地球公共財論からみたグローバル・ガバナンス

―次世代リーダー育成と国連大学改革の展望



国連大学客員教授 高橋 一生 /目白大学教授 石井 貫太郎



 21世紀の世界はグローバリズムが進展し地球村社会が形成されてはいるものの,世界各地で紛争が絶えず,人類はその他さまざまな危機に直面している。そのような危機は国のレベルを超えた発想なしには解決が難しい問題である。そこでそのような問題解決に向けて,(地球全体への便益波及が期待される)「地球公共財」(注1)という新しい視点を提唱しながら実践している高橋一生氏に,「地球公共財」の視点と共にそれを担う人材育成の要諦を伺った。


非公式ネットワークの働き

 石井●今年7月に開催された北海道洞爺湖サミットに見られるように,現代は主要国首脳会議(サミット)の場でもかなり限定された成果しかあげられない時代になっているように感じます。G8の国々にしても,今後「地球公共財」をしっかり管理・運営することができるのかとの疑問を持たざるを得ません。そうなるとG8が主導して地球公共財を管理するよりも,本来の国連システムが重要な役割を果たしていくのではないかとの期待をもつようになりますが,その点についてはどう思われますか?


 高橋●近年,国際社会の構造が大きく変貌していると認識している。国家単位で考えるのは半分程度で,それ以外にビジネス・リーダー,NGO,地方自治体などいろいろなアクターが重要な役割を果たしている。そこにはマスコミ(プレス)も入るべきかもしれない。なかにはマスコミの人が入ることを嫌がる人もあるが,しかしマスコミも利害関係者の一つとなって協働していけるようなしかけ(しくみ)をつくっていくことも大切だ。それらをどのようにしたらダイナミックに結び付けていけるのかという点が,より重要になってくる。この点に関して言えば,いま世界に「非公式ネットワーク」が欠けていることが問題だと指摘したい。


 実は,「非公式ネットワーク」という考え方は,1960年代終わりごろからずっと言われてきた。もともとこれはカナダのモーリス・ストロング(Maurice F. Strong,1929- )(注2)が中心となって,1972年6月の第1回国連人間環境会議の折につくられたネットワークである。彼がその会議の事務局長となり,彼のグループ(Maurice Strong’s wise-kids)とともにその会議をしきった。そしてその「ガキども」がモーリス・ストロングを中心にアジェンダ・セッターの役割を果たしたのである。また彼はさまざまな国際機関の委員会などの背後にいて人材の配置などをしきっていた。アジェンダとそれを作り上げる人間を彼のネットワークが動かしながら,さまざまな課題に対して方向付けをしてきたのだ。

 冷戦体制が崩壊した後の混乱を国際社会が乗り切れたのも,実はこのネットワークが有効に機能し方向付けたおかげであり,いろいろな動きの背景に存在したことを忘れてはならない。彼の後,世界の諸機関を背後で動かしていくような非公式な世界的ネットワークが今なくなってしまった。小さなネットワークはたくさんあるのだが,それでは役立たずなのだ。


 ただ,これからはモーリス・ストロングのような一人の人が世界を動かすようなことは難しいとすれば,複数の人たちが集団指導体制を作って動かしていくことも考えられる。例えば,日本で言えば,国際交流基金がこのような非公式なグローバル・ネットワークの形成をめざすことも考えられるであろう。

 グローバル・ガバナンスを考えたときに,国家以外のさまざまなアクターも重要な要素なので,G8か国連かという二者択一的発想ではなくて,もっと柔軟に考えていく。問題群によってはアクターが千差万別であるはずであり,固定的なものではない。それらの全体をコーディネートしていくインフォーマルな存在がないといけない。冷戦期から最近までそのようなネットワークが機能していたのに,現在はない状態なのだ。それをどのように構築していくかが,重要課題である。そのようなネットワークがしっかりとしていれば,人類が直面するさまざまなグローバルな課題も乗り切ることは可能だ。

 現在のサミットは,それがない中でやっている。初期のサミットは,OECD(経済協力開発機構)がきちっと準備して開催された。OECDの関係委員会から閣僚理事会へ,その上でサミットへというように進めたが,現在はホスト国が取り仕切っている。ホスト国がそれだけの力量をもっているとは思えない。

 石井●先生にポスト・モーリス・ストロングになっていただけるとよいのでは?(笑)。

 高橋●モーリス・ストロングのような人物は,40代から50代の方が中心となって担うべきだ。そしてモーリス・ストロングや緒方貞子のような方を担ぎ,そのもとで馬力をかけて裏方に徹して世界を動かしていく。そのような人材が切望されていると思う。もちろんそれはいろいろな形で模索されてきたのだが,なかなかうまくいかなかった。

 石井●そのようなリーダーに必要な資質とは,どのようなものでしょうか?

 高橋●それははっきりしている。第一は,慣習的なことにとらわれずに事柄の本質を把握する能力だ。第二は,その人がもつ人徳である。第三には,人間の性格として非常にオープンであること。人をすがめで見るようではダメだ。人のことばの裏に何かがあると勘ぐられても何もないようなオープンな性格である。

地球公共財的発想が必要な時代

 石井●残念ながら,日本の社会科学の分野では,先生のように実務経験を持ちながら,理論家としても活躍される方は少ないように思います。

 高橋●私は最初にOECDに勤務し,二代の事務総長に仕えたが,この時期の仕事は私にとって学問のエッセンスとなったと思う。当時は現在とは違って,OECDの発言に対して国際社会が非常に敏感に反応するころであった。そのなかで,危機管理など国際社会におけるさまざまな問題に関して叡智を集めて分析し対応策を考えそれを実行してきた。こうした実践とそこから形成された理論こそが,社会科学の核心ではないかと思う。その後,それまで取り組んできた国際参謀職の仕事内容を理論化するとどうなるかと考えるようになり,それが「地球公共財」という発想へとつながったのである。私の場合は,理論が先にあって実践したのではなく,考えながら実践したことをあとから理論化する中でさまざまなアイディアが出てきたのである。このような私の歩みは,実践と理論が一体となったものといえる。

 石井●ところで,先生が提唱されている「地球公共財」の観点から,日本はどのようなことができるでしょうか?

 高橋●地球公共財というコンセプトが国際政治学などと決定的に違う点は,国内的な行為もすべて地球公共財の一環としてとらえる点にある。例えば,地球公共財の視点から見た地球温暖化問題を取り上げてみよう。地球環境部会などで発言するときに私はいつも,「われわれの議論はいま地球公共財の形成に関して議論していることを忘れないようにしよう。」と喚起している。京都議定書の実施として,各国で国内政策が立てられ実行されていく。国内政策として国民の消費生活の改善や地方自治体の行動は,京都議定書の目標値であるマイナス6%実現のための努力であるが,それらはすべて地球公共財形成の一環に含まれることを認識しながら行うのである。主権国家の壁を前提にしつつ国際政治を見るのではなく,われわれ一人一人の通常の生活そのものまでも地球公共財の中に入れて見つめていく。

 もう一つは,「中間財」というコンセプトである。これは地球公共財論における重要なキーワードの一つだ。地球公共財を形成あるいは運営する場合にも,それをならしめている中間の財が山とあるという考え方である。

 軍隊を例に挙げて考えてみよう。軍隊を地球公共財の観点で見ると,国家間の関係が緊張状態を維持しながら均衡を保っている場合は,「平和」という地球公共財の中間財として軍隊を位置づけることができる。しかし,国家間の関係が現実の戦争に発展した場合には,軍隊は地球公共財(global public goods)ではなく,「平和」を破壊する「負の公共財」(global public bads)となる。このように軍隊は,二つの方向に行きうる。同じものが公共財にもなり公共財を破壊するものにもなりうるわけだ。つまり中間にあるものをどう見るかが重要になる。

 現代世界では,国家間の紛争はまれになってきており,むしろ国内紛争,地域紛争が大きな問題になっている。そうなると警察の存在が重要になる。警察は,「秩序維持」という平和実現の一環としてプラスの中間財と位置づけることができる。ところが,警察も含めて紛争当事者になる場合もあり,そうなると警察も「負の公共財」となる。同じものがどっちになるのかを判断する分析の視点が地球公共財の観点からでてくる。

 このような分析視角としての地球公共財論は,これまでの学問にはなかった視点を与えてくれると思う。

地球公共財に対する日本の貢献

高橋●それでは日本が,地球公共財の形成・維持において何ができるのか。警察を例に挙げて考えてみよう。日本の警察は,基本的に地方自治体に属しており,中央政府にはほんのひとにぎりしかないしくみになっている。国際社会における平和構築活動を論じるときに,日本では自衛隊ばかりが議論に上る。ところが海外に出向いて実際にやっていることは,当該国内の秩序維持であり,ことばをかえれば警察活動(civilian police)である。だとすれば本来は警察が出て行くべきものであろう。それが一気に自衛隊派遣問題として議論されるのは,警察制度として文民警察官を送り出すのに地方自治体の枠組みを越えて一元的に統括することが非常に難しいためだ。実際,カンボジアに派遣されたUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の日本人文民警察官の一人が犠牲になり,いきなり「火傷」を被ってしまった苦い経験がある(1993年5月)。

 日本の警察の活用は,世界の秩序維持の観点からすれば,自衛隊の法的扱い以上に重要であるはずだ。地球公共財の形成・維持の中心的内容は安全と平和であり,多くの場合途上国という点を考慮すると,日本は警察制度の活用にもっと真剣に取り組んでいくべきだろう。自衛隊に二つの任務があるということ以上に,警察に二つの任務があるということに関して,政治的議論をすべきだろう。その上で警察の海外派遣が位置づけられてしかるべきだろう。そうすれば日本の警察の優秀さが非常に役に立つに違いないと思う。

 この点に関しては通常ほとんど議論されないが,地球公共財論という視点から安全保障を見たときに,日本が世界に貢献しうる,今までやっていない分野ではないか。警察を通した貢献の道があると思う。

 もう一つは,貿易の分野だ。いま世界の貿易は,ドーハ・ラウンド(Doha Development Agenda)で行き詰っている。その結果,個別のFTA(自由貿易交渉)が世界で氾濫してしまい,グローバルな貿易体制がどんどん弱体化している。ここで想起したいのが,20年ほど前にロンドンにあってつぶれてしまったNGO「国際貿易政策研究センター」である。かつてケネディ・ラウンド,東京ラウンドなど,各ラウンドで行き詰ると,この団体が問題の分析を行い,当事者たちのほか各国の担当者,ビジネス関係者,学者などをスイスの小さな村に集めてブレイン・ストーミングを行った。そのときに「この期間は自分のポジションを忘れて,目の前に示されたイッシューズ・ペーパー(問題群)を中心に議論しよう。」と喚起して議論をする。そうすると凝り固まった頭の中がマッサージされて,自由な発想から議論ができ,自分たちが狭いところにのめりこんでいることが見えてくる。そこで解散となる。この会議がディブロック(分解)の役割を果たしたのである。

 かつてはこのようなしくみがあったので,各ラウンドをうまくまとめることができたし,それがウルグアイ・ラウンドを出発させるときにもよい役割を果たした。ところが,その後この団体がつぶれてしまった。このような存在がない中でグローバルな貿易交渉はできないと思う。一時政治的理由を盾にして議論をまとめあげたときもあったが,知的にディブロックできないまま交渉が何年も遅れてしまった。それが現在のドーハ・ラウンドまで続いているのだ。

 地球公共財として日本のイニシアチブでできる国際貢献は,貿易問題のシンクタンクをもう一度どこかの国に作ることだ。日本が中心となり,他国とも協力しながら先述したような機関を作る。そのときは日本の視点も反映するようなしかけをつくってもいいだろう。このようなことができれば,具体的な地球公共財の形成に非常に大きな日本の貢献となる。

 そのほかにもいろいろなアイディアがあるだろうが,警察と自由貿易問題に関しては直ちに着手すべき課題だと考えている。

 石井●国益,自分の考え,自分たちを拘束している諸条件から自由になって発想し,地球全体,世界全体に対する視点をもつ努力が必要だろうと感じます。

 高橋●現実の世界には国家という厳然とした存在事実があるので,そのような視点があってしかるべきであるし,国が存在する限りにおいてはそれがなくなってもまたおかしい。しかし,いまわれわれをめぐる世界には,国益を超えた実に多くのファクターが出てきており,そのような環境変化の中で国益に拘泥するような発想をしていて世界全体がなんとかなるはずがない。そこでそのような面に関しては地球公共財の発想で考えようというのが私の視点なのである。地球公共財という発想を抜きにして,今日世界が抱える諸問題を解決することは不可能に近いと考えている。

 現在の国際政治は主権国家を基本とするので,地球公共財論はそれを補完する理論となっているが,しかし今後30年も経つと主要な視点が地球公共財論で,それを補完するものとして国家を単位とする国際政治論が位置づけられていくに違いない。

理系・文系という二分思考法を

超えた学問の構築

 石井●先生が提唱されている「地球公共財」は,経済学でいう公共財の概念よりも政治的ニュアンスが含まれており,われわれ人類にとって非常に重要なコンセプトであると理解しました。そのような状況下にあって,日本人が地球公共財や世界平和に貢献していくことのできる人材として育っていくためには,教育システム,生活哲学などをも変えていく必要があるように思います。具体的にはどのようにしていけばよいのでしょうか。

 高橋●それについて私が考えていることは,大きく二つある。第一は古典重視の教育であり,第二は日本独特の理系・文系という思考法をいかになくすかという点である。

 近代の大学の歴史を振り返ると,19世紀以降大学が組織化されていく過程で,その時点での知識のありようを分類(categorize)し,各分野(discipline)に分化して発展してきた。とくに欧米ではdisciplineという形で学問が展開したが,そこに日本も明治になって参入し始めた。明治政府は明治4年に学制改革を行い,それまでの教育システムを否定して西洋式の学制に転換させた。そのとき西洋の学問の成果をできるだけ効率よく吸収し,継承していくために,理系・文系という発想が生まれたのだ。

 理系・文系を分ける基準は意外にも単純で,数学ができるかどうかという点にあった。ところが,数学者に「あなたの学問は理系?」と聞くと,「?」と怪訝な顔をするに違いない。しいて言えば「美学」と答えるかもしれない。つまり数学は「何が美しいのか」という世界なのだ。いわゆる理系といわれる分野では数学が基礎的に使われているが,よく考えてみると,歴史学にしろ,経済学にしろ,政治学にしろ,数学を使って学問をしている。知識の体系には,理系・文系の区別はないと思う。

 一歩譲って,勉強するある段階まではいいとしても,創造性(creativity)が勝負される段階になるとそれではぼろが出てしまう。日本には約17万人の大学研究者がいるが,世界のアカデミズムの中での存在感は本当に薄いといわざるを得ない。それを打ち破っていくためにはこれまでの理系・文系という「虚構」をつぶしていかなければいけない。

 私が現在取り組んでいる国連大学改革の第一前提は,理系・文系という区別をなくすことだ。現在の国連大学コンラッド・オスターヴァルダー学長(Konrad Osterwalder)はスイス出身の物理学者だが,彼ともこの点では意見が完全に一致した。そうはいっても茫漠してしまうので,国連大学では「持続可能性」(sustainability)に焦点を当てて,安全保障,環境,開発問題に取り組もうと考えている。

 これまで学問分野(discipline)と学問分野をつなぐものとして「学際性」(interdisciplinary)ということが言われてきたが,私たちの考え方はその発想とも違い,intra-disciplinaryと称している。すなわち,intra-disciplinaryはいろいろな学問分野が融合されていく。そのときの基本的目標を「持続可能性」に置き,研究と教育を展開していく。東京大学の小宮山宏学長もこの発想には賛成してくれて,国連大学と協力して進めることになった。このような発想は近年多くの方に共有されつつあり,国際基督教大学でも08年4月からその考え方で研究を進め始めた。

古典重視の教育の必要性

 高橋●もう一つの古典重視については改めて言うまでもない。例えば,「四書五経」などの経書はリーダーシップ論の最高の教科書といえる。その観点で言うと,優れた教育システムの例として江戸時代の教育があった。当時の教科書は中国古典であった。そのようなすばらしい人間力をつけていく人間論,リーダー論の煮詰まったものがあったので,幕末に20代の若者たちがリーダーとなって国をひっくり返し,新しい国を作っていくことができた。

 明治4年の学制改革によって生まれた教育システムで育てられた人たちが,いわゆる「坂の上の雲」の先の人たちだ。「和魂洋才」といわれたが,古典を中心として形成される「魂」がなくなってしまったともいえる。江戸時代の教育的遺産が切られてしまったようなものだ。その延長線上に今日がある。江戸時代にあれだけ古典を学ぶ姿は,現代に取り戻さないと実にもったいないと思う。

 石井●なるほど,幕末・明治維新の志士たちは,時代の変化に合わせてスタンスを変えながら臨機応変に柔軟に対応してきました。ある面で変わり身が早かったというか,その点は素晴らしい資質だと思います。

 高橋●その本質は中国古典にある。論語の世界は秩序維持の哲学だが,もう一方の孫子の世界は乱世の生き方で,それら両方が中国古典のエッセンスだ。幕末から明治維新期は乱世の時代であり,志士たちは「攘夷」の考えから一気に「開国」の考え方に転換して時代をリードしていった。幕末の若い志士たちは,徹底して中国古典を身につけたのだと思う。

 もちろん古典は中国古典だけではない。そのほかギリシアやインドの古典もある。しかし,それらのエッセンスに対して現在の教育は,何も力を入れていないような気がしてならない。日本の大学教育において,ごく一部を除きほとんど古典教育は脆弱だ。

 今後は中学校時代から徐々に古典教育を強化していき,古典から学んでいく姿勢をもう一つの柱にする。理系・文系をいう枠組みを取っ払ってその軸に古典教育をおく。そのような教育から生まれる人材は本物だ。リーダーとはそのような本物の人材の中から生まれてくる。

 リーダーとしての本質的素質は,わずか5〜6歳の子供を観察しても見て取ることができる。それはエネルギーに満ち溢れ,いいことも悪いこともやるやんちゃな子供の姿だ。そのような爆発するようなエネルギーの中に将来のリーダーの種を見る思いだ。その性質(エネルギー)はトレーニングしても与えられるものではない。その上に古典教育によって骨を作っていけば,将来の希望を託すことができる人材となっていくだろう。

 中国はすばらしい古典という遺産を持ちながら,過去100年余りの間,そのよさを知らずにきたように思う。それゆえ真のリーダーが育っているとはいえない。しかし彼らが自分の国の歴史的遺産に気づくのは時間の問題だろう。それより先に日本人が古典の価値に目覚めるかだ。熾烈な競争の時代にあって,中国が自国の古典の価値に目覚め教育し始めたら,非常に恐ろしいと思う。

 例えば,ワインのテイスティング(d使ustation)において英国は非常に高い評価を得ているが,それはもともと英国はワインの原産地ではないのでフランスやイタリアからよいものを輸入してよく比較研究した結果であり,それらの違いがよくわかるからだと思う。それと同様に,日本は中国やギリシア・ローマ,インドから離れている分,それらの(古典の)よさがよく分かるのだ。しかし本家が目覚めた場合には太刀打ちできないだろう。

石井●日本では,先生のように教育の本質論からリーダー論を展開する方は非常に少ない。

 高橋●これまでの駐日中国大使の多くは,北京大学の日本語学科出身者が多かった。しかし今度赴任した崔天凱大使は,地味ではあるがグローバリストタイプの人物だ。中国筋の方の話では中国の外交分野でもっとも優秀な人物の一人だという。実際,私もその方と会って話す機会があったが,グローバルな視点をしっかりもっておりこれまでのタイプとはかなり違うすばらしい方であった。しかし,それでも中国古典教育を積んだ70代後半以上の長老の方々の人間力と比べると比べものにならない。そのような人物の人間力は目がくらむばかりで,彼らには徳が備わっている。世界の立派な方はみな謙虚で威張ることがない。そのような方と話をしていると,その人の人間力に吸い込まれていってしまう。それがいまなくなってしまった。

 石井●日本も今こそもうひと踏ん張りして,教育を充実していかなければなりませんね。先生のお話を聞いていると,まさに理系・文系の垣根が不要であるように感じます。

 高橋●私はまず大学で法学を勉強し,Ph.D.の課程では政治学を,そのあとは経済学者としてトレーニングを受けてきたが,それら三つの分野を常に統合しながらみてきた。以前OECDに勤務したときに2000人以上もいる職員の中から私が事務総長の補佐官(国際参謀職)の一人に抜擢された。のちに事務総長が次のようにその理由を説明してくれたことがあった。「経済学者,法学者としてみれば高橋以上の人は何人もいるが,経済学・法学・政治学を統合して常に判断しているのはお前くらいだった。私の補佐官にはそのような人でないといけないので,おまえを選んだ。」と。私自身はそれぞれの分野で人一倍努力したつもりだったが,その話を聞いて報われたと感じた。

 石井●国際政治学の研究者の中では,法学的知識のある方は多いように思いますが,経済学的知識までカバーできる方となると非常に稀少ですね。また平和学の分野では,安全保障論や軍事専門家が多いですが,やはりそれでは十分とはいえないように感じられます。

国連大学改革とその将来像

 石井●ところで,国連大学の実態について一般にはあまり知られていないように感じられますが,どのような大学なのでしょうか?

 高橋●これまでは国連のシンクタンクという位置づけであったが,今後の展望として「大学院大学」プラス「シンクタンク」という方向性を考えている。元来国連大学は,1969年9月にウ・タント国連事務総長(当時)による国連大学構想という提案から始まり,主として日本が支援して実現した経緯がある。しかし,オックスフォード大学やハーバード大学など世界の主要大学から,「われわれの大学こそ,国際大学であり,国連大学は必要ない。」と大反対が起こった。その後,73年12月の国連総会決議で国連大学憲章が採択された。

 そのとき発表された国連大学憲章によると(注3),「国際連合大学は,…研究,大学院レベルの研修および知識の普及に携わる,学者・研究者の国際的共同体である。」「学問および研究の世界的共同体内における活発な相互作用を増進するため,自らの活動から得た知識を国際連合および専門機関,学術研究者ならびに一般に普及する。」「学術研究者,とくに少壮研究者が,知識の拡充,応用および普及に寄与する能力を増進するための研究活動に参加するのを助ける。」などとあるが,意味不明の文章だ。その意味について,一つにはシンクタンクに過ぎないとの解釈もあるが,もう一方にはスーパー大学院という学者のコミュニティーだとの解釈もあった。しかしその最小限の合意として「シンクタンク」とのコンセプトを掲げて出発し,75年から具体的機能が動き出した。

 ハーバード大学がいくら国際的大学だといっても,あくまでも米国の視点という限界性がつきまとう。私のいう「地球公共財論」からみると,ハーバード大学でもある意味で「田舎もの」にすぎない。その他,先進諸国の一流大学も同様だ。つまり最初から地球公共財の担い手を育成するという目標を持っている大学は世界にないのだ。

 国連は,その前身である国際連盟のときから,自分の機関を担う人材育成機関をつくってこなかった。日本で言えば,明治時代に国家官僚養成のために東京帝国大学(法学部)をつくり官吏を養成してきたように,世界の各国にも同様の高等機関があった。ところが,現在の国連には約7万人ものスタッフがいながら,世界各国のさまざまな機関でトレーニングした人材をかき集めているだけだ。

 本来は,その国連職員を養成する機関が国連大学であるべきだ。そのためには地球公共財というものの見方をもった若者を養成していかなければならない。この課程を修了した人たちは基本的に国連職員になっていく。このような改革の方向性を構想している。日本では東京大学と提携して進めようとしているが,欧州ではコンソーシアムが設立されておりそこと連携しようとしている。

 国連大学のミッションを「国連スタッフ養成」に置くことによって,国連大学は戦略的な位置をもつことができる。国連の中の30以上の各機関が将来どのような人材が必要かに関する青写真をつくる。そのようなニーズ,デマンドに合わせたコースを作りそれを提供していく(supply-side orientationからdemand orientationへの転換)ことによって,将来像に合わせて教育した若者が,10年,20年後に活躍することができる。

 いまは日本にある国連大学だけがそのミッションを担おうとしているが,将来は世界各地に同様の機関を設ける必要があると思う。人間を育てることが何よりなので,一つでは少ない。

 石井●国連をはじめとするフォーマルな組織の役割も重要であるわけですが,その限界が指摘される中にあって,今後世界全体の意思決定はどのようなしくみでなされていくべきだとお考えですか?

 高橋●世界全体の意思決定の中に占める国連の位置は,かなり小さいものだ。さまざまな要素が重層的に重なり合う中で,世界のガバナンスが保たれているので,そうした全体像を前提に,国連や日本の役割を考えていく必要がある。

 国連は政府間機関として1945年に始まったわけだが,その後徐々に事務局が中心となりフィールドを基盤として大きく拡大してきた。現在では国連の人員・予算面でも大半がフィールド(例えば,PKO,開発,人道支援など)で占められており,そのオペレーションが国連の実態といってもいい。安保理はその一部に過ぎない。国連の大半を占めるフィールドを無視して日本が安保理のメンバーシップに挑戦したことは,国連をよく知る人たちにとっては,「日本は一体何をやっているのか?」と首を傾げざるを得ない行動だった。そのような発想自体がリーダーとしてふさわしいものとはいえない。そうではなく世界の諸問題に対して責任をもつ体制をとっていけば,メンバーシップの問題は自然とついてくるものだ。

 それゆえ,世界を見る目,世界に対する概念化(conceptualization)が,最も重要なことだと思う。その中から先述したような日本にふさわしい貢献のありようというものが出てくる。例えば,環境問題,平和構築活動,人間開発などは,日本がリードして貢献していける分野だと思うが,国連の実態はフィールドなのでそれらのフィールドで中心になれるリーダーの資質を備えた人材をどんどん育てていけば,日本が世界から必要とされる国となって,おのずから世界のリーダーになれると思う。その根本を忘れていることが,日本の最大の問題なのである。世界の諸課題に責任を持つが,肩の力を抜いた形で進めるという姿勢が何より大切だろう。

(2008年7月16日)

注1 地球公共財(Global Public Goods)

 公共財は,私的財と対比させると理解しやすい。私的財は,消費において排除可能で,排他的にできている。それらは,明確な財産権と結びつけられている。そして,それらの利用法――消費,賃貸,売買――を決めるのは,それぞれの所有者である。他方,公共財は公共領域の財である。すべての人々が消費可能であり,潜在的にすべての人々に関わるものである。地球公共財は,国・地域,所得階層,そして世代さえも越えて広がる便益――犯罪や暴力のような負の財(bads)では費用――をともなう公共財である。地球公共財――そして,負の地球公共財――は,部分的には,グローバリゼーションに起因している。たとえば,金融市場が統合され,従来ならば単にある国家の金融危機であったものが,早い段階から慎重に対処されなければ,国際的な問題となり得る。(高橋一生監訳・編『地球公共財の政治経済学』国際書院より)

注2 Maurice F. Strong

 1929年カナダ生まれ。64年カナダ電力公社総裁,カナダ政府国際開発庁長官,72年国連人間環境会議を組織,同事務局長に就任。73年国連環境計画(UNEP)初代事務局長,80年NGO世界資源研究所理事長,85年国連アフリカ緊急活動事務局長,90年国連環境開発会議(地球サミット)事務局長などを経て,93年NGOアースカウンシル(The Earth Council Foundation-Canada)会長に就任し,現在に至る。

注3 国連大学憲章 第1条(目的および機構)

 1.国際連合大学(以下「国連大学」という。)は,国際連合憲章の目的を追求し,原則を促進するために,研究,大学院レベルの研修および知識の普及に携わる,学者・研究者の国際的共同体である。国連大学はその目的達成のため,国際連合と国際連合教育科学文化機関(以下「ユネスコ」という。)の共同の支援のもとに,企画および調整のための中枢機構ならびに先進国および開発途上国におかれる研究・研修センターおよび研究・研修プログラムのネットワークを通してその機能を果たす。

 2.国連大学は,国際連合および専門機関が関心を寄せる,人類の存続,発展および福祉にかかわる緊急かつ世界的な問題の研究をその仕事とする。その場合,純粋自然科学および応用自然科学のみならず,社会科学および人文科学にも十分な考慮をはらうものとする。

 3.国連大学の諸機関の研究プログラムは,とくに次の主題を含むものとする。文化,言語および社会体制を異にする人びとの共存。国家間の友好関係ならびに平和および安全の維持。人権。経済的および社会的な変化および発展。環境保全および適切な資源利用。基礎科学研究ならびに人類の発展に則した科学および技術の成果の応用。生活の質の向上にかかわる人類の普遍的価値。

 4.国連大学は,学問および研究の世界的共同体内における活発な相互作用を増進するため,自らの活動から得た知識を国際連合および専門機関,学術研究者ならびに一般に普及する。

 5.国連大学およびそこに勤務するすべての者は,国際連合憲章およびユネスコ憲章の諸規定の精神ならびに現行国際法の基本原則に従って行動する。

 6.国連大学は,この憲章が規定する研究・研修センターおよび研究・研修プログラムの目的の範囲内にある学術研究領域において開発途上国の深刻な要請に熱心に取組んでいるあらゆる地域の学術科学共同体,とくに開発途上国の学術科学共同体を,強力かつ継続的に発展させることを主要目的とする。国連大学は,開発途上国における学術科学共同体に所属する人びとの知的孤立を緩和し,それが先進国への流出の原因となるのを防ぐ努力をする。

 7.国連大学は,大学院レベルの研修によって,学術研究者,とくに少壮研究者が,知識の拡充,応用および普及に寄与する能力を増進するための研究活動に参加するのを助ける。国連大学はまた,国際的あるいは国内的な技術援助プログラムに従事しようとする人びとを対象とした研修を,とくに対処すべき問題への学術的アプローチに関して実施することができる。