ロシア新政権の行方と日露関係の展望



ユーラシア21研究所理事・元駐ポーランド大使 兵藤 長雄

 

1.プーチン・メドベージェフ体制の発足

 2008年5月にドミトリー・メドベージェフが新ロシア大統領に就任し,プーチン・メドベージェフ体制がスタートした。二人を対比してみると,メドベージェフ(Dmitrii Anatolievich Medvedev,1965- )は,父親が大学教授,母親が高校教師という家庭の一人息子というホワイト・カラー出身であり,一方,ウラジーミル・プーチン(Vladimir Vladimirovich Putin,1952- )は貧しい家庭に育ったブルー・カラー出身である。両者ともレニングラード大学(現サンクトペテルブルグ大学)法学部出身で,共通の恩師はアナトリー・サプチャーク教授であったが,この恩師を介して二人の関係が生まれたといってもよい。

 プーチンは冷戦終結後,サプチャークがサンクトペテルブルク市長になると(1991年),彼に呼ばれて対外関係委員会議長に就任した。一方,メドベージェフはサンクトペテルブルグ大学で教鞭をとっているときに,サプチャーク市長の法律専門家として勤務する中,プーチンと出会うことになったのである。

 その後プーチンはKGBの幹部候補となり,98年にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)長官となった。そしてボリス・エリツィン大統領の信頼を得て第一副首相に任命されるなど後継指名を獲得した。その背景には,エリツィン大統領のマネーロンダリング疑惑を捜査していた検事総長のユーリ・スクラトフを女性スキャンダルで失脚させ,さらにエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としの動きを未然に防ぐなどの功績があった。

 最近ロシアの関係者と話をしてみても,当地ではプーチンの人気は非常に高いと言っていた。その背景には,エリツィン時代に乱れたロシア社会を立て直した功績が国民から支持されたことがある。経済的な困窮,治安の悪化,外交力の失墜などのいわゆる「三重苦」を晴らしてくれたのがプーチンだとの一般的評価があるためだ。中には「プーチンを皇帝にしろ」と叫ぶ人もいるという。

 そのような中,なぜプーチンは大統領の座を降りてメドベージェフにその地位を譲ったのか。ロシアは生まれ変わって法治制度に基づく民主主義国家になり,先進国サミットの仲間入りをしたいという強い思いをプーチンは抱いていたようだ。実際にサミットの仲間入りを果たし,2年前にサンクトペテルブルグでG8を開くようになった。このように法治主義を重要視することを謳ったプーチンが,憲法を改正して大統領3選や終身大統領制への道を開いた場合には,中央アジアのカザフスタンなどのような国と同列に思われてしまいかねず,その意味でも政治的正統性(legitimacy)を護りたいという思いがあったのではないかと思う。実際,プーチンは大統領就任当初から「3選はしない。憲法の規定に従う。」と公言していた。

 しかし,プーチンは政治的実権までも手放すつもりはなかった。そのためには後継者選びが重要になる。後継者としては,もちろん有能で信頼に足る人物であることが必要ではあるが,政治家としての野心をもたず,職務だけに専念する人物が最適だ。その条件にかなう人物はメドベージェフしかいなかった。

 恩師サプチャークのもとで知り合った二人であったが,プーチンが大統領選に出馬したときに(2000年),メドベージェフはプーチン陣営の選挙対策本部責任者を務めて貢献し,その後,大統領府長官,第一副首相などを歴任する中,プーチンは彼の人柄を観察してきた。彼は有能でありながらも,政治的野心がない。実際メドベージェフの過去の発言録を見ても本当に学者タイプで,しかもKGBバックグランドがない。とくに後者は重要な点である。

 プーチン政権を支えているのは,シラビキ(siloviki,旧KGB,内務省,検察庁など治安機関出身者の派閥)派であると言われるが,その中から後継者を選ぶことは,やがては権力闘争の芽を植え付けることになりかねない。そのようなバックグランドがないメドベージェフは後継者としてまさにふさわしい人物となる。

 また,西側では,「メドベージェフはリベラル思考だ」との評判がある。プーチン政権の独裁傾向を考えたときに,メドベージェフのリベラル思考という看板をうまく使い,それを泳がせて対欧米カードとして使うこともできるわけだ。

 メドベージェフ大統領が誕生して以降の推移をみると,ほぼプーチンの予想範囲の動きと思われる。例えば,組閣人事を見ると,25人のうち16人が留任。残りはプーチンの大統領府から連れてきており,唯一アレクサンドル・コノバロフ(A. Konovalov)法務大臣だけがメドベージェフが独自に選んだ人物だといわれている。大統領府補佐官も基本的にはプーチンの息のかかった人で,メドベージェフの関係は数人に過ぎない。

また,プーチンは閣僚25人の会議では人数が多すぎるとして,15人の政府幹部会(inner cabinet)を毎週開きここで実質的なことを実施することにした。

憲法上,外交は大統領の専権事項であるが,この数カ月間の動きを見るとプーチンが外交分野をリードしていることは明白である。例えば,プーチンは08年5月にCISの首脳を集めた会議を主宰したほか,フランスを訪問してサルコジ大統領などと会談した。この間,メドベージェフはカザフスタンと中国を訪問したが,私の見解では首脳の顔合わせであって内容はほとんどないとみている。このように外交分野でも,プーチンが重要な部分は自分が引き続きやっていくと示している。最近,プーチンの信任の厚いロシャコフ駐米ロシア大使を引き上げ(08年6月),官房副長官に据えて外交を補佐させようとしている。

 以上のように,実際の人事を見るとプーチンの大きな路線・体制の中で動いているといえる。しいて言えば,メドベージェフは「リベラル傾向」を多少出したいという気持ちがあるようで,「汚職対策協議会」を立ち上げた。

 今後の展望を考えてみよう。憲法上の規定では,国政の重要事項(外務,国防,内務,法務など)は大統領直轄となっているが,現政権の実態は,プーチンがそのような事項まで自分がやろうとしている。つまり建前と実態が乖離することによって,さまざまな混乱が招来される可能性がある。

 もう一つは,プーチンのバックグランドであるシラビキがのさばってきているので,そこから派閥争い,権力抗争の可能性があることだ。プーチンとメドベージェフの二重構造で,そのような抗争に拍車をかけることにならないかと心配される。

 メドベージェフとて一人の人間である限り,権力の甘い座に座っているうちに,西側の評判がよければ野心が芽生えて独自色を出していくのではないかと展望する人もいる。それに対してプーチンは,保険をかけている。それは統一ロシア党の党首にプーチンが就き,その党が下院の三分の二以上の絶対多数を占める政党となっており,万が一メドベージェフが反プーチン的な行動に出てもそれを抑えることは可能だ。

 このようにみてくると,当面はプーチン・メドベージェフ体制の二重構造で推移するのではないかとみられる。ただし不安定要因も出てきたので,そこを注意深く見ておく必要があるだろう。

2.どこまで進むソ連時代への逆行

(1)不満・批判分子の抹殺

 事実上の独裁体制が復活しつつあることは,内外の識者が認めるところだろう。その中で,不満・批判分子の抹殺ということについて述べてみたい。

これまで25人ほどの不満・批判分子が抹殺されたといわれるが,その中の一人,チェチェン戦争を追ってきたロシア人ジャーナリスト,アンナ・ポリトコフスカヤ女史を取り上げてみる。彼女はモスクワの自宅で殺されたが(06年10月),「彼女を殺したのは元KGBである。」と発言したのがやはり元KGB幹部でロンドンに亡命していたアレクサンドル・リトビネンコであった。

 チェチェンへの総攻撃が始まる前の99年暮にモスクワのアパートが爆破され,200名以上の犠牲者を出した事件があった。これが起爆剤となりロシア人の反チェチェン感情が盛り上がり,そのようなことを背景にしてチェチェン侵攻が成功したといわれる。このアパート爆破事件も元KGBが起こしたとリトビネンコが言い出した。このような発言を繰り返したために彼もロンドンで殺された(2006年)。その殺害犯も元KGBのアンドレイ・ルゴボイであった。

 そのような状況を正確に把握していたのが英国の情報機関MI6であった。英政府がこの殺害事件の状況証拠を固めてロシア政府に殺害犯ルゴボイの身柄引き渡しを要求したために,英露関係が冷却し両国のしこりのはじまりとなった。

ちなみにWall Street Journalの08年5月30日付を見ると,興味深い公開質問状が出ている。モスクワのアパート爆破事件で,母親を殺された娘が米国に亡命し「私の母は(元)KGBによって殺された。」との公開質問状を出した。この問題はまだ継続している。

 この例に示されるように,不満・批判分子の抹殺ということをみると,旧ソ連時代と変わらない印象がある。

(2)経済の国家統制強化

 現在,ロシアではさまざまな企業がどんどん国の統制・支配下に入りつつある。戦略企業として42の分野が指定されたが,その当該企業が外国民間企業によって50%以上の株式が占有される場合,また国有企業ならば25%以上が占有される場合には,ロシア政府に許可を求めなければならないと規定した。

 07年一年間でロスナノテク(ナノテク分野),ロスアトム(原子力関連分野)など7つの分野の企業が公社化された。その一つとして,08年7月16日付「産経新聞」に最近の事例が紹介されている。それによるとロシアが保有する有力企業426社の株式をロシアの国策会社「ロステフノロギヤ」に譲渡した(株の50%以上)という。同社傘下には,主要軍需産業のほか,世界最大のチタンメーカーや地方航空会社の連合体,自動車会社などが入ることになる。その社長チェメゾフは,プーチンが東独にいたときの同僚の一人で最側近の一人といわれる。またその監査を担当する監査評議会議長に,元国防大臣セルデュコフが就任した。

 メドベージェフもそのようなやり方に対して間接的に批判したが,最終的にサインしたということは,プーチンのやり方に対して完全にNOとはいえないことがわかる。

 ロシアでは経済に対する国家の統制がこのような形で進んでおり,経済分野でも旧ソ連時代へ逆行しているように見える。

(3)軍事面

 軍事面では,08年5月9日にモスクワの赤の広場で,約8000人が参加したロシア軍による大規模な軍事パレードが行われた。最新鋭の大型兵器を公開する軍事パレードは,91年のソ連崩壊後初めてである。冷戦終結後の軍事パレードが兵士の行進だけであったことを考えると,軍事大国ロシアの復活を印象付けるものであった。

 またいわゆる「偵察飛行」が始まった。もともと冷戦時代に,ソ連は北方より戦闘機を飛ばして日本列島を一周させ,それに対して日本の自衛隊がどのような時間差でスクランブルをかけてくるかなどについて調べていた。そのような偵察飛行が,07年7月頃から北欧地域を中心に再開された。ノルウェーでは,昨年後半だけで18回のロシア軍機による領空侵犯があったという。日本でも今年2月に小笠原諸島付近でロシア軍機による領空侵犯があった。

 戦略核兵器についても,新しい型の兵器開発・実験に成功した。昨年,新世代型弾道ミサイルおよび,複数の核弾頭搭載可能な大陸間弾道ミサイルの発射実験に成功した。大陸弾道ミサイルは,ロシア北部の宇宙基地で移動式発射装置から発射され,カムチャッカ半島のクラ実験場の標的に命中したという。また最終的には巡航ミサイルになる潜水艦発射型ハイブリッド弾道ミサイルの発射にも成功した。このように戦略核兵器の開発も本格的に始まったのである。

 以上に見られるように,軍事面でも旧ソ連時代に帰っていくような動きが見られる。

3.ソ連型大国外交の復活

 対米姿勢の転換を象徴するできごとが,07年2月にドイツ・ミュンヘンの会議における,プーチン大統領による外交政策の大転換の宣言であった。01年の9.11同時多発テロ事件が起きたときにブッシュ大統領に最初に電話したのはプーチン大統領であったが,そこでプーチンは「米国民とロシア国民は一体である。」と述べた。それ以来,ロシア外交は対米協調であった。ところが,07年2月のミュンヘン演説を基点として,「超大国米国の横暴は許さない。」と宣言して,対米外交を180度転換させたのである。

 その具体的行動としてプーチンは外国訪問を行ったが,その一つに湾岸諸国訪問があった。湾岸諸国の中でも親米の国をわざわざ3カ国選んで訪問した。すなわち,サウジアラビア,カタール(米国の軍部隊が常駐している),ヨルダンである。カタールは天然ガスの豊かな国だが,石油におけるOPECのような国際機構を天然ガスに関して作れないかと働きかけた。サウジアラビアでは,最新型の戦車などロシア製武器売却をもちかけた。

 そのほか,アラブ首長国連邦(07年9月),リビア(08年4月)なども訪問した。リビアでは,カダフィーに対して対リビア債務を帳消しにする見返りに,リビアの石油・天然ガスの探査・開発・運搬などにロシアが全面的に関与できるよう約束させた。そして最新鋭の武器の売却も取引した。これらは米国の神経を逆なでするような行動だ。

 その後,イランを訪問した。イランとはスターリン時代に首脳会談をして以来ソ連・ロシアの首脳の訪問はなかったのに,今回プーチンが訪問した。カスピ海周辺国5カ国とともに会合をもち,「この周辺には外国(米国)の軍隊基地を設けない。」などの合意を取り付けた。

 もう一つの戦略としては,極東アジア戦略がある。プーチンは,軍事的にも米国に対抗できるような体制整備を企図している。軍事技術など先端技術で米国に追いつこうとして却って自国が負けてしまったソ連時代の失敗に鑑みて,21世紀世界の新興パワーである中国とインドをロシア側にひきつけて,それらの国々といっしょになって米国に対抗する戦略的パートナーシップを考えた。

 まず中国とは,長年の懸案であった露中国境問題の解決を図った。アムール川支流のウスリー川の中州にあるダマンスキー島をめぐって1969年に中ソ国境紛争が勃発して以来,国境問題は長年の課題であったが,04年10月に「中露国境協定」を締結し,大ウスリー島の東部はロシアに属し,同島の残り半分とタラバーロフ島は中国に委譲することなどが決まっていた。それが08年7月に国境問題の最終的決着を見ることになったのである。

 05年8月には,露中の合同軍事演習を大規模に実施した。演習はロシア・ウラジオストク沖,中国・三東半島とその近海で行われた。これは戦略的パートナーシップの一環である。

 また,露中と中央アジア諸国で構成される上海協力機構は,中央アジア地域での権益では露中が衝突することもあるが,この地域から米国を排除していこうという点では両者は一致している。

 インドとの協調体制も積極的に進めており,その結果,露中印三カ国の協調体制へと発展しつつある。02年9月に,国連総会の席上,露・中・印の三カ国の外相が非公式に集まったのがきっかけとなり,その後毎年集まって話し合いをもつようになった。

 08年1月にロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は,外国記者との会合で「急速に発展し多極化世界の中心となった中国とインドは,ロシア外交においても最重要であり続けるだろう。」と述べた。これは基本戦略に沿った発言だと考えている。

4.日露関係へのインパクト

 ロシア外交の全般的姿勢は近年硬化しているといえるが,それは対日領土問題への姿勢へも反映している。現在のロシアの立場は,1956年の日ソ国交回復交渉の時点に戻っていると私は考えている(兵藤長雄「論点 北方領土交渉」読売新聞08年2月7日付参照)。

 エリツィン政権の後半期からプーチン政権の時期にかけて,日本はロシアに対して間違ったシグナルを送り続けたと考えている。私は,そのシグナルに対してプーチンが本当に「誤解」したのではないかと思う。

 具体的に説明しよう。日本国内において北方領土返還問題に関して次第に悲観論がでてきた。戦後50年以上経過しても戻ってこないし,露中が手を結ぶようになればロシアにとって日本に対する魅力が薄れてきているとの声も聞こえてきて,「日露平和条約不要論」が出てきた。そのような中,「とりあえず二島返還」という妥協論も出てきた。

 私の考えは,これまでの領土返還交渉の経緯,日ソ共同宣言などをよく調べてみると,「とりあえず二島返還」論は意味がないということだ。領土問題を最終決着するのが平和条約であることを忘れてはならない。また「等面積二分割論」を唱える論者は,露中国境紛争の解決方法だとして主張するが,北方領土問題と並べて論ずること自体,この問題の本質への理解を欠いているといえる。

 北方領土問題といえども,そのときどきの国際情勢の推移・展開を無視しては真の解決は難しいだろう。ロシアが国内で北方領土問題で法と正義に基づいて自由に議論していたのは,ゴルバチョフの訪日からエリツィンの前期であったと思う。それ以降,エリツィンのリーダーシップは衰え,プーチンに移行した。いまは動かない膠着状態にあり,このようなときは何を仕掛けてもすべて持ち出しになりかねないので,国際情勢の変化を待つことも重要だ。

 露中関係の微妙な変化が最近出ていることを,指摘しておきたい。08年3月に日本の政治家の方といっしょに訪露した際に,ロシアの人たちは口をそろえて「最近の露中関係はとてもぎくしゃくしている。」と話していた。貿易問題のみならず,軍事関係もそうである。中国の急激な軍事的膨張の中で,中国が一体何を狙い,どこに向かおうとしているのか,ロシア軍部でも議論しているという。このような対中警戒論が台頭するような状況の中で,露中の軍事的な戦略的パートナーシップが進展するとは考えられない。

 昨年プーチン大統領が,インド訪問の帰りにウラジオストクに立ち寄り,「これから極東アジアを重視する」旨の演説を行った。プーチンは実際に,2012年にウラジオストクでAPEC総会を開催するまでにロシア極東地域のインフラ整備・開発を進めるとして,具体的な予算をつけた。その予算の一部が北方四島にも還流している。今年択捉島に行った日本人は,大きな変化に驚いた。例えば,根室にないような近代的病院が建設されつつあるのだ。プーチンの「極東重視」の発言はリップサービスのレベルではないことは明らかだ。また,アジアの仲間入り,東アジア共同体への参加などを狙っている。

 そのような情勢変化の中での新しい動きとして,ロシアでは「日本見直し論」が出てきた。ここ一年間を見ても,ロシアから日本に向けた交流がものすごい勢いで進んでいる。例えば,ロシアの首相や外相など高官の訪日を始め,人的交流が活発化している。その狙いは,日本を正しく評価しようというところにあるようだ。

 ロシアは一次産品輸出国から工業化社会への転換が必須であると考えているが,急激な成長を遂げる中国がロシアのインフラ整備に貢献できるのは労働力くらいなものだ。IT・エネルギーをはじめとする技術力に関しては,やはり日本が大きな存在であることは間違いない。そのような日本を無視してはアジア重視,アジア進出は不可能だということにロシアも気づき始めたのだと思う。

(2008年7月16日)