文明を超えた「メタ価値」を考える

―「新十戒」の提案

筑波大学名誉教授 加藤 栄一

 

1.価値の重要性

 現在,価値の混乱がいろいろな弊害を生んでいるが,これは文明の末期的な現象ではないかとさえ思われる。価値の問題で肝心なことは,何が善いことか,何が悪いことか,それがわかっていなければ実行できないのに,今の世の中はまさしく何が善で何が悪かが分からなくなってしまっていることである。学校の教師も,何が善で何が悪かをはっきり教える権威をもっていない。このように価値について考えみると,価値とは,科学的理論,事実,統計資料にもまして重要な概念であることがわかる。

 一般に人々の心の中にそれぞれの価値(観)があり,人間の事象のほとんどがそれによって処理されている。価値とは,簡単に言えば,「これがよい」「これが悪い」という判断である。もう少し詳しく言えば,「AはBよりもよい」「AはBよりも悪い」という比較・判断の問題であり,それは一つの価値体系をなしている。普通は,「これがよい」と確信して,あまり深く考えることもなくすぐにことを処理して実行に移すことができる。

 私は,「価値体系は文明の幹線道路だ」と称している。多くの人にとって,価値が共通していれば,いちいち細かい命令を発しなくても,各人が自発的によいと信ずるところに従って行為をする。家族の中にも,学校の中にも,それぞれの文明にも「幹線道路」があり,それがそれぞれのもつ共通の価値というものである。各人が自発的に能率よく行為をして共同することがまさに文明であり,それを可能にしている価値体系が文明の幹線道路なのである。

 一つの例を挙げよう。

 戦時中の日本には,「お国のために」という価値観があった。ほとんどの国民が「お国のためにやります」と思っていた。それによって言わず語らずも,協力しながら大変な大仕事(戦争)をやった。戦後はそのような「お国のために」というような価値は消えてしまい,失われた価値観となった。

 このように価値とは「幹線道路」であって,これがあると非常にいい。それぞれの国家や文明という単位を超えたさらに世界全体に共通の価値が立てられれば,非常にいいのではないかと考えられる。

 そのようなタイプの価値を立てた人物を歴史上に探してみると,モーセがまず十戒を立てた。しかし,それは今では古くなってしまった感がある。例えば,「平和の価値」については言及していない。イエス・キリストによっても,「(十戒は)古い約束(旧約)であり,新しい約束(新約)には愛を中心としたものが必要だ」と批判された。

2.「メタ(一段上の)価値」の定立

 価値は,科学で教えることはあまりなく,一般には宗教が教えてきた。ふつう文明は一つの宗教,一つの言語によって成り立っているので,各文明単位の価値があることになる。ハンチントンによると,現在世界には10あまりの主な文明が存在するが,文明を超えた価値はいままでなかったように思う。それを定立してみようという試みは,非常に野心の多いところだが,今の世界には是非とも必要なのではないかと考える。

 現代世界において,文明と文明が衝突するような事件,出来事が多い。先般,韓国のあるキリスト教会の人たちがアフガニスタンに宣教活動に行って拉致された事件があった。2人が殺害されたものの,その後,全員が釈放されたが,その釈放条件の一つに「キリスト教の布教に来るな」ということが示されていた。この事件などは,まさに文明の衝突を象徴する出来事といえよう。

 文明の衝突からさらに進むと流血の惨事が続くことにならざるを得ない。イスラーム過激派の怨みが積み重なると「テロ」「自爆テロ」となる。もし核兵器を持ったテロになった場合はどうなるか。かつて冷戦時代には,核に対しては核を保有することが核抑止力になるという理論があったが,テロリストが核を持って自爆攻撃することは,核の抑止力では抑えられないといわれている。

 それゆえいまこそ,個別の文明を超えた価値観を発見し,育てていかなければいけないのではないかと思っている。

 個々のもっている文明の価値に頼れないとなると,それらの価値体系は相対的なもので,絶対的なものではないと思われる。それならば絶対的価値観を提示すればよいのではないかとの考えも出てくる。しかし,「絶対的価値観」となると絶対価値以外の価値観を認めないために,絶対価値でない立場の側から反発が起こることになる。

 そこで私は,各文明のもつ価値体系はそのまま認めて,それぞれに任せる。その上に共通として持てる価値,あるいは各文明の価値体系の中にもよい価値と悪い価値があるというように,価値を評価する価値体系があってよいのではないかと考えた。その価値体系を「メタ価値」と呼ぶ。

 メタとはギリシア語に由来する接頭語で,「一段上の」の意味をもつ。例えば,「メタ言語」とは,特定の何語でもなく,他の諸言語を分析,記述するための,一段上の言語である。同様に,それぞれの価値体系は認めつつ,価値体系Aと価値体系Bを比較する一段上の価値体系を創るのである。これによってそれぞれの価値体系は存続が可能となる。

 例えば,「人を殺すな」という価値はほとんどすべての文明が持っている。それゆえこの言説をメタ価値で述べる必要はなく,各文明のまかせておけばよい。後述する私の「新十戒」には「人を殺すな」ということを入れていないのも,そのような観点からである。

 次に,メタ価値をどのように作るか。これは一人の力でつくるのはなかなか難しいかもしれない。モーセのように神から直にもらったらいいのかもしれないが,そういうわけにはいかないだろう。できれば大勢の人が協力して,研究プロジェクトとして多数の分科会からなる国際的な「価値シンポジウム」などを開いてはどうかと思う。この分科会を開き,「日本文明分科会」「西洋文明分科会」「イスラーム文明分科会」というようにして,各文明の中で自分の文明の価値体系を再認識することを第一の仕事とする。それからメタ価値の案が提案されれば,それと矛盾しないかの確認作業を行う。最後に,矛盾しないメタ価値を宣言する。

 この分科会は,現代の文明の数,すなわちハンチントンの言うような10ほどあればよいわけだが,私はそこに一つ追加しておきたいものがある。それは「科学文明」である。科学文明はほとんど地球全体にわたって広がっており,一つの文明を形成している。これとの整合性を考える必要がある。

 私の提唱する「新十戒」の中に,「謙虚な神主義を!」というものがある。科学文明は基本的に無神論ではあるが,これとの調和を図るために,神主義といいながらも「謙虚な」という形容詞をつけたのである。

 現在の日本では,「忠君愛国」「お国のため」という価値体系は崩壊した。また「官尊民卑」もなくなった。「自由・民主・人権」の西洋的価値もさほど定着していない。「マイホーム主義」「拝金主義」「学歴主義」などの価値がはびこっているが,これらはメタ価値から判断するといずれも低い価値体系である。
そうだとすれば,いま日本は価値の荒野,廃墟に化してしまい,よりどころとすべき立派な価値体系がない状況である。ところが,その日本に強い立派な価値がないからこそ,価値の空き地にメタ価値ができる可能性があることになる。もしある国で,立派で強い価値があったとする。例えば,イスラームの国でメタ価値を唱えることは非常に困難だ。価値の荒野、廃墟である日本だからこそ,世界の知恵を集めてメタ価値をつくることが可能となると見ている。

 かつてモーセはがシナイ山で十戒を授けられたように,私はこれを「ニュー・サイナイ」(新シナイ山)と呼びたい。それではこの「ニュー・サイナイ」は,どこであるか。実は,私は小さなプレートをつくりそこに「ニュー・サイナイ」と刻み,それを会合の場にもってくると,そこがまさに「ニュー・サイナイ」の場となると思っている。

3.価値相対主義の問題点

 ここで現代世界における価値観の混乱をもたらした価値相対主義,価値多元主義について少し考察しておく。

 価値多元主義,価値相対主義は,米国の文化人類学者の中から出てきた考え方であり,米国の社会・教育思想に大きな影響を与えた。文化人類学者が奥地の野蛮人の住むところに入ってその文化を観察してみると,年寄りを尊敬するとか,獲物を平等に分けあうなど,そこにはそれなりの価値体系があることがわかった。

 そして文化人類学者の結論は,価値体系は世界に複数あり,その間に上下はなく皆平等で相対的だということであった。この考え方は,従来劣っていたと思われる民族の立場を尊重するという利点はあるものの,価値観の多様性を普及して価値観の混乱を招くことになった。

 価値を喪失したときの恐ろしさを示す,次のような例が報告されている(『ブリンジ・ヌガク』筑摩書房)。

 アフリカのイク族という部族の言葉に「ブリンジ・ヌガク」というものがある。イク族は大変な窮乏で食べ物もなくなったときに,人間としての価値を喪失してしまった。2年ぶりに会った病気の母親に息子は「ブリンジ・ヌガク」(食うものをくれ)と言った。病気の母親は,「食うものなんかない」と答え,それが会話のすべてであった。小さな子供は食べ物がないので手足がやせ細っていく。親さえも愛してくれないのだ。娘の手から大急ぎで食べ物をひったくり,とうとうその女の子は死んでしまった。イク族は年寄りたちをもあざけり笑う。排便するのも互いに人の家の入り口にする。老人の口からも食べ物を奪いとる。イク族は非常な窮乏から価値を失った結果,種族の滅亡に至ったのである。
このように,劣った価値体系,価値がなくなった状態があるので,やはりよい価値体系と悪い(劣った)価値体系はあると思う。この意味で,価値相対主義について,私は反対の立場を取るのである。

 米国には価値相対主義を批判する考え方も出ている。アラン・ブルーム著の『アメリカン・マインドの終焉』は,価値相対主義のせいで「アメリカン・マインド」がなくなり,アメリカが非常にひどい状態になってしまったことを鋭く指摘した。その対策として,従来教えられていたギリシア・ローマ以来の古典を教えなおせとしているが,必ずしも適切とは思えない。むしろ新しい価値体系を樹立する方がよいと思う。

 実際には,さまざまな価値体系には上下があると思う。例えば,人食い人種の持つ価値観は低いものであり,それを文明国の価値と同等とみなすことはできないと考えている。野蛮で単純な社会の価値観よりは,文明人の礼儀正しく,真・善・美のよく発達した社会の価値観は,やはりすぐれているといわざるを得ない。卓越した偉人の透徹した価値観は,やはり拠るべきものである。ことに偉人が頭を垂れる「神」をもち,謙虚さを持った価値体系,これこそが21世紀に再建すべきものであろう。

4.「新十戒」

 そこで「新十戒」を提案したい。

(1)諸文明は衝突せず,おのおの前進せよ!
 ハンチントンが心配する「文明の衝突」は,凄惨なものになるおそれがある。その具体例としては,イスラーム文明と北朝鮮の文明が武器を共有し,核兵器を作り,ユダヤ文明とぶつかることである。それだけではなく,中東地域ではイスラームとユダヤ・キリスト教文明の衝突が見られる。それらの回避を図る。メタ価値の提示によって,各文明の価値体系は存続するので,それぞれは元気を出して前進すればよい。

(2)「為に生きよ」!
 これは非常に普遍性のあるいい価値である。自分のためではなく,世のため,他のために生きるという美しい心である。親は子のために,子は親のために生きる。国のために,人類のために生きるということも含まれる。

 ここで経済学について考えてみたい。アダム・スミス以来の経済学に共通している前提条件は,自己愛肯定(自分を愛する心の肯定)である。自己愛という強い動力,動因のもとに動いていれば,社会全体としてよくなっていくという一種の「信仰」である。それをもとに自由経済,市場経済を正当化してきた。

 しかしこれからは,それに対して新しい経済学が必要であり,可能ではないかと思う。その動因(前提条件)の部分を根本から覆して,そこに「同胞愛」をもってきてはどうかと考えている。すなわち「同胞愛の経済学」とでもいうべきものである。同胞というのは,近くは兄弟・姉妹,家族,一族があり,さらには国民を意味するが,人類というところまではいかない。それでもかなり広い範疇を含む概念である。「兄弟と思えるような範囲の人々」と考えていいだろう。

 これが必要なわけは,社会の生産力が非常に高まったためである。マズローは,欲求の5段階説を唱えた。それによると,最初の欲求が「生存の欲求」で,次が「安定の欲求」,その次が「仲間の欲求」,4番目が「尊敬の欲求」,最後が「自己実現の欲求」という。現在の地球を平均的に見ると,「生存の欲求」を満足させるだけの生産はあることが理解できる。そこで,第二段階から第三段階,第四段階の欲求に基づく経済学を考えるとすれば,「同胞愛」がより適切ではないか。このように根本の前提をひっくり返した経済学が可能であり,それがいま必要なのである。

「為に生きよ」と言っても,自分を殺して(滅ぼして)しまえと言うことではない。そこから次の「我れ他とともに繁栄せん!」が出てくる。

(3)「我れ他とともに繁栄せん!」
 この内容のヒントは,ヤマギシズムの標語からきた。自他共の繁栄は可能である。
これまで国家レベルでは,帝国主義は自国が繁栄するためには他国を植民地にして支配しなければいけないと考えた。また会社経営においても,労働者を搾取しなければ資本家はもうからないと考えた。

 戦後日本は,帝国主義を放棄したが,安くてよい商品を生み出せば植民地がなくても世界に売って繁栄することができることがわかった。そしてそれを立証した。帝国主義は正しくなかったわけだ。会社経営においても,労使協調すればよい結果を生むことにつながる。「我れ他とともに繁栄せん」というのは,誰にとってもよい価値だと思う。

(4)謙虚な神主義を!

 これには二つの意味が込められている。一つは,神の前に頭を垂れて祈る人は謙虚な人である。もう一つは,自分の信ずる神だからといって,これを他の人に押し付けない。科学文明の無神論者たちも,神を信ずる人たちが謙虚であれば異存はないと思う。

 ここで「神主義」とは,神の存在を信じ,神の愛によって生きるということである。

(5)師父母祖先を尊べ!
 普通「師父」という言葉を使うが,「父」という父性原理だけではなく,「母」(母性原理)も入れたいので,「師父母」という表現にした。

 それから「祖先」である。一般に一神教では,祖先崇拝はきらう傾向がある。祖先とは,自分の親,その親,さらにその親くらいの範囲を指すが,自分に遺伝子をくれ,遺産をくれた方々である。祖先が山を開墾し田畑を作るときには,自分たちの子孫に幸いなれとの心で未来のために田畑をつくってきた。この精神を尊ぶ必要がある。祖先を尊ぶことは,同時にわれわれの子孫のためにわれわれも働くことにつながる。

 この内容は,地球環境を守ろうということにもつながる。自分の一生が終わったら,地球が滅んでもいいと思っていた人が,自分に孫ができたらにわかに気持ちが変わって,孫のために地球環境を守るようにしようと思うようになる。

 祖先を尊ぶことは,東洋文明に強く表れている。東洋文明から世界に発信する新しいメタ価値である。キリスト教など一神教の人たちに,これを考えてもらいたい。


(6)生きる地球を守ろう!
 ガイア(生きている地球)は,また有限の地球,宇宙の中の宝でもある。この環境を守ることは,前項の「子孫のために」に通じるものである。

 現行の日本国憲法には,「環境」という言葉がない。しかし,この環境の概念は,憲法の中に入れもいいくらいの重要な概念である。

(7)世界平和を!
 世界を全滅させうるほどの破壊力を人間はもつようになった。とくに核兵器の問題である。核兵器以外にも,新しい破壊力が次々に開発されて,破壊力は増大する一方である。それゆえに世界平和が非常に重要になる。

 既に述べたように,核兵器を使うテロリストに対しては核抑止力が働かない。テロリストの動機の根本は何かと考えたときに,私は「悪想念」だと考えた。テロリストが持つような考えが「悪想念」である。ただ,「悪想念」だけでは爆発しないし,それを現実化する武器を持つ人は少ない。しかし,「悪想念」と武器が結びついた場合には,大変なことになりかねない。武器を完全に消滅することができないのであれば,その動力である「悪想念」を消すことが重要な解決策になってくる。これは宗教の力によってなくしていくことも可能であろう。「悪想念」を持つこと自体が一つの「悪」であるので,「悪想念」から人々を解放することが「善」である。その意味で,宗教の役割は非常に大きい。

(8)共同体を大切に,そして,そのガバナンス(統治)を良化しよう!
 共同体は,とかく敵視される傾向がある。とくに米国人にそのような傾向が見られる。ある国際会議の基調講演で,「国のために…」との表現があったが,それに対してある米国人は,「国のためにとは何だ。国(政府)はいつも国民を監視し悪いことをしようとしているんだ。」と反感を持った。彼らはそのような国(政府)の悪を憲法の力で押さえ込むのが民主主義制度だと考えているようだ。ところが,日本人は国が悪いものだとは考えていない。むしろ国が国民を守ってくれていると考えている。それゆえ年金問題などで,国が国民を裏切った場合には背信の思いを抱く。米国人は個人を主張することがあまりにも強いために,国家や自治体,その他の共同体を敵視することもある。

 しかし,共同体は人類の財産である。人類が長い歴史を経て作り上げてきたものであるから,壊さず大切にしなければいけない。ただし,そのガバナンスは良化しなければいけない。よりよき統治をすることである。そこには会社などのガバナンスも含まれる。
「ガバナンスの良化」という概念がないと,「この共同体はだめだから壊してしまえ」という革命思想に結びつきやすい。革命よりは「ガバナンス良化」で処理していこうということが,この項目のまた一つのポイントである。

(9)自由と愛護を共に!
 自由は人間の本性でもあるので,メタ価値として主張してもどの文明も賛成するだろうと思う。各人の能力を十分に発揮するためには,自由が大切である。自由だけでは弱肉強食の自由になり弱者問題が生じて,規制が生まれてくる。しかし,規制が行き過ぎると逆に今度は自由のよさが失われる。ゆえに,自由はなるべく残すが,弱者については十分な愛護を与えるべきだと思う。

 フランスの憲法,国旗に見られる価値観は,「自由,平等,博愛」である。ここで自由と平等を同時に主唱している。しかし,ゲーテであったと思うが,「自由と平等を同時に主張する人間は,山師でなければ詐欺師だ」と言った人があるように,自由と平等を同時に実現するのは難しい。それで「自由と愛護を共に」と表現した。

 ところで,「民主主義」についてはどうか。民主主義について考えた場合に,民主主義が世界に普遍的であるとは必ずしもいえない。中近東地域では,米国が「民主主義を植えつける」といって戦争を起こしたことに対して非常な反感を抱いた。民主主義政体を選ぶか,専制政体のもとで暮らすかは,各国民が自由に選択すべき問題であろう。それで「新十戒」には入れなかった。

(10)創造と蓄積で情報と富を十分に!
 現在の日本は,生産性が十分に向上した結果,社会の全員が汗水たらして働かないと食えないというような状況にはない。その背景には,機械設備が整えられたこと,それを動かすソフトもまた蓄積されたことがある。私の情報理論によれば,「情報は蓄積される。蓄積された情報は力である」。

 情報生産の方法は,発想法ともいえる。それは自由な結びつけである。ある情報と別の情報を結びつける。その際,この情報とこの情報は関係ないというような拘束があってはいけない。境界を乗り越えて結びつけられる自由な発想が大切である。それがよくできる人が,天才である。

 ユダヤ人にノーベル賞受賞者が多い理由を考えたときに,宗教的背景を持った家庭教育があったと思われる。ユダヤ教では,旧約聖書を経典とするほか,タルムードをもつ。タルムードは,ユダヤ人たちが長い歴史を通して議論してきた結果である。それゆえタルムードのページには,注釈があり,その注釈にまた注釈がつくような形になっている。その伝統があるので,教育においてもつねに異なった見地から考える習慣が小さいときから形成されることになる。画一教育ではなく,自由で創造的な発想を生み出す教育である。

今後日本の総人口が減り,労働人口が減っていくことを非常に懸念する人が多いようだが,

私は楽観している。ロボットが人間に代わって働いてくれる。ロボットとは情報の蓄積である。その情報を増やす方法が創造である。自由があれば創造が生まれる。創造された情報が蓄積されて富が生み出される。十分な富があれば,悲惨な侵略戦争や革命を起こすこともなくなるだろう。これが繁栄の処方箋である。
(2007年8月30日)

■かとう・えいいち
1934年大阪府生まれ。59年東京大学法学部卒,自治省に入省,自治大学校教授,総合研究開発機構主任研究員,東京大学講師,自治省参事官などを経て,筑波大学教授(社会工学系)に就任。同大学国際関係学類長,常磐大学教授,同国際学部長などを歴任し,現在,筑波大学名誉教授。専攻は,政治学。主な著書に,『日本人の行政』『天才がいっぱい』『情報国富論』『オトナの社会科』『宗教から和イズムへ』他多数。