平和構築と開発―国際政治の観点から



ノースアジア大学教授,元駐ベネズエラ大使      阿曽村 邦昭



 第二次世界大戦後の国際社会は,米ソ冷戦時代とソ連崩壊(1989年)を区切りとした冷戦後の時代とに画然と分けることができる。冷戦後の世界では,それまであまり表に出なかった民族,部族,宗教,資源への支配権などが複雑に絡み合いながら,暴力を伴って国内および地域紛争が頻発するようになった。このような紛争は概して開発の遅れた貧しい国々で起こっており,難民問題も発生している。

 また冷戦後,米国を中心に大規模な軍縮に向かうと思われたが,実際はそうではなかった。米国は産軍共同体を温存しながら,イラク,イラン,北朝鮮などを脅威国として米国単独で認定し軍事的関与の可能性を追求してきた。これが第二の特徴である。

 オバマ新政権の最大の課題であるアフガン問題で,アフガンへの派遣兵力の増強と社会インフラ・警察訓練などの援助強化および同盟国への協力要請は,イラク戦争からの振り替え政策と見なすことができる。

 このような中,日本はソマリア沖への自衛艦派遣,自衛隊の国連PKOへの参加など国際的平和構築に積極的に寄与する努力を行っている。また開発援助を通しての平和構築の寄与も明確化してきた。

 このような日本の海外貢献のあり方は,戦後の日本外交史においてどのような経過をたどって打ち出されるようになったのか。その背景と成果について振り返りつつ,国際政治の中でそれらがもつ意味合いについて考えてみたい。

1.国際安全保障の傍観者 日本

(1)平和構築に消極的な外交

 戦後の日本は米国の占領下からの出発であったが,当時の占領政策の目的は,日本の弱体化,軍事的無力化であった。その一番の象徴が現行「日本国憲法」であった。つまりこの憲法は,天皇制を一応維持しながら,米国の意図を法文の形で押し付けたものであった。さらにその占領軍政策に呼応した進歩的文化人,マスコミ,日教組,官公労などの働きによって,極東裁判史観と平和憲法信仰が根強く広がっていった。

 一方,政府は国会対策など内政上の考慮から,なるべく国外の紛争には関わりたくないとのメンタリティをもつようになった。その結果,紛争への実力行使を伴う解決への参加に関しては消極的な外交姿勢を取ることになり,それはごく最近までそうであった。1960年の安保騒動後,安全保障がらみの事案についてはなるべく避けて通るのが,歴代内閣の常道であった。

 ソマリア沖の日本関係船舶を海賊から護衛するために,現在,海上自衛艦2隻が出動しているが,この件に関してある政党を代表するような議員は,「このようなことは金を払って護衛してもらえば済むことだ。」と明言した。自国民(商船)を守ることは戦争でも何でもないことで,警察行動である。国際法上,海賊行為の防止・鎮圧に関する権利を有している。

 最近,国連安保理も3度にわたって海賊制圧決議を行っている。強力な武器を有する海賊に対して,自国民の安全を他国の軍艦にお金を払ってやってもらうことは,国際的常識からみて成り立たない。

 安保騒動のあった1960年当時,私が外務省に入省したころの最大の国際的問題は,ベトナム戦争であった。ベトナム戦争で日本は,片務的にせよ米国と同盟的関係にあったものの,米国に目立った協力をしてこなかった。その要因としては,まず,あまり米国に協力し過ぎると国内で騒がしくなり国会対策が容易でないこと。もう一つは,南ベトナムが存続可能なのかという,疑問があったからである。このような背景から,ベトナムへの人道援助はしたものの,日本政府のベトナム戦争に対する姿勢は控え目であった。

 ベトナムを含むインドシナ戦後復興に関して,1969年バンコクで行われた東南アジア開発閣僚会議における,佐藤内閣の愛知揆一外相の演説骨子は,「インドシナに対する援助は,平和到来の暁にはわが国として積極的に経済協力を行いたい。」ということであって,その後の歴代外相の発言も同様であったため,日本の対インドシナ援助は「暁援助」といわれた。

 これを平和構築と開発という観点から言えば,開発援助計画策定の上で国際平和をインドシナ半島にもたらすこと,すなわち平和構築を自国の外交政策なり,援助政策の目標とすることなどは,日本政府の念頭になかったのである。「平和は誰かがもたらしてくれる,その暁には日本は援助をしますよ。」という考えであった。

 戦後日本にとって,長い間,平和は「所与」(given)のものであって,自分がつくり出すという考え方は,政府にも民間にもほとんどなかった。経済援助によって受益国が発展を遂げれば,それが回りまわって世界平和につながる,ひいてはその恩恵は日本にも戻ってくるだろうという考えはあっても,援助を「てこ」にした政治・軍事目的実現という普通の国ならやる戦略的発想に,日本はかなり欠けていた。これが偽らざる日本外交の現実であった。

(2)マレーシア紛争と日本の仲介工作

 ベトナム戦争当時,日本がただ一つ外国間の紛争解決に仲介を試みたのは,1963年のインドネシアのスカルノ大統領(任1945-67年)によるマレーシア対決政策に関してであった。戦後英国は,この地域から平和裏に撤退するために,ボルネオ島北部,シンガポールなどの英国支配下の地域をマラヤ連邦(1957年独立)と統合して新国家「マレーシア連邦」を結成しようとした。その動きに対してスカルノ大統領はボルネオ領有に野心を抱いて,対決姿勢に出た。

 これに関して日本は豊かなインドネシアの天然資源に目をつけて,川島正次郎(自民党副総裁・当時)が仲介工作して資金援助を引き換えに対マレーシア対決姿勢や中国共産党への接近を改めるように要請した。しかし,スカルノ大統領は,日本からの7200万ドル(1965年度)を受け取ったものの,マレーシア対決政策の取り下げを拒否して,川島調停は失敗に帰した。

 その後,1965年9月30日深夜,左派系軍人による軍事クーデタが起こり,陸軍参謀長などの軍部要人が殺害された。事件後,スハルト(第2代大統領)が実権を握り,スカルノは失脚した。

 この事件での日本の対応と変化は迅速であった。混乱の極にあったインドネシアの復興のために,日本は東京会議を主催し,ここで国際援助グループが立ち上げられ,さらに次のアムステルダム会議で初めて「三分の一原則」が確立した。インドネシアについて,米国,日本,欧州とその他の国々がそれぞれ三分の一ずつ支援することが了解事項として合意され,その後も継続されたのである。

 このときの日本の狙いは,インドネシアの資源確保および市場維持,マラッカ海峡のシーレーンの安全確保などであった。結果としてみると,インドネシアはこのことを通じて中国と手を切り,親米的,親日的になった。米国はベトナム戦争で手一杯で,インドネシアに資金を投じる余力がなく,日本にやらせておくという大戦略に基づいて行動していたのであろう。

(3)カンボジア和平と日本の貢献

 日本はベトナム戦争中,対米協力はあまり煮え切らない態度で一貫していた。しかし,それはそれなりに日本の国益に資した面もあった。けれども,政治的に観客席に座り込んでいたので,実際は政治ゲームのプレーヤーとしてお呼びがかからなかった。

 1954年に「第一次インドシナ戦争休戦のためのジュネーブ会議」が開かれたが,このとき日本はお呼びがかからなかった。62年の「ラオス問題解決のためのジュネーブ会議」も同様であった。その後,日本が経済大国として見られるようになった73年の「ベトナム和平の国際的保障のためのパリ会議」にも呼ばれなかった。

 元来,日本は大陸から海によって隔てられていたこともあってか,前近代史における日本の対外戦争は,白村江の戦い,元寇,豊臣秀吉の朝鮮出兵の三つしかない。先進主要国の中でもまれに見る対外戦争の少ない国で,対外関係の緊張感に欠けるという側面を持つ。さらに徳川幕府260年の太平の世の中を経験した日本人は,国際関係を戦略的に考えるDNAが発達しなかった。

 しかし,華々しい外交戦略を繰り広げてきたフランスと,全くさえなかった日本について,ベトナムでの現在の地位を比較してみると,日本は毎年1000億円以上の開発援助と活発な直接投資を行っていることから,現在,ベトナムが一番頼りにしている国は,政治的・軍事的に「無害な」日本である。一方,フランス語の影響は日に日に小さくなっている。このような面白い現象も見られる。

 私がハノイに赴任した1988年末には,前年からシハヌーク=フン・セン会談が3回も開かれていた。やがてパリでカンボジア和平に関する会議が行われそうな気配があった。当時の外務省の願いは,「ベトナムの反対でパリ会議に出席できなくなったら,日本の面目がつぶれてしまう。ベトナムに対してパリ会議への日本の出席をOKさせてほしい。」ということであった。ところが,当時のベトナムの外相は日本嫌いで,当初,日本に対する態度は冷ややかであった。

 89年2月10日に,竹下内閣の宇野宗佑外相が外交演説でカンボジアに言及し,ポルポト非難とシハヌーク支持を明確にした。それに対してベトナムは敏感に反応し,ポルポト非難を評価して,7月30日からのパリ会議への日本代表団出席が可能になったのである。

 当時,ベトナムは,頼みの綱のソ連が崩壊寸前で資金が回ってこない,中国との関係は中越戦争以来冷え切っている,米国はベトナム戦争敗北の恨みと在郷軍人会の反対によって国交が開かれない,などの外交的孤立状態に陥っており,そこから抜け出すためにも,宇野演説を利用してプライドを保ちつつ対日接近を図る大義名分としたのである。

 宇野演説は,日本では余り評価されてはいないが,それまでポルポト政権による大虐殺に関して日本政府はほとんど非難の言及がなく,ポルポト政権を正統政府として認めていた。ベトナムのカンボジア侵攻は,近年いわれる「人道的介入」であったといえなくもないが,当時はソ連と結ぶベトナムの侵略行為として米中主導の非難がかなりあり,日本もこれに追随していた。

 89年夏の「カンボジア和平に関するパリ国際会議」に日本は参加して,第三委員会(復旧・復興と避難民帰還担当)の共同議長を務めることができた。ただ第一委員会(軍事)と第二委員会(安全保障)で,クメール・ルージュとベトナムが対立してなんらの成果も挙げることができなかったために,その結果として第三委員会など社会支援の分野で見える成果を挙げるところまではいかなかった。

 89年9月にベトナム軍がカンボジアから撤退し,同年12月には米ソによる冷戦終結宣言がなされ,カンボジア和平に向けての動きが好転した。このような中で日本の斡旋により90年6月に東京でシハヌーク=フン・セン会談が行われた。このときシハヌーク殿下とともにカンボジア国民政府を形成していたソン・サンが出席したが,ポルポト派代表サムファンは来日しながらも会議には出席しなかった。国連のカンボジア暫定統治が終了するまでの間,カンボジアの権威の源泉である最高評議会の構成について,日本側の強い働きかけもあり,ついに合意が成立した。これは戦後日本が二国間の経済関係への考慮とは関係なく,初めて国際政治上で平和構築に積極的役割を果たし,かつ成功した事例といえるもので,画期的なできごとであったと評価できる。

 この会議を通じて,シハヌーク=フン・セン間の信頼感が造成されて,シハヌークはポルポトと手を切ってフン・センと手を結ぶようになり,カンボジア問題の解決のカギとなった。

 国際問題はやはり国連の介入が必要になってくる。90年に安保理五大国が国連中心のカンボジア和平を進めることを決め,国連下の暫定的な駐兵,暫定国連信託統治などを考えた。ところが,具体的なカンボジア和平を進めるに際しては,日本に対しては費用分担を要求する一方,カンボジア和平の枠組み文書作成作業など大方針は常任理事国だけで行い,当初,日本は蚊帳の外であった(あとで,日本,タイ,オーストラリアも相談にあずかるようになった)。これが米国の考えであり,同時に中国の利益にも沿う考えであったと思う。

 国連カンボジア暫定統治機構の特別代表に明石康氏がなった(92年1月)。そして第二世代の国連PKOの施設部隊600名を2回,文民警察要員75名,停戦監視要員3名,選挙要員41名をカンボジアに派遣した。これは日本人が体を張ってカンボジア和平のために働いていることを強く印象付けることとなった。

 視点を換えてマクロ的な観点から見ると,違った姿も見えてくる。国連カンボジア暫定統治機構の軍事部門がどれほどの規模であったかというと,ピーク時で16000名で,その中で日本は延べで1200名であった。文民部門では,全体が6000名,その内日本は44名。このように全体の人員数に占める日本の割合がかなり低いことは明白である。しかし,その割には,国際平和構築の面で日本のプレゼンスが大きかったのは,国連暫定統治機構の特別代表が日本人であり,成功したということが大きかったと思う。

 これによって日本の存在が大きくなるとともに,日本外交の転換点ともなった。このころから日本は,平和構築に前向きに取り組むようになった。

2.小泉政権下での大転換

 小泉政権以前,日本はインドネシア・フィリピン・インド・スリランカなど紛争を抱えた国々に対して,あたかも紛争がないかのように多額の援助を供与してきた歴史をもつ。その国の中に紛争があるかどうかは関係ないという内政・紛争への不干渉の立場,その国の正統政府であれば問題ないとの見地からそうしたのであった。

 91年に出された「政府開発援助大綱」には,「平和構築」「紛争予防」などの文言は一切なかった。ところが,99年8月の「政府開発援助に関する中期政策」になると,「人間の安全保障」という概念が出てきて,そのほか重点事項として「紛争・災害と開発」というテーマが特記された。ここで初めて「紛争」というテーマが出てきた。

 その後,小泉内閣の時代の02年12月に,福田官房長官の私的諮問機関として設置された「国際平和協力懇談会」報告書を経て,03年8月29日閣議決定の「新政府開発援助大綱」において,「紛争発生以前の紛争予防」「紛争下の緊急援助と紛争終結促進のための支援」「紛争終結後の平和の定着」(和平プロセス促進,人道復旧支援,国内の安定と治安確保,紛争再発予防)「国づくり」(不安定な地域の政治的・経済的・社会的枠組みづくり)などのためにODAを活用せよ,との原則を定めた。

 この「新大綱」は非常に重要で,とりまとめると次のような特徴をもつ。

 第一に,開発援助によって貧困削減や格差是正を行うとともに,それを通じて紛争予防的効果を期待する。これはそれまでの日本の援助政策に欠如していた観点である。

 第二に,「予防や紛争下の緊急人道支援とともに,紛争の終結を促進するための支援から,紛争終結後の平和の定着や国づくりのための支援まで,状況の推移に即して平和構築のために二国間及び多国間援助を継ぎ目なく機動的に行う」と述べた点である。すなわち,紛争終結後の本格的復興に至る前の援助のすべてが,「開発を通じた平和構築」の概念中に含まれているのだ。憲法第9条の枠内ではあるが,日本の平和構築概念の方が国連のそれよりも広い。国連の「平和構築」の概念は,紛争後に限定されているのに対して,日本のそれは,紛争の予防から紛争中の援助,紛争後の援助などすべて含まれており,この点が画期的なのである。

 第三は,従来の援助供与要請主義から一歩踏み出して,援助をする前から政策協議を活発に行い,途上国の開発戦略の中でわが国の援助が十分活かされるよう調整を図っている点である。従来から日本は,相手国から要請があったときに援助するという方式であった。それを改めて,援助を与える前から,援助のあり方などを議論し,その上で援助を行うようにしたのである。

 このような積極的な姿勢を掲げることによって,わが国は平和構築のために開発援助をてこに取り組む姿勢がはっきりと打ち出されたのである。これまでは平和時を前提としていた開発援助であったために,紛争がらみの小型武器の回収,地雷除去,平和の定着のための行政能力向上,武装解除,兵器管理と廃棄などは,あまり援助の対象にならなかった。しかし,今度の「新大綱」によってこのようなことも援助の対象となった。最近の例では,アフガニスタンの警察官訓練のために120億円を拠出することを決めた。

3.自衛隊の海外派遣

(1)海外派遣への道程

 このような日本政府の態度変更の背景には,1990年当時,湾岸戦争で多国籍軍への自衛隊協力を含む「国連平和協力法案」が国会で廃案になり(1990年11月),その結果,130億ドルの資金を拠出したのに,米国などから「血も汗も流さず,小切手だけ切る日本」と皮肉られた苦い経験があった。その後,カンボジア和平問題での成功,9.11テロとアフガン制圧,イラク戦争,自衛隊のイラク派遣,北朝鮮によるテポドン発射問題など,厳しい国際政治の現実に日本人が直面する中で,いまや国際秩序形成への積極的参加をかなりの程度当然のこととして,抵抗感なく受け止める社会的雰囲気が形成されてきた。

 他方,内政的には,中曽根内閣時の国鉄民営化,電電公社民営化などによる官公労の弱体化,世代交代に伴う日教組の勢力減退化傾向なども影響したのではないかと考える。これらによってODAの平和構築への活用が可能になったのではないかと思う。

 自衛隊の国連平和維持活動(PKO)協力への法的根拠である「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(略称「PKO協力法」)は,元来自衛隊の活動範囲を平和維持軍(PKF)の中の後方支援活動,人道的国際救援支援,選挙監視活動等に限定していたために活動の幅が狭かった。03年3月に,PKFへの参加(本隊業務)もできるようになり,さらには武装解除の監視,地雷除去なども不可能ではなくなった。

 ただ,「PKO参加五原則」という拘束条件があって,国際的に見ると特異な活動制限が加わることになった。それは,@紛争当事者間の停戦合意,A日本の参加に対する紛争当事者の受け入れ国の同意,B当該PKOの中立的立場の厳守,C以上の三つのいずれかの条件が満たされない状況が生じた場合の業務の中断,D要員・部隊の撤収,要員の生命等の保護のための必要最小限の武器(小火器)の使用である。例えば,停戦があったので出かけていっても,紛争当事者が再び反目し始めて紛争が再開すれば戻らなければならないのである。

 時限立法であった「テロ対策特措法」(2001年)によるイラクへの自衛隊派遣の背景には,国連決議を大義名分としながらも,実際上は,北朝鮮情勢の緊迫化に伴って日米軍事同盟の実効性を確保すること,わが国の中近東に対する高度のエネルギー資源依存の双方を考慮に入れて立法されたと思われる。

 これには,国民の自衛隊海外派遣へのアレルギーを軽減する効果,海外における自衛隊のいい訓練・経験になったこと,良好な対米関係の維持など,副次的効果もあった。

 しかし,米国がイラク戦争開戦に踏み切った根拠がでたらめであったことが明白になったことにより,その米国の主張を日本政府が丸呑みしていたことは,疑えない事実である。

(2)課題

 2009年3月末現在,世界各地17カ所で国連PKO等の平和構築活動が行われている。日本も,ゴラン高原,ネパール,スーダンなど3カ所の国連PKOに39人の自衛官を派遣している。日本は国連PKO予算の17%を負担して,米国とともに最大手の位置を占めるが,派遣人数ランキングで見ると世界80位だ。国連PKOの全体像を考えてみると,全世界17カ所に展開し,184カ国から兵員は92,196人が派遣されている。日本ほど予算負担と人員派遣のアンバランスな国は稀ではないかと思う。

 一方,現在,ODA活用の平和構築の試みも各地で行われている。日本が支援国会議を主催したスリランカの場合,政府と反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)の双方に対して多大な援助をエサにして和解をもたらそうとの試みが,日本政府の平和構築第一弾であった。しかし,残念ながらこれは成功しなかった。カネだけですべてが動くわけではない。停戦協定は破棄され,政府軍による「解放のトラ」に対する大掛かりな掃討によって,一大頓挫してしまった。そのため日本の援助は(一部は親政府的なタミル人地域にも回っている)政府側にだけしかいっていない。

 アフガニスタンでの武装解除の試み(例えば,伊勢崎賢治氏)のような個々のサクセス・ストーリーはあるが,日本の経済援助によって治安の維持が向上・継続したと,現時点で証明することは非常に困難と言わざるを得ない。

 しかし,少なくともODAを平和構築活動に活用するようになってから,日本外交の幅が広くなり,何がしかのイニシアチブが取れるようになった点は,重大なことであり,高く評価すべきことである。紛争は世界各地で生じており,その原因はさまざまで,その種は永久に尽きないかもしれない。それに対して,国際的警察活動として,二流国家,三流国家,破綻国家への武力行使ないし武力による威嚇や,大戦争に至らない程度の武力による制圧や治安維持と合体した形での経済援助が,今後増加するのではないかと展望される。ただし,それがうまく機能するかはやってみなければわからない。

4.国際政治における日本の平和構築の意味

 米国のオバマ政権は,アフガニスタンのタリバン掃討とタリバンの中の穏健派の抱きこみ工作,イランの核開発阻止などに,全力を傾注するのではないか。その過程で,日本の軍事力,経済力をこれに極力協力させることが,米国の狙いでもある。もし日本が協力しない場合には,何らかの報復措置を取るかも知れない。

 日本はロシアとの間に北方領土問題を抱え,中国・韓国との間には歴史問題・領土問題を抱える。日本が国連常任理事国入りをしようとすれば,中韓が猛烈に反対する状況の中では,心からのパートナーになれない。これらの諸条件は,米国にすれば非常に有利な条件だ。すなわち,日本は米国を頼りにせざるを得ないからである。逆に言えば,これらは米国にとって有利な日本の弱点と言える。

 日本国内の世論が核アレルギーをもつことは,米国にとっても,中国にとっても有利な点である。普通の国であれば,隣国が核保有すればそれに対抗しようとするのに,日本は全くそうではない。

 日本のODAを通した平和構築活動,自衛隊派遣による平和構築努力を大きな目で見れば,米国の世界戦略,軍事的優位保持という目的と政策の範囲内にあるので,結局,少なくとも当面は,大事な部分は米国が決定し日本はそれに追随するという従来のパターンを繰り返すのではないかと思われる。

 それだからと言って悲観する必要はない。そのような繰り返しを通じながらも,日本がDNAに元来なかった国際的な戦略を学び,あるいは不慣れな国際的警察行動に法制的・実際的に適応していく練習をすることができる。そしてその能力が増大すれば,その実力の上に立って初めて,普通の国としてそれ相応の戦略思考ができるようになる。DNAが自ら形成される可能性があると信ずる。

 当面は米国に対して協調しつつ力を蓄えて機動性を増やし,なにがしの自主性を回復することを目標にして行動する。これが日本が行くべき方向性ではないかと考える。

(2009年4月4日)