エルサレムの主権問題

―「平和の都」を救う法的手段



米国・サンタ・クララ大学政治学部                                
                 ウィリアム・J.ストーバー/マリナ・マンケリアス 


 イスラエル・パレスチナ交渉を仲介していたビル・クリントン元米国大統領の補佐官は,エルサレムについて次のような表現をした。「エルサレムを四つの同心円と見立てれば,外延部の郊外,内側の郊外,旧市街,宗教地域の四つの円で構成される。その同心円の中心に行くほど,係争が先鋭かつ歴史的・宗教的な性格を帯びていく。」と。

 中東紛争の仲介者は,現存する国際紛争で一,二を争う難題に直面する。紛争の両側が,相手の立場を頭から否定してかかるからだ。その傍らで,交渉が難航すれば,すぐに軍事行動やテロ,対テロ作戦に訴えるので,死傷者と悲しみが増し加わる。

 境界線が頻繁に変更されたり,多様な主張が出されたが,依然,国際法の上では未解決だ。その間,内戦や戦争のたびにパレスチナ難民は収容施設をたらい回しにされた。難民達はパレスチナへの帰還権を主張し,最低でも奪われた土地・建物の補償を要求してきた。

一方のユダヤ人達は,アラブ諸国や世界各地のディアスポラから「約束の地」にたどり着いた。だから「イスラエルの郷土」と信じる土地に居続けたい。

こうした土地をめぐる難題もさることながら,もっと厄介なのが,双方ともに「自分たちの国の首都」と見なすエルサレムの法的地位に関することだ。

 エルサレムは約125.2平方キロに73万2000人(2007年)以上が住む街だ。世界の三大宗教,すなわちユダヤ教,キリスト教,そしてイスラームの聖地があるため,この街の処遇は世界の注目を集めてきた。宗教的な施設の多くはエルサレム旧市街にあり,大学キャンパス程度の広さの土地に集中している。各宗教が聖地を崇め讃えたいばかりに,土地の管理権を巡って,しばしば葛藤してきた。

 本論では,中東紛争でのエルサレム問題について検討したい。第一に,聖地の意義と地位,そしてイスラエル・パレスチナ双方の主張を確認する。第二に,双方が主張する主権概念の変化を分析する。そして第三に,交渉当事者には法的な打開策となるかもしれない「コンドミニアム(共同主権)」という概念を検討してみたい。最後に,その実例を挙げ,エルサレムでのコンドミニアムの妥当性を考えてみたい。

1.「エルサレム」の意義とその地位

 ユダヤ教におけるエルサレムは,ダビデ王と古代イスラエルの時代に遡る。紀元前1000年,この土地を征服したダビデ王は,ここに「契約の箱」を運び入れ,統一されたばかりのユダヤ諸部族の国の都に定めた。

 しかしエルサレムが「エホバ(ユダヤ教の神)」に選ばれた聖なる場所,礼拝の中心として打ち出されたのはソロモン王の時代だ。当時の遺跡として今も残っているのは,バビロニアの攻撃で破壊された跡に,ソロモン王が建て替えた「第二神殿」の「西の壁」だ。

 一般に「嘆きの壁」として知られるこの壁は,ユダヤの歴史家ヨセフスの記録によれば,西暦70年,ローマ軍によって破壊されたが,壁だけは持ちこたえた。そのおかげでエホバは,この地に臨在し続けている,そうユダヤ人は信じてきた。だから世界に散ったユダヤ人達が,パレスチナ巡礼を果たした際には,真っ先に「嘆きの壁」でエホバに感謝を捧げたのである。

 エルサレムを初めて訪れた時のことを,我が家に帰ったようだ,と記録したユダヤ人もいた。若いイスラエル兵は的確に次のように書いた。「エルサレムは私達の心に内在し,私達の感性と深くつながっている。それはユダヤ民族の源であり土台石だ。エルサレムは観念ではなく,全てを抱擁する世界そのものだ」。

 キリスト教徒にとってエルサレムは,キリストの公生涯が幕を閉じた,その死と復活の聖なる場所として崇められてきた。しかし「新約聖書」,例えばパウロ書簡集などでは,地上の具体的な街というより,「天なるエルサレム」といった観念的な側面が強調された。そしてキリスト教徒には,エルサレムの聖地を訪れれば格別の霊的恩恵に欲する,といった考え方が否定されてきた。

 エルサレムが特に大事にされだしたのは,パレスチナに三つの教会を建立したコンスタンチヌス大帝の時代だ。その一つはベツレヘムにある,キリスト降誕の場所とされる聖誕教会だ。あとの二つはエルサレムにあり,キリストの墓を覆う形に造られた聖堂(聖墳墓教会)と,キリスト昇天が信じられるオリーブ山の頂上に建てられた昇天教会だ。

 今日,聖地巡礼でエルサレムを訪れた人々は,キリストが十字架に向かった道,「ヴィア・ドロローサ」と呼ばれる500メートルほどの道筋をたどる。その途中,刑場まで14カ所の記念すべき場所で立ち止まりながら,聖墳墓教会に至ってクライマックスを迎える。

 イスラームにとってエルサレムは,現在のサウジアラビアにあるメッカとメディナに次ぐ第三の聖地だ。ムスリムはエルサレムのことを,アブラハム,モーセ,イエス,そしてムハンマドによって締めくくられる「預言者たちの街」と見なしている。

 中でもムスリムが大切にするのが,685年に石灰岩の上に建立されて「岩のドーム」と呼ばれる壮麗なモスクだ。その岩は,アブラハムが息子イサクを神に捧げるために連れてきた場所だと信じられている。ソロモン神殿の至聖所も,この岩の上にあったとされる。

 イスラーム信仰では,ここから預言者ムハンマドが,「アッラー(イスラームの神の名前)」の最後の啓示を受けるべく天に向かった。この昇天飛行を記念し,705年に「アクサ・モスク」が建立された。

 聖地メッカ・メディナまでの巡礼が難しいイスラーム信徒は,エルサレムで礼拝を捧げることもできた。本来メッカの「カーバ神殿」で執り行われる祈りや儀式を,エルサレムで行うこともできた。ムスリムはこう表現する,「エルサレムで捧げる一回の祈りは,他の場所で捧げる四万回の祈りに匹敵する」。

 1948年の建国後,イスラエルはエルサレムこそ「永遠の都」だと喧伝し続けてきたが,それほどユダヤ民族にとって格別の意義がある街だ。「エルサレム」と,その別名「シオン」の単語は,ユダヤ教の聖書に800回以上も登場する。礼拝・儀典や音楽,文学,詩にも「エルサレム」の表現が溢れている。

 ダビデ王が紀元前1004年にエルサレムを都と定めて以来,この街はユダヤ民族の心の故郷,魂の拠り所になった。イスラエル当局によれば,ユダヤがエルサレムを管理していた間,三大宗教の諸施設は復元・保護され,どの宗教の信徒も自由に礼拝ができた。

 さらにイスラエル外務省によると,エルサレムを他の領土から切り離す考え方は,国際法上に全く根拠がない。これは英国委任統治下のパレスチナ分割を標榜して,国連総会に出された提案の一部だったが,結局,アラブ諸国が拒否した。イスラエル側の主張では,19年間を除いてエルサレムはほぼ三千年間,一つのまとまった街だった。イスラエル統治下でも,そのまま維持されるべきだと主張する。

 一方,パレスチナ自治政府の交渉担当者によれば,エルサレムが分断されるまで,パレスチナ人が統治する首都だった。すなわちイスラエルは西エルサレムを,パレスチナ人は東エルサレムを支配していたが,1967年の戦争でイスラエルはこの合意を破棄した。そしてイスラエルはガザと,東エルサレムを含むヨルダン川西岸を占領した。国連安全保障理事会は決議第242号でイスラエルの行動を非難し,全ての占領地からイスラエル軍撤退を要求した。

 この経緯を根拠にパレスチナ人は,イスラエルによる東エルサレム占領継続は不法極まりないと主張する。そして平和達成にはエルサレムを「開かれた街」として,人々の自由な通行を認め,西岸地帯の南北に居住するパレスチナ人が往来できるようにすべきだと言う。また1967年以前にヨルダンが管理していた東エルサレムへの主権を主張している。

2.主権の考え方

 イスラエル・パレスチナ双方の主張は,国際的な政治・法制度が定着する頃に現れた,「民族国家の主権」の概念に基づいている。この主権に関する革命的な変化によって,主権国家が誕生したのであった。そのきっかけは,主権を保有する民族国家同士で交渉・調印されたことから「最初の国際条約」と言われる「ウェスト・ファリア条約」(1648年)だった。

 この条約交渉に関わった国々とその最高指導者達は,次の三つの性格から「主権者」と見なされた。

第一に主権者は,正当かつ合法的な権力と権威に支えられている。支配者の権威や市民権は,国家の法制度の規定に基礎をおいている。

 しかし法に定められた権限を有する個人が,だれでも絶対的な主権者と見なされるわけではない。主権には,第二の性格,つまり「最高の権威」がある。主権者であるには,究極の権威を体現しなければならず,彼を凌駕する権威は存在しないことになる。ここから,それぞれの民族国家は法の下に平等だという概念が成立する。

 主権の三つ目の性格は領土権に関わる。主権が管轄する物事は,一定の国境線の内側にあるものとして規定され,国境以外の要素や宗教等に依拠していない。

 1648年に主権に関する革命的な変化が起きて,国際システムが宗教による帝国的支配から,民族に基づく国家の卓越性に移行した。その後長い間に起きた変化は,正当な政体の構成,政治制度の運営資格,立法・行政・司法の主体など,主権の性格をめぐるものだった。

 その意味で,アメリカの独立戦争やフランス革命などは,当該国のあり方を変える以上のインパクト,例えば,人民主権の導入,異なる国際システムの並存,人権の強調,憲法に立脚する法制度等を強化することになった。

 主権に関する別の変化は,東欧の少数民族の権利に関して合意に達した19世紀後半の諸条約や,第一次世界大戦の平和条約に見られた。これらの国際合意により関係国は,少数民族の権利を保障する国際機関に主権の一部を譲歩した。また1960年代には植民地から多くの独立国家が生まれたが,植民地主義の国際政治システムは大きな打撃を受けた。

 市民的および宗教的権利や,経済・社会的権利を認めた条約によって,人権の普遍的な原理が促進され,主権の概念はさらなる挑戦を受けた。例えば従来の国際慣行における狭義の主権では,人権擁護や人道支援なども,主権を有する当該政府の了解を得てから提供されるものと考えられていた。

 しかしこの考え方は,国連が人道的関与について当該国から了解を得られないまま事態の打開を図ったソマリアやボスニア,アフガニスタン,あるいはイラクのクルド人問題処理を通じて,明らかに変質した。強大国は依然国際問題に干渉する力量があるとしても,その干渉について国際的な妥当性を得るよう圧力を受けるようになった。「一般的に認知された手順に沿って,一般的に認知された規範に則った政治的決定」が必要なのだ。

 こうした趨勢により,人権は専ら国内問題だという考え方が覆され,ある国の司法権の下に発生した事柄に介入を禁じた「国連憲章」第2章7条の解釈が変更された。採択当時の国連憲章は,国の司法権について,前身の国際連盟の憲章より厳格に保障していた。

(PWPA-USA発行,International Journal on World Peace,2008年12月号より整理して掲載)