中国朝鮮族の歴史とそのアイデンティティ問題

中国・延辺大学民族研究院 朴 今海

 

1.緒論

 中国の朝鮮族は,朝鮮半島から大陸に移り住んだ「移住民族」として,100年余りの歴史を有する。移住民族として,それもわずか1世紀足らずの短い歴史でしかないが,朝鮮族は民族特有の聡明さと知恵によって中国東北部に定着したばかりか,中国による屈曲した近代史を経験しつつも,中国内の一つの新たな民族共同体を形成し新中国建設とあわせて中国の合法的な公民として認定された。韓民族の一支流として中国に移住し形成された越境民族,母国を隣接国としておく地政学的特徴,文化的素質の秀でた中国内の少数民族など,朝鮮族は中国国内の他の少数民族とは区別されるさまざまな特徴を備えている。

 したがって,このような朝鮮族の歴史と現実問題を研究対象とすることは,きわめて意義のあることと考える。それはまた,今日のような社会の激変期において,中国内の朝鮮族の発展の方向性を新たに模索するのに必要不可欠の作業である。歴史とは「過去と現在との対話である」とよく言われる。1世紀余りの朝鮮族の歴史と当面する現実問題に関する整理と研究は単純に学問的な要請のみならず,過去からの教訓と反省,そして現在の実践を通してよりダイナミックかつ賢明に,未来におけるよりよい生活を開拓するところにその目的がある。

 つぎに,韓民族という民族的次元からながめたときに,中国の朝鮮族はそれ以外の海外の韓民族のなかで最も割合が多い集団として,世界の韓民族間の連帯強化,南北交流などの面で相当な役割が期待される集団であることは明らかだ。したがって,中国朝鮮族の歴史と現実及び今後の発展的研究は,韓民族全体の発展という観点からも,相当な注目と関心が要請される作業であることは間違いない。そして学問的な次元においても,最近の韓国の著しい発展とともに,韓国学の研究ブームが熱く盛り上がっており,中国朝鮮族に関する研究は,韓国学研究の領域と影響を拡大する重要な節目でもある。

 このような研究の意義を勘案して,本稿では,中国における朝鮮族の歴史,現実問題研究の最近の動向について述べ,今後の課題について展望する。

2.90年代以降の朝鮮族史の研究動向

(1)研究動向とその特徴
 中国における朝鮮族歴史研究の始まりをたどってみると,1950年代にまでさかのぼる。50年代末,少数民族3種叢書(簡史,簡志,自治地方概況)を編纂するにあたり,中央民族事務委員会と中国社会科学院の決議に従って,東北地方管内の朝鮮族集居地区に対する社会調査が始まり,これを基盤として1961年に『朝鮮族簡史』の執筆内容の大枠が定められた。その後数年間の調査・整理と追加執筆によって,62年に『朝鮮族簡史』が内部発行されたが,文化大革命によってその動きは直ちに中断され,朝鮮族歴史研究は挫折の悲運に遭遇することとなった。その後,文化大革命が終息し中国の改革開放政策が始まると,80年代からは延辺大学の年配の学者を中心として朝鮮族史研究が再開され,86年についに『朝鮮族簡史』が正式刊行された。『朝鮮族簡史』は,官主導の初の通史体史書として,朝鮮族歴史研究における画期的な成果であり,その後の朝鮮族歴史研究のもっとも基本的な枠組みと理念的根拠を提供してくれた。しかし80年代の研究には,まだ冷戦構造の残滓と影響がかなり残っており,学問的には依然としてアプローチできないタブー領域が存在した。

 90年代に入り,朝鮮族歴史研究は本格的に推進され始めた。中国の改革開放政策による突っ込んだ研究,冷戦体制の瓦解,国内外の活発な交流,百花斉放・百家争鳴の学問的雰囲気の定着,とくに同一民族国家である韓国との国交回復がなされることによって,朝鮮族歴史研究は一大黄金期を迎えるようになった。ここにおいて特筆すべきことは,国内外の高等教育博士課程を修了した少壮派学者がテーマ別研究において頭角を現し始め,朝鮮族歴史研究に斬新な生命力を注入するきっかけを作ったことである。とくに韓国に留学した少壮派学者たちの進出と韓国の学術団体との頻繁な交流を通して,研究の視点,研究グループ,研究方法などにおいて活発な様相を呈するようになった。この時期の研究動向とその特徴,および問題点は次の通りである。

1)深みのある研究成果が蓄積され始めた。研究成果を性格別に分類すると次の通りである。

@博士学位論文:この時期朝鮮族史研究においてもっとも注目される点は,博士課程・修士課程を終えた少壮派学者が大勢進出し,テーマ別研究が活気を帯びたことである。そのなかで代表的な博士論文としては,「1930年代延辺反民生団事件の研究」「満州国の在満韓人に関する土地政策の研究」「北間島地域の韓人社会の形成に関する研究」「近代中朝日三国の間島朝鮮人に関する政策研究」「在満韓人の国籍問題の研究」「満州地域の朝鮮人民会の研究」「日本帝国主義の経済侵略と間島における対日貿易」などである(注1)。

A国家短期プロジェクトの研究成果:1999〜2001年の国家教育委員会プロジェクトの研究成果として『中国朝鮮族社会文化の発展史』が発刊され,1999〜2003年の中国社会科学院プロジェクト研究成果として『日本帝国の東北朝鮮族統治政策の研究』が発刊された。

B一般研究著書:2000年を前後して,『中国朝鮮民族足跡叢書』1〜8巻,『中国朝鮮族歴史研究』『解放前東北朝鮮族土地政策の研究』『延辺人民抗日闘争史』など,研究著書が立て続けに発刊された。

C朝鮮族史普及のための読み物:この時期の重要な成果の一つに,朝鮮族歴史普及のための読み物,たとえば,『朝鮮族歴史の常識』『中国朝鮮族の歴史』『物語で読む朝鮮族歴史』などの書が発刊されることによって,朝鮮族の歴史が社会全般にわたって知られるようになり,朝鮮族歴史に対する社会の各界各層の関心が高まった。

2)研究の視点と方法論において,過去の画一的なイデオロギー中心の研究から抜け出て,「べき論」や「立場論」を強調するものではなく,実証主義,考証主義など多様な研究方法が導入された。歴史認識においても,民族の固有性と独自性および主体性に対する認識が高揚し,過去の中国共産党中心の抗争史から離れ,民族主体に焦点を置いた研究が始まった。とくにこの時期の刮目すべき成果の一つは,過去の学術研究領域上,タブー視されてきた1920年代の民族主義系列の反日民族独立運動およびその人物研究が,活発に展開され,一連の研究成果が出てきたことである。

3)研究グループおよび研究活動の範囲が以前と比べ拡大されたこと。以前は,朝鮮族内にのみ限定されていた朝鮮族歴史研究が,韓国・日本など周辺国家との多元的接触,そして中国内の他地域,他民族との交流が進展するにつれて,徐々にではあるが,活気を帯びてきた。研究グループにおいても80年代の年配の研究者中心から,90年代中ごろからは博士課程を終えた少壮派学者が徐々に学会の中心に立つようになった。そして国内外の大学の大学院博士課程に学んだ若い学徒たちが,朝鮮族史研究の将来有望な潜在力として浮上してきた。学術研究と交流も延辺大学のみならず,国内外の大学および研究団体との広範な提携が形成され,中国国内のさまざまなレベルの研究機関のプロジェクトに加わるなど,多様なチャンネルを通してその幅と影響を広げることとなった。

4)研究活動とあわせ,資料の発掘と遺跡地の整理が並行して進められた。延辺大学の史学者を中心として,東北地域の档案館,朝鮮族集居地に対する実地調査を経て,朝鮮族歴史に関連した大量の一次資料を収集・整理し,さらに民間団体と地方政府の関心を集めながら,延辺地域の遺跡地の踏査・整理もかなり進展した。例えば,龍井の3・13反日義士陵,大成中学跡,15万ウォン事件の遺跡地,明洞教会,鳳梧洞・青山里戦闘遺跡地,紅旗河戦闘遺跡地,小汪清・東満洲特別党委員会遺跡地など,かなりの遺跡地が修復・整理された。

 もちろん,この時期に,研究範囲,研究方法,研究成果など一連の成果が多くあったが,いまだ研究の深み,研究方法などにおいて多くの限界があることも事実である。とくに指摘したい点は,テーマ別研究が活発化したのに対して,朝鮮族歴史に対する統合的な研究と立体的な検討はいまだ一大課題として残っていることである。さらに,研究方法論においても,おおかたは文献考証学的な方法論に依拠した事件・人物・運動中心の叙述式研究に過ぎず,別の方法の導入と試みはほとんどなされていない点である。

(2)朝鮮族史研究における争点
1)朝鮮族歴史の上限線問題
 朝鮮族の歴史の始点をどの時期におくかという問題を巡っては,おおよそ古朝鮮・高句麗説,明説,明末清初説,19世紀後半説などいくつかあるが,その中で最も有力な説は明末清初説と19世紀後半説である。明末清初説は,17世紀初め「丁卯胡乱」(1624年,後金の第一次朝鮮侵攻)「丙子胡乱」(1636年,後金の第二次朝鮮侵攻)などの戦争において捕虜として中国に強制移住させられた移住民を朝鮮族歴史の始点として考える。この説を裏付ける根拠が遼寧省・蓋県,本渓県と河北省・青龍県にある朴氏村(朴氏朝鮮族)に対する調査発掘であった。この朴氏村およびその祖先の歴史をめぐって明末清初説,19世紀後半説の二つが甲論乙駁の議論が激しく展開されている(注2)。

 「明末清初説」の主張は次のとおりである。今日の朴氏村の人々とその祖先の人たちは,中国に同化して民族・言語・文字を喪失し,長期間にわたり他民族成分として生存しなければならない不運を経験した。彼らは中・韓国境が明確に画定された清朝初期に移住したが,今でもある程度の民族意識を保っており,さらに今日彼らはやはり朝鮮族の身分として生存している。今日の東北地方の朝鮮族とは直接的に血縁関係と一脈相通ずる関係ではないとしても,彼らの歴史は当然朝鮮族の歴史の一部分として帰属させなければならない。

 もう一つの「19世紀後半説」の主張は次のとおりである。今日の東北地方の朝鮮族の主体は,19世紀末葉から中国に移住し始めた移民たちの後裔である。朴氏村の人々が今日たとえ朝鮮族に成分を変えて朝鮮族の身分として生きていくとしても,彼らの先祖は明末清初に中国に入って以来300余年間の歴史の流れの中で,既に完全に他民族に同化されて朝鮮族特有の民族共同体をなせなかったのである。そのうえ民族の最も基本的な属性である言語・文化さえも喪失してしまったために,一つの独立した民族の実体としてみることは難しい。

2)朝鮮族共同体の形成問題
 朝鮮族共同体の形成,すなわち朝鮮族社会の形成をめぐっては,さまざまな主張が存在している。一つは,朝鮮族共同体の形成を,19世紀末における朝鮮族居住区の形成,水田開発を中心とする朝鮮人移住民の経済活動,および当時,移住民たちの土地所有権の享有と中国国籍取得,文化教育,および風俗習慣の保存と発展などにその根拠を求めるものである。

 第二の主張は,「墾民会」(注3)の成立を中国朝鮮族共同体の形成の指標と見るものである。「墾民会」説を主張する学者たちは,朝鮮族社会の形成の基本条件として,人的資源,地域的空間,朝鮮族の利権を代弁することのできる社会団体の三要素を挙げる。そして19世紀末葉からなされた移住民の居住区を基盤として1913年に発足した懇民会を朝鮮族社会形成の指標とみなす。

 第三の主張は,中国の朝鮮族共同体は,中華人民共和国成立後になって最終的に形成されたというものである。共産中国成立以前に多くの朝鮮人たちが中国東北地方に移住して比較的大きな規模の居住区を形成したが,その大多数は中国国籍を取得せずに「韓僑」の身分で生活したのであった。歴代の中国政府と朝鮮を含む国際社会も中国国内の朝鮮移民を中国の少数民族として認めなかったので,彼らはどこまでも依然として外国人であり,彼らの中国公民としての合法的地位は新中国成立後になって初めて認定を受けたのであるから,朝鮮族共同体の形成は,当然新中国成立以後と見なければならない。

3)二重国籍と二重使命問題
 中国の朝鮮族は,主として朝鮮が日本の植民地に転落した過程とその後中国に移住した移住民である。その一部は土地所有権享受,独立運動推進などの与件によって中国国籍となったが,絶対多数を占める貧民層は中国国籍にならないままに,中国に定着し生きてきた。日本帝国が朝鮮を併呑した後,日本は中国・東北部の侵略に朝鮮人を効果的に利用する目的で,移住民の朝鮮国籍離脱および中国国籍取得を強く否認して日本臣民であることを強調した。さらに「満州国」建国後には,満州国国民かつ日本臣民であるとの微妙な二重国籍を強要し,結局朝鮮族の人たちは自分の意思とは関係なく二重国籍のくびきを負うようになった。日本帝国の画策により朝鮮人問題が複雑な様相を帯びるようになるや,中華民国政府もある時期帰化入籍した朝鮮人を「墾民」とし,未入籍者を「僑民」と区別して扱った。

 このような歴史上の微妙な国籍問題によって,戦前の中国・東北部の朝鮮人に対する学界の視点もさまざまであった。ある説では,入籍した朝鮮人は朝鮮族として,未入籍の朝鮮人は僑民としてみなし,彼らの活動もそれぞれ朝鮮族史と韓国(朝鮮)史の別々の範疇としてみなければならないと主張した。また別の説では,当時朝鮮族が置かれた特殊な政治的背景と亡国奴の身分において,入籍如何が決して朝鮮人社会を二分する基準となることはできず,入籍問題と民族問題はどこまでも峻別して見なければならないと主張するが,このような主張は今日学界の主導的な見解といえるであろう。

 二重国籍問題と関連して,戦前の朝鮮族の政治的使命に関しても,朝鮮族歴史の研究において一つの争点として浮上した。それには主に二つの主張がある。一つは,「二重使命説」である。当時日本は朝鮮を併呑したために多くの朝鮮の愛国志士たちは独立運動の根拠地を東北地方に移動した。その結果,事実上朝鮮の独立運動と中国の抗日運動とが密着したことによって,朝鮮族人民の反日闘争も朝鮮の独立および中国の反帝反封建運動という二重的な使命をもたざるを得なかったという主張である。

 もう一つは,長期にわたって学界の定説として受け入れられてきた二重使命説に対する否定説である。朝鮮族人民の反日闘争は,どこまでも中国革命のためであり,中国歴史の一部分であるという中国一辺倒の主張が,数年前から台頭し始めた。とくに,このような主張には,政治的当為性から起因する要素がなくはないが,このような見解の存在によって朝鮮族歴史研究に混乱がもたらされている。

4)朝鮮族人民の反日闘争の帰属問題
 移住民族でありかつ国境を越えて広く分布する民族という特性のために,20世紀初頭から1945年までの朝鮮族人民の反日民族闘争の帰属問題をめぐっても,さまざまな主張がいりみだれている。一つには,朝鮮族人民闘争は,韓国(朝鮮)独立運動史の重要な構成部分として当然に韓国(朝鮮)の歴史とみなさなければならないと主張する。その一方で,中国朝鮮族の歴史は,中国の歴史の一部でありながらも朝鮮の歴史の一部分でもある,すなわち,二重帰属を主張する。この二つの主張の中で,おおかた後者が学界の普遍的な見解となっている。しかし,上記の主張とは別に,数年前から朝鮮族の中国国民としての立場を強調し,中国国内の朝鮮人の反日闘争はどこまでも中国の歴史の一部分であるとの主張が現れてきた。それは「中華人民共和国文物保護法」に根拠を置く。それよれば,中国国内の「重大な歴史的事件,革命運動,あるいは著名な人物と関係」する「一切の文物図書」は「すべて中華民族の文化遺産」である。中国国内の朝鮮族反日闘争もたとえ段階的に複雑な様相を呈し,ときには「朝鮮独立」「朝鮮解放」などのスローガンを掲げたとしても,彼らの闘争は基本的に中国の領土主権守護に重要な作用をしたのであり,中国の歴史発展と密接な関係があるゆえに,すべからく中国の歴史とみなさなければならないというのである。

5)20年代の民族主義系列の民族運動と武装闘争
 1920年代の民族主義運動は,長期にわたり朝鮮族史研究のタブーとなっていた。とくに三部の活動,民族主義団体の武装闘争,金佐鎮をはじめとする民族主義者,および無政府主義者に対する研究はたえずタブー視されてきたが,1980年代末からタブーが破られ始めた。全体的に20年代の民族主義運動は,朝鮮族人民の反日闘争および韓国(朝鮮)独立運動史の重要な一部分であり,反日独立運動に大きな貢献をした点において,ほとんど一致した見解を見せている。しかし細部の研究,すなわち三部の活動とそれに対する評価,金佐鎮をはじめとする民族主義人士の闘争軌跡に対する検討と評価,民族主義系列と共産主義系列間の合作における葛藤および反目など一連の問題においていまだいくつかの面で見解の差が存在している。

3.朝鮮族現実問題に対する研究の動向

(1)研究の動向
 中国の改革開放の政治的背景,改革開放の転換期に起きる朝鮮族社会の一連の変化とあわせ,90年代から朝鮮族現実問題に対する研究は,どの分野と比較しても熱気を帯びている。近年の朝鮮族現実問題に関する研究動向は,次のとおりである。

1)社会の各界各層の普遍的関心と参加がなされている。現実問題は,民族の生存と直結した敏感な事案である。また朝鮮族問題は,単純な社会的次元の問題ばかりではなく,民族的次元からもアプローチしなければならない問題なので,社会の各界各層の人士たちはさまざまな立場・視点・方法で積極的に当面する現実問題の分析と進路の模索に立ち上がっている。したがって,朝鮮族社会の現実問題の研究は,朝鮮族歴史研究とは別に特定の専門研究員にのみ限定されるのではなく,身分と職業の違いを超えて,政治・経済・文化など諸般の分野の人たちによる広範囲な関心と注目を集め始めた。

2)専門的研究機関と民間団体および学会が設立された。延辺大学内の民族研究院,韓国朝鮮学研究センター,東北アジア政治研究所など専門的研究機構を主軸として,朝鮮族発展推進会,朝鮮族女性発展推進会,中国朝鮮族発展研究会,延辺海外問題研究所など民間団体と学会が次々と現れ始めた。とくに朝鮮族社会問題を中心に扱うサイトが現れて,幅広い次元からのネットワークが形成され始めた。

3)学術活動の活発な展開。上記の研究機関と学会,団体などの推進のもと,さまざまな次元における学術研究と交流も活気を帯びている。ここ数年間,延辺大学を軸として「新千年紀に向かう朝鮮族の現況と未来」「中国朝鮮族社会の位置と発展戦略」「中国朝鮮族知性人セミナー」「東北アジア地域合作と民族文化の発展」「朝鮮族発展学術シンポジウム」など,多様な学術行事が進められている。とくに,中韓国交回復以降,韓国の研究陣との積極的な合作と提携がなされるにしたがって,中国朝鮮族問題は中国内の民族次元を超えて,韓国,朝鮮,日本など近隣諸国との普遍的な関心と注目を集め始めた。

4)研究領域の拡大。朝鮮族現実問題の研究は,朝鮮族社会が当面する諸問題を研究対象とするために,その領域は非常に広範囲である。朝鮮族社会の政治,経済,教育,文化,宗教など多様な分野に立脚して細部的な研究までかなり深めつつある。また研究方法においても,社会学,民族学,歴史学など多様な学問の研究方法が試みられている。

5)学術誌と研究著書の出版。学術活動の活発な展開と対外的な交流が活性化されるとともに,朝鮮族問題研究の学術誌として「朝鮮族研究」「女性研究」「文化山脈」などあり,多くの研究著書が出版された。最近の主な著書としては,『中国朝鮮族社会の変遷と展望』『世紀の転換点における中国朝鮮族』『中国朝鮮族社会の文化優勢と発展戦略』『転換期の延辺朝鮮族』『延辺朝鮮族の教育実態調査と代案研究』『現代延辺朝鮮族の社会発展対策分析』『中国朝鮮族の現状と展望の研究』『中国的特色の朝鮮族文化研究』などを挙げることができる。

 ここ数年間朝鮮族問題が社会の関心事となって活発な研究がなされ始めたが,問題点も少なくない。もっとも大きな問題点は,研究方法論において,社会学,民族学など多様な研究方法と理論的アプローチが不足したために,社会全般にわたった立体的な検討がなされていない点である。その結果,現実問題を打開する解法として我田引水式のさまざまな立場と見解が入り乱れており,結局政府当局の考え方を後押しするようなものになってしまっている点である。

(2)朝鮮族現実問題研究の焦点
1)民族のアイデンティティ問題
 朝鮮半島に生まれ中国大陸に移住した朝鮮族一世は,中国国民としての地位は認定されるものの,彼らの霊魂の深層には韓国(朝鮮)が根深く張っており朝鮮人としての意識と自覚を常にもっている。しかし中国で生まれ中国に育ち,徹底的に中国式愛国主義教育を受けた三世・四世たちは自分たちの位置の設定において,一世および朝鮮半島で生まれ故郷に対する記憶をもつ中間世代とは明らかな違いを見せている。とくに80年代までの国際的な冷戦体制の下では韓国とは完全に断絶され,北韓とも厳然とした一線を画し閉鎖された環境におかれた朝鮮族は,中国国民としての自分たちの立場に秋毫の疑いも挟むことはなかった。しかし中国の本格的な改革開放と韓国との国交回復がなされることによって,朝鮮族の知性人を中心に「自分たちのアイデンティティはいったい何か」との悩みを抱くようになった。そして中国と韓国の関係設定および自分たちの民族的アイデンティティをみつめる視点から,祖国・母国論,嫁論,中国国民論,境界民族論などさまざまな主張が出始めた。

@祖国と母国の関係設定
 民族のアイデンティティの模索においてまず韓国と中国を見つめる視点がさまざまに錯綜し始めた。中韓国交回復以降,多くの人たちが自分自身の立場の究明において中国人でありかつ韓国人である,あるいは韓国人でありかつ中国人であるという二重的な性格に比重を置き,韓国を見つめる視点も祖国・故国・母国などさまざまな期待のこもった視点となっている。しかし,ペスカマ号事件(1996年,注4)および韓国内での朝鮮族労働者の受けた差別待遇をきっかけに,朝鮮族の人々はアンデンティティへの反省とその再定立を考えるようになった。「朝鮮族は中国人だ。われわれは中国の朝鮮族だ。われわれは中国人という運命を選択した。…中国だけがわれわれを抱いてくれる。われわれの未来と希望は中国に拠ってこそ可能だ。われわれは自分たちのルーツを中国に移し,ここにおいて永遠に生きていく。賢明な少数民族として朝鮮族は,この地の主人としてこの国の発展のためにすべて投入しなければならない」との立場が明確に浮上して,韓国と中国の関係設定において「中国は祖国,韓国は故国・母国」という結論を導くことになった。

 しかし,その一方で一部の人たちは,100年あまりの血のにじむような努力の末に構築した中国内の朝鮮族の立場を放擲して韓国を祖国としていく国籍回復まで云々する。その端的な例として,2003年韓国滞留中の5000人を越える朝鮮族の人たちが,韓国政府に対して断食闘争を決行し故国に生きる権利を主張したことを挙げることができる。

A嫁論
 朝鮮族自身を見つめる視点において,次のような「嫁論」が提起されている。すなわち,朝鮮族は「中国に嫁いで行った嫁」である。「中国に嫁いでいった以上,中国人の夫とその両親にきちっとお仕えし,自分の実家とは距離をおき,まずは嫁ぎ先の家法をきちっと守っていかなければならない。現在住む国において慎むべきことは,外国からやってきた移民がもとの地である母国と内通して現在の国に害を及ぼすことである。嫁いでいった嫁が嫁ぎ先で自分の実家に心を寄せることだけは慎むべきである」。

 また朝鮮族は,二重文化あるいは二重性格を帯びている民族文化の所有者に変わり,その文化もまた在来民族文化の特性のほかに,中国文化の特性を漸次強く表し始めたと指摘する。そして「二重文化と二重心理をもつ中国の少数民族の一つ,つまり中国の朝鮮族となった」ことを強調する。

B中国国民としての朝鮮族
 上記「嫁論」とは別に,中国国民としての立場を強調する説もある。このような主張を展開する学者は,「嫁論」に対して強い反発を示し,次のように述べている。「われわれは,堂々とした中華人民共和国の国民だ。……われわれ自身,自らの姿勢を低くして自分自身を“嫁”と比喩することは,到底納得できるものではない。…“嫁論”はわれわれを堂々とした主権国家の国民とみなすことができないという意味になる……これは封建主義時代の臣民概念に由来するものであり,近世の国民概念とは相反するものだといわざるを得ない。中国の朝鮮族は,中国国民としての朝鮮族である」。

C境界民族論
 朝鮮族共同体を「境界民族」と規定して,朝鮮族共同体の封鎖性を皮肉る主張もある。すなわち,朝鮮族の文化共同体は韓半島と中国の間に挟まれた封鎖的な「文化の島」として,中国の主流文化を受容するのに限界があることを指摘する。この主張によれば,朝鮮民族ほど自分たちの文化に執着してきた民族はまれであるが,この執着は朝鮮族共同体が置かれた地理的,文化的環境と周辺の他民族との和合を度外視した本能的で偏狭的な執着である。他方で,冷戦体制において中国が長期間韓国と敵対関係にあり,北朝鮮ともはっきりと一線を画してきたゆえに,朝鮮族の韓半島との経済的,文化的交流も遮断され,同じ民族としての同質性も大きく弱体化された。したがって,長く1世紀もの歳月を経たにもかかわらず,朝鮮族は自分たちの過去と伝統を決して捨てようとしないばかりか,その人種的,文化的偏見のためにいまや定着すべき場所と考える新しい社会にもにわかには融合できない。韓国と中国という二つの民族の文化生活と伝統の中に挟まれた辺境民族―境界民族である。

2)朝鮮族の民族教育問題
 中国での本格的な改革開放政策の実施および教育のグローバル化の潮流が勢いを増すなか,朝鮮族の教育は,教育の民族化と現代化(あるいはグローバル化)という二つの流れに先立って,未曾有の困惑と葛藤を経験しており,教育の理念および価値観の選択の岐路において彷徨している。とくに伝統的に民族教育の土台となった農村教育の萎縮,朝鮮族学校における漢語教育の不振,および朝鮮族の学生たちの漢族学校選好傾向が強まるにしたがって,朝鮮族教育に対する改革を求める声が日増しに高まり,このような改革はとくに朝鮮族学校の二重言語教育に現れてきている。

 二重言語教育をめぐっては社会各層のさまざまな立場や視点からの主張が互いにぶつかり合っており,二重言語を差し置いては朝鮮族教育を論じることのできないほどに二重言語教育が朝鮮族教育における圧倒的な関心事となっている。だいたい民族教育の方向性に対するさまざまな主張と見解をみると,大きく二つに分けることができる。

 その第一は,民族主体意識に求心点をおいた民族教育である。このような主張は,教育の民族主体性を浮かび上がらせることに力点を置く。朝鮮族教育はどこまでも少数民族教育という特殊な使命を帯びているために,民族意識,民族観念,民族の理想などを注入,伝承させる使命を回避することができない。このような特殊使命をしっかりおさえられないときには,それは民族同化教育と違わないとみなされる。とくに民族言語の重要性を強調し,民族学校における教授言語の変更はそれ自体が民族教育の失墜を意味すると主張する。

 第二は,実用主義に立脚した発展至上論である。その考えでは,朝鮮族教育の最も大きな問題点は言語教育(漢語教育)にあるとする。朝鮮族の学生は,大学や社会に出たあと漢語駆使能力の不足によりその活動範囲が制限されることがある。朝鮮族の学生が漢族学校を選好するのは,朝鮮族学校の漢語教育が脆弱なためであるなどの理由により,朝鮮族学校の漢語教育を朝鮮族学校においてまず第一に取り組むべき焦眉の急の課題とする。また中国経済の急成長とそれに伴う中国マーケットの拡大および世界経済との一体化の趨勢に焦点を合わせて漢語教育の重要性を強調する人々もいる。このような漢語教育の重要性からわが民族の教育には,以前には見たこともない新しい主張が次々と提起されている。その主なものは,単課独進説,教学用語改用説,漢語先・朝鮮語後説,教師の民族成分調節論,朝漢学校統合(民族連合学校)説などである。

 詳述した二つの説は,どちらも民族教育という共通分母をもっているが,前者は主として民族主体意識に重点を置いており,後者は民族教育の実用性により大きな比重をおいている。とくに後者の場合,上述したいくつかの主張は,決して一個人の断片的な所見や主張ではなく,今日朝鮮族社会においてかなり流布しているものである。看過できないことは政府当局者の相当部分の人が朝鮮族学校の漢語教育を強力に推進させようとの意志をもっている点である。

 また,実際に一部の学校においては,既に漢語で教育しており,漢族学校の教材をそのまま使用する試験段階に入っており,行政的な次元では二重言語,さらにより適切に表現すれば,漢語による教育を推奨する政策や措置が次々と現れている。

3)朝鮮族文化の性格
 伝統ある民族として,あるいはいまだ母国が隣接国として存在する状況のなかで,朝鮮族の文化はやはり,朝鮮固有の文化と中国文化との二重的影響を受けざるを得ない。このような特有の二重文化を背景として,1世紀余りの歴史を経て形成された朝鮮族文化の性格をめぐっては,おおまかに3つの定まった見解がある。

 第一は,朝鮮族文化は朝鮮半島を中心とする朝鮮民族の総体的な文化の一部分として,それがたとえ地域的な差異があったとしても,この文化は朝鮮半島の文化と本質的には根本的違いはないという主張である。

 第二は,朝鮮族文化は,たとえ朝鮮文化を母体としつつも,その性格においてはすでに完全に別個のものだという考えである。この主張に拠れば,国家は世界を分ける最も基本的な単位であり,人々の政治・経済・文化活動は,すべて国家を単位として進められるために,国家を離れたいかなる汎民族次元の文化を云々する余地はない。さらに56の少数民族によって成り立つ中国において中華民族の大家族に移住して入ってきた成員として,もしその汎民族次元の文化を云々するときには,まかりまちがえば民族分裂を引き起こしかねず,国家の統一と民族の団結に不利となる。したがって,朝鮮族は,たとえ大陸に渡る前に朝鮮半島と同一の文化を共有していたとしても,一旦中国に定着した後の文化は必ず国境を境界線として区分しなければならない。

 第三に,朝鮮族文化を二重属性の文化とみる考え方である。中国に移住し近代民族として自体の伝統文化(元有文化)をそのまま維持しており,また中国国民としての位置を占めるまでの長い定着過程において,毅然と自体の伝統文化を基盤に据えてきた。しかし,その一方で,中国の中に入ると同時に,朝鮮族は朝鮮民族文化とは別の中国特色の文化を受容し始めたので,今日に至り朝鮮民族の文化と中華文化の特色を同時に帯びた二重文化を創出するに至った。なかには,このような二重属性の文化をさらに一歩進めて「中国的特色をもつ朝鮮族文化」と呼ぶ人もいる。

4)朝鮮族共同体の空間的存続問題
 社会諸般にわたる危機因子が広範囲に診断されて問題点が浮かび上がってくるにつれて,朝鮮族共同体の今後の進路模索をめぐってさまざまな建設的な提案と主張が出ている。とくに当面の課題として人口の急激な減少,農業人口の離農現象によって伝統的な集居地が揺らぐにつれて,朝鮮族共同体の空間的な存続問題をめぐって新たな「集中村」建設が代案として浮上している。そのモデルとして都市型集住タウン,都市近郊型モデル,農村中心村モデルなどの多様な形式が提起されており,さらに実践段階にも入りつつある。

 都市集住タウンのもっとも成功したモデルとして瀋陽市西塔が挙げられる。そこは,大都市の中心部に位置し,朝鮮族が相対的に集住した有利な条件を基盤にして,政府的な行為として開発しながらも,韓国系企業が大挙して進出し朝鮮族と韓国人を中心とする一つの独自的な商圏をなしている。当面は,環渤海湾一帯が都市集住タウンの最適地として提起されている。

 都市近郊モデルは,都市に近い地理的条件を活用して都市隣接地の農地を第二次・第三次の産業基地に転換し,再度この地を工業団地,アパート団地,文化娯楽区域として分けて,村民たちに自由に選択してもらって再分配する方式である。この典型例として,黒龍江省海林市新合村と瀋陽市満融村,同市連盟村(現,花苑新村)がある。

 農村中心村モデルは,都市郊外にあるが,営農条件や経済基盤もよく,一定の文化的基盤(朝鮮族学校)もあり,周辺に散在する農家を村の中心部に集中させる方式である。そのもっとも典型的な村は,一時期中国において有名なモデル村であった吉林市阿拉底村であ
 る。
上記の集中村建設以外にも,伝統的な集居区域に対する再整備,再調整を強調する考えもある。その考えによると,延辺地域と同じような朝鮮族の集居地は一朝一夕に形成されるのではなく長い歴史の産物として,かならず中国の民族区域自治制度を十分に活用し,延辺朝鮮族自治州の産業構造調整,農村土地の大規模化と市場化,特定業種の開発,文化観光産業の開発など,さまざまな方法によって,既存の農耕経済を基盤とする伝統的な集居区を市場経済発展に符合する新しい集居地域として生まれ変わらせる必要がある。

5)人口問題とその他社会問題
 当面する朝鮮族社会の焦眉の急務の一つが,人口の流動と人口減少によって特徴づけられる人口問題とそこから派生するさまざまな社会問題である。人口問題の深刻さについては,社会各層の共通認識となっているが,しかしその解決策となると有効な手立てがいまだないという現状である。したがって,このような人口問題によって派生する一連の社会問題,具体的に言えば,伝統的な農村集居地の瓦解,国際結婚の増加,農村教育の疲弊,自治区域における自治民族人口比例の急減,などの問題をめぐって「仁者見仁,智者見智」式に(同一の事柄に対しても各人各様の見方があること)さまざまな主張と提案がいきかって,今後の重要課題として積み残されている。

4.今後の朝鮮族歴史研究および現実問題研究の課題

 これまで中国内の朝鮮族の歴史,現実問題研究の動向についてみてきた。これらを前提にして,今後の朝鮮族歴史と現実問題研究の課題について簡潔に述べ,結論に代えたいと思う。

 まず,朝鮮族歴史研究の課題としては,第一に,中国朝鮮族の歴史に対する体系的,統合的な研究が切実に必要である。既存の研究成果は主にテーマ別の研究であるために,その研究領域がかなり制限されたものになっている。今日に至るまで,朝鮮族の歴史に関する体系的,かつ統合的な整理は『朝鮮族簡史』以外に見るべき成果を得ることができないほどに貧弱である。周知のように,『朝鮮族簡史』は官製編纂の通史体の史書として,朝鮮族歴史研究のもっとも基本的な枠組みを初めて提供してくれたが,この書には政治イデオロギーの影響が多く残っていることを指摘せざるを得ない。既存の研究成果を早急に十分に収斂して,『朝鮮族簡史』の不足な点を埋め合わせることのできる新しい朝鮮族通史編纂に主力を置く必要がある。

 第二に,研究方法論についての関心を高める必要がある。これまでの検討をみると,おおかた文献考証学的な方法に過ぎないとの感は免れず,歴史認識においてもこれまでは唯物史観に執着して民衆史観を強調するなど,理念的なこだわりがみられた。もちろん,歴史の研究は,どこまでも事実に立脚する学問として,考証学的・実証主義的な研究方法がもっとも基本的であるが,これらを基本としながらもそれ以外の学問的方法論,たとえば,歴史社会学的方法論,民族学的方法論,集団伝記的方法論,心性史(l’histoire des mentalit s)的方法論など,多様な方法論とその連繋のなかで多くの研究がなされる必要がある。

 また朝鮮族史研究において比較史的な研究が活性化する必要もある。中国朝鮮族歴史の場合,とくに朝鮮,韓国,および似た歴史的経験をもつ第三世界との比較史的な研究が必要だと考えられる。そして他の隣接学問との密接な交流も必要であろう。朝鮮族史の場合,隣接学問と密接な関連をもっているが,歴史学には社会科学としてその領域を拡大させ多学問間,多分野間の共同作業がなされなければ,その全貌を正しく把握することはできない。

 第三に,資料の体系的な収集と整理が必要である。朝鮮族史の場合,関係資料が,中国,韓国,日本に大量に山積しているにもかかわらず,いままで資料を収集,整理することがろくになされてこなかった。朝鮮族歴史関連の資料が一部本として出版されてはいるが,資料収集の範囲およびその価値においてまだ不十分な点が多い。

 そして朝鮮族歴史は1世紀あまりの短い歴史として,歴史的事件の実在人物がいまだ一部生存しているが,彼らは朝鮮族歴史の研究における貴重な「財産」と言わざるを得ない。それゆえこのような朝鮮族歴史の資料の収集・出版に早急に取り掛かるとともに,生存している歴史的人物の口述史の整理も並行して進める必要がある。

 第四に,研究領域の拡大事業が必要である。官製の朝鮮族歴史研究はこれまで政治史がその中心をなしていた。より体系的な研究をしようとすれば,経済,社会,文化,思想など多様な分野のテーマ別研究も活性化しなければなるまい。とくに戦後の朝鮮族史研究は,また未開拓の分野が多いので,相当の関心と研究が要請される。

 次に,朝鮮族現実問題研究の課題について述べる。

 第一に,社会全般にわたり,深層的な調査が切実である。急激な社会変化に対応した全面的な調査と資料の蓄積がない研究は,まかりまちがうと感傷的なものに陥る危険がある。かならず一連の社会問題に対する深層的かつ細部的な調査を基盤として目的的研究がなされなければならない。

 第二に,多様な研究方法の適用と理論的なアプローチが必要である。朝鮮族社会の一連の現実問題は,相当に特徴的であるが,全分野調査方法,集団伝記学的方法など,多様な研究方法と民族学,社会学,歴史学など多様な学問の理論的素養が必要であろう。

 第三に,政府当局との緊密な連帯と合作が必要である。朝鮮族社会の現実問題は,だいたいが民族の生存と連結する敏感な事項として,社会全般にわたる関心と政府当局の正しい施策を必要としている。現在の研究状況をみると,学問的研究は研究のみ,政府の施策は施策のみというように,別々に行われるという問題点を指摘したい。単純に学問的な次元を超えて,政府と行政当局と社会各分野との連帯と合作が早急に強化され,学問研究の実用性を追究しなければならない。

(韓国「世界平和統一学会」誌『平和学研究』第5号,2005年8月より整理して掲載。なお,原題は「中国における朝鮮族歴史と現実問題の最近の研究動向」)

<訳注>

注1 間島(カンド)は,豆満江以北の旧満州にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で,中心都市は延吉。豆満江を挟んで,北朝鮮と向かい合う。当初,朝鮮では豆満江の中洲島を間島と呼んでいたが,豆満江を越えて南満州に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し,豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになった。また鴨緑江以北の朝鮮民族居住地が西間島と呼ばれることもあった。(フリー百科事典Wikipediaより)

注2 朴氏朝鮮族:「朴氏朝鮮族」の人びとは,明時代末期あるいは清時代初期におそらくは戦争捕虜として連れてこられて以来,漢族および満族との通婚を経験することによって朝鮮語を忘れていったのであろう。にもかかわらず自らの祖先が朝鮮人であるという事実のみを理由に,彼らが「朝鮮族」になったということは充分に驚くに値する。しかし祖先が朝鮮人