あるいは「感化」の思想があった。それは積極的に外部に出かけていって教えを説くのではなく,中国人である自分たちがきわめて立派であるから,周囲の人々は自分たちを見習うようになる,そこに自然に文化的な秩序が形成されていくという考え方である。このような「光被」「感化」の考え方が中華思想の中に本質的に内在していた。それゆえ中国の文化が及ぶ限りは,全部が中華世界になっていく。中華世界の中心に近く,その光が強いところはかなり中華の文化が高い地域になり,遠ざかるにしたがって光が弱まって文化度も低くなる。こうした程度の差はあるが,光が届く限りはみな中華世界になっていくのである。

 実は,「文化」とはカルチャーの訳語であるが,「文化」ということばの漢字の意味としては「光被」と同様のニュアンスがある。「文」とは模様であるが,人は生まれたときには模様がない。白紙状態である。誕生してから成長するにしたがって,刻み目(模様)を付けていく。ここでいう「刻み目」とは,刺青を彫ることではなく,態度,振る舞いが立派で,教養があり,ものの言い方がきちんとしていることなどを意味する。人は生まれたまま放っておいたのでは,素養のない野蛮人となってしまう。それをたわめ,教育してしかるべき形に完成していくことが「文」である。「文」を身につけさせるために,ムチで叩いて教え込んでいくのが「教」であり「学」である。

 「文化」とは「文にして化する」ことであるが,化するとは,こちらの風俗がよいとなると,あちらもその風俗に習ってよくなっていくようなことである。現代語で「風俗」というとネガティブな意味合いが強いが,この言葉の原義は,風が吹いて草がなびくように,あるところに立派な為政者がいて良い風が吹くと民草はそれになびいて良い俗が形成されるという意味である。

 このように中華世界には際限がない。「文化」「光被」を特徴とする中華世界とは,風俗習慣,政治制度,経済制度などが渾然一体となった世界である。たとえば中華世界では,家では父と子は別々に寝るが,遊牧民の住む北方に行くと家族がみないっしょに寝る。それは「文」ではない。自分たちの「文」こそが最高であるから,周辺部にそれが及んでいく,と考えたのである。

 最初の漢民族はそれほど多くはなかったと思う。今から約4〜5000年前ごろに中原地域でさまざまな部族が混血しながら漢民族の原型になるものが形成された。そこから漢民族の意識,中華の民という意識が形成され,中華文化こそが世界で最高だと考えるようになり,それを世界に及ぼしていくことになる。それが現実的に領土の問題と絡んでくると,中華思想の同化作用によって人々が同化され,辺縁部分も拡大していくことになった。

 中国史においては,基本的に国民国家という概念はなかった。天下国家という古代的な意識が継続してきた。この世界すべてが中国になってもおかしくはないと考えていた。中華思想と近代的国家意識とは別物である。もちろん現代中国人がそのように考えているわけではないし,国境線の概念もあり,周辺国との間に国境紛争もある。しかし,中国人の潜在意識の中には,どこまでも膨張する「光被」の中華思想があることも確かである。

4.最後に

 現代中国において,社会を維持していくのに社会主義だけでは限界があることは分かっている。そのときにでてくるのが中国古来の思想ということになる。儒教は古代中国の農業社会を基本として形成されたが,農村社会では個々人の豊かさを追求するというよりは,社会全体が豊かになるべきだと考えられた。そこでは個人個人の意識を中心としてではなく,社会を単位として考えていた。

 「大同小康」という思想も儒教社会から生まれた(『礼記』(らいき))。大同社会というのは,君主はいたとしても,ある意味ではすべての人が平等で,道に何か高価なものが落ちていても我が物にせずという理想社会である。見方を変えると老子の理想とした社会にも通じる。農村の理想は個々人の競争よりも共同体としての豊かさ・満足の享受にあった。

 儒家思想,道家思想など中国思想の底流には共産主義の考え方にも通じる面があったので,マルクス主義,共産主義思想が中国に流入したときにそれを解釈する一つの方法として用いられたこともある。

 日本人が中国を理解しようとするときに,中国の伝統的な考え方を把握してその目で見れば,本質的な中国理解が進むと思う。相手がどのような歴史を持ち,どのような存在かをよく理解してこそ,真の友好を築くことも可能であろう。

 企業などの経済活動の場合も,相手の文化の基礎が分かっている企業とそうでない企業とでは,交渉の仕方が違うし,結果も違ってくる。中国人の中には前近代的な考えに凝り固まった人もいるので,そうしたときにはルールを説明しながら粘り強くとことん交渉していく必要がある。それは学術研究の場合も例外ではない。そのような努力によってこそ真の信頼関係を築いていくことができる。今後の中国人との付き合い方は,そうした冷徹な見方と粘り強い交渉とが是非とも必要である。

(2006年12月5日)

注 宗族制では本家のあり方が重要である。本家を「宗」といい,その字義は,家の中の,魂を祭った大事な場所という意味である。現在の日本でも華道や茶道などでは「○○流宗家」ということばを使っている。

「宗」に関連する言葉として,「宗教」がある。この漢語は,明治時代にreligionの翻訳語として日本人が作った造語であった。しかし中国人は,その言葉の漢字の原義からその意味を考えた。すなわち,「宗」の字義は,「本家,本元」であるから,「宗教」は「大本の教え」であると考えた。原語のreligionには「神」(God)が出てくるが,「大本の教え」ということになると「神」は出てこない。そこで,中国人が中国で一番大事な教え(つまり宗教)は何かと考えた場合に,それは儒教だということになった。百年ほど前の中国の人々は,そういう意味で「中国の宗教は儒教だ」と考えた。だからといって,儒教=宗教(religion)ということにはならない。儒教は宗教的な側面,倫理的な側面,哲学的な面などさまざまな面をもっている。むかしの中国思想はみなそのような性格をもっていた。そうした総体として儒教やその他の思想があるので,「儒教は宗教か,否か」という議論には意味がないと思われる。