古代の日本海交流に学ぶ
   ―渤海史研究から見た東アジア平和への道



國學院大學栃木短期大学教授   酒寄  雅志


 7世紀から10世紀初めにかけて,中国東北地方を中心とした東北アジアに栄えた渤海という国がある。しかし,日本の歴史教育ではほとんどスポットが当てられないために,多くの人はその実態について知ることは少ない。日本史では,中国(唐)や朝鮮(新羅)などとの関係に目を向けがちであるが,当時の日本海(注1)を囲む周辺国の交流史をみるときに,日本の政治・文化に与えた渤海の影響は決して小さなものではない。

 私の専門は日本古代史であるが,古代日本と周辺国との間の,とくに外交関係をメインにした国際交流史を研究している。そこで,ここでは日本海を介して対岸に位置する日本と渤海の交流を概観しながら,現代における東アジア地域の広範な交流を考える上での視点を提供できればと考える。

1.渤海史研究の意義

 一般に日本史研究では,日本に軸足(主体)を置き,その視点から対中関係や対朝鮮関係を見る。しかし私は,それでは十分ではないと考えるので,まず相手国の歴史からの視点を含めて日本との交流を見直すと,日本を主体とする視点とは違った歴史像が見えてくる。渤海と日本の交流史であれば,まず渤海史について研究し,その土台の上で日渤関係・交流史を見るのである。

 渤海が栄えた時代は,南に新羅,西には唐があり,そのほか周辺には契丹・奚,さらに靺鞨諸族(注2)などの異民族がいたので,そのような地域の全体像を見ないと,渤海史それ自体も正確にとらえることができない。しかも東アジア地域の歴史の中で,渤海が繁栄した時代は,日本海を介して非常にダイナミックに交流が展開した時代であり,日本海交流を考える上で格好の研究対象である。

 ところで日本では,戦前,渤海史が非常に注目された。とくに日清・日露戦争前後から満鮮史研究がさかんになった。当時は,日本が満洲および朝鮮への侵出をもくろむなど大陸への野心を抱くようになった時期でもあった。その結実として,満洲国が建国(1932年)され,1200年の昔に遡って,この満洲国とほぼ同じ地域に重なりあうのが渤海である。当時の研究者たちは,「かつて日本と渤海は非常に友好的な関係を維持していたのだから,1200年後の満洲国と日本も同様に友好関係を維持していこう」と主張し,それを理論付けたのが「五族協和」という理念であった。そしてそれを歴史的に証明しようと渤海史を研究したのだ。

 当時,東京帝国大学・京都帝国大学の研究者を中心に「東亜考古学会」(注3)が結成され,満洲地域の遺跡発掘に力を注いだ。しかし戦後,満洲国が滅ぶと,日本はこの地域に対する政治的役割を求めることもなくなり,それにともなって渤海史研究も衰退することになった。

 その後,1970年代前後から西嶋定生(1919-98年,東京大学名誉教授)の唱える「東アジア世界論」といった世界史的観点の歴史像の構築が始まると,渤海史研究にも多少関心が向けられるようなった。ただ渤海に関しては,渤海人自身の手になる歴史的な文献史料がほとんど残されなかったために,研究がなかなか進まない面がある。また,研究フィールドの中心は中国だが,渤海の領土は現在のロシア(旧ソ連),北朝鮮にまたがっており,冷戦時代は東西対立を反映して関係各国が長い間対外的に閉鎖されていたために,研究のアプローチが容易ではなかった。

 日中国交回復(1972年)以後,ようやく中国から研究の道が開け始めた。私自身,満洲地域に初めて足を踏み入れ,渤海関連遺跡を調査したのは1987年が最初であった。中国の開放政策もあって80年代半ば以降,中国の考古学的研究成果が少しずつ得られるようになった。同時に日本でも研究者が少しずつ現れてきた。近年では,中国はもとよりロシア沿海州を含む渤海地域の遺跡発掘・研究調査も進み,その考古学的研究の進展には目覚しいものがある。

2.古代の日本海交流

(1)渤海

 渤海は7世紀末に,中国東北地方を中心に粟末靺鞨人や高句麗の遺民によって興された多民族国家である。近年,中国は「東北工程」(注4)という歴史プロジェクトを通じて高句麗史や渤海史を中国の辺境史の一つに位置づけようとしており,その動きに対して韓国は反発している。韓国や北朝鮮は,「渤海は自分たちの先祖の国だ」と考えているが,彼らの民族意識からすれば当然のことだろう。

一方,中国からすれば,渤海史が朝鮮史の中に組み込まれた場合には,中国内の朝鮮族が独立を志向する契機となることは避けたいので,渤海史を朝鮮史に位置づけようとはしない。靺鞨族は漢族から見ると異民族であるが,唐に付属する辺境民族の一つとしたように,高句麗や渤海も同様に考えたわけである。

 しかし歴史学の立場から言えば,果たしてどうなのか。このような中国の発想は,あくまでも現在から投影された視点であるが,中国の学者たちは,『旧唐書』渤海伝の「渤海,本粟末靺鞨は高麗に附く者」を引用して,自説を主張する。

 7世紀当時,唐は朝鮮半島の支配に積極的に乗り出し,新羅とともに百済(660年)や高句麗(668年)を滅ぼした。しかし7世紀後半になると,唐は3代皇帝高宗(位649-683年)の時代に最盛期を迎え,領土が大きく拡大して世界的大帝国に発展した。だが戦線が伸びきってしまい,十分な領域支配ができない状態となった。そこで朝鮮支配に関しては,「高氏を復して君長となす」として,すでに国家としては滅びたが,高句麗の末裔に任せるのが得策ではないかと考えた。そのため唐は外交政策として,「渤海は高句麗の末裔」と位置づけ,それを『旧唐書』に著したのだと考えられる。

 さて渤海建国の経緯であるが,次のようであったと考えている。668年に,唐によって高句麗が滅ぼされると,その遺民たちは営州(現在の遼寧省朝陽市)に強制移住させられた。しかし則天武后の内政混乱とともに契丹が反乱を起こし,それに乗じて高句麗の遺民や靺鞨族の人々も営州を脱し,大祚栄に随って粟末靺鞨の故地に移って,698年「振国」あるいは「震国」とよぶ国を自ら建てた。これが渤海の始まりである。その後713年に,唐から「渤海郡王」に冊封された。「渤海」という名の由来は,もともと河北省南部の地名であり,唐が命名した意図は,唐の内地の名前を与えて,内属化させるためであったと思われる。以後,「振国」(「震国」)を改めて,渤海を国号とする。

ところで「震国」とは,東の国という意味(「震」と「振」の共通部分「辰」は東北東の方角を指す)とする見解が中国では有力であるが,唐に服属する前の国が,果たして自分で「東の国」と言うだろうか。遣隋使小野妹子が持参した国書に,「日出る処の天子,日没する処の天子に書を致す」と表現したように,当時の倭は,自らを「日出る国」だと主張した。これはどこに視点があるのか。それについて李成市は,高句麗(聖徳太子の師慧慈の故国)から見たのではないかと推測している。それでもこの「日出る国」という表現は,自分を中心とした視点といえよう。

 こう考えると,私は「震国」よりも「振国」の方が適切ではないかと考えている。「振」には盛んにするという意味もあるので,「新しい国を興す」という意味を込めて自称したのかもしれない。この点は実証するのが難しいのだが,何れにしても私は,「東の国」という意味ではないと考えている。

(2)渤海と日本の交流の始まり

 渤海が日本との外交的交流を結ぼうとした背景を考える場合,渤海をめぐる当時の国際情勢を把握しておく必要がある。渤海はその北方にいた強健な黒水靺鞨の征服を意図したことに起因して,唐・新羅と対立することとなって国際的孤立化を招いた。さらに黒水靺鞨が唐の支援を受けることとなったために,渤海は唐と黒水靺鞨の両者によって,腹背から攻められかねない状況に陥ってしまった。しかも新羅との関係も悪かったので,新羅からの攻撃も想定された。渤海が緊密な関係を維持していたのは,西北の遊牧民族の雄であった突厥だけである。このような緊張する国際関係の中で,孤立を深める渤海は,新羅を牽制することを日本に期待して,727年に,最初の外交使節を派遣したのであった。このように渤海側から始まった交流は,実はきわめて政治的意図を持ったものであった。

 当時,日本も新羅との関係が悪化しており,新羅に北方から圧力を加えることのできる新たな勢力として渤海使の来日を歓迎したのだった。

遣唐使は630年以降,派遣されていたが,8世紀には日本から唐に渡って帰国する際に,平群広成のように遭難して崑崙国(ベトナム南部か)に漂着し,その後,ようやく唐に戻った遣唐使もいる。しかしながら平群広成は,直ちに帰国する便船を得られず,渤海を経由してようやく帰国したのであった。これが遣唐使の渤海ルートの始まりとなり,時として利用されることとなった。

(3)渤海と日本の交流とその性格の変容

 730年代に突厥が滅ぶと,唐と対抗できる強大な国家が存在しなくなった。渤海は突厥の支援を受けることもできなくなり,唐との関係を改善しなければならなかった。それは唐に対する安全が保障されたことにもなり,渤海は靺鞨諸族など周辺民族の併合を積極的に進めた。日本との関係では,759年に日本で新羅征討が発表されると,両国関係はさらに緊密度を増し,軍事的協力関係が強化された。しかし新羅征討計画が失敗に終わることによって,渤日関係は政治的・軍事的関係から交易(貿易)を中心とする経済的関係へと比重が移っていった。ただし新羅と渤海の関係は,2回ほど新羅の使節が渤海に行ったことが記録に残っている程度で,疎遠な関係に終始した。

 日本と新羅との関係も,770年ごろに公的交渉は途絶えてしまう。752年の大仏開眼に合わせるように,新羅の金泰廉王子を中心とする700余人の大使節団が大挙して来日した。その後も使節の来日はあったが,日本側から外交上の異例・無礼を指摘されて,太宰府から帰国せざるを得ないなど,新羅との関係は改善しないまま,外交関係は終了した。ただ日本は,遣唐使が遭難した場合の救助は,その後も新羅に要請し続けた。

 一方,唐で8世紀半ばに安禄山・史思明の乱が起こると,唐の社会構造に変化が生じて地方勢力が台頭するとともに,海のシルクロードとも言うべき中国の沿海部とインドや西アジアとを結ぶ海上の交易ルートが活発化し,渤海もこうした交易圏に参入するようになった。東アジアの社会・経済的変化にともない海外の文物が,渤海経由で日本にも入ってくるようになる。日本の遣唐使は630年に始まって894年まで,せいぜい16〜20回の任命があっただけであった。いわば20年に一度派遣されるという程度であった。ところが渤海使は200年の間に34回も来日するほど頻繁で,9世紀には玳瑁(鼈甲)や麝香(雲南地方に棲む鹿の一種)など,南方の産物が唐を経由して渤海使によって日本にもたらされた。

 日本の貴族や国司,また裕福な百姓たちが,この海外の珍しい物品を争って買い求めた。8世紀には,交易は国家によって厳しく管理されていたので,貴族といえども海外の文物は容易に手に入れることはできなかった。しかし9世紀になると,この管理交易が緩み,管理する側の貴族たちが,渤海の遣使が来日すると先を争って貴重品を買いあさるようになった。なかでも人気を集めたのが,貂(テン)をはじめとした豹や熊,虎などの毛皮製品であった。毛皮は貴族のステータスを衆目に誇示する格好のアイテムでもあった。そのほかに,蜂蜜・人参なども珍重された。渤海使にしても,日本との交流を通じて,糸(絹)や?(あしぎぬ)などの繊維加工品,黄金・水銀などの鉱物,他に檳榔樹の扇など工芸品を入手した。

 日本史では,どうしても遣唐使の果たした役割を大きく評価しがちである。しかし9世紀に派遣された遣唐使は2回(804年・838年)に過ぎず,それに比べて渤海使の来日は19回にものぼる。遣唐使の陰に渤海使の役割が隠れてしまっている。実際には遣唐使よりも頻繁に往来していた渤海使によって,多くの外国の文物が日本にたらされたのであった。また9世紀半ばには,唐商人や在唐新羅商人なども,活発に国家の枠組みを超えて活動し,頻繁に日本にやってきた。ただし日本の商人が,唐に渡ることはあまりなかった。当時,唐や新羅の商人が持ってくる文物は「唐物」といって,日本の貴族などに大変珍重された。いずれにしても,9世紀以降,国家管理の交易から商人主体の交易関係へと変化していったのである。

 その他に,渤海を経由して日本にもたらされた唐の代表的文物の一つに,「長慶宣明暦経」がある。これは822年に唐で作られた「大唐新用」の暦で,859年に来日した渤海使がもたらし,17世紀末に渋川春海によって貞享暦が作られるまで使用されたのである。

 渤海使の中には高い教養を備えた人も少なくなかった。「蕃客」を迎えるに当たって日本としても博識で万事に通暁している者を選び,礼を以ってもてなした。彼らは国家の威信をかけて,漢詩を作り「筆を闘は」せたという。在原業平をはじめ菅原道真ら当代随一の文人などが当たったのであった。

 また,中国に渡る僧は遣隋使以来数多くいるが,9世紀になると唐や新羅商人の仲介によって入唐求法する僧も増加する。第3代天台座主となった円仁(慈覚大師)は遣唐使船に乗って唐に渡り,帰路は新羅商人の助けを得てその船で帰ってきている。また円仁の弟弟子である円珍も新羅商人の船で入唐した。さらに8世紀の終わりには,渤海を経由して入唐した永忠のような僧も出現していることは注目される。

(4)中華思想と小中華思想

 「中華思想」は,中国独自の政治思想である。自分の民族や文化が中心であるという考え方(エスノセントリズム)は,本来どこの民族にもあるものである。しかし国家間の力のバランスによって,時によっては力の強い国に従わざるを得なかった。

律令国家となった古代日本は,令の条文の中に,日本を中心とする中華思想を反映させた。つまり日本を中華とし,周辺国の新羅・百済・高句麗を「蕃国」,蝦夷を「夷狄」,さらには唐を「隣国」と序列化したのである。いわば「小中華思想」ともいうべきものであった。それゆえ727年に,渤海からの使節の来日は,新たな蕃国からの使者として歓迎し,位階を与えて天皇の支配秩序の中に組み込もうとしたのであった。

 しかし,現実の国際社会ではそうはいかなかった。753年正月の唐の朝賀の式で,日本よりも新羅の方が上位の席次であった。国際的な評価は,日本が新羅の使節を迎えたときの対応とは全く逆であり,日本の遣唐使には容認しがたい処遇であった。そこで日本の遣唐副使大伴古麻呂が,席順を入れ替えるように画策するという事件があった。その結果,新羅と互いに反目することになり,これに起因して藤原仲麻呂(恵美押勝)の新羅征討計画の発議へと発展していった。

 同様に新羅など他の国々も,自民族を中心とする中華思想をもっていた。本来,天子は天帝の子であるから中国の天子がただ一人のはずなのだが,日本はもとより新羅や渤海の王も,それぞれ自らを天子として,「治天下」の観念を持っていた。時としてこの天下観の衝突が戦争や席次を争う事件となったのである。

(5)日本海交流の終焉

 渤海と日本の交流に先立つ150年ほど前の570年,高句麗から初めての使節が倭(日本)に来着した。当時,台頭する新羅は高句麗にとって脅威となっており,新羅牽制の意味からのことであった。しかしながら初めて日本海横断は,「風浪に辛苦」して漂流するなど,困難を極めたという。その後,通交の努力がなされたものの,双方向の交流にはなお困難が多く,恒常的なものとはならなかった。

すでに述べたように,727年に初めて渤海が日本に来て以来,919年までの約200年間続き,これまでにないほどに日本海の交流は活発化した。ただ渤海からの使節の来日が34回にのぼる一方,日本からの渤海へ渡った使節は13回にすぎず,日本海交流の実態は,渤海の積極的な交流に対して,日本は「受動的」な交流であったといえよう。

しかし,926年渤海が滅亡すると,日本海を介する双方向の交流は,明治時代までほぼ途絶えてしまう。もちろん周辺ルートを利用した交流・交易は存在した。例えば,清朝の時代に,北海道アイヌが蝦夷錦(山丹服)という中国服というを持っていたが,それはアムール川ルートを通じて得たものである。また青森の十三湊を根拠地として日本海に大きな交易網を形成した安東氏(13〜15世紀)にしても,中国・朝鮮そして蝦夷地を結ぶ日本海の東西交流であった。

渤海以後の中国東北部に興ったいくつかの王朝は,日本にはあまり関心を示さなかった。日本にしても日本海を渡って対岸の王朝と交流しようとすることは稀であった。

 近年,日本海側の秋田・新潟・富山県などを中心として,環日本海交流が叫ばれ具体的に動き出している。歴史的スパンで見ると,このような動きは実に1000年ぶりの日本海を越えた交流の再開なのである。ここで歴史に学び,これまでの日本の受動的姿勢からより積極的姿勢へと転換することができれば,さらに大きな発展を見ることが可能ではないかと考える。

3.現代への照射

 現代社会は,国民国家という空間的領域を前提に歴史をも考えようとする。かつて渤海が存在した地域は,現在,中国・ロシア・北朝鮮など複数国にまたがっている。逆に発想すれば,自国の利益などを主張しなければ,互いに共有しうる歴史像を描くことができるのが,この地域の大きな特徴でもある。

現在は中国が進める「東北工程」に対する韓国の反発もあって,こうした複数国家にまたがる関係はあまりうまくいっていないのが現状である。しかし,渤海史を素材に,国家の枠組みを超えて研究者同士が,純粋に学問的成果として発掘調査による遺物や遺構などを分析していけば,極めて面白く有益な歴史像を描くことができる。言い換えるならば,関係国それぞれが言い分を押さえて透徹した目で歴史を認識することが,東アジア諸国・諸民族の共生をすすめるうえで何よりも重要である。そのうえで東アジア共同体構想なども新たな可能性が見えてくるに違いない。

(2009年6月11日)

注1 日本海

古代において「日本海」と呼んだとは思われない。「北海」と呼んでいた例が,『経国集』などの漢詩文集や,『風土記』『日本後紀』あるいは藤原頼長の日記である『台記』などに認められる。これは相対的な方位観念に基づいた呼称である。空海のように「渤海と日本と,地,南北に分かれ,人,天池を阻てり」(『性霊集』「藤大使の渤海の王子に与ふるが為の書」)と,日本海を形容して「天池」などと表現している場合もあった(酒寄雅志「古代日本海の交流」熊田亮介他編『日本海域歴史体系 第二巻古代篇U』清文堂)。

注2 靺鞨

靺鞨とは東北アジアに居住していたツングース系の民族集団の総称で,隋代には粟末(ぞくまつ),伯咄(はくとつ),安車骨(あんしやこつ),払涅(ふつでつ),号室(ごうしつ),白山(はくさん),黒水(こくすい)を靺鞨七部とよんだ。南部の粟末,白山の二部は,高句麗に服属していたが,渤海成立後はいち早くその支配下に入った。その他の靺鞨諸部は8世紀末から9世紀初頭までには渤海に服属したが,北方の黒水部だけは独立の立場を維持した(酒寄雅志「東北アジアのなかの渤海と日本」『渤海と古代の日本』)。

注3 東亜考古学会

1926年3月,東京帝国大学・京都帝国大学の考古学者と中国北京大学の教授が中心に,外務省文化事業部の支援のもとに設立され,中国各地の遺跡調査を行なった。特に1933年,34年の2年にわたって,渤海の王都上京(東京城)の調査を行なった。その結果,1939年に報告書『東京城』を出版した。

注4 東北工程

中国社会科学院が東北三省とともに推進する「東北辺疆歴史与現状系列研究工程」である。この計画は2001年から2006年までの実質5年間で実施された大型プロジェクト。東北辺疆の地域史・民族史を再構築し,その研究成果を「現状」の分析と政策に反映させようとする内容をもつ。特に,今日の朝鮮半島北部と中国東北地方に広がった高句麗・渤海を中国王朝に従属する辺境政権とする。そのため高句麗・渤海史を朝鮮史とする韓国の反発を招いた(井上直樹「高句麗史研究と「国史」−その帰属をめぐって(上・下)」『東アジアの古代文化』pp122-123,大和書房