ポスト・ポストモダン社会の基本的構成単位―個人から家庭へ

米国・統一神学校准教授 野田啓介

序論
 ポストモダンは,既に使い古された言葉になりつつある。ポストモダニズムは,近代へのある種の懐疑主義であって,それ自体が新しい建設的な思想を提示するものではない(注1)。そのため近代への様々な批判にもかかわらず,それに代わる建設的な代案が生み出されていないのが現状である。本論文は,近代思想の論点の中から,理性的で独立した個人が社会の基本的構成単位であるという点を取り上げる。この思惟の問題点を指摘し,その代案として,家庭が社会の基本的構成単位であるという考えを試案として提示する。とりわけ,近代的社会観が,家庭を公的領域から追放し,私的領域に閉じ込めた理由と,その弊害を指摘する(注2)。更に,家庭が,どういう意味で社会の基本的構成単位となりうるのか,家庭概念の社会への適用が,いかにしてネポティズム(縁故主義,親族主義)を避けることが出来るのか,家庭を成立させるバランスのとれた倫理とは何か,そして,その倫理観が,どのように流動性,融合,相互性を特徴とするポストモダン後の多様な現代社会に不可欠であるかという点を論じる。いずれも精緻な論議が必要な問題であり,今後の家庭を巡る議論への問題提起となれば幸いである。

1.文明の潮流:近代の固定,分離,一元的支配の社会から,ポストモダン後の流動,融合,相互依存の社会へ
 世界は,陸で象徴される固定,分断,一元的,画一的支配から,海で象徴される流動,融合,相互依存,相互協力,チームワークに基づく社会に移行しつつある。かかる転換は,ビジネスから,研究,教育,通信,製造等あらゆる産業分野にその兆候が見られる。宗教,人種,言語,習慣,政治,経済等の種々の要素が絡み合って構成されている多様な共同体は,平和的な共存,共栄を余儀なくされており,文明は,今,近代文明から新しい文明への移行を模索している。
 課題は,時代が求める相互共存,相互扶助の友愛的社会を築くための思想的枠組みは何かという点である。その問いに答えるために,近代社会を築いてきた基礎原理を検討したい。まず「社会の基本的構成単位は,理性的で独立した個人である」という思想を検討する。

2.近代的社会観:理性的で独立した個人が基本的構成要素である
(1)理性的で独立した個人という人間観:ネポティズム(縁故主義)の排除と公正原則の確立
 近代社会は,封建社会の残滓を払拭し,正義の本質である公正な社会を実現するために,人間を理性的で独立した個人(男性)とみなした。理性的で合理的な社会の構築のためには,公的領域と私的領域を区別分離する必要があり,公的領域は,理性的で,独立した個人からなるものとし,家庭は,私的領域に属するものとした。非近代社会においては,ネポティズム(縁故主義,親族主義)あるいはその延長としての部族主義が蔓延し,腐敗の温床となってきたし,現代も同様である。これを排除して合理的な社会を造るためには,社会の公的領域を,理性的で,合理的な個人によって構成されるものとし,公正を本質とする正義,平等等の理性的徳で運営されるものと規定する必要があった。その過程で,家庭は,私的領域として,公的領域から追放されたのである。

(2)公私の分離:家庭は私的領域へ
1)結婚の恣意化
 家庭を私的領域として排除したことは,いくつかの問題を残した。第一に,社会運営において,理性的個人(男性)が主体となったために,その人の結婚のあり方,家庭のあり方は不問に付され,同性婚を含む結婚形態は恣意的な個人の趣向に属するものと考えられるようになった。今日,先進国において,同性婚の法制化の問題が持ち上がっているが,同性婚の正当化のひとつの主要な根拠は,結婚が本人の恣意に属する私的領域の問題であるという点が挙げられる。結婚をどう考えるかは,更に精緻な検討を要する重要課題である。

2)家政労働の経済的価値の軽視
 農業社会から,近代的産業社会への移行は,老若男女全員参加型の労働形態から,主に男性が担う賃金労働の社会への移行を伴った。主に男性が,働きに出て,家庭の収入を得るという形態は,得てして主に女性が担う家政労働が,経済的価値がないという誤解を招いた。今日,先進諸国では,幼児の養育,老父母の介護,家事などの家政労働を,家庭外の機関や組織に依頼することも多々あり,その費用がかなりのものであることが,理解されつつある。
 しかし,女性が担ってきた家政労働が,賃金を得ない労働であるために,家政労働の経済的価値が十分に理解されているとは言い難い。社会の経済運営において,家政労働の経済的価値は,決して見逃すべきではない。社会で収入を得る者(主に男子だが,女子もありうる)だけが労働していて,その者が家族を養っており,家政労働に従事している女性(逆に男子もありうる)は,働き手に「養われている」という考えは,錯覚である。
 経済学は,家政労働の経済的価値を正当に算定し,家政労働がいかなる経済的価値を生み出しているか適切に割り出すべきである。「家政労働に感謝しよう」という道徳的な論議ではなく,家政労働がどれほどの経済的価値を持っているか査定し,家政労働を促す努力が必要である。家庭の再建運動は,道徳的,心理学的,教育学的視点と同時に,かかる経済学的,社会学的視点から,取り組む必要がある。

3)女性の経済的依存性と女性への虐待
 女性の男性への経済的依存構造が,女性の価値の軽視,ひいては女性の虐待にもつながっており,この傾向は,特に発展途上国で著しい。発展途上国において,男性と女性の教育機会に不均衡があり,女性には教育を与えず,男性に教育を与える傾向があるiii。結婚した女性が,教育を受けていないために熟練労働の労働力ならず,結婚を通して夫に経済的に依存した場合,離婚は,女性にとって,貧困と死を意味する。そのため,妻が夫の横暴に耐えるということが現実化している。
 先進国においては,教育の機会均等により,教育における男女の差別は軽減されている。その点はいいのだが,女性の社会進出という形でのみ,女性の経済的自立を捉えがちである。その背景には,家政労働の経済的価値を無視ないし軽視しているという経済観がある。実際には,収入を得られる労働と,収入は得られない家政労働の,両方で,社会の経済は成り立っている。家庭の形成を社会の重要課題として,社会制度そのものを見直すというところまで踏み込んで,はじめて真の家庭再建は果たされるであろう。家庭は,私的領域というよりは,むしろ公私の両面をもつ共領域と見るべきではなかろうか? 家庭を単純に私的領域と考える思惟の枠組みそのものを見直す必要があるだろう。 ここで,理性的で,独立した個人という近代の人間観を検討し,同時に,家庭とは,どういう社会組織なのか分析したい。

3.理性的で独立した個人という人間観と家庭
(1)人間の相互依存性
 人間は果たして独立した存在であろうか? 人間は,むしろ相互依存的存在と見たほうが妥当である。まず人間は,父母に依存して誕生し,養育される。成人して結婚すれば,夫婦という相互依存的存在となり,老いてはまた,自分より若い世代に依存せざるを得ない。病気になったり,ハンディキャップになれば,介護と言う形で,他に依存せざるを得ない。このように生まれてから死ぬまで,人間は常に相互依存的な存在である。
 また,人間の人生は,互いに人生を共有することで成り立っていることが分かる。個人の人生も,他の人の人生が重なり合い,共有されることで成り立っている。言い換えれば,人間は,その存在を共有しているとも言える。例えば,私は妻の人生と心情の中に住み,妻は,また私の人生と心情の中に住んでいる。人は,互いに人生を共有しあって存在している。 個人は,自分の理性で判断し,自由意志で行動する自由を持っているという意味では,独立あるいは自立している。しかし,人間は自分と他者の関係を通してか,自分のアイデンティティーや価値も規定できない。自分と言うものは,あるいは父であり,夫であり,会社では部長であり等々の,社会的諸関係の中で自分のアイデンティティーが規定される。更には,日本人である,禅寺の信徒である等,共同体との諸関係が,自己のアイデンティティーの決定に関わっている。人間が母国語という特定の言語を使うことの中に,既に,その言語をつくり上げて来た歴史的共同体への依存関係を示している。
 人間が封建社会の社会的桎梏から解放されるという目的の為に,あえて個人の独立性が,強調されたが,人間は,限定的に理性的思惟と,意志の自由をもつ自立的存在である。限定的と述べたのは,人間が歴史的共同体の所産である言語を用いて思惟し,特定の文化的社会的伝統の中で成育するため,考え方に特定の文化の制約が加わらざるを得ないからである。しかし,人間は,かかる制約を否定し,独自の思惟を遂行し,行動する自由は保持していることから,制約が限定的となる。
 人間の相互依存的存在性を顕著に表しているのが家庭である。家庭は,相互依存的関係の総体そのものであり,社会における人間関係を学ぶ土壌である。社会もまた,幾重にも連なり合う相互依存的関係の総体である。社会を,独立した個人からなる総体と見るのではなく,相互依存的存在の関係的総体と見るべきであり,家庭を,社会の構成要素とみるべきである。家庭は,人間を繁殖する唯一の基盤であり,人間の幸福の基礎である。社会の継続性は,人間の継続的な誕生と生育を前提としており,家庭は,社会を道徳的に機能させてゆく基盤であるだけでなく,人口供給の面からも,経済的観点からも重要な基盤である。

(2)家庭の心身(霊肉)性と歴史性
 子供は,父母の血肉を受けて,生まれて,母の身体からでる乳を飲み,身体を洗ってもらい,排泄物をきれいにしてもらって成長する。文字通り,血肉を分けて生まれ,育つ。ひとつの食卓を囲み,食べ物を分かち合い,文字通り,心身共に直接的に触れあいながら成長する。夫婦もまた,肉体を共有し,子供を産む。家庭における関係は,精神的な関係だけでなく,血肉を分けた関係であり,家庭は,かかる心身の両方が関わっている独特な共同体である。
 更に世代の継続という形で,家庭は歴史的連続性を持つことになる。DNAに書き込まれた遺伝情報という形で,人間は,限定されて生まれてくるし,先祖と子孫への連続性,すなわち歴史性を持つといえる。自分の容姿,皮膚の色,内外の身体的特性,病気への耐性,運動および頭脳の能力や特性等,実に多くの事柄が,本人の意志に関わり無いところで決定されている。しかも,父母もまた,子供がどういう子供として誕生するかは,自分の意志を越えた所にある。親も子も,先祖から受け継いだものを,共同責任として担い,子孫に伝えてゆくことになる。
 家庭は,心身が共に直接的に関わる血縁共同体であるため,人間に及ぼす影響は,きわめて大きい。この血縁共同体への愛を,公的社会領域に持ち込んだのが,ネポティズム(縁故主義)であり,部族主義,民族主義も,その拡張形態と考えることが出来る。ネポティズムの問題点は,それが社会正義(公正)の原則を破るところにある。公正を求める理性原則が,特定の血縁共同体への愛(あるいは偏愛)によって破られて,破棄され,その結果,不公正な社会となる。家庭が,公的領域から区分され,私的領域に閉じ込められた背景には,ネポティズムの排除がある。したがって,家庭が,社会の基本的構成単位だと主張し,家庭が公私に渡る共領域だと主張した場合,ネポティズムを克服できるのかという問題が浮上する。そこで,次にこの問題を,考えてみたい。

(3)理性,愛(情),意志の統合体としての家庭:公正(正義)と愛の統合
 公正(正義)は,重要な社会的徳であり,この理性的原則は,ネポティズムを排除する。しかし,公正は,社会の領域だけでなく,家庭でも,適用される。家庭での愛が真性の愛になるためには,その愛は公正なものでなければならない。公正さという理性的原則に則った愛こそが,偏愛をまぬがれた真性な愛である。
 家庭での真性の愛は,更にコミットメント(意志)を必要とする。父母は子供に対し,養育のコミットメントをなし,夫婦は,互いに結婚と言う形のコミットメントをする。コミットメントを欠いた場合,父母の子供への養育放棄,夫婦における不倫,老父母への介護,扶助放棄という結果を招く。家庭での愛は,理性と,意志の適切な働きがあってはじめて本来的愛となり,家庭は維持される。家庭は,このように,愛(情),理性,意志が総合的に働いている統合体である。どの作用が欠けても,家庭は崩壊する。
 このように,家庭での本来的愛は,理性的原則である正義(公正),意志のコミットメントを伴っており,その点,社会で要求されるものと同様である。それぞれの社会組織,共同体においても,この三要素が統合的に働いてはじめて,機能し,ネポティズム等の不公正,偏愛を排除することが出来る。

4.ポストモダン後の社会における家庭の意義:理性的徳(正義と平等)から情的徳(博愛と許し)へ
 20世紀後半のポストモダニズムが流行した時代は,近代への批判を踏まえて,社会の多様性,ローカル化が,認識された時代であった。ポスト・ポストモダン社会,つまりポストモダン後の社会は,信仰,言語,部族,地域等による多様な共同体が,相互関係を結び,ネットワークを形成しながら,コラボレーション(協力,協調)が求められる時代となっている。この論文のはじめに述べたように,流動,変化,融合を繰り返しながら,異なった文化的社会的背景をもつ多様な共同体,組織,グループが,どのように協調し,平和的に相互扶助,相互協力できるかという課題を抱えている。この時代の変化に伴って,徳(virtue)においても,正義,平等といった理性原則の徳に加えて,博愛,許し等の,情をベースにした徳が求められている。
 共同体間には,既に歴史的な軋轢や,過去の遺恨があり,容易に対話も出来合い場合が少なくない。それぞれの共同体が,正義を掲げ,その正義の名の下に戦争や紛争を繰り返してきた経緯がある。戦争や,殺戮が,正義の名の下に行われた復讐である場合もある。正義の徳を掲げて,その軋轢,遺恨を解くことは不可能であり,むしろ,許し,博愛といった徳こそが求められる。そして,こうした情を基にした徳を育む基盤が,家庭である。
 近代社会は,理性的徳である正義,平等を中軸にしてきたが,今日,許し,相互理解,博愛などの情を基盤にした徳が求められている。他方,家庭は,情を基盤にした徳が中軸になっている。しかし,家庭もまた理性的な徳である正義 (公正),意志的な徳である責任,コミットメント等が求められている。すなわち,社会においても,家庭においても,よりバランスのとれた徳が求められている。

5.結論
 家庭は,幸福の源泉であり,誕生と死亡の原点である。しかしながら,家庭の原則を,無批判に社会に適用した場合,ネポティズム(縁故主義,親族主義)が起こり,同様の血族主義が拡張されたものとして,部族主義,民族主義も生じうる。ネポティズムは,非近代的社会における大きな問題であり,腐敗の要因となっている。
 近代は,封建社会の身分制度,ネポティズム等の桎梏を除去し,公正(正義)を実現するために,人間を理性的で,独立した個人と見て,その個人が社会の基本的構成単位であると考えた。しかし,社会の公的領域がかかる個人によって構成され,家庭は私的領域とされたために,家庭の意義が理解されないという問題が生じた。ことに,女性が従事する家政労働は,不払い労働として,その経済的価値が正当に評価されず,女性の教育機会の排除,結婚を通しての男性への経済的依存が起こり,その結果,男性の女性への虐待が助長された。これは発展途上国に著しい。また,先進国では,今日,結婚の形態の恣意化が,同性愛結婚の法制化運動の根拠のひとつになっている。
 人間は,情(愛),理性,意志がバランス良く保たれた総合的存在で,他者と相互依存的,関係的に存在するものである。また,家庭における愛もまた,公正(正義)で,各自のコミットメント(意志)により成り立つもので,家庭は,愛,理性,意志の統合した関係的総体である。したがって,ネポティズム等の偏愛は,公的領域でのみ問題となるものではなく,家庭の成立段階でも正されねばならない。公正の原則は,家庭内の愛においても,適用される。家庭は,私的領域として,公的領域から分離されるべきものではなく,むしろ公私にまたがる共領域と見るべきである。育児,介護等を含む家政労働が,支払い労働ではなかったとしても,社会におけるその経済的価値は,正しく評価されねばならない。ボランティア活動等の果たす経済的価値も同様に査定される必要がある。
 ポストモダン後の現代社会において,多種多様な共同体間の平和的協力,相互扶助は,歴史的遺恨の和解が前提となっており,従来の理性に基づいた正義と平等の原理だけでは不十分である。情を基にした許し,博愛等の徳が求められる。愛と正義を社会に実現して行くためには,愛,理性,意志の統合体としての家庭,精神(徳)と肉体(経済)の統一体としての家庭をモデルとした社会の構築が必要となるであろう。

(2009年12月5日〜7日,日本において開催された第21回統一思想国際シンポジウムにおいて発表した論文を著者が整理したものを掲載)

参考文献
『世界子供白書 2007:女性と子供:ジェンダーの平等がもたらす二重の恩恵』Executive Summary〔要旨〕(ユニセフ,2006)
http://www.unicef.or.jp/library/pdf/haku2007_executivsummary_jp.pdf
(accessed Nov. 1, 2009)

Gilligan, Carol. In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development. Cambridge, Mass: Harvard University Press, 1982.

Held, Virginia. The Ethics of Care: Personal, Political, and Global. Oxford: Oxford University Press, 2006.

Lyotard, J.-F., The Postmodern Condition: A Report on Knowledge, Geoff BEnnington and Brian Massumi (trans.), Minneapolis: University of Minnesota Press, 1984.

Noddings, Nel. Caring, a Feminine Approach to Ethics & Moral Education. Berkeley: University of California Press, 1984.

UNICEF. The State of the World's Children 2007: Women and Children : the Double Dividend of Gender Equality. New York, NY, USA: United Nations Children's Fund, 2006.
注1 ポストモダニズムというのは,思想,建築,芸術,文学などの多様な領域にまたがる文化運動であるが,思想面では,近代(モダン)が前提とした普遍的理性への信仰,基礎付け主義(真理,言語,科学など,思惟を何らかの基礎に立脚させれば,それで正当化されたと考える立場;これまでのほぼ全ての哲学がこれに属する),全ての歴史をひとつの包括的な理論(grand narrative)で説明できると考える立場,進歩主義等への批判を掲げた。Lyotard, J.-F., 1984, The Postmodern Condition: A Report on Knowledge, Geoff BEnnington and Brian Massumi (trans.), Minneapolis: University of Minnesota Press.
注2 バージニア・ヘルド,キャロル・ジリアン,ネル・ノッディング他は,カント倫理学,功利主義の倫理学に対する代案として,ケアの倫理学を,フェミニズムの観点から提示した。統一思想の観点と重なる点があり,本論文もその議論を参照した。Held, Virginia. The Ethics of Care: Personal, Political, and Global. Oxford: Oxford University Press, 2006. Noddings, Nel. Caring, a Feminine Approach to Ethics & Moral Education. Berkeley: University of California Press, 1984. Gilligan, Carol. In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development. Cambridge, Mass: Harvard University Press, 1982
注3 ユニセフは『世界子供白書』において,世界における女性と子供の健康,教育問題をレポートしている。例えば『世界子供白書 2007:女性と子供:ジェンダーの平等がもたらす二重の恩恵』(ユニセフ,2006)のExecutive Summary〔要旨〕の日本語版は,下記のサイトで見ることが出来る。
http://www.unicef.or.jp/library/pdf/haku2007_executivsummary_jp.pdf
(accessed Nov. 1, 2009)
UNICEF. The State of the World's Children 2007: Women and Children : the Double Dividend of Gender Equality. New York, NY, USA: United Nations Children's Fund, 2006.