土壌からみた地球環境問題

――環境倫理とスピリチュアリティの復権


北里大学副学長 陽 捷行 

 

 46億年に及ぶ地球史の中で,人類の誕生とりわけ文明出現以降,大気圏・水圏・土壌圏・生物圏などと人間圏の不調和が生じ始めた。さらに20世紀以降はそれが加速度的に悪化し,今日では大地,海原,そして天空からの悲痛な叫び声が聞こえてくる。すなわち,大地からは土壌侵食,砂漠化,重金属汚染,地下水汚染,熱帯林の乱伐などが,海原からは富栄養化,エルニーニョ現象,赤潮・青潮,原油汚染,海面上昇などが,天空からは温暖化,オゾン層破壊,酸性雨,大気汚染などの悲鳴である。

 そのような趨勢の中,21世紀は「環境の世紀」とも言われるが,私はこれを「土壌の世紀」と置き換えて考えてみたい。なぜなら,今日の地球環境問題は地球の容量を超えるような過剰人口の問題でもあり,人口問題は食糧・農業問題と切り離すことができない。そして農業問題は,食糧生産の基である土壌(注1)の問題であるからだ。

 今から百年ほど前にノーベル生理学・医学賞を受賞したアレキシス・カレル(Alexis Carrel,1873-1944年)は,「土壌が人間生活全般の基礎なのであるから,私たちが近代的農業経済学のやり方によって崩壊させてきた土壌に再び調和をもたらす以外に,健康な世界がやってくる見込みはない。生物はすべて土壌の肥沃度(地力)に応じて健康か不健康になる。」と述べた。このことばは,まさに(地球)環境の基礎が土壌であることを物語るものである。

 そこで本稿では,環境の基が土壌であることを述べながら,地球環境問題を考える一つの視座を提供したいと思う。

1.環境の基としての土壌

(1)土壌劣化と文明衰退

 人間がこの地球上で生物圏から分化し,独自の活動を始めたのは1万年ほど前のことで,その後約6000年前に文明が出現すると,多くの地域で土壌の生成作用は一変した。このころから土壌と共存していた多くの生き物が,さらに土壌の量と質が,すべて衰退の道をたどり始めた。このときから人類は持てる智恵と発明した道具を用いて,土壌のもつ養分を作物に吸収させ,その養分を土壌に戻さないという,「土壌」にとっては略奪的で破壊的な農耕文化を定着させたのである。

『土と文明』の著者カーターとデール(注2)は,その序文で次のように述べた。

「文明の進歩とともに,人間は多くの技術を学んだが,自己の食糧の拠り所である土壌を保全することを習得した者はまれであった。逆説的にいえば,人類のもっとも素晴らしい偉業は,己の文明の宿っていた天然資源を破壊に導くのが常であった」。

 ギリシアやローマ,メソポタミア文明の衰退も土壌劣化と大きくかかわっていた。フェニキア人によるレバノン杉の伐採は,土壌の大部分を丘から流出させて文明を滅ぼす結果をもたらした。

 ローマ帝国は,抱える人口の食糧をまかなうためにイタリアの土壌(耕作地)を酷使した。そのうちにイタリア半島だけでは食糧供給が難しくなり,帝国全域に出て行って各地から食糧を調達し始めた。最終的にはそれも難しくなって帝国の崩壊につながった。

 メソポタミア文明をみてみよう。この地域は乾燥地域のために灌漑施設をつくって畑作農耕をしている。普通,水は大地の中にしみこんでいくわけだが,蒸発などにより乾燥し地表から水がなくなると逆に水は地中から地表に向かって吹き上がってくる。そのときに水は地中の塩分もいっしょに運んでくるので,地表には塩分が残り塩害が発生する。チグリス・ユーフラテス川を中心とするメソポタミア文明は,まさにそのような形で土壌が劣化して砂漠化が進む中,農耕ができなくなり崩壊に向かった。

 新しいところでは,中央アジアのアラル海は塩害が顕著に現れたところだ。旧ソ連・ロシアが農業用にアラル海の水を管理して潅水したのだが,潅水できなくなるとアラル海はどんどん干上がっていった。

 文明進歩の限界は,自然からの土壌資源の収奪の上限であることを示唆している。世界の地域文明の盛衰は,このような土壌侵食や土壌から養分を収奪することによる地力の消滅など,その地域の土壌の衰退ときわめて深くかかわりあっている。

(2)土壌の人間の精神生活への影響

 土壌には,人間が生きるための作物を生産する重要な価値のほかに,人に精神的潤いを与えてくれるという価値もある。人がその地域に踏み入ることで癒されることがある。また,桜の木や花を見て精神的な癒しを受けることがある。普通は樹木の地上部分しか見ないが,実は地下の部分に無数の生物がいる。樹木の根にはさまざまな微生物や細菌がおり,養分になるものもあって,それらが桜を生長させているのだ。人間が桜を見て癒されるのは,元をたどれば土壌がそうさせていることになる。

 東京23区の被覆率(地面が建物や道路などで覆われている割合)は約80%だ。人間をはじめとする生物にとって生きている土壌があることが決定的に重要な要素であるのに,被覆率が80%では土壌の恩恵を受けられず,人間は不健康にならざるを得ない。都市生活でとくに精神的疾患が多くなるのには,そのような背景があるだろう。東京では土壌を見たこと,土壌に触れたことのない子どもがいるという。大地は「母」であるのに,母に触れなくてどうして健康な子どもが育つのか。土壌に触ることが,どれだけ人間を精神的に癒してくれるか,誰も言及しない。

 だいぶ以前に「現代の映像」というNHKの教育番組で,東京に住むある自閉症児の話があった。その子の生活環境を見ると,家から学校までの間がすべてコンクリートに覆われていた。学校の校庭もコンクリートで覆われていて,生まれてから土壌に触れたことがなかったという。その子の担当医師は,泥んこの場を作ってこの子に土いじりをさせたのだが,それによって自閉症の症状が改善してしまった。土壌にこのような効力があることは,なかなか知られていない。

 東京には雨水を吸収してくれる土地がないので,雨が降るとすぐ排水溝があふれるなどの現象が起こる。田舎では土壌がほとんど吸収してくれるので,そのようなことはない。それゆえ本来都市計画においては,コンクリート(アスファルト)で固める場所と土壌を露出させる場所,植物を生育させる場所,動物も共存できる場所などを調和するようにすることが本筋であろう。しかし経済利益が優先される余り,環境が無視されてきた。

 現代日本の考え方の大きな枠組みは経済優先で,その中に環境や教育などが入っているという形だが,私は環境という大きな枠組みの中に,経済や教育があるべきだろうと考える。このような価値観の転換がいままさに必要なのである。

2.伝統思想からみた土壌の価値

 土壌から植物が生育し,その植物を動物が食べ,人間はそれらの動植物を食物として生きる存在であるから,とどのつまり人間は土壌(の恵みによって)生まれたといえる。聖書の「創世記」にも「神は土のちりで人を造り,命の息をその鼻に吹きいれられた。」とあるように,われわれ人間は土から生まれ,土に帰って行く存在だ。英語のhumanはhumus(=soil,腐植土)と語源を同じくするという。

過去の偉大な聖人たちもみな土の話をしている。

 孔子は「われらはみな土から生まれ,獣禽は土から育ち,それを食してわれらは生き,そして死んで土になっていく。この偉大なるもの土。」というような趣旨のことを語った。釈尊も,物質循環(輪廻)は土から生まれて循環し土に帰っていくと言った。東洋易学の五行説では「木火土金水」というが,「土」が真ん中に位置している。

 日本の「古事記」や「日本書紀」など記紀神話の世界には土の神様がたくさんいる。一例を挙げてみよう。地鎮祭で祀る神様に「大土神」がいる,この神様は大年神の御子で,母神は天知迦流美豆比売,田地を守護する神である。別名を土之御祖神,大土御祖神ともいう。その他,大地主大神(土地を守護する神),埴山姫大神(土を守護する神),産土大神(その土地の守り神),磐土神,底土神,赤土神など土を司る神様がたくさんいる。

 伊勢神宮の外宮の別宮に,池の橋を渡ると左右に「土宮」と「風宮」が鎮座している。「土宮」に祀ってある神は大土御祖神,「風宮」に祀ってある神は級戸神である。土と風とは,いわば土壌と環境である。この二神は農業技術の立場からも重要な因子である。この二つの宮をあわせて研究しているのは,現在で言えば農業環境技術研究所となろう。なお,内宮の摂社にも大土御祖神社があるが,祭神は土宮と同じである。

 このように古代人たちが土壌をいかに大事に考えていたかということがわかる。だから土壌を大事にする考え方は,別に新しい考えではなく,古くからあった考え方なのである。

次に,近代以降の学者や宗教家などが土壌をどのように考えていたのかを見てみる。

 オーストリアの思想家ルドルフ・シュタイナー(1861-1925年,注3)は,「不健康な土壌からとれた食物を食べている限り,魂は自らを肉体の牢獄から解放するためのスタミナを欠いたままだろう。」と言った。

徳冨蘆花(注4)は農の重要さとともに土壌の価値を次のように説いた。

  「土の上に生まれ,土の生むものを食ふて生き,而して死んで土になる。我らは畢竟土の化物(ばけもの)である。」「農の命は土の命である。」「土と水が一切の汚物を受け容れなかったら,世界の汚物は何処へ往くであらうか。土が潔癖になったら,不潔は如何なることであらうか。土の土たるは,不潔を排斥して自己の潔を保つのではなく,不潔を包容し浄化して生命の温床たるにある。」(「農」蘆花全集第9巻『みみずのたはこと』より)

  またMOAの創始者岡田茂吉(1882-1955年,注5)は,今から50年以上も前に,土壌の本質を次のように喝破した。


  「知っておかねばならない事は土本来の意義である。抑々太初造物主が人間を造るや,人間を養うに足るだけの食物を生産すべく造られたものが土であるから,それに種子を播けば芽を出し,茎,葉,花,実というように漸次発育して,芽出度く稔りの秋を迎える事になるのである。してみればこの米を生産する土こそ実に素晴らしい技術者であり,大いに優遇すべきが本当ではないか。」

  「人間は新鮮な空気を吸い,清浄な水を飲み,不純物のない土から生じたものを食しかつ薬剤のごとき異物をなるべく用いないようにすれば,無病息災たることはもちろんで,寿齢も百歳以上は決して不可能ではないのである。」と。

 その他にも,有機農業運動の創始者,アルバート・ハワード卿の「土と健康」,イーブ・バルフォアの「生きている土壌」,レイチェル・カーソンの「沈黙の春」,最近ではシーア・コルボーンの「奪われし未来」なども,似た考えで展開されている。

3.近代農業の問題点とその改善策

(1)大地は呼吸する

 実は大地も人間と同様に呼吸している。この呼吸の乱れがいわば地球環境の変動なのだ。土壌の健康は,地球全体のガスのバランス維持のためにも重要な働きをしている。

 土壌と大気は互いにガス交換をしている。それゆえ土壌圏のガス発生の乱れは大気圏のガスの乱れにつながることになる。例えば,土壌では主に酸素が消費され二酸化炭素が生成される。大気の酸素は土壌に吸収され,土壌の二酸化炭素は大気に排出される。これはまるで人間の呼吸と同じである。

 このような生態系の健全な現象によって地球全体のシステムの恒常性が維持されてきたわけだが,とくに20世紀後半から工業化した集約的農業は,このシステムを乱し始めた。余り知られてはいないが,農業生態系から放出されるメタンや亜酸化窒素などの微量ガスも温暖化やオゾン層の破壊に影響を及ぼしている。07年にノーベル平和賞をゴア・元米副大統領とともに受賞した「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の報告(注6)によると,大気メタンの発生源のうち,水田からのメタン発生量は約20%に及ぶという。亜酸化窒素の場合,発生源の中でも窒素肥料からの発生量が最も高い値を示している(表参照)。

 しかし,窒素肥料や水田の拡大なくして,増加する世界の人口に食糧を提供することができない。その意味で窒素肥料は諸刃の剣なのである。大地の呼吸の乱れが地球環境を変調させている点を喚起しておきたい。

(2)近代農業の限界

  1 9世紀以降,大量生産と経済効率をめざした近代農業は,農地に化学肥料,農薬および化学資材を加え,集約的なシステムへと転換していった。それによって増加する人口に多くの食糧を提供することができた。

 一方,大量生産のために投入された膨大な資源とエネルギーは,重金属汚染に見られる点的な,あるいは窒素やリンによる河川や湖沼の富栄養化に見られる面的な,またメタンや亜酸化窒素による温暖化に見られる空間的な環境問題を起こした。さらに最近ではダイオキシンのような世代という時間を超えた環境問題を生じせしめ,人間の健康と地球の環境に多くの問題をもたらしたのである。

 その結果,近代の西洋社会とこれを見習った社会は,土壌から植物の貴重な栄養をとめどない勢いで消費している。世界の食糧生産は農業技術の発達によりこの30年間で倍増した。そのために険しい傾斜地まで耕地を広げ,土壌侵食の起きやすい起伏地にもトウモロコシやコムギを連作した。それによって土壌侵食は加速し,その地域の河川や湖沼や海域は多くの環境問題に悩むようになった。

 さらに灌漑を用いた農法は食糧増産を支える重要な農法として認識されてきたが,大規模な灌漑農法は,地球の水資源とそれを利用する農地に重大な影響を与えずにはおかなかった。不適切な灌漑の利用は,農地の冠水と塩類集積,砂漠化,帯水層の水位低下と汚染,水生生物の生息破壊など,土壌のみならず周辺環境にも大きな影響を及ぼした。

 ところで,農耕可能な作土は地球の表面全体を平均すると約18センチメートルしかない。この作土によって全人類は農耕を始めてからずっと生きてきたわけだ。今後人口が増えていく中で,この容量では人類を養っていくことが難しくなる。レスター・ブラウンの調査報告によれば,アジア地域では1年間にヘクタール当り約30トンの土壌侵食が進んでいる。一方,土壌の生成は1年間にヘクタール当り約1トン,厚さにして約0.1ミリにしか過ぎないのだ。そうだとすれば1センチの土壌が生成されるのに100〜500年の時間を要することになる。このように貴重な土壌であるのに,至るところで無造作に土壌が流され侵食が進んでいるのだ。

 私は何百年,何千年とかかってやっとできた土壌が流れるのをみると,涙が出るほどだ。次世代,将来世代の環境を考えることを全くしない現代人になってしまった。「今」の倫理観については多くの人が考えているのだが,時代,時間と空間を超えた倫理観とでもいうものが決定的に欠如している。

(3)持続型農業への転換のとき

 われわれの生活に必要な食糧や資材を生産しながら,しかも環境を保全するという,一見矛盾する二つのことを両立させるためには,生態系原理に基づく自然循環機能に適合した農業を営む必要がある。農業の持続性概念には,持続型農業,永続型農業,低投入型農業,伝統的農業,有機農業などさまざまなものがあるが,重要なことはその実践と維持である。

 近代農法の問題点を知った人々は,上述のような観点に立って代替農業(注7)を模索するようになった。代替農業は一つの農業体系をさすのではなく,合成化学物質を一切使用しない有機的な体系から,特定の病害虫防除に当たって農薬や抗生物質を慎重に使用する体系まで,さまざまな体系が含まれる。この目的は,土壌の生産性を高め,安全な食糧を獲得し,自然環境を保全し,土地や資源を効率よく利用し,その上,生産費を低減させることに視点を向けることにある。

その一例を紹介する。

 このような視点を早くから喝破した世界救世教の創始者・岡田茂吉は,「自然農法の原理は,土壌の偉力を発揮させることである。それは今日までの人間は,土の本質を知らなかった。否知らせられなかったのである。その観念が肥料を使用することとなり,いつしか肥料に頼らなければならなくなってしまった。」「自然農法の原理はあくまで土を尊び,土を愛し,汚さないようにすることである。そうすれば土は満足し,喜んで活動するのは当然である。人間で言えば障害を受けないから溌剌たる健康者となるようなものである。」と述べた。そして自然農法を研究,教育,普及および実践などに役立たせようと「自然農法大学校」と農場を設置して実践教育と安全な食物生産を行っている。

4.環境倫理の必要性

 現代は土壌の価値に対する認識が薄れており,土壌を物を作るための材料としてのみ平気で使ってきた。しかしそのような考え方では土壌を守れない。「土壌は生きている」(the living soil)という概念を人々に理解してもらわなければ,土壌を守ることはできないだろう。人間と人間の間には倫理観を持って生きているのに,われわれ人間は土壌や水,空気に対してそのような倫理観をもつことがなかった。

 なぜ地球温暖化が起きたのか。私は,土壌や水,空気に対する倫理を人間が持たなかったことに対するしっぺ返しが地球温暖化,環境破壊という現象だと考える。つまり地球は逆襲しているのだ。土壌を土壌らしく扱っていればこのようなことは起らなかっただろう。

 カドミウムに汚染された土地は,土壌の生命が汚染されている状態だから,そこで生育した植物を食べれば,人間も病気にかかってしまう。これは土壌の逆襲だととらえることが可能だ。土壌に対して人間が倫理観を持たないかぎり,土壌は今後も復讐をしてくるだろう。

  「土壌の健康は人の健康である」ということは,先人たちも言ってきたが,「土壌の健康が地球の健康につながる」と考える人はほとんどいなかった。あるいは土壌の不健康が地球温暖化,環境破壊につながることを指摘してこなかった。多くの人は人為的なことに目を向けてそれを改善しようとしてきた。それも重要な点ではあるが,土壌の健康がそれを取り巻く環境の核心部分であることの認識に欠けていたと思う。

 現在の地球上の大きな動きを見てみると,とくに近世以降,人口,重金属や化学物質・化学薬品の使用量,エネルギーなど,ほとんどが右上がりに増え続けている。唯一減少しているのは一人当たりの耕地面積だ。しかも地球上にはこれ以上耕作地を開拓して拡大する余地はない状況だ。これまで人類の食糧増産を図ることができたのは,農業技術,バイオ技術のおかげであり,それは技術知の勝利を意味した。しかしその農業技術もそろそろ限界点に達しつつある。

 食糧生産量が過去30年で倍増したが,その養分は土壌から通常よりも余計に取られたわけであり,このことは将来世代にとって土壌が貧弱になってしまったことを意味する。「今」だけを考え,将来世代のことまで考えない。これは環境倫理,世代間倫理が欠如しているために起こることだ。

  これを解決する一番の方法は,特に先進国においては,エネルギー消費を減らすことだ。現在地球環境問題の解決に向けて科学技術的方策を講じるにしても,その大半は相当の資金が必要であり,容易に普及して効果を挙げられるものでもない。飢餓に直面し,貧困に苦しむ人々のことは別途考慮するにしても,やはり中進国レベル以上の国々においてはこれからは経済的・物質的な拡大を考えるよりも,節制して少なく食べるようなライフスタイルを志向していかなければならないだろう。

5.環境とスピリチュアリティ

 1948年に創設された世界保健機関(WHO)は,その憲章の前文で健康を次のように定義した。「健康とは,身体的(body),精神的(mental),および社会的に完全によい(安寧な)状態であることを意味し,単に病気でないとか,虚弱でないということではない。」

 その後,1999年の総会において新たな健康の定義が提案された。即ち,「健康とは,身体的,精神的,霊的および社会的に完全によい(安寧な)動的な状態であることを意味し,単に病気でないとか,虚弱でないということではない。」ここで「霊魂,霊的(spiritual)」と「動的な(dynamic)」ということばが付け加えられた。

 われわれが健康について問うときに,ほとんどが「身体」と「精神」についてであって,上述した「霊魂」と「社会」(豊かな生活の場,すなわち豊かな時間と空間=環境)については,あまり思いが及ばない。Spiritualというのは,単なる心ではなく,心と体を結びつける人間存在にとって中核になるものを意味し,これまで宗教が扱ってきた領域でもあった。

 世界的にみれば,スピリチュアリティ(spirituality)に対する認識,関心が高まっていることは確かである。そこで21世紀の学問的方向性を考えたときに,食を軸足においた分野(農・園芸・薬草・緑地学など),健康を軸足においた分野(医・薬・教育・心理学など),霊魂に軸足をおいた分野(倫理・宗教学など)の連携または融合の科学が必要だと思う。

 ただ日本では,近代以降科学の移入において間違ってしまったために,宗教と科学は背反するもの,あるいは全く別ものだと思っている人が多く,この新しい定義に対して科学的でないと思う人が少なくないようだ。

 実は近代科学は,当時のキリスト教神学で説明できないことを科学によって説明可能にしようと試みるところからスタートしたのだった。それゆえ当時の西欧社会で科学者といわれる人々は,みな宗教(キリスト教)を信じており,その土台の上に科学を発展させた。

 例えば,20世紀の偉大な科学者アインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955年)は,科学と宗教に関するさまざまなことばを残した。「私は神のパズルを解くのが好きだ。」「宗教なき科学は完全ではない。」「神が宇宙をつくったとき,たった一つのやり方しかなかった。だからその方程式があるはずだ。神の方程式を手に入れたかった。」そして死ぬ直前には,「これが最後です。これがゴールなのです。私は神のパズルをすべて解いたのです。」と語ったという。彼の中では科学と宗教が共存していたのである。やはり人間の中に本性的に内在しているスピリチュアリティを認めない科学者は科学者といえないのではないか。

 私の体験を一つ紹介しよう。私が大学院のころ研究のために長野県の戸隠に行った時に,ある寒い朝,気温の温度差によって水蒸気が地表から上がる自然現象を見て「大地が呼吸をしている」と直感したことがあった。また神社などで人々が熱心に祈る姿を見ていると,人間性の奥底にスピリチュアリティがあることを感じざるを得ない。それらは原始時代の素朴な心,スピリチュアリティと何ら変わらないものである。とすれば人間の本性には,原始時代から変わらないスピリチュアリティを司る部分があるのだと思う。

 科学の方法論は,仮説を立てそれを実証・証明することにより真実を探す。哲学は,自問自答し内省しながら真実を探す。宗教家は直観・啓示などにより真実を探す。それぞれ方法論は違うのだが,真実を求めることにおいては共通であり,生命の現象と本質を基盤とした「美」で一致しているのに,互いに反目しているような状況だ。

  20世紀の人類は穴を掘るように技術知を求めてきた。さまざまな技術知を統合すれば,われわれは生態知を獲得できる。これまでの科学は知と知が互いに分離していたが,21世紀の科学はそれらが「統合知」となっていかなければならない。さらにいえば,知と知の分離だけではなく,知と行(行い,実践),知と情もそれぞれ分離していたために,さまざまな社会病理現象が現れた。それらが統合された知となることによって,人間にとっての真の幸福がもたらされると思う。

 現在,私が取り組んでいる分野でいうと,農と健康を,環境を通してつなげようと努力している。それは環境の問題(土壌,水,空気,植生など)を考えずに農と健康はつながらないという発想である。そのことを端的に教えてくれるのが重金属汚染だ。カドミウムで汚染された環境で,そこから生産された食物を摂取すればイタイイタイ病になるわけだ。やはり健全な環境(土壌)で育ってこそ本当に健康な人間圏・生物圏が形成される。 

 現実の日々の生活における環境とは何か。自然と人間の関係は,人が環境をどのように見るのか,環境に対してどのような態度をとるのか,そして環境を総体としてどのように価値付けるのかによって決まる。つまり,環境とは人と自然の間に成立するもので,人の見方や価値観が色濃く刻み込まれている。だから人の文化を離れた環境というものは存在しない。となると,環境とは自然であると同時に文化であり,環境を改善するとは,とりもなおさず,われわれ自身を変えることにつながるのである。 

 地球環境の保全という環境問題に対して,多くの国や組織・個人が,政治・経済・産業が,宗教・医学・教育・哲学が,そして芸術までもが,なべて真摯に取り組み始めた。「人の健康」を最優先課題として,環境と経済が調和できる「美」を求めて。21世紀において現代人たちが健全な環境を守ろうと熱心に努力するのは,「ユートピア」,「アルカディア」,「桃源郷」,「高天原」,「天国」など,歴史が求めてきた理想郷を現実化する時代になったことを意味するのだと思う。

  童謡詩人・金子みすゞ(1903-30年)は,土壌の価値と地球生態系におけるその役割を,次のような詩に表現した(「土」『わたしと小鳥とすずと』)。

こッつん こッつん 

ぶたれる土は

よいはたけになって

よい麦生むよ。

朝からばんまで 

ふまれる土は

よいみちになって

車を通すよ。

ぶたれぬ土は 

ふまれぬ土は

いらない土か。

いえいえそれは

名のない草の

おやどをするよ。

(2008年12月18日)

注1 ここで「土」とは人間が手を加えていない自然の状態をいい,「壌」とは植物を栽培するために,人間が一度「土」を砕いて耕作に適するよう軟らかくしたものをいう。「土壌」とはこの自然土と耕作土の全体を表す。

注2 Vernon Gill Carter & Tom Dale,山路健訳『土と文明』家の光協会,1995年,原題はTopsoil and Civilization。

注3 Rudolf Steiner(1861-1925年) ドイツの思想家。オーストリアの生まれ。独自の人智学を提唱し,芸術・教育など他分野で活躍。オルターナティヴ運動の先駆。シュタイナー主義の学校で有名。(「広辞苑」第5版より)

注4 徳冨蘆花(1868-1927年) 小説家。名は健次郎。肥後生まれ。蘇峰の弟。同志社中退。「不如帰」「自然と人生」によって認められた。トルストイに心酔して社会的視野をもつ作品を書き,晩年はキリスト者として伝生活を送る。作「思出の記」「黒い眼と茶色の目」「みみずのたはこと」など。(「広辞苑」第5版より)

注5 岡田茂吉(1882-1955年) 世界救世教の創始者。宗教家にとどまらず,文明評論家,書家,画家,歌人,華道流祖,造園家,建築家,美術品収集家,など文化人でもある人物。箱根美術館,および現在のMOA美術館の前身となった美術館の開設者。日本における自然農法の創始者の一人。(フリー百科事典「ウィキペディア」より)

注6 2007年のノーベル平和賞に,米国のゴア元副大統領と国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が選ばれたが,著者陽捷行は,このIPCCによる第一次評価報告書(1990)の最も重要な第1章「温室効果ガスとエアロゾル」の作成に唯一の日本人として参画した。

注7 代替農業については,次の資料を参考にされたい。

 全米研究協議会リポート,久間一剛・嘉田良平・西村和雄監訳『代替農業―永続可能な農業をもとめて』,自然農法国際研究開発センター・農山漁村文化協会,1992年

 陽捷行編著『代替医療と代替農業の連携を求めて』北里大学農医連携叢書第2号,養賢堂,2007年