心とは何か

―脳細胞を研究しても心はわからない


米国・カリフォルニア州立大学教授 トム・カンドー



 この論文は,心は脳と同じもので,したがって遺伝的で化学的なプロセスからなるものとする現代の信念を批判するものである。この考え方に対立するものとして,我々の心は世界や他者の経験からなっており,脳は心の物質的拠り所かもしれないが,心そのものではないという,より常識的な見方がある。

 カンドー教授は,唯物論的な還元主義と実証主義を反駁することから始め,ウィリアム・ジェームズやジョージ・ハーバート・ミード,ジョエル・シャロンなどの著作を引きながら,心は学習の産物であり脳と同じものではないと論じている。

 2007年11月4日のSacramento Bee紙のフォーラムには,「何が我々の心を形成し意識を作り出しているか」というジョエル・アカンバーク(Joel Achenbach,「ワシントン・ポスト」紙記者)による論文の,「ワシントン・ポスト」記事が転載されていた。この問題についての論文や記事に出くわすたびに――それはほぼ年に一度,New York Review of Booksといった高級誌や,「タイム」といったそれほど高級でない刊行物に載る――私は血が頭に上るのを覚える。

 現代世界は,人間の心を根本的に脳と同じものだとする考え方に,ほぼ満場一致で到達しているようにみえる。これは記念すべきかつ馬鹿げた間違いである。この間違いを顕著に犯しているのは,いわゆる社会科学,特に心理学である。こういった学者たちが,現代人に彼らの信念を吹き込んでしまったのである。その結果,現在では,大衆文化,メディア,そして一般人が,すべてこの現代の神話を疑うこともなく受け入れている。

 もう一つの例は,2007年12月3日付「タイム」誌の「何が我々を道徳的にしているか」というカバー・ストーリーで,ここには他の例と同じく,道徳や共感(同情)といった心理的現象は,化学的プロセスに還元可能な「我々の遺伝子という深い場所」からくると書かれている。

  私はこの論文で二つのことを試みる。(1)20世紀に蔓延したこの神話を論駁し,(2)「心とは何か」という問いへの別の回答を提出する。

心理学者もほとんどの一般人も脳と心を混同している

 なぜ心理学者(と彼らに従う一般人)は,心と脳が同じものではないことを理解できないのだろうか? 2007年のアカンバーク論文を例にとってみよう。

●著者はジョージ・メイソン大学の「クラスノー研究所」でなされた研究のことを「もっぱら心の研究」だと言ったあとで,「人間の脳はニューロンと呼ばれる300億の細胞を含む肉の塊り」だと付け加える。

●著者は「人間の脳は意識あるいは自己意識という貴重な特性をもっている」と書く。

●だから「我々の頭蓋骨の中のどこかに〈私〉がいるのだ」と。

●また,有名なUCバークレーの哲学者コリン・マクギン(Colin McGinn)の「脳という物質の水分が意識というワインに変わる」という言葉を引いている。

●心理学者某は,連邦政府に心の研究プロジェクト10年計画に40億ドルの研究費を要求したと言い,続けて,神経科学に注目の集まった「脳の1990年代」と言っている。

●また,ある科学者グループが「サイエンス」誌に心の研究を大きく飛躍させたと主張する論文を載せたが,「それはMRSのような脳スキャンによってすでに大きく進歩している」と言っている。

●この論文の著者はまた,「心はコンピューターのスクリーンに現れるようなものではない。人々は何世紀にもわたって心を求めて脳をつつき回してきたが,意識を生み出すのに最も重要な神経構造が何であるかは,まだわかっていない」と言い,いろいろな重要とされる脳構造をリストアップしている。

 こういった引用箇所からわかるのは,この心理学者の,心と脳の混同である。アカンバークや彼が引用する他の心理学者は,brain(脳)とmind(心)を互換可能なものとして扱っている。脳から心へ,また心から脳へと,あたかもこの二つが同じものであるかのように自由に行き来している。

 ほとんどの心理学者が犯しているこの間違いは,「モノ化」(reification,ラテン語の「物」resからきている)と呼ばれる。これは概念を有形物と考えるときに起こる。言い換えると,実体的で可触的なものを,そうでないものから作り出す場合である。例えば「悪」という概念を「悪魔」に擬人化して考えるならば,我々はそれを「モノ化」(reify)している。あるいは「社会」という概念で考えてみよう。我々が「社会が人種差別する」と言うとき,我々はそれをモノ化している。なぜなら人種差別するのは個々の人間だからである。

 社会学者がどの程度まで「社会」を実体化しているのかは,長い間論争の的となっている。そういった非難は,私自身のようなミクロ社会学者から主としてやってくる。我々は「社会」という概念が,個人の構成員の上に,またそれを超えて働く独立した存在のように感ずるが,これはデュルケーム的な,社会を実体化するものである。しかしここでデュルケーム社会学の是非を論ずる必要はない。私はただ実体(モノ)化ということの一つの例を用いたのであって,読者は別の例を考えられるだろう。

 心理学者もまた,心と脳を同一視するとき実体化の過ちを犯している。「ニューロンと呼ばれる300億の細胞からなる肉の塊り」はもちろん心ではない。また時に彼らは「心」と「意識」を同義語的に使うことがある。確かにそれは現実により近くはあるが,しかし彼らは意識がどういうものであるかを理解しないでこの語を使っている。彼らはなおも,意識をモノ的な対象として考えている。すなわちこれを,神経科学の経験的な道具によって研究できるもの,経験的に観察し数量的に計測できるものとして考えている。

 これもまた意識というものの真の性質を誤解するもので,意識はモノではなく,一つの存在様態,質,状態である。それは人間が経験する他の状態――空腹,怒り,恐怖,渇き,疲れ,苦痛,快楽――と同じカテゴリーに属する。

 確かにこういった状態にはすべてその心理学的対応物があって,実験室で研究することができる。疲労は,筋肉の衰弱,グルコースの減少を伴う,あるいはそれによって起こされる。恐怖と怒りは,アドレナリンの流れの増加や心臓の動悸の加速などを伴う。苦痛は組織の損傷の結果などでありうる。しかしこれらの肉体的対応物は,それそのものではない。

 空腹を例にとってみよう。空腹はどこに存在するか。空腹の原因――不十分な食物摂取――は胃の中で起こっている。しかし空腹そのもの,空腹という感覚と自覚は胃では起こらない。もしこの自覚を我々の体のどこかに位置づけようとするなら,我々は多分それは脳から発すると言うだろう。そこが我々の考える場所だからということであろう。しかし空腹を自覚する場所をどこに決めようと,それが胃ではないという事実そのものが――結局,我々は胃では考えないのだから――不十分な食物摂取という生理学的事実と,その結果としての空腹感は,同じものではないことを証明している。

 そしてこれは我々のすべての経験について言える。苦痛は感覚,つまり組織の損傷から生ずる経験である。それは組織の損傷そのものではない。

 意識もまた一つの経験である。それは,苦痛が組織の損傷の結果であるように,我々の神経系統の化学的プロセスの結果かもしれない。しかしそれは化学的プロセスから成り立っているのではない。意識(すなわち心)がどこにあるのか――例えば脳のどの場所か――を問うことは,「生命」が我々の体のどの場所にあるのかを問うのと同じである。生命はプロセス,作用,動詞であって,モノ,実体,名詞ではない。心や意識についても同様である。それらは作用である。心や意識が「ブロードマン領域46」とか「前部帯状溝」とか脳の他のどんな場所にもないことは,「生命」があなたの膝にも足指にもないのと同じである。

 確かにさまざまな機能がさまざまな器官によって果される。眼は見ることを可能にし,胃は消化を可能にし,生殖器はオーガズムの経験を可能にする。

  同様にして,脳のさまざまの領域は,さまざまの心の機能を果すことを可能にしているのだろうか?大脳皮質は言語機能をつかさどり,右脳は直感的能力を,左脳は分析的な能力をつかさどる,等々と確かに言われる。しかしいかなる科学者も,大脳皮質を顕微鏡で調べて,そこに「言語」を観察することは決してないだろう。それは言語を可能にするのであって,言語がそこにあるのではない。言語がそこにないのは,眼に我々の見る光景がなく,足に歩行がないのと同じである。器官や大脳領域は,ある特定の行動を可能にするだけである。

 この心の概念に神秘的あるいは難しいものは何もない。それは構造と機能の区別に基づいていて,この区別はダーウィンの生物学革命の時代からあったものである。にもかかわらず,ほとんどの心理学者,ほとんどの一般人は,現代では実証主義が幅を利かせているために,それを受け入れることができないのである。彼らは,我々の脳のさまざまな領域にさまざまな「思考」が含まれているという,ばかばかしい考え方をしているのである。

 脳をコンピューターにたとえることが一般的になったが,それがこの事実を証明している。ほとんどの人は脳を非常に複雑なコンピューターだと見ている。しかしこれは間違っている。ちょっと考えてみればよい。コンピューターは文書や単語や音声や図像を生み出すが,それはなぜかといえば,そういったものが,そのドライヴに含まれているからである。

  確かにコンピューターといえども,時には新しいものを「創造する」,すなわち,すでに存在するファイルの単なる取戻しでない何かをつくりだす。しかしこれもやはり,すでに存在する情報,すなわちコンピューターにあらかじめプログラムされていた数学的ルールに基づくものである。

 だからコンピューターの生み出すものはすべて,すでに存在するファイルから取り戻したものか,あるいはすでに存在する材料の組み合わせか,すでにプログラムされたルールを適用してできたものである。すべてこれらは,ファイルが閉ざされ活動していないときでも,物理的な形で存在する。それらはコンピューターがシャットダウンされても,(そのドライヴに)存在するのである。

 そしてここが,心とコンピューターの類比が完全に崩れるところである。結局,シャットダウンされたコンピューターは,死んだ人間に相当するのではないか? なぜ,コンピューターの場合は再起動してそのファイルをもう一度開くことができるが,人間と人間の思考は死後には取り戻せないのか,その理由は明らかではないだろうか?

 それは,コンピューターは決して新しいものを生み出せないのに対して,人間の脳の生み出すほとんどすべてが新しく,だからこそ思考といわれるところにある。コンピューターの出力と違って,脳の出力は,潜在力の顕在化ということにあり,それは開かれたばかりのファイルのような,すでに存在する材料の表現でもなく,あるいはすでにプログラムされたルールを基に演算されたばかりの数学的運用でもないのである。

 これが,コンピューターは「脳」だと言うこともできるが,しかし思考あるいは心をもつとは言えない理由である。これに対して人間はその両方をもっている。人間の心は  創発する活動である。人間の思考はそれが起きるたびに新しい。

  意識とは何か,心とは何かという私の説明は単純である。にもかかわらず,多くの科学者や他の学者と同様,大多数の心理学者はこれを把握することができない。

 有名なUCバークレーの哲学者コリン・マクギンですら混乱している。例えば,1999年6月号New York Review of Booksの「我々は果たして意識を理解することができるか?」と題するマクギンの記事は,この主題についての,例えばプラグマティスト(実用主義者)による最も重要な貢献のいくつかをあげることができず,彼の無力さを露呈している。おそらく彼は,一つの言葉や観念をあまりにも何度もくり返すことによって,その意味が分からなくなってしまう,よく知られたあの症候群に陥っているのである。生涯,意識の問題に没頭し,あまりにも長くそれについて読みかつ書いてきたので,彼はこの問題をはっきりと見定めることができなくなったのであろう。彼は混乱してしまった。

  深い学識をもつ我々の一流の学者,ハーヴァードやバークレーの博士たちが,私の教えている大学一年生にも理解できるような心の概念を,把握することができないというようなことが,いったいどうして起こるのだろうか? 

  答えは簡単である。社会科学の学問体制は,それが間違ったパラダイムに与したために,目が見えなくなったのである。そのパラダイムとは何か? 本質的にそれは,実証主義(positivism)の伝統の過重な影響を受けたものの見方なのである。実証主義はこう定義されてきた――「諸現象の説明を現象自体に限定し,厳格な科学の手続きをモデルとして説明することを選び,科学の技法の限界を超えるような,すべての傾向性や想定や観念を,厳密に排除する思想の傾向」(Martindale: 52-53)。

  実証主義はもはや支配力を失い,科学哲学として重要な役割を果してさえいない,としばしば言われる。この教義は少なくとも1950年代以来,クワイン(William Van Orman Quine)やヘンペル(Carl Gustav Hempel)といった哲学者の批判の影響のもとに消滅した,と主張する者さえある。こういった主張は実情をとらえ損なっている。

  第一に,実証主義という言葉はいくつかの違った意味をもっている。自然科学におけるその意味は,行動科学で使われる意味とは異なっている。20世紀の哲学者たちはしばしば「論理実証主義」について論じた。

  その上,ここで私の焦点は,実証主義のすべてのあり方についての膨大な議論の一側面だけに当てられている。すなわち行動科学における実証主義の意味と重要さである。例えば心理学や社会学の分野において,実証主義とは,人間の行動の研究は――心理的行動すなわち思考も含めて――物理現象の研究と違っていてはならない,この二つは基本的に同じなのだから,という信念を意味するものと私は考えている。

  この限定された意味において,また行動科学の範囲内において,私が実証主義と呼ぶものが支配的な方向付けをしているのは間違いのない事実である。少数の社会学者と心理学者を除いて,ほとんどの行動「科学者」は,数量化,計測,観察,帰納といったことが,唯一ではないにしても最上の社会研究の道具だと考えている。彼らが自分を行動「科学者」と呼ぶこと自体が,彼らの研究の方法が物理的諸科学の方法と基本的に変わらないということの証拠である。

  この認識論は,より深い存在論的想定,すなわち唯物論的還元主義に基づいている。これは物(理)的現実のみが現実であり,他のすべての現れ,すなわち精神的,社会的,文化的,道徳的なものも究極的には,物的な構成要素に還元することができるという信念を指している。

  このような実証主義的で唯物論的な科学の概念が社会科学をも支配している理由は,科学そのものが唯物論的企てとして定義されるようになったからである。何といっても,科学の土台石となるものは帰納的な経験主義である。科学は,感触的な手段によって観察されるものの現実性(存在)のみについて,確信することができるのである。

  この科学の概念が自然科学についてはあまり問題がないとしても,いわゆる社会科学に対しては,難問を突きつけることになる。社会科学は(1)その主題となる対象の範囲を厳しく制限するか,それとも(2)それは普通に使われる限定された意味での「科学」ではないことを認めなければならない。

  最初の選択は,唯物論的還元主義の教義に従うことである。生物学者は,有機的生命は基本的に無機的化学のより複雑な形にすぎないと信じている。言い換えれば,化学と生物学の違いは量的なもので,質的なものではないということである。次のレベルでも同じことで,心理学者は,彼の主題となる対象は究極的に生物学から成っていると信じている。心理学は単に生物学のより複雑な形にすぎない。そのようにして階梯を上がっていく。社会学者は,彼の研究対象は心理学的事実を複雑にしたものにすぎないと信じている。彼もまた還元主義者である。

  科学者は彼の研究から多くのものを除かねばならない。自由や自由意志,道徳,善悪,正義,愛,美といった現象は実証的に研究することはできない。愛を化学反応に還元することは,この概念を無意味にする。かくして科学者は,人間生活において興味深い重要なことのほとんどを取り逃がすのである。

  二つ目の選択は,社会「科学者」が自分を科学者でないと認めることである――少なくとも科学が定義されるようになった狭い唯物論的な意味において。良かれ悪しかれ,科学は,20世紀までに哲学的唯物論と同義語になってしまった。科学の定義は同語反復である。科学は経験的に確かめうる現象の研究と定義され,そのようにして確かめられない概念は科学的場所をもたない。かくして科学はこう言う――「科学的であるものだけが科学の一部である」。

  心理学や社会学といった行動科学は,腹をくくって,自分たちはこのような狭い同語反復的な意味で「科学的」ではないという事実を認めることもできよう。しかし,現実の経済的な利害がこれを難しくする。何千という大学,何十万という大学人の財政的な生き残りが,NSF(全米科学財団)やNIMH(国立自然史博物館)からの助成金に依存しているからである。

  支配的なものの見方に順応するということは,思想の歴史において新しいことではない。実はそれは例外というより,その方がルールであることが多い。権力構造はたいていは支配的な信仰体系と癒着するもので,このような信仰体系は科学的革命によってのみ突き崩される(この点に関しては,トマス・クーンの古典的な『科学革命の構造』を見よ)。

  現代の心理学者や社会学者は中世の錬金術師に似ている。彼らは達成することのできない目標を追いかける。彼らの努力が実らない運命にあるのは,ちょうど一般金属を金に変えられると信じた錬金術師のように,彼らも肉体を精神に変えるという不可能なことを試みているからである。そして悲劇的なのは,そうした心理学が支配的であるために,その誤りが世間全体に受け入れられていることである。

心身二元論 

  先に引用した論文の中ほどで,アカンバークはやっと「心の問題」は哲学の問題であって科学の問題ではないことに気づいている。実際,問題は認識論的なものであって,存在論的なものではない。すなわち問題は,心とはどんなものかでなく,我々がそれをどう概念化するのがよいかである。問われているのは,心を顕微鏡によって観察記録することでなく,それが何であるかを理解することなのだ!

  ほとんどの心理学者と同様,アカンバークは,心とは何であるかをすでによく理解している多くの知的な人々がいるという事実を,知らないでいる。これらの人々のほとんどは心理学者でなく,いわゆる専門家でもない。

  ところで心が何であるかを理解したいと思うなら,我々はカントやディルタイの哲学的観念論,ウィリアム・ジェームズやジョージ・ハーバート・ミードのプラグマティズムへ帰るか,「象徴的相互作用論」(Symbolic Interactionism)という現代の社会心理学派の理論を研究すべきである(これについては私の著書Social Interactionを参照されたい)。

 アカンバークのような心理学者が,神経科学でなく哲学によって心の問題にアプローチし始めたのを見ると,私はようやく彼らが悟り始めたのではないかと,気が晴れるのを覚える。彼は二元論という教理を取り上げている。これはプラトンに始まりデカルトにつながる,心と身体は二つの別々の領域であり,心的現象は非物理的なものだという信念である。

  ところが心理学者は大きな混乱を露呈して,再び私を失望させる。アカンバークがデカルトを論ずるとき,それは神経科学のコンテクストにおいてのみであって,彼はこのフランスの哲学者が心身二元論の,唯一の最も有名な提唱者であるということに触れもしない。彼はただ心理学という党の方針を示そうとするだけで,このように言う――「二元論は心の在り処の問題を定義で片付けることによって解決する。すなわち,心は身体とは別の,機械に還元できない何ものかとして受け止められる。それは実験室の器具によっては到達できないものである。二元論は我々にとって有り難いものだ。なぜなら,それは我々の心,我々自身が単なる化学の産物ではないことを示唆し,したがって我々は自由に,魂とか霊とか本質といったものについて話すことができるからだ。」そして彼は続けてこう付け加える――「二元論は真面目な研究者にはほとんど通用しなくなった。」

  二元論が「真面目な研究者には通用しなくなった」かどうかは,「真面目な研究者」の定義いかんによる。もし化学者や神経科学者や,その他誰でも顕微鏡を使う人たちだけがその栄誉にあずかるというなら,実証主義者が正しい。しかし私は「実験室の器具」以外の方法を使う多くの「真面目な研究者」を知っている。

  ほとんどの心理学者のこの盲目性は,彼らが実証主義者であるという事実によるものである(彼らはこれを否定しようとするが)。実質的に彼らは,もし何かが顕微鏡によって,あるいは実験室で研究できなければ,そのものは存在しない,と言っているのである。彼らは本当は,もし何かが顕微鏡で研究できないなら,他の方法を用いなければならない,と言うべきなのだ。

  もし私が,心は研究すべきでないとか,きちんとした方法では研究できないとか,言っていると取られるとしたら,とんでもないことである。この論文はまさにその反対のことを主張する。私の考えでは,人間の心ほど興味深い,かつ精査に値する現象はない。心理学が店をたたむべきだとは私は夢にも思わない。ただ私の言いたいのは,現時点ではほとんどの心の研究者が間違った方法を用いているということである。正しい厳密な方法は,フッサールやアルフレッド・シュルツが説明したような「現象学的」なものでなければならない。

間違った解決:心は存在しない

  実証主義者の提出するもう一つの解決法は,心は「存在しない」というものである。アカンバークをもう一度引用すると,「我々はそれを想像しているだけである」と彼は言い,「人間の脳は…複雑な機械であるが,それはドライバー[心]をもっていない」と付け加える。彼は,Consciousness Explainedの著者であり「脳の〈中心的執行者〉という観念は幻想である」という見解の代表者であるデネット(Daniel Dennett)を引用している。ここから考え方を借用して,アカンバークは「自己とは錯覚であり…あなたは本当はいないのだ」と主張する他の哲学者を引用する。

  もう一度言うが,こうした誤った言明は,これらの人々の実証主義的偏見からきている。この論理では,心とか意識とか自己は,サンタクロース,ミッキーマウス,ピンクのユニコーンと同じ範疇に入ることになる。確かにこういったものは存在しない。しかしこういった論理を使えば,心や自己や意識は,愛国主義,資本主義,人種差別といった概念とも同じ範疇に入れざるを得なくなる。これらの概念もまた「幻想」であろうか? これらはサンタクロースと同じように,我々の想像の中でだけ存在するのであろうか? 

  現代の科学者は二つの選択肢しかもたない。すなわち(1)心を脳の内部に物理的な形で存在させるか,それとも(2)それができなければ,そんなものは存在しないと言うかである。唯物論的還元主義による物理的現実だけが唯一の現実だ,と彼らは言いたがる。サンタクロースという観念と愛国主義の概念を比べてみればわかるが,ある概念の指示対象が現実であれば(サンタは非現実,愛国精神は現実),その概念は実在するのである。心とはそのような概念であり,心は実在する。

正しい解決:先達の教え 

  アカンバークの結論は彼の出発点へと彼を引き戻す。すなわち生物学的還元主義である。我々は心のコードを解読することはできないかもしれないと譲歩しつつも,彼は「それでもなおやってみるべき」で,「10年と40億ドルをそれにかけるのは順当な支出」だと言う。彼は付け加えて「人間の心の進化は,この惑星の歴史で最も重要な生物学上の出来事だ。…我々はいかにして脳が心をつくるかを理解する試みを続けるべきである」と言っている。

  しかしこの同じ論文はまた,ハーヴァードの心理学者スティーブ・ピンカー(Steven Pinker)を引用している。ピンカーは著書『心の仕組み』(How the Mind Works,1997)に「我々自身の自覚は永遠に,我々の概念的把握を超えたものであるだろう」と書いた人である。アカンバークはこの見解を要約して,「心は特定的な一つの物ではない。それは一つの過程あるいは創発的現象により近いものである」と言っている。

  この一節について魅力があるのは,心の問題の,長いこと利用可能だった一つの解決の仕方に,やっと爪の先がかかったかと思われることである。ここに再び我々は,象牙の塔の天辺で研究している現代の実験心理学者たちが,昔の思想家の最も重要な仕事のいくつかを知らないでいたことを発見する。彼らは不器用に歴史の車を元に戻し,不十分ながらも昔の学者によって発見された偉大な解決法のある側面に触れるようになった。上記ピンカーの著書は,ジョージ・ハーバート・ミードの大著『精神・自我・社会』(Mind, Self and Society,1934)に注意を促すものとなっている。

  ミード,ウィリアム・ジェームズ,その他20世紀初期のアメリカのプラグティストたちは,社会心理学というものを提唱し,心の問題を見事に解決する一つの伝統を確立した。この伝統は今日でも社会学の内部で息づいており,Symbolic Interactionism「象徴的相互作用論」と呼ばれる。

  心の問題への社会学的解決を哲学的に下支えするものは,カントの新合理主義とディルタイの「人間主義的」社会学にまで遡る。

  カント学派と新観念論者がともに直面した問題は,実証主義すなわちジョン・スチュアート・ミルの主張であった。ミルの結論はこういう愚鈍なものであった――「もし我々が,自然科学の着実な進歩と比較されたときの社会科学の,まぬがれようのない失敗から逃れようとするならば,我々の唯一の希望は,自然科学においてこれほど実りあることが証明された方法を一般化して,社会科学が利用できるようにすることにしかない。」

  カント学派と新観念論者は,これが間違いであることを理解していた。ヴィルヘルム・ディルタイは,自然科学(Naturwissenschaften)と社会科学(Geisteswissenschaften)は扱う対象が全く違うのだから,異なった方法を要求すると論じた。自然科学は自然現象を説明する原因的法則を発見する。しかし社会科学は文化的で歴史的なものである。それは違った種類の知識,すなわち諸現象が人間の行為者に対してもつ意味を理解させるものである。これが最も偉大な社会学者マックス・ウェーバーの仕事に吹き込まれている基本的な理解である。

 カントと新カント学派は観念論者というより合理論者であった。しかし彼らもやはり実証主義を排斥した。カントの有名な合理論と経験論を統合しようとする試みは,二つの現実世界――現象(phenomenon)の世界と真実在(noumenon)の世界――を区別したことから成っている。「現象世界とは我々が感覚によって経験することのできる世界であり,それは科学的・合理的研究に対して開かれている。科学は現象の世界(自然界)を観察し,理性がこれら観察したものを秩序付ける。真実在(物自体)の世界は科学的研究を超越したところにあり,それは物理的でも経験的でもないがゆえに,経験的観察によって近づくことはできない」(Joel Charon, Symbolic Interactionism: 14)

  ハインリッヒ・リッケルトはカント派であり,科学は社会科学と次の二つ点で基本的に違うと論じた――「社会科学者は,個別の一つしかない(ideographic 象形文字的な)出来事を研究しなければならないが,自然科学者は一般的でくり返される(nomothetic 立法的な)出来事を研究し」因果的法則による説明に到達する。人間行動の普遍的・因果的説明の集積という意味での「社会科学」はありえないのである。

 もしカントに従って,科学は現象(真実在noumenaに対するphenomena)の研究に限定されているとしたならば,それが人間の研究になった場合には,科学の限界としてどのようなことがあげられるだろうか?

  明らかに脳は生物学的現象であり,したがってそれは完全に自然科学の管轄に入る。しかしながら同じことを,人間の行動と人間の思考については言えない。確かに社会科学者も心理学者もしばしば,人間行動,特に集団的レベルにおいては経験的な規則性や確率性を見出すことがある。しかし人間の行動や思考の過程は,ある程度まで常に予測不能である。ピーター・バーガー(Peter Berger)が『社会学への招待』(Invitation to Sociology,1963)において言うように,自由は常に可能性にとどまり,しかも自由を科学的に証明することはできない。

  だとすると自由はカントの「真実在(物自体)」のすぐれた例だということになる。それはきわめて現実的であり,実在するが,しかしそれは科学的に研究することはできない。それは人間の行動の原因ではない。

  人間の心のまぎれもない印となるものが,自由と自由意志の表現である。そしてこのゆえに「科学は人間存在についての全面的真理を決して明らかにすることはできない。」(Charon: 17)科学は人間存在の現象的側面――その脳,脳波,脳機能,脳不全やそこから起こるある行動など――を理解することはできる。しかしそれは人間の心を理解することはできない。なぜならそれは,カントの言う真実在的(noumenal)世界,すなわち実在するが経験的に観察することはできず,ただ推測するだけの世界に属するからである。

  例えば心理学者の好む概念に「動機」というものがある。この言葉は通常,ある人間の行動を説明する何らかの先行する,内なる原因または欲求を指す。しかし動機は,経験的に実在しないがゆえに,決して絶対的確かさをもって存在を確立することのできないものである。それは常に推測である。それは心の構築物であり,常に変化の可能性を伴う。同様に,人間の心もまた心の構築物であり,これもまた常に流動の状態にある。

正しい解決:プラグマティズム


  カント,ディルタイ,リッケルトは,この論文の「心とは何か」という問いにどんな関係があるだろうか? 

  これらの哲学者は次の点でこの問いに関連する。彼らはすべて実証主義の欠点を理解していた。彼らは,科学や自然科学的方法の,人間の行動や思考に対する限界を理解していた。そして人間行動や思考の唯一性,予測不可能性,自由や道徳的判断の還元不能性を,彼らはともに認めていた。

  しかしカント学派と新観念論者は,現象世界-対-真実在世界,法則性-対-個別・唯一性といったやっかいな二元性を我々に残した。それはアメリカのプラグマティスト(実用主義者)のウィリアム・ジェームズやG.H.ミードを待つことによって統合され,「心とは何か」という問いに最も満足できる答えを与えることになった。

ウィリアム・ジェームズ 

  William James(1842-1910年)はハーヴァード大学の生理学・心理学・哲学教授であった。この論文に大きな関係をもつのは,著書『心理学原理』(Principles of Psychology)と「〈意識〉は存在するか?」というエッセイである。彼は(ジョン・デューイと共に)プラグマティズムという哲学の創始者の一人である。

  私の著書『社会的相互作用』(Social Interaction)に示しているように,プラグマティズムは,主観‐客観,精神(心)‐物質といった長年の二元論を解決することを目指して始まった新しい哲学である。

  要点を言えば,プラグマティズムとは,古典的哲学の,そして実証主義の,絶対的真理を求める探究を放棄するものである。その代わりにそれは,一つの観念の意味と価値をその結果に求めるのである。例えば,問題は,「共産主義」「ファッシズム」「資本主義」「民主主義」といった観念が科学的に「真」か否かを問うことではない。与えられた課題は,経験的に確かめうる結果を根拠として,それらの意味と価値を確かめることである。

  マーティンデイル(Martindale)が言うように,「プラグマティズムは観念論と科学的方法を融和させ,人間の発達の精神的概念と生物学的概念を結合する試みである。」それは20世紀の社会科学に強い影響を与えた。その多くの支持者には,哲学者のリチャード・ローティ(Richard Rorty)と「象徴的相互作用論」(以下に説明)を唱える社会学派が含まれる。

  ジェームズは意識と呼ばれる実体(entity)はないと結論した。「物的な対象を構成する存在と対照され,それらの対象の思考がそこから作られるような,根源となる存在はない。」(Martindale: 300)「意識」とは一つの過程である。「心の状態とは単にこの過程における瞬間的な出来事である。周期的に意識に現れる永遠に存在する観念とは,スペードのジャックと同じくらいに神話的な存在である。」(Martindale: 341)

  私がはじめに,人間の脳をコンピューターにたとえ,人間の脳はコンピューターのハードドライヴのファイルと同じように記憶を保持していると考える,今はやりの比喩を批判したことを思い出していただきたい。もしジェームズがこのコンピューターの時代に生きていたら,彼は私のように論点を説明したかもしれない。

  デューイや他の初期のプラグマティストに従って,リチャード・ローティもまた『哲学と自然の鏡』(Philosophy and the Mirror of Nature, 1979)の中で,心身関係についての議論の多くは概念の混同から生じていると論じている。心や心の材料を存在論的なカテゴリーとして措定する必要はないと彼は言う。ローティのようなプラグマティストが心身問題を片付けようとするのは,それは疑似問題であって意味のある経験的な問いではないと考えるからである。

  ジェームズの主張は次のようなことである――人間の意識の他にはない特性の一つは「それが常にある程度まで人格の自我の意識を含むからである。だから人格は,知られる者と知る者,主体と対象という二つの様相を取って現れる。…手短に一方をMe,もう一方をIと呼ぶこともできる。」したがってMeとは経験的自我としての知られる自分であり,Iとは「純粋」自我としての知る自分である。

正しい解決:象徴的相互作用論 

ジョージ・ハーバート・ミード

  George Herbert Mead(1863-1931年)はシカゴ大学の哲学教授であった。彼の『精神・自我・社会』(Mind, Self and Society,1934)は彼の学生の取った講義ノートの死後出版によるものであるが,それは彼の遺産のほぼすべてをなす。ミードは,今日の社会学の優勢な社会心理学的パラダイムである象徴的相互作用論の始祖と考えてよい。手短に言えば,ミードはジェームズの自我の概念を,社会的な相互作用に根付かせることによってより確かなものにしたのである。

  「自我とはそれ自体に対して対象であることのできるもの」と定義することができる(Mead: 201)。つまり「主体にも対象にもなりうるもの」である(Mead: 204)。対象としての自我はMeであり,主体としての自我はIである。言い換えれば,自我とは,自分自身に向き合うことができ,自分に指令をし,自分の肉体に属する経験を引き受けて一体化することのできる,唯一の対象である(Mead: 42)。これがまさに「思考」あるいは「意識」と呼ばれる過程である。だから自我とは再帰的経験だということができる。 

  ではいかにして人間は,自己意識すなわち自分自身というものを把握する人間独特の能力を獲得するのか? ミードは,これは社会的相互作用を通じてのみ,特に言語を通じてのみ可能になると見事に論証している。人間以下の存在も,複雑な交流伝達のシステムをもつことができるが,ひとり人間のみが,意味をもつ記号すなわち言語の高度なシステムを発達させてきたのである。

  ミードは,自我を生み出す社会的過程を社会化というのだと説明している。この社会化のための必須条件が記号的思考すなわち言語である。言語は意味のあるジェスチャーや記号からなるものであり,ジェスチャーは,他者の中に引き出そうとする同じ反応を自分の中に喚起するときにのみ意味をもつのだから,言語は本来的に社会的現象である。このような意味のあるコミュニケーションは,他者の役割を引き受けること(role-taking)を通じて起こる。他者の役割を引き受けるとミードが言っているのは,自分を他人の立場に立たせて双方に同じ反応を喚起するということである。そのような象徴的相互作用のみが――「役割引き受け」を要求するという意味において――真に社会的なのである。アリやハチの「社会的」組織も複雑で高度なものではあるが,それは本能に基づくもので「役割引き受け」に基づくものではない。

  ミードはいくつかの社会化の段階,特に「遊び」や「ゲーム」の段階を区別する。前者の段階は,幼い子供が個人的な意味のある他者の役をするようになるときに現れる。ゲームの段階は,もっと後の発達時期に生ずるもので,ミードは野球を比喩として用いている。野球というゲームにうまく参加するためには,個人は「一般化された他者」の役割,すなわち社会構造全体とそのルールを引き受けなければならない。社会に参加するのもそれと同じである。

  心は過程であって実体ではない,とミードは念を押す。それは思考の活動である。「心とは,ちょうど他人と話をするように,問題のある状況について自分自身と対話する過程であり,我々がmental(心の)といっているのはまさにそれである。そしてそれは生物的生命体の内部で進行するのである」(Charon 101)。心は,記号的・社会的過程の外では発達することはできない。

  ミードの中心的な関心は,特にこの人間の基本的に社会的な性格を証明することにあった。彼は人間の自我が,社会的過程から,特にその記号的な,すなわち言語的な過程から生まれてくることを説明しようとした。

象徴的相互作用論

  ミード自身がこのSymbolic Interactionismという名前をつけたのではない。ミード的な社会心理学を指すのにこの名称を発明したのは,彼の弟子ブルーマー(Herbert Blumer)であった。今日,これが社会心理学の唯一の社会学的ブランドである。それは一つの観点でもあり研究プログラムでもある。それは社会心理学者が,次の三つの問題に焦点をあてることによって人間行動を研究する上の指針となっている――(1)個人の意識の結果というより「根源」としての社会的相互作用,(2)人間にその自我と意識と心を与える活動としての言語,すなわち記号,(3)客観的な環境の刺激に対する反応だけでなく,もっと重要なことに,それらの刺激の主観的解釈と評価からなる人間活動。

  象徴的相互作用論は,驚くほど生産的な研究計画である。社会学的な社会心理学者は,逸脱行為,犯罪,精神病,児童発達,家族機能,性的特質,遊びと余暇,麻薬使用,病気,アイデンティティ,自己評価,人種差別,ジェンダー,教育,権力,紛争,といった多くの問題についての多大なデータを生み出した。

  それは比較的,非決定論的な,つまり非実証主義的な現代社会科学の唯一の部門である。それは必ずしも独立変数の発見にはこだわらない。それは,人間の自由意志を分析対象に含み,社会「科学」の範囲をカントの現象世界の研究に限ることなく,カントの真実在世界(noumena)にも果敢に攻め入る,社会科学における唯一の思想の流派である。

  その淵源であるプラグマティズムを裏切ることなく,象徴的相互作用論は,人間の置かれたあり方を,客観的に与えられたものとしてでなく,主観的に定義されたものとして見る。それは事物の意味を,社会的文脈において,人間がそれらにどう反応するかによって決定されるものと見る。人間は(動物と違って)彼らの環境と,彼らに降りかかるさまざまな刺激を,それらに反応する前にまず解釈する。そしてそれらの解釈も人間的環境の一部なのである。人間の環境は解釈された環境であるがゆえに,他のすべての生物のそれとは根本的に違うのである。

   我々の環境と他の動物のそれとの根本的な違いの一つは,我々の環境にはある一つのもの――我々自身――が付加されているということである。そしてこの対象はまた,解釈と評価に委ねられたものでもある。例えば人は