変貌する中央アジア

歴史家  金子 民雄

 

「鬼門」アフガニスタン

 2006年の9月から10月にかけて,十数年ぶりにとくに旧ソ連領中央アジアの西に当たるウズベキスタンとトルクメニスタンを訪れる機会があった。もっともこの東に寄ったカザフスタンとキルギスにはこの間にも訪れてはいたのであるが,アフガニスタンとイランに隣接した地域には,ソ連崩壊直後以降しばらく行く機会がなかった。

 初めて私が旧ソ連領の中央アジアに出かけたのは,いまから30年以上前の1975年のことだった。いまから思うと,この頃の中央アジアは最も安定し,見た目にはソ連の支配も堅実で,住民たちの生活も一応は安定し,そう不満をつのらせている風には見えなかった。一世を風靡した自然改造計画は至る所で目についたし,すでに戦前,わずか60日足らずで完成したと言われるフェルガーナ運河も滔々と水を流し,パミールのアライ山脈から流れ下る多数の山流を利用した灌漑水路網も水が豊富で,綿花栽培は盛んだった。また,ウズベクとトルクメンの国境地帯を流れるアム・ダリア河から,戦時中以来,工事を継続しているカラ・クム運河も,ひたすらカスピ海目ざして,開削中であった。この頃はまだ,このため下流のアラル海が干上がる杞憂などどこにも感じられず,日本でも自然改造計画に対し讃美の声こそあれ,批判などまるで聞こえない時代だった。

 それには国際情勢もかなり影響を及ぼしていたといえよう。アメリカはベトナム戦争の泥沼に落ち込んで,破滅的な状況下だった。それに比べればソ連はまったく局外にあって,平安無事であった。ところが,ここで事態は一変する。1970年代の最後の年,なにを血迷ったのかソ連はアフガンに侵攻し始めるのである。ちょうどこの2年前,私は広くアフガニスタンを巡って歩いたので,アフガンの国内情勢はそれなりに幾分か分かったつもりでいた。

 しかし,少なくとも中央アジアの近代史の研究者ならば,いかにいま平穏であっても,アフガンほど危険な土地はないことぐらい,だれでも知っているはずだった。19世紀,帝政ロシアと領土争奪でしのぎを削った英国は,二度にわたるアフガン戦争ですっかり国家は疲弊してしまった。アフガンに関わったらもうここからの抜け道が見つからない。ソ連がアフガンから撤退して約10年,タリバンがバーミアンの石像を破壊する直前,私はパキスタン・アフガン国境地帯を旅し,ペシャワールからハイバル峠まで行く機会があった。しかし,事態はもう危険でカブールまでの旅は無理と知らされた。10年間,アフガンに関わったソ連は崩壊してしまい,今度はその10年後,9.11事件のあとアフガンに介入したアメリカは,アフガンから引くに引けない。残念ながら,ここには歴史が少しも生かされていないとしかいえない。

フェルガーナ渓谷訪問

 今回(2006年)の中央アジアの旅は,別に調査でも研究でもなく,あくまでこの30年の間の変化,とくに1991年12月のソ連崩壊のすぐ後,モスクワからウズベク,トルクメンを旅していたので,ソ連時代とその後の状況を比較してみたいと思っただけだった。しかし,口で言うには易しいが,現実はそう単純なものではなかった。

 まず,旅の目標を三つに絞ってあった。一つはフェルガーナの再訪,二つにテルムズ訪問,三つにトルクメニスタン周遊である。これには現地の政府からのクレームは別になかったが,日本の外務省がなるべく行かないようにという枠があった。これは先刻承知の上だから,ごり押して行くことにした。ではなぜ旅行に好ましからざる土地であるのか。これはここ数年,フェルガーナの政情が安定を欠いていることだった。とくに前年(2005年)キルギスでの暴動の余波があり,聞くところフェルガーナで800名ほどが殺害され,その死体がどこに処理されたか不明という噂があった。そして,2006年に入って,ふたたび不穏な情勢があるというニュースが流れ始めた。これは私の旅の一カ月後にやはり起こったようだ。

 1975年当時,私は幸いフェルガーナ渓谷を訪れ,コーカンド,マルギラン,フェルガーナなどの幾つかの目ぼしい町を見て歩くことができた上,特別の配慮でアライ山脈の氷河の末端部まで見る機会があった。かつて帝政ロシア時代に,ロシア人たちはこのフェルガーナを<眠れる森の美女>とまで呼んで,パミール山麓の緑の仙境をこよなく愛したという。

 ここにはコーカンド汗国が存在したが,1876年,フコベレフ将軍麾下の帝政ロシア軍に制圧され,結局,ヒワやブハラ汗国のように再興されず潰されてしまった。理由はいろいろあったろうが,住民はウズベク,タジック,キルギスの各民族が混在し,なかなか統治がむずかしかったからだろう。広い意味ではトルコ系の民族であるが,イラン系の血を引くタジック,モンゴル系のキルギスとの微妙な差異があり,なんとなくしっくりいかないらしい。これはすでにふれた通り,2005,06年の暴動,07年にも発生していることからも知れよう。

 すでに遠い歴史の彼方になり知る人も少なくなったと思うが,1866年から77年まで,東トルキスタン(現中国・新疆)の事実上の統治者になったヤクブ・ベクは,コーカンド汗国出身の軍人だった。彼は1864年にタシケントでロシア軍に敗れ,カシュガールに侵入してついに支配権を得た人物だった。こんなことからロシア人はコーカンド人を油断なく監視したし,時の清朝も,10年かけて左宗棠の軍隊でやっと排除した苦い体験を持っていた。だから現在,中国が上海協力機構を作って中央アジアへの影響力を強めることへの背景も,決して中央アジアのトルコ民族を無視できない証拠と思って間違いないであろう。しかし,フェルガーナの住民たちは実に親切で,私はこれほど心温まる思いをした土地を他に体験したことがない。今回も同じようには感じたが,しかし,なにか土地も人の心も当時より荒廃したように思ったのは,僻目だったろうか。

アフガンへの道 テルムズ

 いま一つの目的のテルムズは,ウズベキスタンの南端,アム・ダリアの河畔にある町で,ここから河を南に渡るとアフガニスタンである。ここは19世紀の地図には町の存在がなく,多分,小さな住民の集落があったぐらいだったのだろう。ただこのテルムズは,サマルカンドからザラフシャン河を渡ってシャリサブスを経由し,ずっと南に下ってくるとやがて史上有名な<鉄門>に出る。これは西暦7世紀の玄奘の『大唐西域記』にも姿をのぞかせる,険しい断崖の谷間にある関門で,古くから旅行者はここでチェックを受けたという。

 19〜20世紀の旅行記を捜してみても,鉄門の紹介はほとんどない。ともかく岩山ばかりで歩くこともむずかしいという渓谷を,案内に立ったテルムズ生まれという若いロシア人女性が,うっかり気付かず通り過ぎてしまうへまをして,詳しく調べることができなかった。現在は,谷川に沿って道路は出来ていたが,1979年のソ連軍の車輌はここを抜けてアフガニスタンに侵攻したはずだから,いまある道は当時拡張工事で出来たものだったろう。ただ想定以上はなにも分からなかった。

 現在のテルムズの町は,なにか抜け殻のようで活気のある町と思えなかった。古来,ここはアフガン方面からの交易で成り立っていたはずだが,いま一切がストップしている状態ではどうしようもないにちがいない。町の郊外は砂地でアム・ダリア河に臨んでいる。ここは鉄条網が張られ,警戒も厳重で兵士が柵の内側に歩哨として立ち,一切の写真の撮影が禁じられている。河に架かる橋も見えないようにしてある。対岸のアフガン領はまったくの荒地で,建物も人の気配も一切ない。一体ウズベク側は何をそう恐れているのだろうか。私は以前,このアフガン領からアム・ダリアを眺めたことがある。ウズベクとしてはアフガン・ゲリラの侵入を恐れているのだろうが,アム・ダリア河畔の全域を警戒することなど,どだい無理にちがいない。

 テルムズがとかく知られるようになったのは,戦後,ロシアの考古学者によって西暦3,4世紀の古代仏教遺跡が発掘されたことで,目下発掘調査はウズベキスタンの学者に引き継がれて行われている。私は単なる通りすがりの者に過ぎなかったが,責任者から丁重な挨拶を受けた。ここでは日本人の考古学者がよく知られている。しかし,観光客の姿はまるでなく,町で出会った人たちから,「よくここに来られましたね」と幾度も言われた。ソ連崩壊直後の1992年には,「対岸からロケット砲弾が飛んで来るので,テルムズには行かないで欲しい」と,サマルカンドで言われたが,いまはさすがそんなことはないらしい。この辺りはバダフシャンと呼ばれ,マルコ・ポーロやイブン・バットゥータの言う通り,古くからルビーや紅玉髄などの宝石の産地だった。しかし,現在は,タシケントの宝石店で聞いたところでは,アフガンからの入荷は一切止まったままで,いまある商品もソビエト時代の輸入品などということだった。ラピス・ラズリはどこにも見かけなかった。

変貌するトルクメニスタン

 国土のほとんどを沙漠が占めるトルクメニスタンは,真面目に考えればこれで国家が維持できるのか,疑問になるところであろう。だから1991年のソ連崩壊で一番被害を被るのはトルクメニスタンだろうと,誰もが想像したとしても不思議ではない。事実,この直後に訪問したとき,中央アジアのどの共和国の町からも,大急ぎでレーニン像を撤去していたのに,首都アシュハバードには依然として手つかずのまま残されていた。そして,社会主義路線をそのまま継承されるらしいという噂が公然と語られていた。いうなればトルクメンなど半ば捨てられた国家であり,ほとんど問題にもされていなかったというのが,偽りのない事実であったろう。

 トルクメンの南側にはイランと国境を画するコペット・ダグ山脈があり,この北山麓にかろうじて地下水脈があり,ここが住民の居住地に当たる。私はここでかつて地下から汲んだ井戸水を飲んでみたが,大変よい水であった。ずっと東方のサマルカンド,ブハラ方面からアム・ダリア河を越えて西へ延びるシルクロードは,カラ・クム沙漠を横断してこの山麓に通じ,ここに点々とオアシスが存在する。遊牧民族のトルクメン族といったところで,実際はテケ,ヨムート,サロール,ゴクレン,エルサリ,チャドゥルなどといった多数の種族に分かれ,沙漠の中の最上の放牧地や井泉をめぐって,激しい争いを行ってきた。中でも最も勇猛なテケ族との戦闘のため,ロシア軍はカスピ海東岸から中央アジア鉄道の建設に着手したのである。

 19世紀の80年代までにロシア軍に制圧されたあと,トルクメン種族の存在は歴史の上にはほとんど登場しなくなってしまった。そして1917年のロシア革命の混乱の際も,目立った動きはほとんどなく,1922年頃までに中央アジア5共和国の一つとして,トルクメニスタンが形成された。このとき新しいソビエト政権は,とりわけ好意的な扱いをトルクメンに与えた。それはウズベキスタンと国境になるはずのアム・ダリア河を,本来なら川の中央で区切るところを,ウズベク領に10キロから50キロ東に延長したのである。これはトルクメンにとても死活問題になる水資源を,安定確保させるためだった。

 1992年春,私がブハラから西行し,中央アジア鉄道に乗ってトルクメン領に入り,アム・ダリア河を鉄橋で渡って,対岸のチャルドジョーまで行って下車した。こんなことは一見なんでもないように思えるかもしれないが,実はこのルートは中央アジアの歴史の重みで撓むほどのものなのである。歴史に名を遺す旅行者はみなここをたどった。この辺りのアム・ダリアは上流でカラ・クム運河にかなりの量の水を取られているとはいえ,まだ大量の水を流していた。この有名なチャルドジョーの町とその郊外に続く広大な現地民と,明らかにロシア人の住宅地も十分に見たし,灌漑用水で十分うるおった綿花畑も確認できた。豊かな町という印象だった。

 それから十数年後の2006年,今度は逆方向の西から東へとカラ・クム沙漠を横断してチャルドジョーに向かったが,それはかつてと一変して薄汚れた町の姿だった。車の廃材やらゴミの山であり,歴史的なチャルドジョーもいまやトルクメナバットと改名されていた。そして以前ののどかな田畑は大半が住宅地に変わってしまい,それは見苦しいほどの変貌ぶりだった。そして,アム・ダリアの対岸もすっかり汚れてしまっていた。

 これは首都アシュハバードも同じであり,都市が妙に近代化され,なんと高層建築が林立していた。聞くところ,5,6階建ての高層マンションらしいが,夜に入っても上層部にはさっぱり明かりがつかない。沙漠の遊牧民だったテント生活者が,急にこんな建物に移って生活できるだろうか。

 こんなことで驚くのはまだ早い。かつて一本のシルクロードで続く沿線上は,井泉のあるところだけでかろうじて緑が見られた。しかしいま,ここに緑地を計画しているのか若い樹木や,草花が大量に植えられ,それに雨のように水が噴水となってかけられている。これほど結構なことはないが,一体この淡水はどこから運んで来ているのだろう。しかし,心配なのは,沙漠地に水をふんだんに撒くと,地下の塩分が上昇してきて作物が作れなくなる。このため土地は3年に一度水洗いしなくてはならない。うっかり水は撒けないのだ。

 このように驚くべき贅沢三昧の行動がとれるのも,一つには無尽蔵に近い天然ガスや石油の埋蔵量が発見されたからである。ソビエト時代にもそれはすでに知られていたのだが,あえてその開発をしなかったものらしい。多民族国家が強大化しないための予防策だったらしい。なにしろカスピ海に石油があることは,前1世紀ギリシアの地理学者ストラボンがすでに『地理書』で紹介していた通りだった。ともかく,このお陰でいま住民は働かずとも食べられる身分になったのである。

 しかし,この国に入って少なくとも私には分からないことばかりだった。町にはかつて沢山姿を見せていた若い女性が,さっぱりいない。朝散歩するときまって尾行がつく。かつて大歓迎された絨毯工場では,見学中にどしどし入って来た軍服を着た警備兵に,退去させられた。市場では中年の女性から「あっちに行け!」と怒鳴られた。入国出国の際,検査所では公然と賄賂を要求された。私は国外に出るとなるべく食事は六,七分目に減らし,体の調子を図ることにしている。これまで幾度となく中央アジアに旅したが,腹をこわしたことがない。しかし今回は,腹の具合が悪くて困った。トルクメニスタンには現在,病院はアシュハバードにしかないといい,図書館も同様という。前にあった地方の博物館を見ようとしたら,首都に移してしまったという。この入場料がとび抜けて高い。

 アシュハバードの東数キロの所に,アナウという遺跡がある。現在,廃墟にすぎないが,1903-4年,アメリカの地質学者ラファエル・パンペリーが発掘調査し,一躍著名になった。彼によると紀元前9000年末から文明が生まれ,幾度か放棄されたが,これは戦争によるものではなく,気候の変化からだと推測した。アナウは文字通り,気候変動説の発祥の地といえよう。世界遺産になっても,少しもおかしくないであろう。

 私が帰国してから約2カ月ほどして,なんとトルクメンのサパルムラト・ニヤゾフ大統領が急死したというニュースが入った。心臓病というがはっきりしないようだ。党書記長だった彼はソ連崩壊後,事実上の独裁者といってよく,トルクメンの町に入れば至るところに彼の肖像写真が貼られ,国民に絶対服従を強制してきた。この予想もしない突然の死で,トルクメニスタンがこれからどう変わるかは予想はつきにくいにちがいない。ただ西のトルコ,北のロシア,近年,上海協力機構で力を増してきた中国との関わりの中で,この国の将来は,冷静に見るしかないであろう。
(2007年8月16日)

■かねこ・たみお
1936年東京生まれ。日本大学商学部卒。哲学博士。現在,清泉女子大学ラファエラ・アカデミア講師。専攻は中央アジア史。主な著書に,『ヘディン伝』『中央アジアに入った日本人』『動乱の中央アジア探検』『西域 探検の世紀』『天山北路の旅』『辺境の旅から』『アフガンの光と影』『タクラマカン周遊』等,また訳書には『ツァンポー峡谷の謎』『ルバイヤート』『アフガニスタンの歴史』(訳編)『能海寛著作集』(全14巻,監修)他。