アフガニスタンの過去と現在

歴史家 金子民雄

1.ソ連軍侵攻の爪跡
 最近の国際ニュースを見ても,毎日アフガニスタン関係の記事を見かけない日はない。かつてアフガニスタンはアジアの中でも,最も辺境といわれた国であった。18〜9世紀の英露による激しい領土獲得競争の中にありながら,遂にどこの植民地にもならなかったという類稀な存在であった。とくに日本人になると,戦前までほとんどアフガンに入国できた人はいなかった。19世紀末,参謀本部の福島安正も,国境地帯まで行ったものの,入国許可は得られなかった。これほどまでしても決してアフガニスタンは,国際紛争の中で平穏無事に生き抜けられたわけではなく,一方,国内は絶え間ない権力闘争に明け暮れていた。しかし,ともかく独立国家としての体面は維持してきたのであった。
 このアフガニスタンが激動の時代を迎えたのは,実は1979年,ソ連軍の侵攻作戦以降のことだったろう。これまでと違って外国からの明らかに侵略行為だったことで,国内の混乱はもとより国体を維持することすら,困難になった。たしかに19世紀に二度にわたる英国とのアフガン戦争はあったものの,それは遥か昔のことだった。
 この79年12月,ソ連軍がアフガンに侵攻してくる2年ほど前,筆者はたまたまアフガニスタンをぐるりと一周する機会があった。このとき国内は大変平穏で女性たちもヴェールを脱ぎ,若い女性たちになると大変親切で,道を訊ねても気安く応じてくれたし,中高生くらいの少女たちの中には,家に寄って両親と話していったらと勧めてくれる者すらいた。これがソ連の侵入で一変してしまったのである。いまでもよく憶えているのは,ソ連軍侵入直後の新聞に載っていた写真は,カーブル・ホテルの正面の石段が,砲弾で破壊されたものだった。この石段はかつて私が座って夕暮れの中で町の風景を眺めていたところだった。これは心の痛むものだった。
 ソ連がなぜこの時期にアフガニスタンに攻略を始めたのか,あまり明解な説明がされていないが,この数年前の1975年にはベトナム戦争が終結し,米国はすっかり立場が弱くなったこと,それに当時,イランでの米国外交官の人質問題が膠着していて,時の米カーター政権が手も足も出せない状態だったのを,好機到来と思ったのかもしれない。ただソ連軍は予想すらしなった新しい強力な抵抗勢力と対峙することになった。これはパキスンタンで組織された主にシーア派のテロ集団で,イランから援助を受け,「ムジャヒディン」と呼ばれた。
 結局,ソ連軍は米国の影の援助を受けた。これらのテロ組織に対抗できず,十年後の1989年,テルムズでアム・ダリア河を渡って撤退するしかなかった。いまもここに橋が架かっているが,渡ることはもとより写真撮影も禁止されている。銃を持った兵士が歩哨に立っている。すでにソ連軍は去り,ウズベキスタンの領域になっているのにである。

2.荒廃するアフガン
 この十年間のアフガニスタンの荒廃はまさに目を覆うばかりであった。戦闘のため町も農地も人の住むところでなく,当時,二百万発の地雷が放置されたままだといい,大量の難民が周辺の土地,主にパキスタンに流出した。筆者の訪れた1990年代末には,国内の混乱もひとまず収まり,難民の多くも帰国したものの,まだ祖国で家を失って帰郷できない人たちが,国境の町ペシャワール近辺には群れをなしていた。そして町を歩くと闇市の裏通りでは,公然と銃器や武器弾薬が売られていた。
 だれしもがソ連軍の撤退で,アフガンは平穏を取り戻し,かつてのような平和な国に返ると思ったが,まもなくこれはたわいない幻想だったことに気付くことになる。ソ連の支持でかろうじて政権を維持していたアフガン政府は,たちまちターリバーン政権によって取って替えられてしまったからだ。肝心のソ連政府はすでに91年12月に崩壊して消滅していた。ただターリバーンなどだれしも初めて耳にするものだった。
 1990年代の半ばになって新しく登場したのが,このターリバーンだった。この「タリブ」とは「神学生」の意味で,彼らの組織の大半はアフガン難民の若者だったという。彼らは次第に力を増し,遂にはアフガン政権を獲得することになる。ここで何よりの問題は,その背景にパキスタンの影響が大きいことであろう。
 ターリバーンは,すでに知るように,テロ集団といってよかった。イスラームの過激思想のため,平和どころかますますアフガン情勢は混迷を深めてきた。ちょうど90年代の末,アフガン=パキスタンの国境地帯を北からずっと下り,カイバル峠にも行ってみたが,峠を越えてアフガン領に入ることは禁じられていた。ただこの峠でアフガンとパキスタンの兵士たちからは友好的に扱われ,不確実な噂話としてバーミアンの石仏の運命は,どうやら風前の灯のようであった。むしろ彼らはこの際,日本政府が救出の申し出をしたらどうかと言っていた。これはあちこちで聞いた。しかし,日本政府も,まして外務省もこんなことに聞く耳を持たず,何かしら言えば旅行するなと言うばかりであった。現地の政府がどうぞと言っているのにである。危ない橋は渡るなの一辺倒だが,現実は自分の身を守るためとしか言えない。しかし,2001年9月11日の米国同時多発テロ事件で,アフガンの歴史はここでさらに一変する。

3.アフガンの過去
 さてここでアフガニスタンの過去の歴史を少し振り返ってみることにしたい。
 広い意味で中央アジア南縁に位置するアフガニスタンは,大変古い歴史をもっている。いまからざっと二千数百年前以降のことに限ってみても,アレクサンドロス大王の東征から13世紀のチンギス・ハーンの侵略まで、名だたる歴史的事件は枚挙に遑がないくらいだ。また15世紀になると,三百年にわたってインドを支配したムガル帝国の支配者バーブルは,あまり知られていないが,生前に好きだったアフガニスタンの首都カブールに埋葬されている。彼はアフガン人ではなくいまのウズベキスタンのフェルガーナ出身だった。
 時代を一気に飛ばして19世紀に入ると,前にも少し触れた中央アジアに進出し始めた帝政ロシアが,インド支配の英国との間で熾烈な領土獲得競争,いわゆるグレート・ゲームを始める。そのとき中央アジア(西トルキスタン)とインドとの間に横たわっていたのが,アフガニスタンであった。そこでこの地を是非支配下に置くことが英露にとって,切実な願いであった。
 こうした中で1838年,英国とアフガニスタンの間で遂に戦闘が開始された。第一次アフガン戦争である(〜1843年まで)。ついで1878年になると,一旦は落着していた関係が破綻し,第二次アフガン戦争が勃発する。これも一向に安定せず,20世紀に入ると第一次世界大戦中の1919年になって,第三次アフガン戦争が起こるが,ただ幸いなことにはこれは大ごとにならず,アフガニスタンは中立を保ち,独立が承認された。しかし,国内事情は絶え間ない王位継承絡みの紛争が続き,暗殺・虐殺・逃亡の繰り返しだった。これは現在のアフガン情勢をみると,かつてと少しも変わることがない。ただこうした内紛に外部から干渉しないことなのだ。
 ただ第一次世界大戦中,アフガニスタンは中立政策をとって外部への進出も干渉も排除していたが,ドイツ=トルコの外交秘密使節団の一行が密かにアフガンに潜入し,アフガン国王に協力を呼びかけたことがあった。英領インドを独立させるためだった。しかし,これをアフガン側は拒否し,目的は成功しなかった。また第二次世界大戦では,インドは英国側に加担して,ドイツ・日本とは闘ったが,アフガニスタンは中立を保持した。

4.米国同時多発テロ事件の影響
 永い間鎖国社会の中にあったアフガニスタンが,明らかに変貌し始めるのは,その周辺諸国が変わったことによろう。まず第一次世界大戦中の1917年,ロシア革命が起こり,帝政ロシアが消滅した。そこでロシア領中央アジアはレーニンの指導で曲がりなりにも五つの民族共和国を成立させた。そしてかつてのように隙あればアフガン侵略を図っていた意図は姿を消した。一方,第二次世界大戦が終結し,1947年にインドが英国から独立すると,英国からの干渉の杞憂が一応なくなった。そしてアフガンへの旅行も解禁されるようになった。そしてソビエト領中央アジアも旅行が自由になった。
ところがここでまた事態は一変する。1979年12月,例のソ連軍が突如アフガンに侵攻し始めたのだった。アフガンは戦場となってしまうのだ。しかし,アフガニスタンがどうしようにも収拾つかなくなった原因は,実はそれから二十数年経った2001年9月11日の,例の米国同時多発テロ事件である。ただ誰しも当初,これがアフガンのテロ組織が関わった犯罪だったとは思えなかった。
 この9月の事件が起こった数日後,私はカシミール地方から西チベットのラダクを旅する機会があった。さすが米国での事件直後だっただけに,インドの空港(ニューデリー)には人影すらなかった。気味の悪いほど静まり返っていた。しかしこのときには,まさかこれを契機に米国が本格的にアフガン爆撃を開始するとは思えなかった。大方の見方もそうだったろう。すでにこの数年前からアフガン=パキスタン国境地帯は,すでに緊張は高まってこそあれ,これほど急速に行動に出るとは誰にも予想がつかなかったろう。こんなことから同時多発テロ事件は,当局の陰謀説が出たのもうなづけないこともない。

5.ギリシア文化と仏教文化との出会い
 これまで最近のアフガン情勢についてふれてきたが,ここでいま少し過去のアフガニスタンとの関わりについてふれてみたい。近年国際政治の大きな関心事となりしばしば話題に取り上げられているアフガニスタンだが,この国は一般に日本とは歴史的に薄い国と思われている。しかし,アフガニスタンの西隣りに位置するイランも,アフガン以上に話題に上ることが目立って多くなった。核問題を含め宗教絡みの問題である。アフガニスタンを理解するには,この西側のイラン,東のパキスタン,そして北にあるトルキスタン(中央アジア)は無視するわけにはいかないであろう。
 このイランは大変な難題を数多く抱えている。イランの国教はイスラーム・シーア派であるが,このシーア派の源泉が実はイランの古代宗教ゾロアスター教だという説もある。しかもわが国とはまるっきり関わりがないわけではなく,飛鳥時代には数多くのイラン系の人たちが奈良に来ていたといい,アスラ(阿修羅)はもともとゾロアスター教と関連が深いという。ゾロアスター教(拝火教)はアレクサンドロスの東征で破滅したといわれるものの,その後ササン朝の下で復活した。しかし,結局は7世紀のイスラームの浸透で姿をほぼ消した。
 しかし,アフガニスタンには古くは紀元前4世紀のアレクサンドロス大王,7世紀の僧・玄奘三蔵,マルコ・ポーロ,14世紀のイブン・バットゥータなど,アフガニスタンを通過した歴史的人物の足跡があり,アフガニスタンの現状を正確に認識するためには,少なくともこの地域の2000年の歴史を大まかにでも理解しておくことが必要であろう。
 今から二千数百年前のアレクサンドロス大王と現代のアフガニスタンとは直接関係がないと思われがちだが,彼の遠征ルートを考えてみると現代史を理解する上で示唆を得ることが少なくない。アレクサンドロス大王の東征ルートは,現アフガニスタンの中央部を通らずに,北部からアフガン=パキスタン国境線を経て海岸部に至るものであった。アレクサンドロス大王はこの地域に帝国領土を拡大していく中で,ギリシア文化をこの地域にもたらした。いわゆるヘレニズム文化である。
 アフガニスタンの北側にあるメルブ地方(現トルクメニスタン,マクイ市)は,仏教遺跡の最西端と考えられており,紀元2世紀ごろに作られたとされる仏塔や僧院などの仏教遺跡が残っている。残念ながら,その後チンギス・ハーンの侵略によってすっかり破壊されてしまった。トルクメンでは今石油がかなり産出するので沙漠の中に近代都市が出現しており,「第二のドバイ」を夢見ているという。
 さらにメルブから数百キロ先のニサという地域からは,(紀元前2世紀ごろからの)ギリシア時代のビーナス像が発掘された。彫像を特徴とするギリシア文化はこの地域まで及んだもののそれより以東には,ことビーナス像は及ばなかったようだ。つまりこの地域を中心にギリシア文化とインドの仏教文化がぶつかりあったのである。
 アフガン=パキスタン国境線付近にガンダーラ地方があるが,現在では岩だらけで人も住めないような環境である。当時のガンダーラ地方は,「花の谷間」と呼ばれるほどに美しいところであったが,現在では完全に廃墟と化してしまった。以前日本のNGOなどがそのような現状を憂えて植林を行ない木が育ったのであるが,それも戦乱とともに伐採されてしまった。以前,この地方を通りかかると少年たちがしきりに若い木を折っているのにぶつかったことがある。またガンダーラの国境付近から,インダス,サトレジ河に沿ったシンド地方は,『シンドバッド・ナーメ(書)』,よく知られた『アラビアン・ナイト』に登場するシンドバッドの活躍の舞台でもあった。 
 紀元前2世紀,インドのアショーカ王の治世に仏教が大変盛んになり,その後,匈奴に追われてタリム盆地から西方に移動した大月氏は,紀元前後のころにはいまのアフガニスタン北部に進出しただろうという。そして,アフガン北部からガンダーラ地方を支配したクシャンというのが,大月氏の別名ではないかといわれている。このクシャン王朝(前2〜後6世紀頃)で名高いのが仏教の一大保護者としてのカニシカ王であった。
 元来インドではどんなに偉い人でも像に仕立てることはタブー視されていた。ところが仏教が紀元前後にガンダーラ地方に伝わる過程で,その観念が崩れていった。ギリシアからアレクサンドロス大王の遠征によってギリシアの彫刻文化・技術がもたらされ,ガンダーラ地方で仏教文化とギリシアの彫刻文化が融合して仏像が誕生したのである。それゆえガンダーラで生まれた仏像の顔立ちはギリシア系の様相をしている。
 ところが,この地域を中心にしてギリシア文化と仏教文化は互いにそれ以上競わず,ただ仏教は北上し,シルクロードをたどって東方へ伝播していった。ここには文化の違い,さらに民族の違いがあったと思われる。

6.民族と宗教
 これからの世界情勢を考えて行く上で,民族と宗教は非常に重要な視点である。こと中央アジアの国々は,同じ国籍の人でもその血をさかのぼると実にさまざまな背景があるのだ。
 サマルカンドといえば,中東文学の代表作である『アラビアン・ナイト』(『千夜一夜物語』)の巻頭に登場する場所である。私はこれまでこの地域には何度も足を運んでいるが,数年前にサマルカンドの人に次のようなたわいない質問をしたことがあった。サマルカンドは現在ウズベキスタンに属するわけだが,「サマルカンドにはどのくらいの人種がいるのか?」と聞いてみた。国籍で言えばみな同じウズベク人であるが,「(サマルカンドの人口は約5万人で)約5万種類はいるだろう」という答えが返ってきた。
 最近(2009年11月)「中央アジアフォーラム」(毎日新聞社主催)が開催されたときに,カザフスタンのある外交官が「わが国には100の民族がいる」と発言した。前述の話は当初にわかに信じがたいことであったが,この話を聞いてそのようなこともありうると思った。
これに関連していえば,以前東欧のある国を訪れ現地の人と話をしていて血統のことに話が及んだとき,彼女が「私の主人は少なくとも3〜4の血(種族)をもっているし,私も同様だ。子どもたちはここでさらに混血度が増す」と言ったのを思い出す。さらに「子どもはかわいいが,20歳を過ぎたらいっしょに生活するのは考えものだ」とも言った。その国では子どもたちが親の面倒をみるのではなく,基本的には他人がボランティアなどで面倒を見てくれるという。島国に生活し血の純潔度の高い日本人にはなかなか理解しにくい内容である。
 アフガニスタンもまさに多くの民族が複雑に混ざり合った状態で,このような理解が不可欠である。民族国家であるアフガニスタンという同じ国籍を持つといっても,民族的背景はさまざまだ。一つの村を見ても複雑な構成になっていて,相互の融和はなかなか難しい。国際政治や軍事戦略を考える時も,こうした民族や宗教的背景を考えないと,命取りになりかねない。
 最近のイラク情勢は「何とか治安を保っている」といわれるが,いまだに自爆テロが後を絶たない。同じイラク人同士が戦っているのだ。同じイスラームの中でも宗派が違うと,彼らは殺し合いもする。
 彼らはイスラームの教えによって「自爆テロをすればその人は天国に行ける」と信じて自爆テロを実行する。以前ある新聞に「女性が自爆テロをし始めたらもう終わりがなくなる」と書いたことがあったが,その直後女性自爆テロ事件の報道が相次いだ。イスラーム世界では女性が虐げられていると言われるがそれは表の世界の話であって,実は家の中では女性がかなり取り仕切っている。「あなたたち(男性),だらしないわね」と言って,女性が表の世界に出てくるということはいよいよ最後の段階なのだ。
 このような話は,『アラビアン・ナイト』に書かれている。『アラビアン・ナイト』は子ども向きの童話ではなく,本当は大人向けの本なのだ。イスラーム世界と関わろうとするときには,『アラビアン・ナイト』は必読の書である。また古い中東の旅行記の中には,「シーア派の巡礼者がスンニ派の村を通るときに殴るなどの暴行を加えられた」などの記述が見られる。
 このように中東の文学書の内容は,現代世界を理解するのに非常に役立つ情報がたくさん含まれているといえよう。ところが,米国人は歴史に疎くてそのような書物をあまり読まないために,現代の戦争になると,そうした歴史的教訓が生かされていないようである。

7.歴史の教訓
 アフガニスタン人は非常の独立心が旺盛で,そのためにこの国は歴史的に植民地を経験したことがなかった。また彼らは自分の国から外に出て行って他国を侵略したことがほとんどない。このような歴史的事実を知れば,アフガニスタンに攻撃を仕掛けない限り戦争をしないで済むことはわかるはずだ。この観点に立てば,米国はアフガン戦争でターリバーンをやっつけた後にすぐ撤退すればよかったものを,そのままいついてしまったために,他のイスラーム諸国から続々とイスラーム教徒の救援軍がやってきて現在のような泥沼を呈する情況にまでになってしまった。
 かつてイギリスは,戦略上この地域を支配しようとして,すでにふれたように,19世紀に二度にわたりアフガン戦争を起こした。表面的にはイギリスが勝ったのであったが,最終的にはイギリスが敗北を喫した戦いであった。
 1979年12月にソ連軍はアフガニスタン侵攻を開始した。その情報に接したとき私は,「ソ連軍は苦戦を強いられ,侵攻はうまくいかないだろう」と直感した。それはアフガン人が外交術に長けているのと独立心が旺盛なために,これまで植民地化されたことがなかったことと,ソ連軍侵攻の1年ほど前にアフガニスタン国内を一巡する機会があり,その中で得た経験からの直感であった。
 ソ連軍はサマルカンドとアフガンの間にあるアム・ダリア河を経てアフガニスタンに侵入し,その10年後の撤退のときもここを経由して出て行った。実はこの道は「インド古道」とも呼ばれ,(ガンダーラ経由以外では)ここを経由して仏教が入ってきたとされる。また玄奘三蔵もこのルートを経由してインドに行った。マルコ・ポーロもここを通ったゆかりの道である。
 かつて帝政ロシアはその東方への領土拡大の中で中央アジア地域も蚕食していったが,アフガニスタンを目前にしてアフガン侵入だけはしなかった。そこに一度入れば「地獄」にはまり必ずへまをすることを知っていたからだ。帝政ロシアの政治家たちは賢かった。
 ところがロシア革命を経て成立したソ連は,共産革命を通じてそのような帝政ロシアの優れたエリートたちを粛清してしまった。そのため過去の歴史に学ぶことなく,ソ連はアフガン侵攻を企図したのであろう。しかし歴史の教訓を学ばずに,結局はアフガン人によって徹底的にやられてしまったのであった。
 このような歴史を考慮すれば,アフガン人にはあまり関わらない方がいいことになる。

8.米国のアフガン戦争の課題
 アフガン戦争での戦争相手は,実はアフガン人ではなくアフガニスタンに来ている別のイスラーム教徒だ。米国は(9.11テロ犯につながる)一部のイスラーム教徒だけを相手に戦争をするはずであったのに,イスラーム全体を敵に回すことになってしまった。米国は最初の出だしから間違ったと思う。現実的に言えば,米軍としても誰が敵で誰が敵ではないか分からない状態だと思う。
 オバマ大統領は,アフガン戦略において「兵員増派」を決断したが,果たして勝算はあるのだろうか。オバマ大統領は,大量の兵員を増強して山岳地帯のターリバーンを掃討しようとしている。しかし,ターリバーンが隠れているワハーン回廊から南のアフガン=パキスタン国境地域は,一度逃げ込んだら手をつけられない地域であり,そのことを米国政府はよく理解していなかったようだ。
 ワハーン回廊(東西約200キロメートル,南北約15キロメートルの狭隘な高原)は,かつてマルコ・ポーロが1年程度滞在した地域でもある。それは彼が10代のころであったが,そのとき彼の父親と叔父さんが彼を置いてサマルカンドに商売に出かけた。『東方見聞録』にはここでの出来事が記されている。マルコ・ポーロは商売人であったから決して危ない橋は渡らないし,つまらないところには行かない。裏返して言えば,彼の旅行記に記されたところは,かねめ(金目)のあるところ,すなわち宝石が産出するところなどを選んで通って行ったのである。
 ここから南の国境地帯は高さ千メートルを越す岩山が続き,アレクサンドロス大王もここを避けて南下した。うっかり立ち入れば消耗戦になってしまう。ここに現在,ターリバーンが隠れていると言われる。米軍はこの岩山地帯に敵に逃げ込まれたら手をつけられないことがよく分からなかったようだ。
 米国は伝統的に歴史に疎いという弱点がある。アフガニスタンの正史から漏れた内容のなかにきわめて重要なことがしばしば隠されているので,そのようなことに気をつけておく必要があるのではないだろうか。

(2009年12月5日)

プロフィール かねこ・たみお
1936年東京生まれ。日本大学商学部卒。哲学博士。歴史家。専攻は中央アジア史。主な著書に,『ヘディン伝』『中央アジアに入った日本人』『動乱の中央アジア探検』『西域 探検の世紀』『天山北路の旅』『辺境の旅から』『アフガンの光と影』『タクラマカン周遊』『ヤングハズバンド伝』等,また訳書に『ツァンポー峡谷の謎』『ルバイヤート』『アフガニスタンの歴史』(訳編)『能海寛著作集』(全15巻,監修)他など。