ロシアの極東開発政策と北東アジア経済圏

 


聖学院大学准教授 飯島 康夫


 冷戦体制とソ連の崩壊を契機としながら,環日本海(東海)経済圏などの北東アジア地域の開発・交流が活発化しているが,北朝鮮をめぐる朝鮮半島情勢の不安定さによって,思うようには進展していないという現状である。この地域の開発問題は直近の歴史をたどれば,19世紀までさかのぼる。とくに西欧列強諸国が東アジアにさかんに進出してきた19世紀は,日本にとっても近代史の始まりの時期として北東アジア地域とは密接なかかわりがある。

 そこで,本稿では19世紀末の北東アジア地域の動きについてロシアの観点から概観しつつ,ソ連崩壊後のロシア極東地域における新たな経済圏への始動を考えてみたい。

1.ウィッテの極東開発構想

 19世紀から20世紀初頭にかけてのロシアの極東政策を考えるときに,帝政ロシアの蔵相・首相を務めたセルゲイ・ウィッテ(注1)の構想を抜きには考えることができない。彼の極東開発構想は,現代におけるシベリア鉄道などの「北東アジア輸送回廊ビジョン」にもつながるものである。

 ウィッテの極東開発の趣旨は,満洲の軍事的支配ではなく,鉄道網を張り巡らし,国際貿易港ダーリニーを開設して,海洋貿易を中心とした大英帝国とは独立した大陸鉄道によるユーラシア交易のシステムを構築することにあった。ロシア帝国の外交政策は,経済と一体不可分でなければならなかった。それは極東諸国との貿易を踏み台にしてフランスへの借金返済を図り,ロシアの経済発展を試みようとしたからであった。

 まず当時のロシアの状況を見ておく。

 ウィッテの蔵相就任当時(1892年)は,露仏同盟の結成によってパリの金融市場がロシア政府に対して広範な金融措置を準備していた。その後,極東への拡大政策を経済的に用意する上でも,タイミングの良い時期であった。ロシアは,1888年にヴィシュネグラットスキのもとでフランスから5億フランの借り入れを開始してから,89-91年には総額65億フランを借り入れた。これはビスマルクによる対ロシア資本輸出停止によって危機に立たされたロシアが1888年から91年の間に外資導入先をフランスに成功裏に転換させたことを意味した。そうした背景によって,ロシアの工業資本も88-90年の間に約3倍に増えた。こうして,この時期は,対仏金融関係の緊密化と経済発展の期待が高まった「希望の時代」であった。

 また他の西洋列強に遅れて近代化し始めたロシアにとって,満洲への侵入は諸外国に出遅れた性急な植民地支配の試みであったともいえる。ロシアが極東の経済支配に乗り出す1890年代半ばまでは,満洲地域にはロシアの領事館も,各種の施設開設もなく,経済支配は皆無に近い状態であった。その上,ロシアの商品の流通も,ほとんど見られなかった。自国の貨物を大量に積んだロシア船が松花江に姿を現したのは,ようやく1896年のことであった。1890年代までのロシアと満洲関係といえば,琿春などロシアとの国境にごく近い地帯にロシア人の役人が姿を現すことがある程度であった。それに比べて,満洲における他の列強諸国の影響はすでに1830年代に宣教師たちの活動が満洲のいたるところで見られた。1861年には,営口に西欧諸国の領事館が設立され,ヨーロッパ人の移住者の集落も既に形成されていた。

 さて,ウィッテの極東開発の柱は,1895年の露清銀行設立と96年の東清鉄道会社の創設であった。

 ロシアは,1895年パリ・オランダ銀行の促しにより,日清戦争の賠償金に苦しむ清に対して,政府保証で1億ルーブルの借款供与を申し入れた。ウィッテはこの機会をとらえて,露清銀行を創設し,全中国への経済的影響力の拡大を図ろうとした。その際,露清銀行を満洲支配の土台に据え,二つの意味でウィッテの「平和的な侵入」(注2)の政策手段とした。つまり,ロシアの満洲支配が第一に銀行という民間組織を通じてなされ,第二に露清銀行の資本金の大部分がパリ・オランダ銀行という外国の信用機関の出資によって創設されたことであった。これらが二重の意味で,ロシアの植民地支配を「平和的な」ものとした。

 東清鉄道事業には,鉄道建設・運営だけではなく,ダーリニー市(大連)と商港の建設,海運業の創設・運営,ハルビンを鉄道分岐点として開発する計画が含まれていた。露清銀行と清国政府は,1895年に東清鉄道敷設に際していくつかのことに合意したが,その中で鉄道輸送の関税を海上輸送の関税の三分の一に抑えることによって満洲における外国製品の流入を阻止しようとした点は,ロシアの工業製品を中国に浸透させることを意図したものであった。

 ロシアは,1897-1902年の間に,極東開発事業に総額11億4076万ルーブルを支出した。東清鉄道やシベリア鉄道の敷設事業はウィッテの率いる大蔵省鉄道局が中心となり,その推進役となった。彼は南西鉄道勤務時代に培った人脈をもとに,鉄道技師ケルベツを東清鉄道建設の設計責任者に抜擢するなど,自分に近い人間を集め,交通省から鉄道運営の実権を奪って大蔵省内に鉄道局を創設し,鉄道網開設の資金計画とプラニングという実質的な決定権を持たせた。

 ウィッテは,ロシアの「平和的侵入」は満洲を貫通する鉄道建設を中心に据えて,武力行使による領土強奪よりもはるかに効果的な手段,つまり貿易による市場獲得を図った。それは彼が,列強間の真の競争は経済であり,武力衝突はかえって国家の経済的繁栄にとって障害となると考えたからであった。

 1895年秋頃までは,満洲を迂回する北方路線案(ブラゴベシチェンスク=ニコラエフスク)と満洲貫通の南方路線案(チタ=満洲経由=ウラジオストク)の二案があった。しかし,ロシア皇帝ニコライ2世は最終的にウィッテの案(南方路線案)を採用し,前者を却下したのであった(注3)。

 旅順等の占領と租借は,最初,外相ムラビヨフと皇帝ニコライ2世が進めたものであったが,後にウィッテはこれを既成のこととしてハルビンから旅順・大連の租借地へ東清鉄道を南に延長させ,後背地を母国ロシア,ヨーロッパに結びつけたのである。

 ダーリニーとハルビンという二つの植民都市の建設はウィッテの世界貿易戦略をかけたものであった。そしてウィッテは,ロシアを海運国として育成するために,東清鉄道関連企業傘下に,太平洋海域にロシア固有の海運会社の設立,造船,海運ルートの設定などを主張するとともに,国庫からの支出をも主張した。

 1890年代ウィッテは,極東政策の展望を次のように読んでいた。

 第一に,ロシアの大陸横断鉄道網が,英国が関与するインド茶のヨーロッパへの海上輸送に対抗して,ヨーロッパへの中国茶の仲介輸出の面で役割が期待でき,また,ロシア国内の中国茶の消費市場の増大も予想されたことである。ヨーロッパと上海間では,鉄道輸送がスエズ運河経由の海上輸送よりも,輸送日数を18〜20日くらい短縮できること。第二に,中国に対するロシアの輸出製品が伸びる余地があり,なかでも灯油,綿・羊毛など繊維製品などは対中国輸出製品の中でも有望な品目であった。第三に「平和的」政策実現のための外資導入条件が1890年代にはそろっていたことである。

 しかし,これまで述べてきたようなウィッテの極東開発構想は,最終的には破綻する運命になった。その原因としては,政策実施上の性急さと満洲経済支配の虚構,省庁間の派閥抗争に見られる政策実施上のコンセンサスの欠如,対外関係の悪化などが挙げられる。ロシアの満洲事業が「後退すべくして後退した」と言われるのは,根本的にはウィッテの構想自体に内包されていた誤算によるものであったと思われる。

2.19〜20世紀のロシア極東地域

 話は前後するが,ロマノフ王朝時代の17世紀には,コサックや商人などを中心とした東方進出があったが,ロシアは極東地域に勢力を持っていた清国と国境問題を解決すべく1689年にネルチンスク条約を結んだ。しかし,その後は貿易関係があるのみで,大きな変化はなかった。

 ところが,19世紀半ばになると,それまでの中央アジアをめぐる英露間のグレート・ゲームの影響から,ロシアも極東地域への進出を積極的に進めるようになった。そして1860年には清国との間に北京条約を結び,さらにロシア政府はロシア海軍基地をペトロパブロフスク軍港から不凍港に移すべく沿海州南部に目を向けるようになった。1860年にロシア海軍がメア湾に接岸して水兵が上陸し,そこを「ウラジオストク」(「東方を支配せよ」という意味)と名づけたのである。

 ウラジオストクは,1860年の北京条約以前は清の領土であり,名称も中国式に「海参威」(ナマコの取れる街の意味)と呼ばれていた。しかし,1872年にはロシアの太平洋艦隊の基地となり,人口も1万人を越えたが,軍隊だけあってもそこに生活する人々は食べていけない。そこでロシア政府は遠くウクライナ方面からも移民を進め,80年代には4万人を越えるまでになった。

 土地を与えられるなどの政府の優遇政策によって,ウクライナ,白ロシアなどからスラブ人が,シベリア,沿海州へと移動してきた。ロシア人たちは,植民として東方に来たのであり,農民は全体的には少なかった。そこで軍人及びその家族を養っていくための食料生産者として,アジア系移民を利用しようとした。 

 おりしも,1860年代に朝鮮半島で飢饉があり,生活の糧を求めて農民たちが沿海地方に逃れてきた。彼らには朝鮮族だけではなく,漢族も含まれていた。ロシア政府は,この地域に食料供給地が必要なので,入ってくる朝鮮族に一定の助成などのインセンチブを与えて農業をやらせる施策をとった。

 またロシア正教に改宗した人をロシア人とみなすとしたことで,朝鮮族の中にはロシア正教に改宗してロシア人になった人もいたようだ。飢饉で食うことにも困りながら朝鮮にいるよりは,ロシア人となればロシア政府からの助成(農具や耕作地など)という恩典を受けられるので,それならばロシア沿海地域に移った方がいいと判断してのことと思われる。その他,建設労働者としても中国人や朝鮮人などアジア人が来ており,当時のウラジオストクの人口比をみると,約三分の一がアジア人であった。

 ところが,1928年以降になると,極東地域にスターリンの政策が色濃く出てきた。アジア系の人々で商業を営む人は,日本側のスパイ,ソビエトの敵だとされて移民から排除されるとともに,それ以外の移民も全体的に排除された。漢人は中国に戻され,朝鮮族は,中央アジア地域に強制移住させられた。その結果,ウラジオストクの人口構成はスラブ人によって占められるようになった。

 ソビエト時代のウラジオストクは,スターリン時代の30年代から91年ごろまでは外国人の立ち入りが禁止された軍事都市となり,ソビエト太平洋艦隊の軍港,基地としての位置づけられた。ウラジオストクをはじめとするロシアの極東沿海地域は,ソビエト連邦時代を通じて軍事基地としての性格から閉鎖された地域であった。

3.北東アジアの地域開発

  ―豆満江開発の意義

 スターリン時代は,ソビエトの国家社会主義政策の一環として,いかなる辺境の地に住んでいたとしても,住居,消費財(衣食)などは低廉な価格で手に入れることができ,それが社会主義政権の正統性の根拠の一つになっていた。それゆえ,この時代には,スラブ人(ロシア人)は東方移民政策などによって極東地域に入ってきた。しかし,フルシチョフ時代以降になると,強制的にシベリア・極東地域に移住させることがほぼ難しくなり,沿海地方やロシア極東地域に人が定着しにくい状況が生まれた。

 その結果,ゴルバチョフ時代のころには極東地域の人口が非常に減少してしまった。そのような状況の中,80年代半ばに,ゴルバチョフが「ウラジオストク演説」(注4)を行い,ウラジオストクの開放を宣言した。それを受けて,91年末から92年初めにかけてウラジオストクが開放された。ソ連時代とは対照的に,門戸を開放したころからアジア人が急激に流入するようになって,地元のジャーナリズムが現代版の「黄禍論」として大きく取り上げるようになった。

 当時,ロシアのジャーナリズムでは,ウラジオストクに中国籍(中国のパスポートを持つ人)の人たちがかなり流れ込んでいるとの情報が流れていた。ただし,中国籍の人といっても,その4〜6割は中国・東北地方にいる朝鮮族の人々であり,統計上フローとして2〜3万人程度いたと推定されている。90年代後半に私は何度か,ウラジオストクのバザールをたずねて無作為のフィールド調査(100件ほど)を行ったことがある。当時ウラジオストクに来ている露天商の人たちの出身は,圧倒的に朝鮮族の人が多く,次いで漢族の人々であった。

 1990年代以降,人口圧力による旧満洲からロシア極東地域への流入が報じられていた。私は,以前から「人口圧力」という言葉の意味するものが,社会現象として実在するものなのか,気になっていた。中国は十数億人という人口を抱える反面,ロシア極東地域はかなり人口希薄地域であるので,「人口圧力によって」人々が移り住むといわれる。しかし,私の現地調査の実体験からすると,人口圧力というよりは,移動先の地域の方が商品が高く売れるなどの実利的理由によって移動したように思われる。ある面で中国の農村地域が農業中心からそれ以外の産業にシフトしていく転換点であったのではないかと思う。こと極東地域に限っていえば,移り住むのではなく,あくまでも商売のために一定期間ウラジオストクに行き,一定期間が過ぎればまた戻ってくるというように,その地に定着したのではなかった。

 中国・東北地方は国有企業が多いが,国有企業がだめになると,そこの労働者がレイオフされて食べていけなくなる。そこでその難を避けてロシア極東地域に流れ,露天商などを営むようになる人々が少なくなかったようだ。ウラジオストクの市場の露天商では,中国・東北地方の商品価格の1.5〜2倍の価格で売れるために利益が上がった。

 もともと清の領土であったウラジオストクに,多くの中国人がフローとして入ってきたことに対して,ロシア側は,(人の移動によって)事実上の領有を企図しているのではないかとの懸念を示した。しかし,事実としては,人口移動はフローとしての現象であって,ストックとして移住したのではなかった。

 ところで豆満江地域の開発は,1990年代に中国・吉林省が提案してこの周辺国が参加する形で始まったプロジェクト(注5)であるが,その後,国連開発計画(UNDP)が取り上げるなどしながら現在まで進行している。当初の中国側の提案の中には極東地域と欧州を結ぶ「新ユーラシア・ランドブリッジ」構想が含まれていたが,その淵源をたどれば,前述したようにユーラシア大陸を横断する物流パイプを作るとのウィッテの構想に結びつくものである。

 ウィッテの欧州・アジアを結ぶ貿易回廊構想は非常の独創的である。それは時を超えて21世紀においても,「北東アジアの貿易回廊」,または「アジア大陸横断鉄道北回廊」の名前で生き続けている。シベリア鉄道経由のルートのほか,大連経由陸上輸送,綏芬河経由など「北東アジアの輸送回廊ビジョン」といわれるものの多くは,ウィッテが構想したものを基礎としている。シベリア鉄道は,イラク戦争でスエズ運河経由の欧州ルートに対する危険が高まるなか,欧州・アジア間の陸上交易ルートとして再び注目されつつある。

 開発の一つとして,延辺朝鮮族自治州に対外直接投資という形で進められている。この地域に国際的な資金が流れ,農村部の人々は,農業を離れて工場労働者,出稼ぎ労働者となり,その一部はロシア極東地域に流れていった。琿春は辺境経済合作区として開発が進んでおり,シベリア鉄道を経由してヨーロッパと連結するという物流拠点としての可能性を秘めている。またロシアは,大連に代わるザルビノ港開発を進めようとしている。

 欧州と北東アジアを結ぶトランジット・コンテナ輸送が近年,とくに韓国企業による中央アジア向け輸出や中国企業によるロシア向け輸出の需要を受けて増大しているからである。韓国企業の中央アジア向け輸出の90%はシベリア鉄道を利用し,中国企業のロシア向け輸出は大連港発,または,釜山経由のルートで中国製の衣類,靴,日用品,その他韓国系企業の家電製品が沿海州のボォストーチヌイ港に運ばれモスクワ,イルクーツクなどに流れている。このように北東アジア諸国から西向けの荷物が圧倒的に多い。

 豆満江地域の開発が進めば,北東アジアに新しい時代が開かれていくことが期待されている。今日,中露国境問題が解決したので,中露が戦略的パートナーシップを築いていければ,極東地域のさらなる発展につながるだろう。地域経済圏全体を見れば,中国は労働力を提供し,ロシアは天然資源を,韓国は資本や技術など相互に補完しあうような経済関係にあることを意味している。

 このように豆満江地域開発には,互いに異なる民族が調和していくことのシンボル的な意味合いもあるように思う。民族がどのように調和していくかは難しい問題だが,その際,北朝鮮情勢がどう展開するかが重要なポイントとなるだろう。

(2008年9月17日)

注1 セルゲイ・ウィッテ(Count Sergei Yulユjevich Witte,1849-1915年)

  ロシア・グルジア生まれ。皇帝アルクサンドル3世に登用され,財務省鉄道事業局長官を務め,その後,運輸相,財務大臣を歴任し工業化を推進した。また首相を務めた他,日露戦争では講和会議のロシア側全権として交渉に当たった。

注2 ウィッテの平和的侵入論

  シメルペニンクによれば,他国からの領土割譲という武力による手段に訴えるのではなく,「経済的な手段によって」極東地域における影響力の拡大を図るために行ったウィッテの政策構想であった。それはシメルペニンクの定義によれば,「外国の領土を植民地として直接支配することなく,政治的,経済的な影響力をうち立てるという」考えであった。列強国間の真の競争は経済であり,武力衝突はかえって,国家の経済的な繁栄にとって障害となる。ウィッテは,このような視点から,ロシアの「平和的侵入」は満洲を貫通する鉄道建設を中心に据えて,武力行使による領土強奪よりもはるかに効果的な手段,つまり,貿易によって市場を獲得しようとした。このように,「平和的侵入論」は,シメルペニンクの視点では,満洲に対する軍事的拡張政策を主張するグループに真っ向から反対した考え方として取り上げられている。(飯島康夫「ウィッテの極東政策の破綻と開戦への道」『日露戦争(一)―国際的文脈』錦正社,2004年)

注3 シベリア鉄道の北方路線案と南方路線案

 北方路線案は沿黒竜江州総督ドゥホスキー,外務省アジア局長カプニスト及び在清国の駐在武官ボガークが主張していたものであった。彼らは満洲貫徹路線の必要性を認めなかった。カプニストは次のように主張した。南方路線が他国領土を通過し軍事的な兵站線として非常に長距離で,史上に例を見ないものであること,経済的にも,満洲支配はロシアの国力からして「軍事的占領なしには不可能であること」,「(南方路線の)鉄道建設が武力行使という強硬手段を誘発し」,「満洲のすべて,またはその一部を奪取するには恒久的に黄海を管轄下に置く海軍基地を奪い取るという行動へとつながり」,ウィッテの南方路線案は「政治的なリスク」を負うものの,「見返りの少ない冒険」であると猛反対した。ドゥホスキーは,他国領土の満洲を横断して鉄道を延長させることは歴史的な大失敗になると言い,黒竜江に沿ってロシア領域内に鉄道の延長線を敷くことを提案した。ウィッテの提案は結局のところ,ロシア資本の経済的な利益と何ら結びつくところはないというのが,カプニストらの主張であった。(同上)

注4 ウラジオストク演説

 ゴルバチョフ書記長(当時)は,86年7月末のウラジオストク演説において,ソ連はアジア太平洋国家であるとの立場を鮮明にし,同地域に対する高い関心を示し…同書記長は,対中関係改善に意欲をみせ,ウラジオストク演説において,中国の「3つの障害」のうち二つ(モンゴル駐留ソ連軍の撤退とアフガニスタンよりのソ連軍の撤退)に対して若干柔軟な姿勢をみせ,その後ある程度の具体的措置をとった。(『外交青書』1987年度版より)

注5 豆満江(図們江)地域開発

  この案件は1990年7月に中国の吉林省長春市で開催された「北東アジア経済技術開発国際シンポジウム」において,中国代表者から提案されたものである。このシンポジウムには中国,ソ連(現ロシア),北朝鮮,韓国,日本から,研究者や企業人,政府関係者などが参加した。中国代表者の提案内容は,つぎのようなものであった。

 1)図們江地域は北東アジアの中心に位置し,経済的に相互補完性が高く,各国間の協力による開発に最適である。

 2)この地域に中国,ロシア,北朝鮮3カ国による共同開発ないし各国の自主開発で,国際的な自由貿易地帯をつくる。

 3)この地域と欧州を結ぶ「新ユーラシア・ランドブリッジ」を開通する。これが実現すると海路で30日かかるところが17,18日程度に短縮され,費用も約20%節約できる。 

  しかし,中国側の本来のねらいは,中国の改革・開放政策のもとで中央政府の権限の一部が地方政府に委譲されたのにともない,吉林省などの内陸省が図們江を使って独自に貿易ルートを確保することにあった。

 従来より日本海へ出るルートは,黒竜江省からは松花江,アムール川を船で下る方法と吉林省からは鉄道で北朝鮮の清津港にいたる二つのルートがあったが,輸送能力や国家間の諸関係から十分に機能していなかった。そこで吉林省政府が,旧ソ連との関係改善にもとづく国境画定を契機に,旧ソ連領内の図們江下流域の航行権を承認してもらうとともに浚渫することを考えた。そして港は,図們江の中国領内の最先端である防川に建設することにした。

 その後,吉林省が提案した「図們江開発構想」は,国連開発計画(UNDP)が東西冷戦構造の崩壊を記念する象徴的なプロジェクトとして,第五次事業計画(1992-96年)の重点案件として取り上げることになった。この構想の具体化に関しては,さまざまな提案がなされている。たとえば国連工業開発機関(UNIDO)が中心になって取りまとめた内容は,中国の琿春,ロシアのポシェット,北朝鮮の羅津をつなぐ小三角地帯(面積約1000万平方キロメートル)を開発し,ついで中国の延吉,ロシアのウラジオストク,北朝鮮の清津をつなぐ大三角地帯(面積約1万平方キロメートル)へ拡大していくという段階的発展こう雄である。

 UNDPの主導で計画の具体化がはかられる過程で,市場経済化を進めるモンゴルが,日本海への輸送ルートを求めて図們江開発計画に参画することになった。UNDPは,この構想を推進するために中国,ロシア,北朝鮮にモンゴルと韓国を加えた5カ国からなる「計画管理委員会」を設置し,そこを中心に意見調整を行うとともに,国際会議や実務者会議を開催してきた。

  しかし,中国領内に港を建設し,河口まで浚渫して日本海への航路を建設するという構想は,図們江下流の水深が平均3.8メートルと浅く,浚渫しても土砂堆積などで,しかるべき大きさの船の航行が不可能であると判断された。その代案として出されたのが,ロシアや北朝鮮の既存の港湾を拡充して使用すると言うものである。

 (横田高明「環渤海湾と環日本海経済圏の生成」,木畑洋一編『<南>から見た世界』,大月書店,1999年)