紛争予防と平和構築

――世界平和への日本の貢献のあり方

日本紛争予防センター理事長 堂之脇 光朗

1.「戦争」でなく「紛争」の予防,

  再発予防,と平和構築
私がジュネーブの国連軍縮会議代表部大使として赴任した1989年9月はベルリンの壁が崩壊し,冷戦時代が終了する直前であった。冷戦時代の軍縮の最重要課題は核軍縮と米ソ間の核戦争の回避であった。そして91年にソ連が崩壊すると,米ソ間の核戦争,あるいは大国間の戦争の可能性はほとんどなくなった。冷戦終了後は,91年の湾岸戦争などを別とすれば国家間の戦争はほとんど起きていない。SIPRI年鑑(ストックホルム国際平和研究所発行)の統計によると 90年ごろの武力衝突件数(年間死者数が1000人を越える紛争を武力衝突とする)は年間30件ほどであったが,98年には27件,そして06年には17件にまで減少した。この間,全体で57件の武力衝突が発生したことになるが,その中で国家間の戦争はわずか4件で,それ以外はみな国内紛争であった。軍縮大使であった私が「戦争」ではなく国内「紛争」の予防とか再発予防,そして国内紛争で使われる小型武器の軍縮問題にかかわりを持つようになったのはこのためであった。

 このような国内紛争に対して当初は国連が平和維持軍を世界各地に派遣するなどしてその解決を試みた。しかし,ゲリラ相手の国内紛争は非対称戦争であるので先進国から派遣される平和維持軍も不得手であり,次第に息切れするようになった。紛争が発生してからの対応では和平実現に多大な困難が伴い,復興にもお金がかかる。「予防は治療にまさる」ことから,紛争を未然に防ぐ「予防外交」(preventive diplomacy)に力を入れようとする機運が生じてきた。その結果,90年代を通じて予防外交は国連の場を中心に活発に議論されることとなった。

 言うまでもなく,このような予防外交論議のきっかけとなったのはブトロス・ガリ国連事務総長(当時)が92年に発表した『平和への課題』(Agenda for Peace)であった。この中で同事務総長は平和達成のために必要とされる予防外交,平和創造(peacemaking),平和維持(peacekeeping),平和構築(peace-building)の4種の活動のあるべき姿を提示した。しかし,「予防は治療にまさる」として90年代を通じて最も活発に議論されたのが予防外交であった。

 ところが,90年代の終わり頃からは,「予防外交」と言っても「戦争」よりも「紛争」の予防が中心であり,しかも政府の活動のみならず民間NGOの活躍の場も少なくないことから「紛争予防」(conflict prevention)と呼ぶのがより適切であるとしてこの用語が多く使われるようになった。さらに,2000年代に入ると,「紛争予防」といっても新たに起こる紛争の予防よりも「紛争再発予防」が中心であり,これは紛争終了後の「平和構築」と同じであることから「平和構築」との用語が一般的に使われるようになった。このように,使われる用語も年月の経過とともに3段階で変化してきた。

 以上のように,冷戦終了後のこの20年ほどはもっぱら国内紛争への対応の見地から紛争予防とか平和構築の問題が活発に論議されてきた。これは,伊藤憲一氏が『新・戦争論』(新潮新書)で指摘したように「戦争の時代」が終わり,「不戦の時代」あるいは「紛争の時代」が訪れたことを物語っている。そもそも戦争は1929年の不戦条約(ブリヤン・ケロッグ条約,注1)によって禁止されたのであるが,当時これを批准したのは十数カ国だけであった。その後,第二次世界大戦後には国連憲章で戦争禁止が明記された(国連憲章第2条第4項,注2)。唯一認められたのが「自衛のための戦争」であり(国連憲章第51条),国連憲章制定後冷戦終了時までの戦争はすべて自衛の名目で戦われてきたことになる。

 ところが,冷戦後の世界は米国一極支配の構造となり,自衛の名目であっても米国と戦争をする相手国がいない「不戦の時代」となった。国家間の「戦争」はほとんど起こらなくなったが,政府対反政府ゲリラなどの非政府主体(non-state actor)との「紛争」は依然として頻発するので,これをいかにして予防するか,あるいは再発を予防するか,そして平和を構築するかが今日の世界における「平和の課題」なのである。

2.小型武器管理が平和構築の出発点

 冷戦後の世界で多発する「紛争」では数多くの一般市民が犠牲になってきた。アンゴラ内戦(92-94年)やソマリア紛争(91-94年)ではそれぞれ約100万人が,ルワンダ内戦(94年)では約80万人が犠牲となった。主として小型武器を使用する紛争であり,小型武器こそが事実上の大量破壊兵器であることが認識された。そこで,紛争予防の見地からまず小型武器問題が取り上げられた。つまり,紛争予防と小型武器問題とは切り離して考えることができなかったのである。

 国連における小型武器問題の審議は96年以降私が議長をつとめた「国連小型武器政府専門家パネル」および「小型武器政府専門家グループ」で4年間にわたり徹底的に行われ,二つの報告書にまとめられた。その成果をふまえて2001年には閣僚レベルの国連小型武器会議が開催され,「行動計画」が採択された。

 この「行動計画」では紛争終了地での小型武器対策の一つとしてDDRと呼ばれる取組が勧告されている。これは@武装解除(Disarmament),A動員解除(Demobilization),

 B元戦闘員の社会復帰(Reintegration of former combatants)の三つの頭文字を合わせたものである。政府側の兵士のみならずゲリラなど非政府組織の戦闘員からも武器を回収し,身分的にも軍の組織から離脱させて兵士でなくするプロセスであり,これが武装解除と動員解除である。そして,第三段階として,そのような元戦闘員を無一文で手に職もないまま放り出すと社会の不安定要因となるので,彼らの社会復帰を支援するのである。

 今日では「紛争予防」よりも「平和構築」との用語が多く使われるようになっており,DDRは「平和構築」活動の中でも中心的な活動とされているが,このように経緯的にみればDDRは小型武器問題への取組の中から生まれてきた用語である。

 しかし,真に紛争の再発を予防し,平和を構築するためにはDDRだけで十分というわけにはいかない。DDRの後に,その社会が自分たちの力で治安を守れるという治安制度の確立が必要になる。民主的な文民警察官の育成を含む治安制度改革(SSR,Security Sector Reform)である。武器が安全に管理され,住民が安心して生活できる社会,これが平和構築の出発点である。さらには刑法,刑事訴訟法,民主制度の整備などにより「よき統治体制」の確立を図る必要もある。「武器の文化」から暴力や武器はご免だとする「平和の文化」への意識改革も必要となる。このように,平和構築は新しい国づくりのようなものであるから,包括的アプローチと根気強い努力を要する作業となるのである。

3.「人間の安全保障」の視点の重要性

 以上のような小型武器,紛争予防,平和構築の問題と平行して90年代中頃から活発に論議されるようになったのが「人間の安全保障」の問題である。国家間の戦争の時代でなく国内「紛争」の時代となると,国家の安全保障もさることながら,紛争の被害者となる一般市民の,つまり国家ではなくて「人間」の安全保障が重視されるべきであるとの考え方である。

 国連開発計画(UNDP)の94年版『人間開発報告書』が最初に「人間の安全保障」の重要性を喚起したのは,それに先立つアンゴラ,ソマリア,ルワンダなどの紛争で被害の深刻さが問題となったからであろう。しかし,「人間の安全保障」を問題とする以上は,これが戦争や紛争の恐怖だけでなく,犯罪や自然災害も含むすべての恐怖からの自由,さらには欠乏からの自由なども含めた幅広い概念であることは当初から認識されていた。

 ところが,90年代の後半になると「人間の安全保障」をこのように広く解釈するのか,それとも破綻国家での内乱の犠牲者などを国際社会は「保護する責任」があるとしてやや狭く解釈するのかをめぐって先進諸国と途上国の間で見解の対立が生じた。特に,幅広い市民団体の後押しで97年のオタワ対人地雷禁止条約締結に成功したカナダのアックスワージ外務・貿易相などはコソボのアルバニア系住民の人権保護などを念頭にG8サミットで「紛争予防と人間の安全保障」の問題を提起するなどした。しかし,内政不干渉の原則を重視するアジア,アフリカの多くの諸国がこのような解釈に強く反撥した。

 こうした中で,2001年はじめにわが国のイニシアティブにより緒方貞子JICA理事長とケンブリッジ大学教授(当時,後にハーバード大学教授)のアマルディア・セン氏を共同議長とする「人間の安全保障委員会」が設立され,2003年夏に報告書を国連事務総長に提出した。この報告書は「人間の安全保障」を「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り,すべての人の自由と可能性を実現すること」とする広義の解釈を採用した(注3)。これは要するに,国連事務総長の表現を借りれば,恐怖からの自由,欠乏からの自由,尊厳されて生きる自由の三つの自由を含む概念であった(注4)。そして,同年発表されたわが国のODA大綱でも基本方針の一つとしてこのような「人間の安全保障の視点」の重要性が強調され,その上で,四つの重点課題の一つとして「平和構築」が掲げられるにいたった。

 その後,2005年に開催された国連創立60周年サミットの成果文書の中でもこの広い定義が採用されると同時に,結論が持ち越されてきた「保護する責任」については,すべての人が人間の安全保障への権利,つまり「保護される権利」があるとの前提の上で,「保護する責任」は第一義的には国家の責任であり,国家がこの責任を果たせない場合には安保理の決議を経て国際社会がこれを果すとされたのである。もちろん,安保理には拒否権の問題があるが,一応は前進であったと考えてよいであろう。

 実際問題として,「保護する責任」の問題は紛争とか人権侵害が起っている段階での問題であって,紛争終了後の紛争再発予防とか平和構築の段階の問題ではない。しかし,紛争の再発予防,平和定着,平和構築を考える段階においても,国家の安全保障の視点だけではなく,人間の安全保障の視点でものごとを考える必要があることは言うまでもない。要するに,「人間の安全保障」の問題は平和構築のための個別,具体的な政策論というよりも,何を重視すべきかの視点の問題なのである。以前とちがって,今日の世界で平和を考えるに際しては人間の安全保障を中心に考える必要があるということに他ならない。

4.平和構築要員(Peace-builders)育成の必要性

 最初に述べたように冷戦後頻発する「紛争」の件数は最近では減少する傾向にあり,特にアフリカでの件数は,SIPRI年鑑によれば98,99年の11件から05,06年には3件にまで減少している。アフリカ地域で紛争の再発予防,平和構築に力を入れる必要性はそれだけ増大していることになる。

 そこで,紛争終了地において紛争の再発を予防し,平和を構築するには何が必要とされるかをもう少し具体的に考えてみよう。停戦や和平が合意された後は,先ずはそのような合意が遵守されることを監視し,確保するために平和維持軍が派遣される。平和維持軍はさらに兵士や元戦闘員の武器解除や動員解除を実施することになる。これが前に述べたDDRの最初の二つのDの実施である。その後,一定の準備段階を経て総選挙が実施され,民意を代表する政権が樹立された時点で平和維持活動(Peacekeeping)は無事終了し,平和維持軍が撤収するのが通例のパターンである。そして,選挙監視活動も含めてDDRの三番目のR,すなわち元戦闘員の社会復帰などの仕事は文民を主体とする平和構築活動(Peace-building)に引き継がれるものと理解されてきた。

 しかし,このような平和維持活動から平和構築活動への移行が必ずしも順調にいくとはかぎらなかった。前者を主として担当する軍関係者と後者を主として担当する文民やNGO関係者の間の連携が十分でなく,「軍民協力」の改善が望まれる事例がみられた。また,平和維持軍が撤退した後で犯罪が増えるなどして治安が悪化するのを防止するために治安制度改革(SSR)が急がれるのは当然であるが,東ティモールの例が示すように,なかなか満足とはいかない事例もみられた。

 「人間の安全保障」を重視する平和の構築である以上は,たとえ時間をかけてでも平和維持活動から平和構築活動への移行は切れ目のない(seamless)一つのプロセスとして行われることが不可欠であろう。さらに,人々が安心して生活できる治安体制を確立するには刑法,刑事訴訟法を含む大幅な法整備を必要とし,よき統治体制の整備も必要となる。このように考えると,軍民協力をはじめとして,DDR,SSR,法整備支援,民主化支援,復興支援などの様々な分野の専門家で構成される多人数の平和構築要員が長い期間にわたり現場に展開することが不可欠となるのである。

 現に,最近では国連の平和維持活動(PKO)要員の数が飛躍的に増大しているだけでなく,アフリカ連合(AU)などの地域機関の国際平和活動に必要とされる要員の数も増大してきている。このため,G8先進諸国はアフリカ連合(AU)の平和維持活動能力向上のための支援とか,アフリカ待機軍(African Stand-by Force)の創設に向けての要員の教育,訓練に力を入れてきている。もっとも,わが国の場合は紛争終了地域におけるDDRなどの小型武器対策,コミュニティ開発などのいわゆる「平和構築支援」には力を入れてきたが,アフリカ各地のPKO(平和維持活動)センターなどでの平和維持活動要員の教育,訓練は軍事的支援につながりかねないとの懸念からこれを自制してきた。

 しかし,すでに説明したように,平和構築要員(Peace-builders)ということであれば,軍事的任務よりも平和を築くための任務が中心であり,それには軍民協力,DDR,文民警察の育成も含むSSR,各種の国内法整備,民主化支援,復興支援などの幅広い任務が含まれる。そのための要員には軍人だけでなく文民も多く含まれることになる。そのような平和構築要員の人材育成をわが国が支援できないとする理由は乏しいと言わざるをえない。たとえば,わが国の外務省が昨年度に広島大学に委託して実施した「平和構築分野の人材育成のためのパイロット事業」では,わが国およびアジア諸国からのそれぞれ十数名の文民研修生を対象として人材育成事業が行なわれたのである。そして,私どもの日本紛争予防センターも再委託先団体としてこの事業を部分的にお手伝いしたのである。

 このようなことから,また,本年はわが国が7月の洞爺湖G8サミットに先立ち5月には横浜でアフリカ開発会議(TICADW)を主催することもあり,1月24日には高村外務大臣が都内で開催された外務省主催の公開シンポジウム「平和を築(つく)る――日本と国連」での講演において,次いで1月26日には福田総理がスイスのダボス会議における講演において,今後はわが国としてもアフリカ各地のPKOセンターへの支援を行うとの新方針を打ち出されたのである。

5.日本の貢献と「積極的平和主義」

 わが国が世界の平和にどのように貢献するべきかの問題はサンフランシスコ平和条約締結以来長年にわたり大いに議論されてきたところである。概して言えば,冷戦時代終了の頃まではわが国は平和憲法のもとで軍隊は持たない,戦争もしない,それに非核三原則,武器輸出三原則など,「何々しない」といった「消極的平和主義」に徹してきたということができる。しかし,これが「平和タダ乗り」論であり「平和ボケ」であるなどとして批判され,また,2001年の湾岸戦争でわが国が行なった130億ドルの資金的協力も「血も汗も流さない小切手外交」であるとして批判されたことは記憶に新しい。

 こうしたことの反省から,92年にはいわゆる「PKO協力法」が制定されるなどして徐々に方向転換がはかられてきた。最近ではインド洋での洋上燃料補給とかイラクでの空輸活動などに自衛隊が協力できるようにするために時限立法の特別措置法などで対処してきたのであるが,今や「紛争」の終了後の平和構築活動への協力が求められる時代となったのであるから,自衛隊の海外派遣に関しては憲法解釈を明確にするなどした上で,恒久法を制定するべき時期が到来しているように思われる。

 民間レベルでも呼応する動きがみられてきた。たとえば,1999年から私が座長となって取りまとめた総合研究開発機構(NIRA)の研究プロジェクトの報告書(2001年)は「積極的平和を目指して」と題され,わが国は「何々しない」でなく,紛争予防とか平和構築の分野で「何々する」との積極的平和主義を打ち出すべきである旨を提言した。また,これに先立ち,1999年には私どもの日本紛争予防センターが設立されたが,これも紛争予防,平和構築のために「民間分野における貢献を強化する」との目的からするものであった。

 このように紛争予防,平和構築分野での活動に民間レベルでも貢献しようとする動きに関しては,実は,わが国よりも欧米諸国の方が先輩であった。International Alert, Safer World, Search for Common Groundなどのこの分野に特化したNGOが設立され,Oxfamなどの以前から存在した人権NGOもこの分野での活動に関心を示すようになったのは,1989年の冷戦終了前後からのことであった。

 10年ほど遅れてのことではあったが,わが国でそのような動きの先頭を切ったのが日本紛争予防センターである。当センターの会長は明石康元国連事務次長であるが,同氏がカンボジアや旧ユーゴスラビアでの国連の平和構築活動で大きな役割を果してきたことは周知のとおりである。また,理事の一人である東京外国語大学大学院の伊勢崎賢治教授は東ティモール,シエラレオネ,アフガニスタンで国連あるいは日本大使館の責任者としてDDR活動を推進した実績を有する。事務局長の瀬谷ルミ子氏もシエラレオネ,アフガニスタン,コートジボワールなどで国連あるいは日本大使館の職員としてDDR活動を担当してきた。理事長の私自身も数年にわたり国連の小型武器政府専門家グループ議長をつとめた経験を有している。

 加えて,当センターは設立以来7年にわたり毎年夏に紛争予防市民大学院セミナー講座を開催して人材育成を行ってきた実績がある。さらに,昨2007年5月には瀬谷事務局長がガーナのコフィ・アナン平和維持訓練センターに委託されて同センターでのDDR研修を企画,実施した。そのようなこともあり,日本政府が本年1月に発表したアフリカのPKOセンターへの支援策を策定するに際しては当センターも現地調査その他の方法で協力するよう依頼されたのであり,これは大層喜ばしく,光栄なことであった。

 すでに述べたように,今日の世界では平和と言えば国家間の平和だけでなく人間の安全も保障される平和であることが求められている。そのためには武器は国防や治安に必要最小限のものが安全に管理され,人びとが恐怖や欠乏からの自由と尊厳の中で生きる自由を保障されることが求められている。このような平和の構築が緊急の課題となっているのがアフリカなどの「紛争」で大きな被害を蒙った地域であることは言うまでもない。そして,そのような紛争終了地において平和構築活動に生き甲斐を感ずる要員たちによる根気強い努力が必要とされているのであり,そのような要員への需要はきわめて高いのである。

 言うまでもなく,このような平和構築活動への貢献は自衛隊の海外派遣による軍事的貢献というよりは平和的な手段による貢献が中心であり,わが国が得意とする分野であると言ってよい。また,平和構築要員の人材育成事業も「平和の創り手を創る」仕事であり,多くの日本人をそのような要員として育て,多くの現地人を平和構築要員として育てるのに役立つのである。

 換言すれば,「平和に貢献しない日本」との汚名を返上するに適した時代が訪れてきたのである。世界第二の経済力を誇るわが国としては,このような新しい時代の要請に応えて,わが国の国力にふさわしい貢献を行うことに力を注ぐべきであろう。

(2008年3月28日)

注1  不戦条約(「戦争抛棄ニ関スル条約」)
 第一次世界大戦後1928年に締結され,翌年発効した多国間条約で,国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し,紛争は平和的手段により解決することを規定した。米国,英国,ドイツ,フランス,イタリア,日本などの列強諸国をはじめとする15カ国が署名した。その第1条は次のように規定していた。

【第1条】(戦争放棄) 
締約国ハ,国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ,且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス。
注2 国際連合憲章 第2条〔原則〕
 この機構及びその加盟国は,第1条に掲げる目的を達成するに当っては,次の原則に従って行動しなければならない。
・・・・・・・・・
4 すべての加盟国は,その国際関係において,武力よる威嚇又は武力の行使を,いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも,また,国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
・・・・・・・・・
注3 『安全保障の今日的課題――人間の安全保障委員会報告書』11頁。朝日新聞社発行,2003年。
注4 In Larger Freedom, Section IV: Freedom to Live in Dignity, pp.127-152, United Nations General Assembly, A/59/2005,21 March 2005.