南アジア情勢の展開とインド外交

 


元駐インド大使 小林 俊二




<総選挙における会議派連合の大勝と

その背景>

 ――この春のインド下院総選挙でインド国民会議派(コングレス党)を中心とする与党が大勝し,マンモハン・シン首相を首班とする第二期シン政権がスタートした。この選挙結果をどう見るか?

小林 インドでは独立以来,政治情勢の変動を経ながらも一貫して議会制民主主義が機能してきた。今回の選挙結果は,この制度が一段と定着したのみならず,成熟してきたことを示しているように思う。

 インドでは1989年の総選挙でコングレス党の獲得議席が過半数を大きく割り込んで以来,単一の政党が下院議席の過半数を制するということが全くなくなり,閣外協力を含む連合政権による国政の運営が続いてきた。96年,98年,99年と3回の総選挙で第一党の座をインド人民党(BJP)に奪われていたコングレス党は,2004年の第14回総選挙で第一党の座を回復した。しかし依然過半数には遠く及ばず,政権を組織し,維持するためには,小党派との連立にとどまらず,共産党その他左翼政党による閣外協力を得なくてはならなかった。

 今回の選挙でも引き続き第一党となったコングレス党の議席が過半数に及ばなかった点は前回と同様であるが,コングレス党はすべての予想を裏切って大幅に議席を伸ばし(145→206議席),連立政権という形は変わらないものの,与党連合である統一進歩連盟(UPA)内部における影響力を格段に増大させた。さらに重要なことは,UPAが全体として過半数(272議席)に迫る議席数(262議席)を確保した結果,政権を組織するに当たって左翼戦線の協力を得る必要が消滅したことである。

 左翼戦線との関係において,政府は深刻な危機を経験している。すなわち,政府が進めてきた米国との原子力協力協定の締結につき,左翼政党はインドの核開発の手をしばるものとしてかねてから強硬な反対を表明していたが,問題が最終段階に入るとともに昨年7月,UPA政権に対する閣外協力を撤回した。このため政府は,改めて下院の信任を求める必要に迫られたが,一部小政党の支持を取りつけることにより辛うじてこの事態を乗り切ることができた。2004年5月の発足に当たって,UPA政権は左翼戦線との間で共同綱領(National Common Minimum Program)を策定したが,これにより公営企業の民営化と労働法の改正につき歯止めをかけられた経緯がある。したがって左翼戦線による政治的制約の消滅は,政府の政策策定・遂行上の自由を大幅に拡大するものといえる。

 今回の選挙結果を俯瞰して最も目につくのは,コングレス党が議席を大幅に伸ばす一方で,左翼政党が議席を減らした(59→24議席)ことであり,また特定のカースト,宗教,民族に基盤をおく小政党に対する有権者の支持が減退する傾向が見られることである。これら特定グループの利益追求を目指す群小政党の乱立は,91年選挙以降の下院議席構成に特に目立っていたが,今回の選挙はこの傾向に歯止めをかける兆しを示したといえる。

 ――90年代以降の状況を振り返りながら,変化の背景について説明してほしい。

小林 91年からのコングレス党政権期間中,シン財務相(現首相)が進める経済改革は,インドをデフォルト寸前に追い詰めていた外貨危機を克服したが,当然のことながら旧体制からの転換にともなう混乱や停滞もあって,経済の拡大ないし国民生活の向上という面で目に見えた成果を挙げるにいたらず,野党から経済困難の増大を招いたとの非難を受けた。96年以降3回の総選挙でBJPに第一党の座を許すなど,コングレス党の退潮を招いた元凶は経済改革だという見方が同党内部にもあって,マンモハン・シン氏自身辛い立場に立たされる時期があった。しかし,今にして思えば,91年の選挙後,コングレス党主導のナランシンハ・ラオ連立政権が小党派の協力を確保しながら何とか5年の任期を全うしたことは,経済改革という路線を定着させる上で大きな意味があった。

 シン財務相が取り組んだ経済改革は,最初の2年間に貿易と投資の自由化という分野で目覚ましい実績を残した。政権維持のための妥協の必要もあり,改革のペースはその後大幅に減退したが,96年以降,BJPが優越的な地位を占めた時期においても,もはや改革が後戻りすることはなかった。その間に改革の成果が内外投資の活発化を中心にじわじわと現われてきてインド経済全体を押し上げた結果,庶民に少なくとも生活向上への希望をもたせたことが,今回の選挙結果の背景にある最も基本的な要因だと思う。

 ――しかし,インド国内には,経済格差の拡大や宗教間対立など,多くの課題が山積している。

小林 もちろん,インドで低所得層が人口の圧倒的な多数を占める事実に変わりはなく,中間層が目覚ましく拡大したとはいえ,下層階級の人々は昔ながらの貧しい生活を強いられており,したがって格差が拡大したことは明瞭である。しかし,経済全体の活性化の結果,電力や飲料水の供給,道路の建設といったインフラ面で改善が進み,また政府の農村貧困対策もあって,農村の貧困層の人々も,たとえ日々の生活で見るべき改善に浴するにいたらなくても,将来の向上に対して幾許かの希望を抱くようになってきたといえるのではなかろうか。

 また宗教問題の分野でコングレス党は,宗教的融和という伝統的な政策を固守している。一方,BJPは党是としてヒンドゥー至上主義を唱え,ヒンドゥー・ナショナリズムを強調してきた。イスラーム過激派によるテロに直面して,コングレス党の全宗教的,全民族的融和の立場は,BJPの政策に対するアンチテーゼとしてかえってクローズアップされる結果となっている。このことは,今度の選挙でもコングレス党に有利に作用したように思われる。

 昨年11月のムンバイ・テロ事件後,BJP系の諸党派がコングレス党の対テロ対策を弱腰だと非難した。しかし,その後の州議会選挙や今回の総選挙で,この問題がコングレス党にマイナスの影響を及ぼしたと見るべき形跡はない。国民の目から見て,BJPの主張はイスラーム過激派を刺激し,テロの危険を増大させると映る一方,テロ問題に対するコングレス党政権の対応が一定の評価を得ているといって良いと思う。

 ムンバイ・テロ事件直後に,シン首相は急遽チダンバラム財務相を内相に任命し,テロ対策に専念させた。この人はわたしのニューデリー在勤当時,商工相としてシン財務相の改革政策を助けていたが,有能なテクノクラートであり,非常に行動的な人物である。わたしが往訪して改革の現況と見通しについて尋ねたとき,「一日に一つ規制を撤廃するのがわたしの目標だ」と述べたことが強く印象に残っている。同氏は内相に転じるや,新たなテロ対策機関を設けるとともに,テロ関係法を整備して対策を講じている。こうした敏速な対応も有権者に評価されたのであろう。

 なお,今回の選挙結果の背景として,庶民が生活の向上に希望をもったことが基本的な要因と見られることはすでに述べたとおりであるが,マンモハン・シン首相の清廉,誠実,かつ無欲な性格が国民の信頼を得ていることも忘れてはならないと思う。


<米国の南アジア政策>

 ――インドとパキスタンは長年微妙な関係を続けているが,この地域に対して米国はどのような戦略をもっているのか?

小林 米国のインド・パキスタンとの関係はこれまで国際政治情勢の変動にともなって複雑・微妙な変化を繰り返してきた。パキスタンはインドとの対抗上,独立以来早くから米国との緊密な関係の構築に腐心し,東南アジア条約機構(SEATO)やバグダード条約(後のCENTO)にいち早く加盟して米国の対ソ戦略に協力してきた。しかし米国は,インドとの関係においてパキスタンを支持する立場をとらず,印パ戦争に際しても実際行動においては中立の態度を維持してパキスタンを失望させた。このためもあってパキスタンは62年の中印戦争以来インドの潜在敵国になった中国に急速に接近し,密接な関係を作り上げた。その反動としてインドは中国と対立を深めていたソ連に接近し,特に71年には東パキスタン(バングラデシュ)独立戦争に対する介入,すなわち第三次印パ戦争に先立ち,中国の動きを牽制するためソ連との間に平和友好協力条約を締結してソ連の軍事同盟国となった。

 この情勢の中で1979年12月,ソ連がアフガニスタンに武力侵攻したため,パキスタンはソ連に対する西側の前線国家の立場に立つようになり,南アジアは明確に冷戦構造に組み込まれて米中パ対ソ印という対立の構図が出現した。しかし,この構図はソ連のアフガニスタン撤兵,冷戦の終焉,ソ連邦の解体にともなって消滅し,米国はこの地域に対する積極的な関心を失った。

 同時に米国は,パキスタンに対する経済・軍事援助を停止した。米国の対外援助法にはプレスラー条項と呼ばれる修正条項(amendment)があり,パキスタンに対する援助を実施するための条件として,大統領に各会計年度毎に議会に対しパキスタンが核爆発装置を保有していないことを証言することを義務づけていた。反ソ・ゲリラ支援のための協力を必要としなくなった米国政府は,もはやパキスタンの核開発に片目をつぶって援助を継続する必要を認めず,90年10月,大統領の議会に対する証言を停止することを決定したのである。

 1998年5月の印パ両国による核実験とその後の両国関係の険悪化を契機として,米国はこの地域に対する関与を復活させたが,対南アジア政策の再構築に当たり,インドとパキスタンを同列に扱う従来の方針を放棄し,インド重視の方策に転換した。クリントン大統領は2000年4月に両国を公式に訪問したが,インド訪問には数日を費やしながら,パキスタンには数時間滞在したに過ぎなかった。この政策はブッシュ政権にも受け継がれた。

 これを反映する象徴的な事件が米印原子力協力協定の締結(2008年)である。その背景には冷戦の終焉,ソ連の消滅によってインドがソ連の同盟国という立場から(当時のインド政府の期待に反して)解放されたこと,およびその後のインドの経済改革,なかんずく貿易・投資自由化政策の進展によってインドが米国にとって経済面でも重要なパートナーとして成長しつつあるという事実がある。また,アジアにおける中国の影響力の拡大に対抗する上で,米印関係の果たし得る役割の重視という側面もあったであろう。

 ただし,その間にこうした米国の政策転換に水をかけ,事態を複雑化する事件が発生した。2001年の9・11事件である。米国が事件の首謀者と断定したアル・カーイダとこれを庇護するタリバーン勢力に対する反テロ戦争を遂行するに当たって,パキスタンの協力を得ることは不可欠であった。ムシャラフ軍事政権下のパキスタンが協力要請に応じたことから,やがて米国政府はパキスタンを「非NATO同盟国」と位置づけるに至った。しかしパキスタン官民の脳裏には,冷戦終焉後の米国の自国に対する手のひらをかえすような冷たい態度,その後のインド重視政策への転換に対する不満がくすぶっており,それが事ある毎に噴出する反米世論の根底に存在するように思われる。


<アフガニスタン・パキスタン問題とインドの対応>

 ――08年11月にはインド・ムンバイで同時テロ事件が起きて多数の死傷者が生じたが,この事件は首謀者をめぐってインド・パキスタン関係に深刻な影響を及ぼした。

小林 印パ間ではBJP政権の時代からインド側の呼びかけで,関係正常化のための「複合的対話」が始まっていた。インド側は長年の係争地域であるカシミールの帰属問題を討議の対象に含めるという点でパ側に譲歩し,広汎な分野にわたる政府間対話が進行していた。

 ところが,ムンバイ・テロ事件の発生によって対話が中断し,正常化のプロセスも停滞を余儀なくされている。今年(09年)2月になってパキスタン政府は,パキスタン国内分子が事件に関わっていたという事実を認めた。インド側はこれを評価しており,印パ関係に若干の改善を生じている。恐らくその背後には米国の圧力があったのであろう。

 そもそもこの事件は誰が何のために引き起こしたのか。真相は不明のままであるが,首謀者が誰であれ,印パ関係を引き裂き,正常化を阻止することを狙った行動であることは疑いを容れない。したがってインドがこの事件に感情的,衝動的に反応して報復行動を起こせば,首謀者のしかけた陥穽にはまる結果になりかねない。インド側もこの危険を認識している模様であり,反応は終始抑制的であった。

 ――オバマ政権はアフガニスタン・パキスタン問題に反テロ戦争の重点を移そうとしているが,この動きに対するインドの対応はどうか?

小林 今日の情勢では反テロ戦争の実態は,イラクよりもアフガニスタンの方が深刻であり,見通しも不透明といわざるを得ない。パキスタン内部のアフガニスタンとの国境地帯には,パキスタン中央政府のコントロールの及ばない部族地域があって,反政府分子が活動しやすい環境にある。イスラーム武装勢力がこの環境を活用しているため,パキスタン政府・軍部としても一筋縄にはいかない状況にある。米国はアフガニスタン側から作戦行動を進める一方,パキスタン側にイスラーム武装勢力の掃討作戦の実施を促している。パキスタン側は米国をはじめとする国際的援助の手前,米国と対立することは避ける必要があるほか,国内治安情勢悪化の拡大を阻止する必要上,軍事行動にそれなりの努力を払っている模様である。

 ところで,パキスタンのザルダリ大統領は,ベナジール・ブットー元首相の夫であり,ベナジールが政権の座にあった当時,政治を私物化して悪評を買っていた人物である。ベナジールが暗殺された(07年12月)ため,英国留学中の長男が政界入りするまでという名目でパキスタン人民党(PPP)総裁代行に就任し,その地位を利して大統領の職を手に入れた。ムシャラフ軍事政権の下で大統領の憲法上の権力は再び強化されており,ザルダリ大統領の出方によっては波乱を招きかねない。ただし,パキスタンは目下対テロ戦争の最前線にあり,パ側が反米イスラーム武装勢力封じ込めのための協力姿勢を崩さない限り,国際的支援がパキスタン経済を潤し続ける。のみならず,テロ勢力制圧作戦への悪影響を嫌う米国がいつでも調整に乗り出すであろうから,パキスタンの政情は小康状態を維持しやすい状況にある。

 これに対するインドの対応であるが,9・11事件の発生後,米国がアフガニスタンに潜伏・活動するアル・カーイダ殲滅のため軍事行動を決断したとき,米国の目から見てパキスタンが再び政治的・軍事的重要性を高めることに,インドが重大な関心を抱いたことは間違いない。インドが米国の作戦遂行上必要となる便宜や協力を供与する用意があることを米国に通告したのは,パキスタンが米側による膝詰め談判に直面して協力を約する前のことであった。

 もっとも,インドの政治的・経済的立場は,ソ連のアフガニスタン侵攻当時に比して遥かに強化されている。それは当時の事情との決定的な違いと言ってもよい。カシミール問題に対する容喙という問題を除けば,インドは米パ関係の強化が自国の立場を害なうことを懸念する必要を感じていないように見受けられる。米パ関係の発展に注意は払っているであろうが,神経を尖らせているとは思えない。

 ――今後,アフガン問題はどうなるか?

小林 アフガン情勢は極めて複雑で先行きを左右する不透明な要因が少なくない。そもそもアフガニスタンは統治しにくい国である。諸悪の根源は貧困であるが,その背景には内陸国のかかえる経済発展上の困難がある。加えて人種・言語構成が複雑で,住民は所属する部族への帰属意識が強固であり,貧困に起因する不満は,部族対立を容易に先鋭化させる。1973年のクーデタによる共和制導入まで,アフガニスタンは伝統的な諸制度に立脚した王制の下でともかくも独立国家としての体裁を維持してきた。しかし,それ以後は内紛が絶えず,結局ソ連の武力介入を招いた。アフガニスタンの住民は,昔から外国支配に対して激しい拒絶反応を示す傾向が強く,反ソ・ゲリラ活動には強固なまとまりを見せたが,ソ連撤兵後は再び求心力の欠如を露呈してしまった。

 しかし9・11事件に起因する反テロ戦争のお陰で,国際社会が経済援助を含め国家としての再建支援に乗り出してくれたことは,アフガニスタンにとって幸運であったともいえる。支援が続いている間に近代的統治体制が定着し,治安の回復と庶民生活の改善が実現すれば,この国が自力で安定と発展に向かう手がかりをつかめるかも知れないからである。

 米国をはじめとする国際社会にとってはテロリストの巣窟を排除することが最大の課題であるが,貧しく無秩序な社会がテロリストに格好の拠点を提供することは明瞭であるから,国際社会の努力はテロリスト掃討のための軍事作戦と平行してアフガニスタンの国造りへの支援に向けられなくてはならない。その意味で現在続けられている国際的努力は,直面する諸困難にかかわらず正しい方向に進んでいると思う。


<日本外交の課題>

 ――国際政治において重要性を増す南アジア外交を,日本としてはどう考えるべきか?

小林 南アジア地域では,インドが政治的,経済的,軍事的存在感を増大させている。冷戦期間中,保護主義的閉鎖経済体制を固守し,ソ連の同盟国としてその庇護の下にあったインドは日本のみならず西側にとって政治的にも経済的にも関係を深めようもない国だった。しかしソ連の経済的支援の消滅,その他によって惹起された未曾有の通貨危機の中でインドは,貿易,投資の自由化を含む開放経済政策への転換を余儀なくされ,それが今日のインド経済の活性化につながっている。インドに対する開発援助は貿易と投資を中核とする日印経済関係の発展に直接貢献し得る状況にあり,インドは今日最も援助のし甲斐のある国となっている。

 国際政治の分野においても,インドはパートナーとしての重要性を増大させている。特に中国を念頭においた上での日印豪3国の政治的パワーの結集は,潜在的な重要性を有する。

 東アジアの将来にとって最大の問題は,中国の政治的動向である。中国では天安門事件を契機に, 小平が政治改革を棚上げして経済開放政策のみを推進する方針を決定し,それなりに成果を収めて今日にいたっている。しかし,政治改革の棚上げという決定の結果は,将来に対する「つけ」として残っているのであり,共産党独裁体制が変革を余儀なくされる事態は遅かれ早かれ不可避と見なくてはならない。問題はその変革が社会的混乱や流血を招くことなく実現するか否かである。周辺の各国にとって最悪の事態は,中国政府・共産党が国内の混乱を回避ないし緩和する手段として,国民の関心を外に向けるため,対外的な緊張や摩擦を求めて増大させることである。

 周辺諸国としては,もとより中国を無用に刺激することは避けなくてはならないが,中国情勢が今後どのような展開を見せたとしても,これに対応し得るだけの政治的,軍事的態勢は整えておく必要がある。その意味で安倍政権が非中国陣営の結集に関心を示し,関係諸国がこれに応じる姿勢を見せたことは,注目されてよい。

 軍事面での協力体制の進展は極めて緩慢であるが,最大の原因は日本自身の国内における政治的制約にある。日本としては一日も早く現在の内政上の行詰りを脱却して,安全保障体制の強化に対する法的・政治的制約の除去に努めなくてはならない。

(2009年6月19日)