宗教に配慮した外交

米国・「宗教と外交国際センター」設立者 ダグラス・M.ジョンストン

 

 パキスタンにあるマドラサ(編注:イスラームの教導者を育成する学校)の指導者の一人は,イスラームと現代の思想に関する二週間の討議を終えた後で,次のような話をしてくれた。

「私たちの村に住む娘さんが夜中の二時に,多少気のある別の村の若者と携帯電話で話していたのを見つかってしまった。部族の長老たちは,村の名誉を汚したと見なし,娘本人ばかりか彼女の母親と姉,さらに若者の母親も死罪に値すると判断した。また若者の鼻と両耳を殺ぎ落とすべし,と断罪した。通常,私はこのような場面に口を挟まないことにしている。だが人権について今回議論を重ねてみて,私は自分たちの宗教の立場からも,この件に干渉すべきだと痛感した。」

 この教育指導者は身の安全に一抹の不安を感じながらも村に戻り,長老たちと会い,コーランには,女性が男性と会話をするな,とは書かれていないと諭した。また,さまざまな食い違いを平和的に打開するよう勧めたコーランの章句を見せた。おかげで事態は,一人の血も流さずに収拾されたという。

 このケースは宗教が持つ高い価値観が,部族の因習を克服できた典型だ。宗教と部族の伝統という二つの契機は,ムスリム自身にとっても境界線が曖昧でやっかいなものだ。

 私はワシントンでの全国朝食祈祷会に参加してきたが,そうした機会に,個人的な信仰に基づいて行動している平信徒が霊感に促され,人々の行き違いを仲直りさせたり,時には戦争を阻止する働きをする様子を見てきた。そして,このような行いや働きを,説得力のある形で著し,政策立案者や外交官に読ませれば,多分,政府も学ぶことが多いのではないかと思った。

 国際戦略研究所(CSIS)の次席に就いた時,私は宗教的または霊的な要素が実際に紛争を阻止あるいは収拾したり,正義と和解を基調にした社会の進歩を促すプラス面を究明したいと思った。だが実際に宗教と政治の交差点について議論し始めると,問題はすぐ錯綜していった。自分一人では手に負えないと判断し,九つの研究分野から世界的レベルの業績を持つ人たちに協力を仰ぐことにした。

 ベルリンの壁が1989年に倒された後,人種間の係争がにわかに頻発し出すと,民族的アイデンティティに根を持った紛争処理には,公式・非公式の外交努力と共に,宗教次元での和解を並行させていくことが,通常の外交以上に潜在的可能性のあることに人々は気づくようになった。

スーダンでキリスト教とイスラームが対話

 スーダンではイスラームの北部と,キリスト教とアフリカ土着信仰の強い南部との間で長年の内戦が続いてきた。この打開のために何かできないだろうか,われわれは諮問を受け,スーダンに招かれた。スーダンでは多くの非政府組織が働いていたが全て南部に展開しており,しかも対症療法的な活動がほとんどだった。症状に対処するより根本原因を見極めるため北部に赴き,イスラーム系政府と信頼関係を確立し,その立場から平和の道を踏み出すよう啓発,督促しようとわれわれは考えた。

 そして一年半ほど経った2000年11月に転機が訪れた。その時,宗教指導者と学者のグループ30名を集めた会合を持った。イスラームは分権化されていて,特定のモスクのイマーム(編注:モスクの教導者)は限られた影響力しか持っていないので,学者を関与させることは大事なのだ。新しい考え方を根づかせたり,幅広い視野から変化を促すのは学者たちの役割だと思う。

 スーダンの有力なキリスト教指導者十名,同イスラーム指導者十名,さらに双方の宗教を代表して世界から訪れた十名が,紛争の宗教的次元について四日間,討論を重ねることになった。ここで一番の問題はキリスト教の代表者を参加させることだった。彼らは長年虐げられてきたので,このような場で何かが前進するとは思えなかったのだ。私は言った,「あなた方に選択の余地はないはずだ。キリスト教徒なら『平和を作り出す者』と呼ばれるべきではないか。」

 会合の初日が終わろうとしていた時,キリスト教指導者が私の許に来て,微笑みを浮かべて語った,「今回初めて,私たちの実状を聞いてもらうことができた。」三日目までにスーダンのムスリム有力者たちは,その多くにとって初めて耳にしたような諸課題に善処しようと明言していた。最終日には相互の意思疎通が確実にできあがり,17項目の合意がまとめられた。ムスリム側の外交官で老練な政治家である人物は,北と南の者たちが一堂に会し本音で語り合う場は初めてだ,と感想を述べた。

 われわれの狙いは政権転覆でないし,伝統的なイスラーム法(シャリア)を破棄しようとしたのでもない。一つの直截な問いに答えようとしただけだ。「イスラーム政府はシャリアの文脈で,非ムスリム住民が甘受してきた二等国民の待遇を改善するため,如何なる方策を採りうるのか。」

 この会議は,正に「宗教に根ざした外交」の演習だったからこそ成果を挙げたのだと思う。私たちは毎朝,コーランや聖書を朗読したり,現地の指導者と世界の参加者がホテルでの朝食祈祷会を行った。またカリフォルニアから同行させた祈祷チームは四日間の会議中,その成功のために祈りと断食をした。現地のペンテコステ教会からも,同数のスーダン人信徒たちに祈りに加わってもらった。

 宗教指導者たちは腹蔵なく生々しいほど彼らの窮状について語ったが,あくまで友好的な雰囲気だった。会議当初は寒々しい押し殺した空気が漂っていたが,終盤には冗談を交わしたり,笑い声が聞かれるようになっていた。

 会合で出された勧告の一つは「超宗教協議会」を設置することだった。実際に設置するまでには,色々な根回しで2年を要したが,設置してからは数カ月間に堅実で実質的な成果を次々に現し関係者を驚かせた。それはキリスト教会が15年近く独自の努力で達成したものを遙かに凌駕した。同協議会は毎月召集され,双方の宗教界の首脳レベルが出席し,課題を浮き彫りにしては,それらを打開していった。

 この独立的な機関はイスラーム系の独裁的政体の中で生まれた。そして「ダルフール問題」で紛糾しているにも関わらず政府は約束を守り,新たな教会を建築したり,過去に収用した教会資産の賠償を行った。

「宗教に配慮した外交」で大事な要素の一つは,聖典を持ち出す適切な機会を見つけることだ。預言者ムハンマドなら,特定の事態をどのように打開しただろうか。イエスはその問題に何と語っただろうか。私の経験では,そうした宗教的なアプローチに心を開かないムスリムはいなかった。むしろ彼らの多くは,物事が非宗教的な文脈でばかり扱われることに辟易し,反感さえ抱いていたからだ。

米国の政策立案者とムスリムの対話

 われわれはまた,在米ムスリム社会と米国政府が共通の目標に向かって協力できないか模索しているところだ。まず米国のイスラーム指導者30名と,米国政府の治安・外交担当者30名による会合を数回主催し,在米ムスリムが海外のイスラーム社会に有する広範な影響力を活かそうとした。ムスリムの中には戦略的に重要な地域に関わる人々もいた。

 次に米国の外交政策にイスラームの観点を周知徹底するよう努めている。米国に住むムスリムは,おそらく世界のどこにいるムスリムより思想の自由を享受している。そして現代的生き方と今日的イスラームの実相との間に常日頃,いわば橋を架けている人々だ。これらの会合でムスリムたちは,彼らの懸念や懸案が聞かれることを前提で自由に発言している。おかげで徐々に国務省,国防総省,国家安全保障省や司法省に窓が開かれ出してきた。

パキスタンの部族慣習にイスラームの

 原則が適用
パキスタンのイスラマバードにある政策研究所の常務理事に,カシミールでのわれわれの仕事を説明したところ,彼は「マドラサ改革のため,どのように提携できますか」と尋ねてきた。同氏の研究所はイスラーム学校に20年近く関与し調査を実施してきたので,そうした学校を運営している五つの宗派に属するマドラサ指導者や運営担当者に声をかけられる立場にあった。そこで彼らに二週間集まってもらい,イスラームと現代の思想をテーマに討論した。冒頭で紹介したマドラサ指導者も,その参加者の一人だ。

 中には猜疑心を抱く向きもあったが,マドラサ改革の必要性を理解しようとする者もいた。従来は政府の如何なる改革にも徹頭徹尾反対してきた。マドラサの学習指導要領が世俗化に堕するだけだ,と感じていたからだ。しかし第一回目のセミナーの後,このような場を繰り返してほしいと,誰からともなく要望が出ていた。彼らの間に本物の当事者意識が生まれていたのだ。
(UPF発行,UPF TODAY,Sep/Oct 2007号より整理して掲載)