海人文化から見たオセアニア地域の人類史的足跡

南山大学教授 後藤 明

 

 ポリネシア人というと,もともと遠洋航海に長けた人々が,どこかの浜辺を漕ぎ出して太平洋に乗り出し,ハワイやイースター島のような孤島に住むようになった人々だとの一般的イメージがある。しかし,ポリネシア文化の起源をたどっていくと,東南アジアの「海人文化」にたどりつくと私は考えている。この「海人」(かいじん)という言葉は,沖縄のウミンチュ(海人),マレーのオラン・ラント(原義は海の人),あるいはソロモン諸島のワレ・アシ(原義は潮水の人)のような概念を総称して命名したものである(注1)。
 
 日本の歴史教科書では,農民,漁民について近世・近代の固定的なイメージで教え,その中間的存在として半農半漁の存在を示し,それ以外の人々はいなかったように教えられている。しかし,東南アジア地域を実際に歩いてみると,海人のような集団がいかに文化交流に重要な役割を果たしているかがわかる。彼らの存在を考えないと,ポリネシアに東南アジア起源の家畜や作物が伝わることや,さらには日本に稲作が伝わることは考えにくい。農民が海を渡っていくことは考えられない。むしろ民俗学者の宮本常一や農学者の池橋宏が言うように,水に親しんだ「水の民」がイネを日本に持ってきたのではないかと思われる。水に親しむような水人ないし海人だからこそ,舟を操って移動して行ったと考えるのが自然であろう。このような人々が,日本から東南アジアにかけての島嶼世界においては,歴史的に重要な役割を果たしていたのではないかと考えている。
 
 そこでここでは海人の文化を基礎としながら,環太平洋地域の人々の源流にさかのぼり,オセアニア地域の文化的背景を探ってみたい。

1.海人文化とホモサピエンスの拡散

(1)海人の文化
 「海人」という言葉は一般にはまだなじみがないが,私は海人とは「農民」「漁民」という思考の枠組みでは捉えきれない人々であると考えている。
 
 海人とは海岸に住み,移動を繰り返しながら,海に密着した生活をする人々のことである。海人と漁民との違いはどこにあるのか。漁民は,農民との対比で考えられ,沿岸部に村落を構えて定着し生活する専門の集団である。しかし,海人は漁民のように一箇所に定着するのではなく,一時期陸に集落をもつ場合にしても,あまり広い後背地をつくらず海沿いに位置し,移動性を特徴とする。
 
 海人の生活の基本は,漁撈,海岸の資源を利用した食料調達や工芸,さらにはそれらの運搬や交易などで成り立っている。また海人は,しばしば特殊な技能をもつ。例えば,特殊な漁法,航海術,工芸などである。そして漁業だけをやっているのではなく,海に関するさまざまな仕事,例えば,水運交易,戦闘行為などをも行い,舟に住まう習性をもつ。海人は漁に出ると何日間かにわたって海上で生活するために,それにふさわしい舟の構造になっており,作物や家畜を舟に積み,育てながら生活する。漁民は,そのようなことまではしない。
 
 海人は熱帯雨林からマングローブ,砂浜,磯浜,河口部,サンゴ礁など多様な環境,そしてそれらの遷移帯に住みそれらを存分に利用する。この生物多様性に対応した,適応戦略の多様性が特徴となっている。
 
 海人にはもう一つ,身代わりの素早さという特徴がある。それは陸地民→海人,逆に海人→定着といった一方向の変化を意味しない。陸住まいと海住まいの間の移動は,双方向に起こりうる。河川や湖沼地帯に住む「水人」と海岸中心に暮らす海人との間には多くの共通点や交流がある。
 
 従来は「漂海民」(シー・ノマッド;海の牧畜民)(注2)という概念が使われてきたが,私のいう「海人」は「漂海民」よりもう少し広い概念として使っている。すなわち,「漂海民」のようにいつも移動して歩いているのではなく,ある程度村を構えたとしても,一年の半分の期間を家族の中の男たちが海を越えて出稼ぎに出るなどといった習俗をもつ人々を意味している。したがって海人は漂海民を含むより広範囲な生活形態を意味する。
 
 東アジアの古代世界には,日本の歴史教育で教えられてきたような農民像や漁民像では捉えきれない人々がおり,このような人々が文物を運んで歴史を動かし,つくってきたのではないか。もっと大きくみれば,モンゴロイドの移動においては,陸上の移動ばかりではなく海を越えた移動もあるわけで,その人々はどのような人であったのか。おそらく海を越えて積極的に移動することを生活パターンとする人々が,モンゴロイドの中にいたに違いない。

(2)ホモサピエンスの出アフリカ
 人類進化の過程で,最古の猿人,アウストラロピテクスがアフリカで発生し,アフリカから一歩も出なかったのは示唆的である。従来猿人の次段階である原人となるに至って人類はアフリカを出(例 ジャワ原人),個々の地域で旧人そして新人へと進化したと考えられてきた。ところが最近遺伝学の証拠から,現生人類(ホモサピエンス)は20ないし30万年前,新たにアフリカに誕生して世界中に移動した種族だという学説が有力になっている。
 
 それでは,われわれの属するホモサピエンスが,再びアフリカから出,原人がおよびもつかないくらい広範囲に,すなわち太平洋やアメリカ大陸まで広がったのはなぜであろうか?人口が増えすぎて追いやられ拡散したという説を唱える人もいるが,当時の人口を考えるとそれは妥当性が低いように思われる。気候変動説もあるが,気候がどのように変わると人がどのように移動するかとの具体的な関連性の説明はないし,気候の変動がすぐに人間の移動に結びつくというのも無理があるように感じる。むしろホモサピエンスは生来的に移動する種ではなかったのか。
 
 ホモサピエンスは新しい種族として世界中に広がった。ホモサピエンスは旧人に比べて知能が高かったといわれるが,知能が高いということはまた探索(探求)心,冒険心が旺盛であるということであり,新しい土地などを開拓するという好奇心がインプットされているように思われる。一つのところにとどまって穏便に暮らすという考え方もできるのに,わざわざアフリカを出て世界中に,ときにはより環境条件の厳しいところにも拡散していった。この延長線上から考えてみると,海を越えること,すなわち航海技術さえもっていれば当然未踏の地に向けて開拓することは十分ありえることだろう。
 
 ホモサピエンスの探索好きについては,成長の遅滞と関係づける学説がある。生まれたての人類と類人猿の赤ちゃんとは,ほとんど区別がつかないほど似ている。しかし,成長するにつれて人間とゴリラ・チンパンジーとは明確に区別されるようになる。ゴリラ・チンパンジーなど類人猿は成長とともに毛深くなり,顎や眉隆線が出てくる。一方,人類は生殖器などは成長するものの,全体的に幼児性を温存している。一般に人類は他の霊長類に比べ,成長遅滞が特徴とされる。
 
 類人猿は未成人の段階で盛んに探索行動を行うことが知られており,それによって自分の環境を認識し,テリトリーを確立していく。だだし,この行動は成人になると目立たなくなる。ところが,人類は探索行動がずっとつきまとう。
 
 またとくに,モンゴロイドは人類の中でも比較的丸い顔つきである。白人や黒人も赤ちゃんのときは,モンゴロイドと同じような顔つきなのだが,成長するにしたがって目鼻立ちがはっきりしてモンゴロイドと区別がついてくる。逆にモンゴロイドはそのような赤子のときの特徴をそのまま維持しており,形質的には「幼児性」を維持しているともいわれる。それが「万年青年」モンゴロイドの探索心旺盛な理由なのである。

2.人類集団のオセアニアへの移動

(1)スンダランドとモンゴロイド
 太平洋地域への人類の移動は,数万年前のオーストラリアのアボリジニーやニューギニアのパプア人たちの移動が最初といわれる。彼らは,主な人類集団とされるコーカサイド,ネグロイド,モンゴロイドなどのいずれとも異なり,オーストラロイドと呼ばれたこともあったが,遺伝学的には環太平洋地域の集団,すなわち広義のモンゴロイドに近い集団と言える(斎藤成也のサフール人)。ただし,彼らの身体的形質は,アジアや他のオセアニア島嶼部の人々とは異なる点が多い。
 
 環太平洋地域の人類集団の起源を考えたときに,アフリカやヨーロッパの集団とは違った進化を遂げたモンゴロイドを育んだのがスンダランドである。かつて地球上には何度か氷河期が訪れ,氷河期には海水が氷となるので海面が低下する。そのためインドネシアの島々は東南アジア大陸と連続し,巨大な陸棚スンダランド(Sundaland)を形成した。ここがモンゴロイド揺籃の地の一つであることでおおかた一致している。一方,ニューギニア島とオーストラリア大陸もひとつになってサフル(Sahul)という古代大陸を形成した。これらの古代大陸は,13000年前,最後の氷河期が終わり海面が上昇すると,浅い部分が水没し,今のような地形となった(図1)。
 
 スンダランド付近はモンゴロイド集団が進化した場所であり,またサフル大陸は,人類最古の海上移動の証拠が挙がっている点で人類史上重要な地域である。さらにスンダランド付近で進化したモンゴロイドはアジア大陸,そしてアメリカ大陸へと拡散していった。そのためか,新大陸のインディアン=インディオが語り継いだ神話や民話にはアジアやオセアニアのモンゴロイド集団の要素と類似する点が少なくない。

(2)古モンゴロイドの形成
 新人の段階でアフリカからアジアにかけて,何らかの人類集団の移動があったならば(おおよそ10万〜3万年前),南アジアの海岸部からスンダランドへ向かう道が初期ルートとして重要ではなかったか。大河やジャングルを越えるよりは,簡単な水上手段を覚えれば,海岸沿いのルートをたどった方が楽だからだ(注3)。
 
 東南アジアの海岸は,世界的に見ても海と陸との交差がもっとも細分化した地方で,多くの島々があり,海岸線が数千キロにわたって続く場所は世界でも他にない。水のそばは,潜在的に最も豊かな食料資源をもっていた。スンダランドの湿地帯から海岸部への適応が重要な点で,水に親しんだ人類がやがて海を越えていくのである。
 
 アフリカから徐々に大陸を経ながら拡散する過程で,最初の派生としてスンダランドから古い形質の人類がサフル大陸,すなわちオーストラリア,ニューギニアに4〜6万年前に渡り始め,氷河期が終わって以後孤立した。これは先モンゴロイド(プレ・モンゴロイド)というべき人々である。彼らがオーストラリアのアボリジニーやパプア人の祖先となった。
 
 その後,スンダランドから東アジアにかけて古モンゴロイドの形成があった。彼らの中には,シベリアや中国北部など北方に移動した集団もいて,その一部は日本にもやってきたらしい。その一例が,沖縄県の港川人である。さらに北方に移動していった集団が,最後の氷河期である1万2000年前くらいにベーリンジア(注4)を経てアメリカ大陸に移動したと考えられている。アメリカ大陸への移動については,もっと古い時期にも人類集団の移動があったとの説もある。それは南米にその時代よりももっと古いとされる遺跡が発掘されているためだ。しかし,一番確実な説は,1万数千年前の最後の氷河期にベーリンジアを渡り,その集団がアメリカ・インディアンの祖先になったとの考え方である。
 
 この旧石器時代の太平洋地域への海上の道については,当時(氷河期の最盛期)の状況を想定して,米国のジョセフ・バードセルが島と島の距離,出発点から目的地の島まで見えるか否かなどを推定した。それによるとどのルートも100キロを越える航海の必要性はなく,初めて海を越えることの可能性を示したと言える。
 
 またサフル大陸方面の遺跡がだいたい3万数千年前あたりから急増するという事実は注目すべきだろう。つまりスンダランドからサフル大陸へ人類が移動できたのは,海水面低下が起こった限られた時期であることを物語るものである。

(3)第2期の移動
 前節で述べた第一波の人類集団の移動によって形成されたアボリジニーやパプア人などの言語は,近接するオセアニア地域のオーストロネシア系の言語(インドネシア語,タガログ語など)とは全く系統を異にする。このオーストロネシア語の存在は,別の人類集団(オーストロネシア系)の流れを意味する。つまり,前節に続く第二波の移動があったのである。言語系統論という学問によると言語が分類される系統をたどることは,人類集団の分化を示す証拠になると考えられるからである。
 
 世界の言語は語族というグループでまとめられるが,東南アジア島嶼部とオセアニアにおける大語族として知られるのがオーストロネシア語族(注5)である。同語族には600〜1200の言語が含まれ,2億7千万人の話者が存在する。主なものを挙げてみると,インドネシア語,マレー語,ジャワ語,タガログ語などであるが,少数民族の間でも,ベトナム,ミャンマー,台湾先住民などの言語も含まれる。さらには,ニューギニア海岸部からメラネシア,ミクロネシア,ポリネシアのイースター島までに及ぶ地域で話される言語のほとんどがオーストロネシア語族に属する(図2)。
 
 オーストロネシア語の系統樹の意味するところは(図3),オーストロネシア語を使う民族は,細胞分裂のように同じ場所で,二分割,四分割と細分化されたのではなく,主流から分流が分かれ,主流はそこに残り,分流が移動していく。そしてその分流は到達した新天地に残るが,そこからさらに分流が出て行った。その全体的特徴を見ると人類集団の移動の跡が見えてくる。すなわち,東南アジアにおいては南方へ,オセアニアにおいては東へ,海を越えて行ったという特徴である。
 
 こうした言語学的研究とともに考古学的な研究によって,人類集団の伝播のシナリオが推定されている(ブラスト=ベルウッド仮説)。(表1)
 
 南方の人類集団の移動は,5〜6000年前ごろ,台湾〜フィリピン〜南シナ海付近を起源地としてポリネシア人の祖先になる集団が形成され南下を始めた。この時期は既に氷河期が終わっており,スンダランドは消滅し,ほぼ現在のような地形になっていた。フィリピンやインドネシアも島嶼となったので,人類集団は舟を使いながら島伝いに移動した。
 ましてニューギニアから東方のメラネシア,ミクロネシアは島と島の間隔が広いので,ちょっとした技術では行くことが容易ではない。かなりのカヌー・航海術を持って渡っていったと想像される。

3.オーストロネシア系文化

(1)オーストロネシアの源境
 オーストロネシア世界の成立には,中国の新石器文化とともに東南アジアの島嶼部おける海人の始動の影響があったと考えられている。
 
 例えば,オーストロネシア語の祖語の中に,コメを表す単語があるとの説がある。もしそうだとすれば,その源境は東アジア,東南アジア地域ではないかということになる。これに関しては諸説あって定説にはなっていない。ただし,ポリネシアに行くとコメはもうなくなるが,もともとはコメを知っていたのではないかと考えられる。南方に移動する過程で,南方の島嶼地域が熱帯雨林地帯でコメの栽培には適していないためになくなっていったのだろう。そしてコメに代わってイモ類が中心となり,作物が変化していった。
 
 オーストロネシアの起源は,単なる採集狩猟民族ではなく,もともと農業(稲作を含む)や家畜を持っていた人たちではないか。南方に移動する過程でだんだん環境条件が変化していくに連れて,コメを食べる代わりにイモ類を食べるなどの変化が伴っていった。その意味で,彼らは新石器時代の高度な民であった。
 
 また,先の「ブラスト=ベルウッド」仮説では,台湾の大岔坑文化がオーストロネシア語を担う文化を生み出したと考える。そしてその後一部が分かれてフィリピン北部に移動し,さらにマレー・ポリネシア語が分岐していったとする。
 私はオーストロネシアの起源を台湾付近に限定することは無理ではないかと考える。なぜなら台湾にはオーストロネシア語族(旧称・高砂族などの原住民)が存在するのだが,彼らは海人の特徴をもっていないし,漂海民の気質を持っているともいえない。海人の実態を知らない研究者は簡単にそのような主張をする。台湾とフィリピンの間のバシー海峡は海流や季節風などからかなり難所なので,初めて海洋に乗り出そうとする人がこのようなところから果たして始めるのかとの疑問がある。
 
 最近は中国大陸の研究者たちも海に関心を寄せるようになり,中国南方の海岸部に貝塚などの遺跡が発掘されると,その海岸部から台湾を経てフィリピンへの異動ルートを主張する。しかし,その説を前提にすれば,台湾の原住民がもっと海洋民的素質を持っていなければならないのにそうでない。台湾で一番海洋民的部族であるヤミ(タオ)族はフィリピンから北上した民族だとされており,推定する流れの理屈が合わない。どうも台湾から南下したというストーリーはシンプルだが実態に合わないように思われる。
 
 私自身,ベトナムや南シナ海付近の島々を実際歩いてみると,マングローブのジャングルのぐじゃぐじゃどろどろしたところで,水に親しむ生活を生業とする人々がけっこういることが分かる。そのような中から海人が生まれてきたのではないか。台湾の原住民はむしろ内陸民,農耕民的な生活であって,彼らが古いオーストロネシア的文化の源流を担ったことは正しいが,彼らが南方に移動していったとはいえないのではないかと考えている。
また中国大陸にはオートストロネシア語は残っておらず,同語は台湾とベトナム,フィリピンに見られる。こうしたことを考え合わせると,南シナ海を中心とする一帯を,海人文化を生み出す有力な候補地と考えるのが妥当ではないか。
 
 旧石器時代はこの地域は大陸であった。すなわち,南海ランド,東海ランドからスンダランドへとつながっており,これらの大陸部が海面上昇によって水没する過程で,この大きな海域を囲む沿岸部で漁撈などを行っていた人々が移動を始めた。彼らは多島海なのであちこちの島々を筏などを使って行き来しながら海に親しむ生活をしていた。スンダランドの消失が海人文化の形成を促したという可能性は重要だと思う。
 
 スンダランド北岸で始動した集団がフィリピン・台湾へと北上したことが,オーストロネシア形成のきっかけになったのではないかと考えられる。このようにオーストロネシアの展開は,中国南部→台湾→フィリピンというように直線的ではなかった。むしろスンダランド周辺の交流にそのカギがあったのではないかと思う(Solheim,Meacham)。私は,ミッチャムの唱えたオーストロネシア源境の三角形をもっと絞って,中国南岸からベトナムに至る複雑な海岸線と,フィリピン群島周辺の多島海に囲まれた海域を考えたい(図4)。
 
 この地域の人々が海で結びついた人々であることを傍証する例として,時代は少し下がるが,「リンリン−O型式耳飾り」と「双頭式装身具」の分布を挙げることができる(図5)。直接的証拠にはならないが,この地域全体が結びつき海の交易圏を形成していたことを示す有力な例だと考える。それゆえ,この地域全体をオーストロネシア文化の起源地と考えることが妥当であろう。

(2)ラピタ文化
 数万年前に起こったスンダランドからサフル大陸への移動を海人文化の第一幕とすれば,台湾付近のトライアングルで紀元前4000年ごろ始まったのがオーストロネシア系文化であり,その文化の担い手であった集団が新たな交易ルートを求めて南下し,ビスマルク諸島付近に達して生み出したのがラピタ文化である。その直接の子孫がポリネシア人につながっていく。
 
 ラピタ文化は,東南アジアの海人文化の伝統を受け継ぎ,オーストロネシア系海人文化がオセアニアで展開したものと考える。ラピタ文化は,紀元前1300年頃メラネシアの西部ビスマルク諸島から,メラネシアの東端フィジー諸島を越えて,ポリネシアのトンガ,サモア付近まで急速に拡散した。考古学的には一瞬としかいいようのないスピードであった(図6)。
 
 ラピタ文化とは,ラピタ式土器(図7)に特徴づけられる先史文化である。1950年代にニューカレドニア島のラピタ遺跡で土器が発見されたことに由来するが,ラピタ式土器はろくろを使わずに手でつくった土器である。とくに割った竹などを押し付けて複雑な文様がつけられているのが特徴である。
 
 またラピタ遺跡の立地傾向は,海岸部,とくにサンゴ礁の水路を望む場所であるとされる。そこは外海へ出るルートに臨み,同時に安定した漁撈のできるサンゴ礁やラグーンを利用できる場所である。まさに海人の立地であり,ラピタ文化のあり方をみると,東南アジアに存在する海人文化の伝統の延長線上にあったと考えられる。
 
 ラピタ文化のもう一つの重要性は,アジアを発した人類集団が,ニア・オセアニアを通って,ついに未踏の島々,リモート・オセアニアへと進出したことである。人類の移動に必要な海上距離は,ニア・オセアニアでは数十キロからせいぜい100キロくらいであった。それがソロモン諸島の東端から始まるリモート・オセアニアでは350キロと跳ね上がる。それはラピタ文化時代に,この地域には数千キロに及ぶ海上交易網があったことを示している。
 
 このことは遺跡として発掘された黒曜石や土器,漁撈の道具などの分布によって明らかにされている。東南アジア起源のブタの骨は遺跡からまだ出ていないので証明しにくいが,どうやらブタを持っていたと思われる。その他にもイモ類,イヌ,ニワトリなどをカヌーに積んでいった。それらの家畜を新しい島で繁殖させるためには,オス・メスのペア(つがい)で持ち込まなければならないし,それらの動物のエサも考えて作物・植物を持っていったと考えられる。もちろん,台風や嵐によってカヌーが流されてある島にたどり着くなど,偶然によって島が発見されるという側面がなかったとは言えないが,それだけでは説明できない。
 
 海を越えるということは,単なる個人の思いつきでできるものではなく,もう少し組織的な行為であって,こうしたことは無計画ではできない。一人の好奇心旺盛な変わり者が行ってみようという世界ではなく,集団で開拓に行こうと企図し,命令を出す人,専門的に舟を操る人など階層が分かれていたに違いない。もともとオーストロネシア民族は,平等社会というよりは階層のある首長制社会であったと考えられている。また年齢の上下,すなわち年長者・年少者を区別する社会でもあった。考えてみれば,同時代に中国などでは高度な文明が栄えていたのであり,人類の知能としてはかなり成熟していたと思われる。
 
 西太平洋地域の風向きを調べてみると,島の風向きは東から西に吹いているのでその方向に行くのであれば漂流による偶然性を想定できるが,アジア方面から太平洋地域への移動は風向きや海流とは逆の方向への進行であったことを考えると,技術をもち計画を立てて進んでいったとしか考えられない。風の方向や海流,無風状態の地点などについて知識を持っていた可能性も高い。ポリネシアの東の端を含めて太平洋地域全体に人類集団が拡散したことは,そうしたことを想定しないと考えられない。

(3)南米大陸との交流
 太平洋地域への人類の移動が基本的に西から東へと考えられているが,一つの謎はポリネシア人がもっていた主食の一つサツマイモが,明らかに南米起源の作物であることだ。何らかの形でポリネシアと南米とがコンタクトを持っていたことは事実であろう。一つの可能性は,南米からポリネシアに持ち込まれたとの考え方。しかし,現在有力な考え方は,ポリネシア人が南米に行って戻ってくる過程でサツマイモを持ってきたとの説である。それは,南米のインディオとポリネシア人の航海技術を比べてみると,雲泥の差があるためだ。
 ニューギニアから東に向けての島々は,島と島の距離が少しずつ広がっていくようにうまく並んで点在しており,人間がわたりやすい環境にある。ところが,イースター島から東に行くと,かなり島がまばらになって,島と島との距離が広がっている。人間は,やはり学習しながら次の島へと移動していくものだ。最初から一気に長距離を渡航することは考えにくいし,南米の人たちは航海技術がさほど高くないので,なおさら長い距離を航海していくことは想定しにくい。
 
 出航から今年で60周年になるハイエルダール(Thor Heyerdahl,1914-2002,人類学者)のコンチキ号(Kon-Tiki)は,フンボルト海流(別名ペルー海流)を越えた海域(陸から約80キロ)まで軍艦によって曳航してもらった(注5)。南米大陸の西岸に沿って北上するフンボルト海流はかなり強い海流なので,船出したからといって簡単に航海するのはそう簡単ではない。南米からポリネシアまでの絶対的距離は,地図上では近いように見えるのだが,実際にその地の環境条件に立ってみると,南米からポリネシアに行くことはかなり困難な作業なのだ。
 
 ただ,新大陸とポリネシアとの間に行き来があったことを主張する南米の研究者も少なくない。例えば,米国のカリフォルニア沖にある島のチュマッシュ・インディアンの神話や釣針が,ポリネシア人のそれとかなり類似していると指摘されている。また,現存する南米のマプーチェ族は,最後までインカ帝国に抵抗した部族であるが,インカ帝国滅亡後は,スペイン帝国の支配に抵抗しながら,部族の伝統を守ってきた。彼らの文化とポリネシア文化との類似性を指摘する学説もある。

 このように,アメリカ大陸からポリネシアへの移動の可能性は否定しないが,基本的には西から東への移動であったと思われる(図8)。現在の主流学説では,ポリネシア人の起源はアジアであり,大半はアジアにつながる文化要素であるとされる。東南アジア方面から,だんだん離れていくように飛び石的に並んでいる島々を,少しずつ鍛錬・学習しながら航海技術を改良して,次第に東へと拡散していったと考えるのが一番合理的であろう。

(4)ピジン言語
 オーストロネシア語とは,ハワイ語,インドネシア語,タガログ語,台湾の原住民語などを総称した語族であるが,太平洋地域のポリネシアやメラネシアは,ほとんどがオーストロネシア語である。この地域の言語には,オーストロネシア語のほかに,オーストロアジア語(南アジア語,注7),チベット・ビルマ語,中国語,パプア語,タイ語系,カザイ語系などがある。その祖語は台湾付近で形成されたとの学説が強いが,私は前述したようにトライアングルの地域でできたと考えている。
 
 オーストロネシア語の起源に関して,スンダランド付近で人々の移動が頻繁に行われ,方々の産物が取引されるにつれ,人々が共通に持つようになった一種の共通語,交易言語であったとの学説がある(ソールハイム)。交易言語の実体は,いわゆるピジン語・クレオール語的なもの(注8,9)をモデルにして考えるとわかる。これはハワイやカリブ海地域にやってきた移民の人々が生み出した言語だ。
 
 例えば,19世紀末にハワイには,中国,ポルトガル,日本,フィリピンなどから移民がやってきた。先住民のハワイ人もいたが,支配層は英語を使う米国人であった。英語に堪能でない一世たちは,英語の単語や一部ハワイ語の単語を取り入れて,簡素化された共通語を作り出した。これがピジン語(ピジン英語)である。しかし,二世たちは学校で英語教育を受け英語を習得する。だが標準英語が定着するのではなく,ピジン語を一部継承し,文法も発音もきわめて独特の英語「ハワイ弁」が誕生する。二世にとってはこれが母語となる。その時点でこれはクレオール語となる。混成語が母語になったのである。
 
 同様の考え方によって,オーストロネシア語も形成されたと考えられる。舟であちこちにでかけて交易する中で,交易民は自分たちに都合のよい共通の言語を作り出してきた。一旦交易言語が形成されると,分かれて住み着いていく過程でそのことばが各地に定着していったのではないか。
 
 以前ニューギニアで調査したときに,オーストロネシア語に分類される部族の言語で,特殊な言語があった。その部族はもともとパプア語を使っていたのに,オーストロネシア語に鞍替えしたとの学説がある。なぜ別の言語に鞍替えしたのか。交易するときに外部からやってきた人たちが使う言語を覚えていると非常に都合がいいのでその新しい言語に鞍替えすることはありうる。人間は学習能力があるので,より便利な方へと変わっていく可能性を持つ。このようにしてオーストロネシア語はもともといた現地の人に採用されていくようにして拡大していったと考えられている。現代世界における英語もそうであり,今まさに世界各地で英語の方言が形成されているのである。
 ところで日本語も,オーストロネシア語と同様に,世界の言語の中で系統不明のものの一つに数えられている。確かに日本語文法は,ウラル・アルタイ語系で朝鮮語/韓国語と類似している。しかし,単語レベルでは説明がつかないものも多く,発音の構造が違うなどの違いがあり,いろいろな言語が混ざったのであろうと考えられる。
 
 弥生時代を考えてみると,もともと縄文人が住んでいたが,そこに渡来人がやってきた。渡来人の中には,中国の長江下流域から稲作を直接もたらした人や朝鮮半島系の人々もいただろう。その中には古墳を作るなどしたエリート層の人々もいた。そのような渡来人はもともと日本にいた縄文人たちと一体どのような言葉で話をしていたのか。
 
 弥生時代に半島を通じて大陸からの渡来人や南方からの人などが急激にやってくる中,縄文人は共通語をつくる必要性を感じたのだろう。そうした相互の言語の折衷的な言葉が日本語の起源ではないかと考えられる。いろいろな人たちが作り出した言語が日本語であり,支配者層に立ったのが朝鮮系の渡来人であったので朝鮮語/韓国語がベースになった。それで日本語の構造が朝鮮語/韓国語に一番近いということになったのだろう。しかし,そのことばの中には,土着民であった隼人や蝦夷の言葉も取り入れられていた。それゆえ日本語は,朝鮮語とも違い,中国語とも違うのである。

4.環太平洋地域の共通文化

 近年,古代船やカヌーの復元を通した文化ルネサンスの動きがさかんである。最近話題になったものとしては,07年1月にハワイを出航し,4月に沖縄に到着後,瀬戸内海を経て6月に最終目的地の横浜に到着した遠洋航海用古代式帆船ホクレア号がある。この船はもともとポリネシアの航海術を証明するために作られたダブル・カヌーである。太平洋地域の先住民たちの文化や誇りを取り戻す手段として,カヌーをもう一度復元しながら忘れ去られつつあるカヌーの航海術を取り戻し,それを若い世代に伝えていこうとしている。
 
 私は,これを一過性のイベントに終わらせることなく,教育活動に連結しながら,日本の若者の新しい教育を目指している。ホクレア号という古代船を通して伝統的知恵や技術のすばらしさを日本の子供たち・若者にも体験させようと考えている。閉塞状態にある日本の子供たちが,カヌーなどを通して自然に直接触れることによって,自分の体の五感,さらには第六感をとぎすましながら,自然のすばらしさ,はたまた海洋汚染,温暖化現象などを肌で知ることができる。
 
 今回のホクレア号の体験は非常に感動的なものだった。小学校から高校までの子供たちがその体験を作文として表してくれた。横浜のある高校の生徒は,今まで先生と一度も口をきいてくれなかったのに,ホクレア号の体験のあとには先生と話をするようになり,作文を書いてくれたといい,シンポジウムではその生徒が作文を読んでくれた。カヌーを使ったこの体験教育は,知識を教え込む教育ではなく,カヌーを楽しみながら経験を通して学ぶものであり,ここにその長所があると思う。それを通じて自分の中にあった潜在的な能力を再発見することができる。
 
 現代生活は,多くの部分を機械に頼ったものになっており,人間の五感のすばらしさを忘れかけている。例えば,現代人は停電すると何もできない状態に陥ってしまう。これは人間が機械に逆に使われていることの証左である。ある船長の話によると,現在の航海はGPS(全地球測位システム)に頼りきっているために,それが故障した場合に操縦士は何もできずお手上げだという。ときには命にかかわる事態に遭遇することもあるわけで,機械に頼らずに航海できる技術,能力を身につけておくことが必要だ。
 
 たとえば日本など先進国がミクロネシアなどにエンジンやボートを援助したのだが,最近,ガソリン価格が高騰したために使用がままならなくなり,昔ながらの帆掛け舟を利用した航海術に回帰する動きがある。しかし,若い世代の人たちはそのような航海術を知らないために,かろうじて生き残っている古老たちから聞いて習得しようとしている。ただ,年老いて都市部のホームなどに入ってしまっている場合も多いので,古老と若い人たちを会わせる場をセッティングすることは,日本が今後援助することのできる分野であろう。現地の人たちも,生存のために漁撈の技術を知る必要があることをやっと理解するようになったが,このような教育の再生に私も貢献したいと考えている。今後は,モノの援助よりは,人をつくる援助にもっと投資してもいいと思う。
 
 そうしたカヌーなどを通した経験を環太平洋地域の人々が互いに共有することによって,相互の伝統に対する理解を深めることができると思う。さらには,太平洋地域に散らばるモンゴロイドが手を組むためには,上からの国の政策ではなく,草の根から伝統文化を通して知り合うことが重要だと考える。相互の違いを取り上げるのではなく,互いの共通項を見つけ出して理解を深めるという未来志向的発想が必要な時ではないか。
 
 環太平洋地域の神話を比較して見ると共通する部分が多いことがわかる。これは国家や民族を超えてモンゴロイドという根っこの部分で共通していることを示すものであろう(図9,注10)。表面的には,キリスト教,イスラーム,仏教,神道などさまざまな「顔」があるが,それを取り払えば数万年余りの間に広まったモンゴロイドという民族なので,そのベースにある考え方には共通するものがあると思う。神話はその一例といえる。そうすることによって,アメリカ先住民も,ポリネシア人も,日本人も同じ土俵で尊重しあえるのではないだろうか。
(2007年11月22日)
(図表は,後藤明『海を渡ったモンゴロイド』講談社より引用)

注1 次のような文献に「海人」という概念が見える。大林太良編『日本の古代8:海人の伝統』,1987年,中央公論社;秋道智彌『海人の民族学』,日本放送出版協会,1988年;秋道智彌編『イルカとナマコと海人たち』,日本放送出版協会,1995年;秋道智彌・田和正孝『海人たちの自然誌』,関西学院大学出版会,1998年;秋道智彌編『海人の世界』,1998年,同文舘。

注2 船上生活によって一定の水域を移動しながら漁撈や採集,運搬や交易を行う人々。東南アジアのオラン・ラウト,中国南東部の蛋民,日本の家船など。(新村出『広辞苑』第5版,岩波書店)

注3 南アジア海岸部からスンダランドへ向かう道のルートとして,英国オックスフォード大学の動物学者ジャナサン・キングドンの唱える「ジュゴン=オオコウモリ・コネクション」仮説がある。これは,アフリカ中央部からソマリア=アラビア半島を通ってインド洋に出る,狭い陸地のルートを意味している。新しい人類は,獲物としてのジュゴンを追って,海岸線と浅瀬の連なる,島や湾へと好んで進出していったのではないかという。
 
 キングドンは,「ジュゴン・オオコウモリ・コネクション」ルートにそって,東南アジアからインド,そしてアフリカの海岸まで,バンダ人という民族がいたと考えている。このような形態は漁撈民というより,浜の漁人(すなどり,ストランド・ローパー)というべきものである。キングドンは,その具体的年代については10万年前から8万年前としている。このバンダ人の生活をもっとも残す民族例は,アンダマン諸島の狩猟採集民であると彼は指摘する。(後藤明『海を渡ったモンゴロイド』講談社)

注4 ベーリンジア(Beringia)
 現在のシベリアとアラスカの間に,かつて氷河期に存在した幅約1400キロの巨大な大平原。ベーリング地峡,陸橋。ベーリンジアが姿を現したのは,25000年前からの約1万年間と12000年前からの約2000年間と推定されている。

注5 オーストロネシア語族
 マレー・ポリネシア語族とも呼ばれる。西はマダガスカル島(マラガシ語)から東はイースター島(ラパヌイ語)まで,北は台湾(高山族諸語)およびハワイ島(ハワイ語)から南はニュージーランド(マリオ語)に及ぶ広大な地域で話される諸言語を含む語族であるが,オーストラリアとニューギニアの大部分は非オーストロネシア系の言語である。言語数と地域的広がりの点では世界最大の語族。通常,大別して西部語派と東部語派の二つに分類される。オーストロネシア語を話す人口のほとんどは西部語派に属し,東部語派諸語の話し手はわずかにその100分の1に過ぎない。(『オセアニアを知る事典』新訂増補版,平凡社,2004)

注6 コンチキ号
 ハイエルダールは,ポリネシア人の先祖は南アメリカに由来するのではないかとの説を検証する目的で,1947年に5名の仲間とともに,コンチキ号と名付けたバルサ材の筏で,ペルーのカヤオからトゥアモトゥ諸島のラオイア環礁まで8300キロ,102日間の漂流実験を試みた。しかし,彼の論証には牽強付会の点が多く,ポリネシア人源流を東南アジアに求める学説を覆すにはいたっていない。(『オセアニアを知る事典』新訂増補版,平凡社,2004)

注7 オーストロアジア語族
 アジア南部に分布する言語。インドシナのモン・クメール語派,インドのムンダー諸語,インドのニコバル諸語の三群に分れる。(新村出『広辞苑』第5版,岩波書店)

注8 ピジン言語(pidgin language)
 貿易商人など外部の人間と現地人との間において異言語間の意思疎通のために自然に作られた混成語(言語学的に言えば接触言語)。これが根付き母語として話されるようになった言語がクレオール言語である。旧植民地の地域で現地に確立された言語がない場所に多く存在する。英語と現地の言語が融合した言語をピジン英語という。(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)

注9 クレオール言語
 意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が,その話者たちの子供たちによって母語として話されるようになった言語を指す。公用語や共通語として話されている地域もある。ピジン言語では文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく複雑な意思疎通が不可能なのに対し,クレオール言語の段階ではそれらの要素が発達・統一され,複雑な意思疎通が可能になる。クレオールはピジンと違い精緻で完成された言語であり,他の自然言語にひけをとることはない。(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)

注10 釣針喪失譚
 いくつかの神話の分布が,モンゴロイドの分布とよく重なるので,私は「古モンゴロイドの神話層」仮説として提唱している。具体例としては,日本神話の「海幸・山幸型神話」の類例で,とくにその中核をなす釣針をなくす件は釣針喪失譚として知られる。これがインドやミクロネシアの事例と類似しているということは古くから注目されてきた。釣針喪失譚はフロベニウスの研究以上に東アジアに色濃く分布する。釣針喪失譚は山間部では,釣針をなくす話ではなく,弓矢や槍のような飛び道具をなくす話に変換する。「古モンゴロイド神話層」仮説が正しいならば,それが形成された年代は,アメリカに人類が渡った2万年から1万数千年前ということになる。フロベニウスの分布図ではオーストラリアとニュージーランドの一部が圏外となっている。これは,古モンゴロイドの前の