中国の伝統的家族観と家庭の価値

東京大学名誉教授 蜂屋邦夫

1.古代中国における家族の形成
 現代日本では家族のきづながだいぶ薄れてしまった印象があるが,中国では,近年の急激な経済発展により家族関係に変化が見られるものの,伝統的家族観は,まだ日本よりも強く残っているように見える。
 中国における家族の起源を考えてみると,太古の時代は,いわゆる狩猟採集社会であったから,基本的に男は外に出かけて食糧を獲得し,女は小規模の村のような居住地を形成して住んでいたと考えられる。その時代は母系制社会であり,神話中の王である神農の時代には「民,その母を知りて,その父を知らず」であったと伝えられる(『荘子』盗跖)。したがって,家族と呼べるような人間関係はまだ成立していなかったであろう。
 その後,人々の活動範囲が拡大し,人口もふえるにつれて,集団相互のあいだで摩擦が生じ,さまざまな規模の戦争をへながら,より大きな集団が形成されていった。この段階から父系制社会へと転換していったと考えられる。父系にもとづく氏族制の社会が形成されていき,必ずしも一夫一婦制とは限らないが,父と子が結びついた,家族とよべる関係もそのころ成立したものであろう。
 この時代は,中国文明の基礎を築いたといわれる,やはり神話中の王ともいうべき黄帝に象徴される時代で,黄帝は宿敵蚩尤と大決戦を行なって権力をにぎった。伝説では,このとき,死傷者の血が百里(約40キロ)にもわたって流れたという(『荘子』盗跖)。この時代は血縁関係を基礎とする氏族制社会から,さらに氏族を結合した集団や地縁集団を含めた部族制社会へと発展していった時代であった。
 くだって堯帝・舜帝から夏王朝(前21世紀半ば頃?〜前16世紀半ば頃?),商(殷)王朝(前16世紀半ば頃?〜前11世紀半ば頃?)の時代も,氏族を根幹とする部族制社会であったと考えられる。殷王朝は天神である「帝」を崇拝し,殷王は,ことごとに帝の意志をうかがって政治を行なった。帝の意志は,亀のこうらや獣骨を使ってうらなった。殷の政治は祭政一致であり,殷王は帝の権威をかりて強大な権力をふるい,各地の部族を支配した。
 その後,陝西から起こった周が実力をたくわえ,反殷の諸部族を連合し,山西・河南を根拠地とする殷が東方の反乱を鎮圧した隙をついて武力で殷を滅ぼした。しかし周は,殷を滅ぼしたのは殷王の紂が暴虐であり,酒池肉林などのぜいたくや退廃をきわめ,天をきちんと祀らなかったからだという大義名分を立てた。すなわち,天帝は,そのむかし殷をめでて王朝を開かせ維持させてきたが(このことを天が命令を与えたという意味で「天命」という),天をないがしろにしたので天命をうしない,天をきちんと祀っていた周に,殷にかわって王朝を開くべしという天命が降ったと称したわけである。

2.西周から東周へ
 殷を討ち,王朝を開いた周(西周。前11世紀半ば頃?〜前8世紀始め頃)は,天命を大義名分としたので,「天」をきわめて尊重する王朝となった。殷の天神であった帝もそのまま存続し,ずっと後の前3世紀の秦始皇のときに「皇帝」という称号にも取りこまれたほどであるが,周では具体的な帝よりも抽象的な天という意識のほうが強くなった。天に仕えるとは,周王が一定の時期に一定の儀式で飲食物を供えて天を祀ることである。
 天を祀る儀式は,王朝としてきわめて重要なものであり,周王が周王でありうるのも,周王を助けて殷を討った周の一族や功臣たちが各地に封建されたのも,周王がきちんと天を祀るということを根拠としていた。天の祭祀は時期や式次第が厳密に定められ,天に飲食物を供えることが周王の「徳」と考えられた。徳は,後に,社会的にきめられた礼を守るという道徳の意味に発展した。後世の中国社会において,為政者は道徳的でなければならないということが常識となったのも,淵源をたどれば周が天命を大義名分としたからである。
 周の始め頃は殷とおなじような社会であったが,周王朝が確立するにつれ,社会のしくみも変わってきた。王権も,殷では兄弟相続制であったが,周では長子相続制になり,家族の形もはっきりしてきた。
 なかでも大きな意味を持つのが宗族制の確立である。宗族とは父−自分−子の関係を中心とする男系の血縁集団であり,集団の範囲は,当主を中心にして,上に父,祖,曽祖,高祖の四代,下に子,孫,曽孫,玄孫の四代,横に兄弟,従父兄弟(いとこ),従祖兄弟(またいとこ),族兄弟(高祖から枝分かれした同世代の者)までであり,冠婚葬祭などの儀礼は,基本的にはこの範囲で行なわれる。
 たとえば,誰かが亡くなったとき,それが兄弟の曽孫までなら服喪するが,兄弟の玄孫には服喪しない。玄孫のための服喪は自分の玄孫の場合だけである。従父兄弟の孫までなら服喪するが曽孫には服喪しない。従祖兄弟の子までなら服喪するが孫には服喪しない。族兄弟ならその子にも服喪しない。上については,高祖は本人のみ,曽祖世代はその兄弟(高祖の子)まで,祖世代はその従父兄弟(高祖の孫)まで,父世代はその従祖兄弟(高祖の曽孫)まで,自分の同世代なら族兄弟(高祖の玄孫)までに対して服喪する。これが原則であり,じつに複雑であるが,死者が女性の場合はまた違ってくる。服喪期間も三年から三ヶ月までいろいろな段階があり,服装にも細かな規定がある。これらは元来は風俗習慣であり,洗練されて礼の細則となったものであろう。
 このような規定は,孔子をはじめとする後世の理解では,周王朝初代の王である武王の弟で,王朝樹立に大きな功績のあった周公旦(周公)が定めたとされている。だが実際には,長い年月の間に整備されてきたものであろう。「礼儀三百,威儀三千」(『礼記』中庸)と言われるように,その規定は細かなものであった。礼儀とは礼の分類項目であり,威儀とは細則である。
 周王朝は宗族制を基本とする社会であり,宗族の当主の家柄から分かれた分家,そのまた分家など,複雑な関係が入り組んで,周王を頂点とする網の目のような社会が形成されていた。周王と君臣関係にある異姓の諸侯にもそれぞれの網の目があった。人々は宗族の一員として,さまざまな規定に縛られたが,それは周の秩序を支える大きな柱であった。家族は宗族に下属する形で機能していたであろう
 しかし,宗族の規定だけでは,やがて形骸化して成員を結束させる力が弱まってくる。そこに,もう一つの柱として祖先崇拝があった。周の人々は,人は亡くなるとまず鬼(霊魂)になるのであり,自分たちの周囲には目には見えないけれども祖先の鬼がひしめいていると考えた。祖先の鬼は子孫に恩恵を与えてくれるが,それは子孫が鬼をきちんと祀ることが条件であった。祀るとは,天を祀るのとおなじように,宗族の当主が,一定の時期に飲食物を供えて一定の儀式を行なうことである。祀らないと,鬼がたたりを及ぼすと考えられた。さらに,天(天帝)ばかりでなく,雨や風,山や川,草木,城壁や濠,建物の要所要所など,ようするに当時の人にとって重要な事象や物事すべてに神(神霊)が宿っていると考えられたから,それらの神々も祀る必要があった。鬼と神は,あわせて鬼神とよばれるが,それらの祭祀はきわめて重要であり,祀りを主宰できるものは,王や諸侯,宗族の当主とか,家々の当主など,生まれによってきまっていた。
 こうして,周では政治制度として封建制がしかれ,社会制度としては宗族制が機能していた。周王は天や大地,天下の名山大川などを祀る権限を持ち,各地の名山や大川などはその地方の諸侯が祀った。周王が天を祀ったということは,同時に天の秩序つまり自然の摂理に順って統治することを意味しており,春夏秋冬の季節にあった仕事をし,毎年の暦を諸侯に通達した。周の暦を奉じることが,諸侯にとって周への忠誠を示すことであった。
だが,封建制と宗族制の秩序は西周末期のころから崩れ始めた。周に服従しない異民族を中核とする諸部族に圧迫されて,周は陝西の鎬京から河南の洛邑(洛陽)に遷都し,それ以降を東周(前8世紀始め頃〜前3世紀半ば頃)とよぶ。東周は前8世紀後半からの春秋時代と,前5世紀半ば頃からの戦国時代に分かれるが,時代が降れば降るほど周王朝を支えた封建制と宗族制の秩序は崩れていった。
 封建制の崩壊は,諸侯同士の戦争によく現われている。周初に封建された国は71国あり(『荀子』儒效),周に降伏した国が652あった(『逸周書』世俘解)というから,周に加担した国を併せれば,周初には少なくとも千以上の国があった。ところが春秋時代の主要国は十数ヶ国になり,戦国時代の主要国は七雄と称される七国に減ってしまった。諸国は,鬼神を祀ったり民政に力を入れるより,こぞって富国強兵に走ったのである。
 それでも春秋時代には,まだ周王の権威は若干保たれており,暴虐な諸侯を討つ場合にも,有力な諸侯が周王を代弁してリーダーとなり,任務を遂行した。また,先祖の鬼への配慮もあり,強国が弱国を滅ぼした場合には,弱国の先祖の祀りを絶やさぬよう,君主の一族をある程度存続させた。祀らないとその先祖の鬼がたたりをすると考えられたからである(注1)。ところが戦国になると,国君が王と称する国が複数誕生し,国を滅ぼせばその国君一族を全滅させ,周王室は地方の弱小国に成り下がった。そうした時代趨勢の中にあって,春秋時代の末に,周初の秩序を回復しようと努めたのが孔子である。

3.孔子の家族観
 孔子(前552年〜前479年)は,周公旦の息子伯禽が封建された魯(山東省)の人である。魯を含めて,支配階級には,周王を頂点として諸侯―卿―大夫―士という身分があった。卿は宰相格の家臣であり,大夫は高官である。王にも卿大夫士の家臣があり,王の卿である諸侯もある。これらの身分には,たとえば上士・中士・下士のように,さらに細分化された複雑な上下関係があった。諸侯には国の規模や軍事力の大小などによって公・侯・伯・子・男という五等級の爵位があり,魯公,斉侯,鄭伯,滕子,許男などと呼ばれた。下士に至るまで,その身分や官職によって守るべき規定があり,宗族制の規定と相まって周王朝の秩序が維持されていた。
 ところが,春秋末期には国君よりも卿大夫たちが力を持ち,さらに卿の家臣が卿をしのぐ勢力を持つ場合もあった。魯の卿の一人である季氏は,あるときは宗廟で八列の舞を舞わせ,あるときは泰山で「旅」の祀りをした(『論語』八★【人偏に八の下に月】)。「旅」は諸侯が名山を祀る儀式であり,八列の舞は周王だけに許される舞である。孔子の目から見て,これ以上の僭越な行為はなく,『論語』には孔子の深い慨嘆ぶりが描かれている。
 孔子は三十代のころ,魯の隣国の斉に行ったことがあり,斉の国君,景公の下問に答えている。景公が政治について問うと,孔子は「君 君たり,臣 臣たり,父 父たり,子 子たり」と答えた(『論語』顔淵)。君は君らしく,臣は臣らしく,父は父らしく,子は子らしくふるまうべきだ,という意味である。この答えはすこぶる景公に気に入られ,景公は,もしそうでなければ「米があっても,とても食べる気にはなれぬ」と賛成した。景公も,卿大夫の勢力台頭に頭を痛めていたのである。
 孔子は,そうした秩序の乱れを,人の心を正すことによって正そうとした。そこで強調したのが「仁」の徳である。仁は人としての思いやりの気持ちであり,当時の人々にとって日常の言葉であったと思われるが,孔子はそれを最高の道徳にまで高めた。孔子の弟子たちは,孔子がことさらに仁を強調するので,自分たちの理解とは違う何か深い意味があるのかと考えた。『論語』の中には弟子たちが仁について問うた話がたくさん見える。
 孔子は,たとえば「己に克ちて礼に復するを仁となす。一日己に克ちて礼に復さば,天下仁に帰さん。仁をなすは己に由る,人に由らんや」(『論語』顔淵)と述べている。つまり,自分勝手な気持ちを抑えて,礼を実践していくことが仁だというのである。後半部分は,いろいろな解釈があるが,「一日」を「一に曰く」と解釈し,孔子の言葉として「己に克ちて礼に復するを仁となす」と伝わっているものと「己に克ちて礼に復さば,天下仁に帰さん」と伝わっているものがある,となって理解しやすくなる。いずれにせよ,仁を行なうのは自分の気持ちからであると言っている。孔子は,ここでは仁と礼を関連させて述べているが,礼は一種の形式であるから,仁も比較的理解しやすいものとなっている。
 そのほか,孔子のさまざまな発言を総合して考えると,仁の基本はどうやら孝悌にあると考えられる。孝は子の親に対する気持ち,悌は弟の兄に対する気持ちである。どちらも相手を尊敬し親しむ気持ちであるが,むろん一方的なものではなく,父は子に対して慈,兄は弟に対して良(親しみ)の気持ちを持つものとされた。これらの徳目の中でも孝がもっとも重要であり,家族関係のかなめ,ひいては宗族の秩序のかなめであった。孔子の家族観は孝に凝縮されていると言っても過言ではない。
 孝の実態の一端を,支配階級のうちもっとも多数を占め,社会の中核ともなっていた士について見てみよう。親が年老いたら,子は親をきちんと養わなければならない。そこで「昏(夕)に定して晨(朝)に省する」(『礼記』曲礼・上)必要があった。熟語として定省と言うが,定とは布団をきちんと敷いて枕を安置すること,省とは親の身体のようすを見て問うことである。そこから,朝に夕に親によく仕える意味となった。我々の日常でも帰省という言葉を使うが,これは元来,親もとを離れた子が親のところに帰り,親の安否をうかがい問うて仕えるという意味である。
 『礼記』「内則」に親に仕えるしかたの詳細な記述がある。士の当主は一番鶏が鳴いたら起き,口を漱ぎ手を洗い,髪の毛を梳かし,もとどりを黒い絹で包み,笄をさし,絹の紐で髪を束ねて余りを後ろに垂らし,冠をつけて纓(ひも)を結び,朝廷に出る正式な服装をして笏(しゃく)を帯に挿み,腰の左右に日用の品々を下げる。左には器物をぬぐう粗布やハンカチ,小刀,砥石,小さな錐,金属製の火打ち,右には弓掛,弓籠手,筆,大きな錐,火を鑽りだす木などである。そのようにして別棟に住む父母の屋敷に行く。
 娘や嫁が父母や舅姑に仕える場合も,一番鶏が鳴いたら起き,口を漱ぎ手を洗い,以下,いろいろな規定がある。女性用の服装をしたり持ち物が違っていたりするが,それらの意味づけは男の場合と同じである。男女とも正式な服装でまみえる点が肝要であった。
 父母舅姑の部屋に着いたら,気持ちを穏やかにして声を和らげて挨拶し,着物が寒くないか,痛みやかゆみなどがないかと訊ね,痛いところを丁寧にさすったり,かゆいところを掻いたりする。父母舅姑が部屋を出入りするときには,前になったり後になったりして丁寧に支える。父母舅姑が手を洗うときには,年下の者が水を受ける盤をささげ持ち,年上の者が水を入れた容器をささげ持って,どうぞと言って水をかけ,手を洗わせる。洗い終われば手ぬぐいを差しだす。父母舅姑に何か言われれば,「はい」と返事をし,うやうやしく答える。行動はすべて慎重にし,くしゃみやあくびはいけないし,腰を伸ばしたり片足で立ったりもしない。唾を吐いたり鼻をかんだりもだめ,寒くても父母の面前で重ね着してはいけないし,かゆくても掻いてはいけない等々,その他いろいろな規定があるが,これが父母に対する当時の礼,つまり孝なのである。
 それから食べたいものを訊ね,事細かに丁寧に準備し,父母舅姑が食事を始め,夜が明けてから退出する。日中はそれぞれの仕事をして,日の暮れにまた父母舅姑のところに行き,敬愛の心をもって仕え,食事をすすめる。これがつまり定省である。
 未成年の男の子や女の子も父母に仕える。一番鶏が鳴いたら起き,口を漱ぎ手を洗い,やはりこまごました身じたくをして,おとなより少し遅れて明けがたに父母のところに行く。挨拶をして,食事のことを訊ね,もし済んでいたら退出し,まだなら,おとなたちを手つだって準備をする。これらが孝の実態の一端であり,諸事万端がこんな調子であった。

4.孔子以後の変遷
 周初の秩序を回復しようという孔子の試みは失敗に終わった。時代は血筋と宗族中での続柄を尊重する封建制から,官僚の行政能力を尊重する郡県制へと移行していたのである。強国は,滅ぼした国を本国に近ければ県(懸の意味)とし,遠方なら数ヶ国をまとめて郡(群の意味)とし,県や郡に家臣を官僚として派遣して治めさせるようになった。士は官僚として力を伸ばしたが,孔子が育成したのはそうした士であり,その意味では孔子も時代の趨勢に順応していたことになる。
 戦国から秦にかけて実力主義の郡県制への移行とともに,いわゆる諸子百家と言われる思想家たちが輩出し,中国史上まれにみる活発な思想活動が起こった。墨子(前5世紀)は兼愛思想を説いて家族を基盤とする道徳を利己的なものとし,父子関係などを否定した。楊子(前4世紀)は君臣関係よりも個人の主体性を重視した。これらの主張に対して孟子(前4世紀)は,家族関係を人の基本として仁を強調し,君臣関係を社会の基本として義を説いた。孔子が徳目の中心として仁を考えたのに対して,孟子の時代では仁だけでは足りず,「仁義」を説いたわけである。
 さらに時代がくだって戦国末の荀子(前4世紀〜前238年)になると,仁義のような道徳だけでは社会を規制できなくなり,形式がはっきりし規制力もある「礼」を強調し,礼学を儒学の根本にすえた。もう一歩進めば,規律違反に対して罰則を加える「法」の主張となり,法家思想は儒家思想の発展とも位置づけられる。実際,秦王朝に仕えた,法家の李斯(?〜前208年)は荀子の弟子であった。
 孔子の仁の基盤には孝悌があったが,とくに孝を尊重したのは孔子の弟子の曽参(前505〜前435)である。曽参は親孝行で有名であり,後に曽参に仮託して『孝経』が作られた。『孟子』『荀子』よりも後のもので,戦国末ごろのものと思われる。天子から庶民に至るまでの孝を論じ,家族内の道徳であった孝を「天の経,地の義」として天地自然を貫徹する原理にまで持ち上げた。家庭がそのまま天地大に拡大されたようなおもむきである。「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」(開宗明義章)はとくに有名な言葉であるが,「孝の終わり」は何かといえば,「身を立て道を行ない,名を後世に揚げ,以て父母を顕かにす」ることで,封建道徳の権化のような思想である。ちなみに「仰げば尊し」の「身を立て名を揚げ,やよ励めよ」は,まさに『孝経』の教えそのままである。
 戦国を統一したのは,郡県制の最先端を行き,法家思想を具現したような秦であったが,秦を崩壊させた漢王朝(前206年〜8年)は,政権が絶頂期を迎えた武帝(前140年〜前87年在位)のとき,董仲舒(前180年〜前115年)の建策により思想統一のために儒家思想を国の教えとした。いわば国教としての儒教の成立である。
 武帝の本音からすれば,全土を郡県化して官僚を派遣し,家族単位くらいで管理するのが理想的であったろうが,崩れたといっても宗族制はまだ存続しているし,宗族は一種の地縁社会を形成していたから,その農村共同体をなかば認める形で儒教を利用しようとしたのである。しかし,周代の封建制・宗族制の秩序は,漢の支配体制に合うように読み替える必要があった。すなわち,卿大夫士の身分秩序を官僚の上下関係に置きかえ,親に対する孝を君に対する忠に読みかえて(注2),家族や宗族の道徳を中央集権をめざす国家道徳に変換したのである。
 皇帝―臣下―人民の秩序も,儒家思想によって飾られた。『孟子』「滕文公」上篇には,父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の関係をもっとも重要な人間関係とし,それぞれ親・義・別(注3)・叙(順序の意味)・信の徳を持つとする思想が見えるが,『荀子』「天論」篇では,その中の君臣(義)・父子(親)・夫婦(別)をとくに重視している。儒教では,これらはもっとも重要な人間関係とされ,後に三綱(倫理三原則)と呼ばれるようになった(『白虎通義』三綱六紀)。また,戦国時代半ばから発達してきた五行思想に基づいて,董仲舒は,人の道徳として,仁義礼智信の五常があると考えた(『対策』一)。これらを併せた三綱五常は,儒教のもっとも基本的な人倫の原則となった。さまざまな儀礼も,それらの徳目に対応すると考えられた。家庭という自然発生的な単位が儒教の徳目の中にがっちりと取りこまれ,漢代以降,二千年にわたって中国社会を規定し続けてきたのである。

5.家庭の持つ意味
 儒教の伝統の中で家庭はきわめて重視されてきた。だが現代でも,家庭がもっとも重要な社会的単位であることに変わりはない。人は最初から個人として社会の中に放り出されるのではなく,まずは親子関係の中に誕生し,家族の一員として家庭の中で育てられ,しつけられていく。もちろん親が一人の場合もあるが,その状況もりっぱな家庭である。
 Individual(これ以上分けられない存在)という考え方は,欧米思想の概念であり,日本や中国では現代でもあまりなじまないように思われる。元来,人間は人間に在るから人間なのであって,周囲との関係を超越し,まったく独立(孤立)した「個」人は,日本でも中国でも考えられてこなかった。
 生まれたてのヒトは,まだ「人」とは言えない。自然的生き物として,孟子風に言えば,禽獣と同じである。その禽獣の段階から,まずは家庭教育を通じて,さらに成長の各段階でいろいろなものを学んで「人」になっていく。古代中国では一人前になるのは二十歳で,加冠儀式を行なって「人」と「成」した。それが「成人」の意味である。二十歳の別名は「弱」で,弱とは若いとか,柔らかいという意味である。「弱」で「冠」するから二十歳のことを「弱冠」と言うのであって,テレビのレポーターなどが,「誰それさんは弱冠二十八歳で何々しました」などと言うのは,無知まる出しの言い方である。
 ところで,家庭教育のことを古い言い方で「庭訓」という。庭で教えるという意味であるが,この言葉は次のような故事から生まれた。――ある時,孔子が庭に向かって立っていると,息子が小走りに庭を横切った。孔子は息子を呼びとめ,「おまえは詩(詩経)を勉強したか」と訊いた。息子が「いいえ」と答えると,孔子は「詩を勉強しないと,きちんとものが言えないぞ」と教えた。またある時,孔子が庭に向かって立っていると,息子が小走りに庭を横切った。孔子は息子を呼びとめ,「おまえは礼を勉強したか」と訊いた。息子が「いいえ」と答えると,孔子は「礼を勉強しないと,人として立っていけないぞ」と教えた(『論語』「季氏」篇)。これが庭訓の由来である。
 孔子は息子を特別扱いにはしなかった。人は,矯めないと真っ直ぐには育たない。やりすぎると「角を矯めて牛を殺す」ので,バランスが大事であるが,矯める場として最重要なのは,やはり家庭である。いまさら言うまでもないけれども,子を叱れない親とかモンスター親,ヘリコプター親,あるいは,すぐキレる若者などの出現という昨今の社会状況を考えると,家庭の重要性は,再認識されてしかるべきであろう。

(2009年11月7日述,12月28日書)

注1 祀り手のいない鬼は種々のたたりをするという考え方は後世にも根強く残り,中国に仏教が伝来されると,出家を勧める教えに対して,出家すれば先祖を祀るべき子孫が絶えるとして強い批判が起こった。仏教側は,一族の中で誰かが出家するとその恩沢はあまねく及ぶという思想を広めて切りぬけた。同じことは,出家を説く道教の場合にも生じ,道教側は,一族の中で誰かが出家すると九代前の先祖まで救われると宣伝した。
注2「忠」は「中」と「心」で構成される字であり,心の真ん中,つまり誠実を意味した。その,真心を尽くすという意味が,君主に対して真心を尽くすことに読みかえられ,いわゆる忠義の意味に転じた。
注3「別」とは区別の意味である。士以上の身分では,夫婦には生活上厳密な区別があり,居住する場も内外に分けられ,その間には門があり,みだりに行き来できなかった。妻は外向きのことに口出しせず,たとえば士相見の礼なら士どうしの礼であり,妻が来客をもてなすことは礼ではなかった。

プロフィール はちや・くにお
1968年東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。その後,東京大学東洋文化研究所教授,99年大東文化大学教授等をへて,現在,東京大学名誉教授。文学博士。専攻は中国思想史,中国道教史。主な著書に,『老荘を読む』『金代道教の研究―王重陽と馬丹陽』『中国の不思議な物語』『中国思想とは何だろうか』『荘子 超俗の境へ』『図解雑学老子』『(岩波文庫)老子』その他多数。