高まるインドの戦略的価値

大阪国際大学名誉教授 岡本幸治

はじめに:インドとの出会い
 私は1970年代半ばに文部省の公費留学生としてインドに行ったが,通常は欧米を志向する人が多い中でインドを選んだのには二つの理由があった。一つには,私は若いころ一時期勤務した商社を飛び出して「精神放浪」を経験したが,その時京都で素晴らしい禅師に出会い仏教哲学の深奥さに魅了された。例えば,「色即是空,空即是色」という言葉に見られるように,通常の平面的論理では理解しがたい四次元的内容であり,そのような哲学を生み出したインドに関心を持ったのである。
 二つ目は,大東亜戦争末期に日本は,インパール作戦でインド国民軍とともに戦いインドの独立運動に関与したという事実があるが,なぜこの時数万のインド兵捕虜が日本と手を結んだのか知りたかった。つまり,古代インドの仏教哲学と近現代史におけるインド独立運動について探求しようとして,インドを留学先(国立ネルー大学)に選んだのである。
 実際現地でインド人ばかりの宿舎に住んで感じたことは,日本とは異質な慣習と経験に満ち溢れていること,かつて日本が持っていながら失ってしまったものが今もなお残っていること,70年代以降とくにソ連との関係が深かっただけに,社会主義的色彩が強かったことなど,奥行きがあり多様性に富んでいて,良いものも悪いものも何でもありで興味深い国だと思った。
 日本に戻ってから日本のメディアのインド報道を見ていると大きな偏りがあることに気づき,それを少しでも是正しようとの思いもあってインドに関心を持ち続けてきた。またまたヤワな日本の学生を鍛えるのに非常にいい国だという発見もあって,毎年有志学生を連れて行った。インドは短期間で間違いなく学生に強烈なカルチャーショックを与え,心身共にタフになることを要求するところだ。それを潜り抜けると,学生は自信を持つようになった。
 さて,少し前まで典型的な途上国であったこの国が,このところ国際的な存在感を急上昇させているのは何故なのか。その背景について考えてみたい。

1.高度成長期に入ったインド
 独立後のインドは,社会主義型社会の建設を目指して独自の混合経済体制を採用し,重要産業は公企業とし,私企業にはいろんな規制をかけて自由な経済活動を抑えてきた。
 80年代には部分的な自由化と穀物の完全自給によって成長率はやや上向いたものの,企業の非効率・非能率,財政赤字,外貨不足は解消できなかった。
 90年代に入るとこのような構造的問題に,最大の援助国ソ連の崩壊,湾岸危機による経済打撃などの影響が重なって,インドは極端な外貨不足に陥り,一カ月の輸入もできない状態に追い込まれた。 そこで背に腹はかえられず,IMFなど国際機関の金融支援を得るために,社会主義型経済から自由主義経済へと転換せざるを得なくなった。このとき日本は5億ドルの緊急融資を行って感謝されている。現在の首相マンモハン・シンは当時の会議派政権で蔵相だった。
 この「止むを得ない選択」がインド経済に幸いな結果をもたらした。それまでの公営(国営と州営)企業中心の経済運営に変化が起き,民間企業の地力が発揮できる環境が整備され出したのである。このような構造改革が今日のインド経済発展の基礎となった。
 とくにインドのITソフト産業の発展ぶりは目覚しいものがあるが,その背景に,インドのすぐれた高等教育があるという指摘がある。インドには米国のMITに倣ったインド工科大学(IIT)があり,入学試験が非常に難しくて,優れた学生が何十倍もの高倍率を突破して入ってくる。そのほかにもインド情報技術大学など優れた大学がある。
 しかしインドの公立の初等・中等教育には問題がある。インドは連邦制(連邦共和国)で初等・中等教育は州政府に権限が委譲されており,州によって教育水準にかなりのばらつきが見られる。地方によっては「民主」政治家が「教育はすぐに票にはつながらない」と考えて,中央政府からの教育予算配分を票に結びつくポピュリズム的政策に回す州があり,公立学校は概して教育設備がお粗末で,教師のモラルが低いという問題もある。最近経済発展のなかで急増した私立大学の中には,高等教育機関としてのレベルを満たしていないところもある。インドは多様な国であり,教育においても安易な一般論は危険である。
 産業構造に目を向けると,インド経済は第三次産業(サービス産業)の偏り第二次産業(製造工業)が弱かった。独立以来の社会主義型経済運営の下では,関税障壁を高くして輸入品を可能な限り国産でまかなう経済的自立体制を作ってきた。その結果,一応幅広く何でも作れるが,外資・技術の受け入れを拒否したことなどが大きく影響して製品の品質には問題があった。つまり輸出競争力が乏しい工業製品が多かったのである。
 しかし90年代の改革によって私企業が活性化し,通貨の切り下げによって輸出が伸び,外資の導入によって国内の新規投資や新技術の採用が進んだ。
 例えば,日本のスズキ自動車は82年にインドに進出し,インドになかった軽自動車で成長した。価格を低く抑えるために部品の現地生産も進めた。このように外資による現地生産が始まると,新技術やノウハウが浸透し始め,販売が増えると雇用が増え購買力のある中間層が膨らむ。このようなことが刺激剤となってこれまで弱かったインドの製造業が発展し,経済を押し上げることになったのである。

2.文化的な影響力の拡大
 日本ではインド文化の影響力についてあまり注目されていないようだが,世界におけるインドの文化的存在感は近年増大しつつある。
 インドが伝統的に強いのは宗教分野である。優れた宗教者が欧米などで活躍して多くの信者を獲得してきた。ヨーガ(その漢訳が「禅」である)は日本も含め多くの愛好者がおり,世界的に広がっている。
 インド映画も無視できない存在である。米国のハリウッドが世界的に有名だが,インドには「ボリウッド」(ボンベイとハリウッドを掛け合わせた合成語)があり,ボンベイ(ムンバイ)の一大映画産業界をさす。以前からインド庶民の最大の娯楽は映画であった。その作品数と入場者数でインドの映画産業は世界一である。
 ただし,その多くが美男美女の恋と歌と踊りで構成されているストーリーの単純な娯楽作品であったが,昨年アカデミー賞で作品賞など8冠に輝いたヒット作『スラムドッグ$ミリオネア』のように,近年社会問題に向き合った質の高い優れた作品も増えている。一時はテレビの浸透とともに衰退産業になるという予想もあったが,ボリウッド・ビジネスに民間の投資が入ってきて活力が生まれ,その文化的影響力も無視できないものがある。
 これを支えている者に海外の印僑の存在がある。現在,世界には印僑が約2000万人いるが,華僑と比べると世界にまんべんなく存在している。華僑は東南アジアのシェアが大きいなどばらつきがあるが,印僑の居住地は先進国はいうまでもなく,東南アジア,アフリカ,中近東など世界のどこにでもいることである。
 社会主義型経済の時代には本国ではろくな仕事がなかったので,彼らは留学先にそのまま居残り就職して豊かになった者が多い。例えば,インドのIT産業の発展を支えた技術者は,留学先の米国のシリコンバレーで就職して一旗上げ,母国に里帰りした人たちである。最近話題になった世界一安い四輪車「タタナノ」の開発を担当した中心技術津者も,デトロイト帰りの「頭脳還流組」である。そのほか,大学の教育言語である英語力を生かした文学作品や,多彩な伝統文化の特色を活かした美術,ファッション,デザイン界でも,国際的に活躍するインド人が増えている。

3.軍事・外交面における存在感の上昇
(1)政治的安定
 軍事・外交面で世界から信頼されるためには,国内政治の安定が何より重要である。
インド周辺を見ると,パキスタンは1947年に分離独立して以来,今日に至るまで慢性的政治不安が続いている。1971年の第三次印パ戦争の結果東パキスタンは独立してバングラデシュとなったが,国連は世界最貧困国の一つとしており,難民流出が続き政治も安定していない。ネパールは長年王政で安定していたものの,近年マオイストによって王政が否定され,国民統合の基軸を失った議会政治は不安定に陥っている。
 南アジアだけでなく,独立後西欧型の議会主義を採用したが失敗した途上国が多い中で,インドは,独立以来自由な選挙によって選ばれた多数派が政権を執るという西洋型議会民主制度が,一貫して維持されてきた国である。言論の自由・報道の自由も70年代半ばの政治的混乱期を除き保証され法治主義が維持されており,欧米諸国などから高く評価されてきた。兄弟国パキスタンの戦後史は約半分が軍政であったが,インドにはそのような経験は皆無で,シビリアン・コントロールがしっかりと根付いている。
 このようにインドの国家体制に対する世界の評価が高まったことが根底にあり,経済力の発展と軍事力の増強もあいまって,外交面での存在感が上昇した。現在インドにとって特に重要な相手国は中国と米国である。

(2)中印関係
 1962年の中印国境紛争でインドは完敗して,中国とは国交断絶となった。そこには「非同盟」で平和が守られるという初代首相ネルーの楽観とおごりがあったと思う。その後中国が64年に核実験に成功したが,10年遅れてインドは74年に核実験を成功させた。これは明らかに中国を意識しての行為である。
 88年にラジブ・ガンディー首相が訪中した。経済成長を最大の国家課題としていた中国は周辺諸国との平和な関係を望むようになっており,両国の思惑が一致して国交を回復することができた。90年代初めインドが自由主義経済体制に移行した当時は,中印貿易はほとんどゼロに近い状態であったが,近年貿易が急増してすでに日印貿易の3倍以上となっている。このように経済・貿易面では中印関係は大きく前進し,貿易は今後もまだ増えると思われる。最近,日本と同様に,インドの対中貿易は永年トップであった対米貿易を上回っている。
 ところが眼を政治問題,安全保障問題に転ずると,別のベクトルになっている。国境問題も未解決なままであるが,最近インドが最も警戒しているのは,中国がインドの周辺国に影響力を拡大しようとする動きである。
 人権問題などには一切関知しない中国は,ミャンマーの軍事政権と親密な関係を築いてきたが,最近はかつての「援蒋ルート」を利用して雲南を経てミャンマーに至るルートを整備している。そのためミャンマー西海岸のシットウェの港湾の開発や島々を租借してレーダー基地を設けるなどしている。
 「敵の敵は味方」で中国が友好関係を築いてきたパキスタンに対しては,南西部グワダルの港湾建設と道路建設に協力をして足場を確保しつつある。ここから石油を中国国内に搬送することが可能となるだけでなく,ペルシャ湾に近いので有事の際はインドの石油運搬船を簡単に制圧することができる。さらに最近,中国はスリランカ南岸ハンバントタの港湾整備を支援している。
 インドから見れば,周辺諸国がみな中国の影響下におかれ,商船だけでなく艦艇が自由に寄港できる可能性のある港が増えることを意味する。「インド洋」がインドの海でなくなるような事態が進行中なのである。
 インドは空母(ヴィクラント)を保有しているが,これは建造中止状態にあった英国海軍の空母を購入して竣工させたものだ。第三次印パ戦争で同空母はムンバイから出撃し,カラチ沖から発進した艦載機がパキスタン軍を攻撃した。この作戦が東パキスタンの独立派を助けてバングラデシュ独立に貢献した。
 現在国産の空母二隻を建造中で,最近国産の原子力潜水艦を進水させたが,それは中国に対する安全保障上の懸念から出たものであり,膨張主義的な中国を念頭におきつつ,インド洋を「南シナ海」にさせないための軍事的抗措置なのである。インドにとっての潜在敵国は,独立後熱い戦争を戦ったことのあるパキスタンと,そして中国である。
 インドは,90年代半ばごろから海の彼方に目を開き「Look East」政策を打ち出している。東南アジアの指導者が同様の政策を打ち出したときのEastとは日本・韓国を指したが,インドの場合は,距離的にも近く,かつて文化や経済面の影響力が圧倒的に大きかった東南アジア地域との関係強化が第一である。
 ミャンマーの軍事政権に対して中国が行ってきたさまざまな支援に対抗するために,インドも遅ればせながら大統領がミャンマーに赴いて,資源開発その他の協力を申し出た。日本が働きかけて東アジア共同体にインドを加える動きが進行中であるが,中国はインドを正式メンバーとして迎え入れることには抵抗している。「ASEANプラス日中韓」のほうが「中華経済圏」を作りその牛耳を執る上で好都合だからである。

(3)米印関係
 戦後インドが非同盟を唱えながらも社会主義型経済体制を敷き,とくに70年代以降インデラ・ガンディ政権がソ連に大きく傾斜したこともあって米印関係は必ずしもよくなかった。70年代・80年代のインドを,私は「ピンク型非同盟」と皮肉った。その後,90年代以降インドが自由主義経済体制に大きく転換したのをきっかけに対米関係は深まり,投資国,貿易国としても米国が最重要となった。
 90年代後半から政治的にも印米関係は進みつつあったが,98年にインドが第2回目の核実験を行なったとき,クリントン政権は経済制裁措置を取り,日本も米国に同調してODAの全面停止措置などの厳しい対応を取った。インドは「NPT(核拡散防止条約)体制は安保理5カ国だけの核保有を認める不平等条約であるから入らない」と主張していたが,日米はインドの加入を勧めてきた。そのような中での核実験であったので,厳しい態度で臨んだと思われる。
 ところが米国はブッシュ政権下で対印関係を大きく前進させた。インドを特別扱いして核保有を事実上認め,2008年には米印原子力協力協定を締結したのである。21世紀におけるインドの台頭を見越し,アジアにおける中国の覇権を牽制する狙いもあった。アフガニスタンのタリバン制圧のため現在パキスタン軍の協力を必要としているが,米国の南アジア政策の基軸は,かつてのパキスタンから今日では完全にインドにシフトしている。

4.今後の課題と日印関係

(1)インフラ整備と海洋アジアの関係強化
 インドが今後も持続的経済発展をしていくためには,いくつかの課題がある。最大の課題は,電気,港湾,道路,鉄道などインフラ整備の遅れである。インドは社会主義型経済体制の時代から「5カ年計画」を採用しているが,長期的に見て重要なインフラ整備には余り資金が投入されなかった。ところが90年代半ば以降海外からの投資は急増し,海外に2000万人はいる印僑も大きく動き出した。インド国内においても,経済の発展とともに国民の貯蓄率が高まっており,資金需要をかなり賄えるようになっている。
 インフラの中でも緊要の課題は,工業など製造業に不可欠の電力である。そのために今後,原子力発電所を25基建設しようとしている。日本企業は原発においては優秀な技術を持っているので,これは新たなビジネスチャンスである。
 ところが,日本政府はインドがNPTに加入していないことを理由にして,民間企業任せで政府として支援してこなかったが,米国・ロシア・フランス・韓国などは政府が関わって原発ビジネスを展開している。この点で日本は完全に乗り遅れてしまった。
 そもそもインドの核兵器が,日本に向けられるなどのマイナス要因となることはあり得ない。インドの核は中国の核に対する牽制の意味が大きい。中国はインド攻撃を想定してチベットに核ミサイル基地を整備している。かつて旧ソ連がインドを重視したのも,中国の脅威に対抗したものであった。
 中国の軍事的膨張が大々的に行われる中で,日本はもっと戦略的思考を働かせ,インドの軍事力が間接的に果たす建設的役割をもっと評価すべきである。私がかねて「海洋アジア連合」の推進を主張しているのはそのためである。
 インドは地形上逆三角形で北部が広い。歴史的にみても,インドを支配した民族はほとんど現在のアフガニスタンのカブール付近を経由して侵攻してきたので,基本的に北向きの「陸志向」の国であった。しかし今や,海洋資源開発問題などもからんで「海志向」に転換し始めたのである。
 日本の立場からみても,インド洋は湾岸石油などの重要な補給路である。インドとの関係が悪化すれば,シーレーンはとたんに危険にさらされることになる。以前マラッカ海峡で日本商船が海賊に襲撃されたときにインド軍艦に助けられたこともあった。シーレーンの安全確保などを考えても,インドとの関係強化は重要である。
 今後のアジア政策は,大きな視点でインドの位置づけを見直すことが肝心だ。その意味で私は,「海志向」の韓国・台湾・アセアンを包み込み,日印両国が協同して関係強化を進める「海洋アジア連合」を主張してきたのである。

(2)中国の時代からインドの時代へ
 中国と比べた場合に,親日国家のインドでは法治主義が機能し,言論報道の自由が維持されてきた民主国であり権力に対する健全な批判力を持ったメディアが発達しているという点で我が国と共通の価値観が存在している。
 中印を比べると,インドは25歳以下が総人口の過半を占めるのに対して,中国はまもなく高齢化社会に入ろうとしているという違いがある。これまで中国の強みであった低廉な若年労働人口が無限に存在するという前提条件が,今後崩れていくのである。
 インドは「世界に残された最大の消費市場」である。インドの人口はまもなく12億人に達し,購買力を持った中間層が年々増大している。これまでインドに進出した日本の企業には分野的に偏りがあった。中小企業の進出も遅れているが,インドは日本の中小企業の技術力・実力をよく知っているので,今後は進出先として積極的に取り組むべきだろう。
 大阪のある中小企業社長が今から十数年前に,銀行と商工会の投資関係部門にインド進出について相談にいったときの話である。担当者の返事は「中国や東南アジアならば情報を提供できるのだが,インドとなると資料がない」というものであった。最近話題のインド投資ファンドにしても,日本独自の商品ではなく大半は欧米企業が作った商品を代理店として売っているに過ぎない。それほど日本には,インド企業に関する情報が蓄積されていないのである。
 これまで日本では高い成長率に目を奪われた中国一辺倒の論調が多かったが,今後は生産基地としてだけではなく,輸出基地としてのインドの役割に注意を向けるべきである,例えば,インドで生産した製品をその西方(アフリカ,中東,欧州)に輸出すれば,輸送コストは大幅に削減される。
 この点でスズキ自動車の戦略は見るべきものがある。スズキがインドに進出したのは80年代でまだ社会主義型経済の時期であった。そのころインド政府は自動車とIT分野などに部分的自由化を進めたので,スズキはリスクを取って果敢に進出した。同社の鈴木修社長に話を聞いたことがあるが,こんなことを言っていた。
「当時12ある日本の自動車メーカーでスズキは最下位であったが,社員の志気を高めるため俺の目の黒いうちにナンバーワンになろうと考えた。しかし日本ではいくらがんばってもトヨタ,日産,ホンダなどには対抗できない。それなら自動車産業がまだ発展していないところに行ってやればいい。こう考えてインドに展開した」と。
しかし他のメーカーからは「なぜ好き好んでそんなややこしい国に進出するのか」と笑われたという。もちろん現地でこれまでさまざま苦労も経験してきたが,今になってみればその苦労がここに来て大きく花開いたといえる。一昨年の欧米発の金融危機によって自動車販売数が激減する中で,2008年度のスズキはインドで前年比増の72万代を売上げ,今年の3月には30%増の年間100万台の販売を達成している。
スズキは苦労をしながらも開拓精神をもって臨んだわけだ。現在,世界的に経済が厳しい中ではあるが,日本企業がもう一度このような開拓精神を発揮して世界へ展開して欲しいものである。
 現在,日本に来ている外国人留学生数を国別に見ると,最大は中国で7.2万人だが,インドは僅か544人である(2008年日本学生支援機構資料)。地理的距離の問題だけではなく,使用言語・漢字などの問題もあるかもしれない。しかし,同じ南アジア地域の国々と比べてみても,バングラデシュ1686人,ネパール1476人,スリランカ1097人,ミャンマー922人で,インドはいずれの国よりも少ない。今後のインドの重要性を考えたときに,留学生に対する支援のあり方も,文化戦略の観点から見直す必要があるのではないだろうか。

(2010年3月24日,京都にて聞き取り編集)

プロフォール おかもと・こうじ
1936年京都生まれ。60年京都大学法学部卒。その後,三井物産勤務を経て,京都産業大学,大阪府立大学,インド国立ネルー大学,愛媛大学,大阪国際大学などで研究教育に従事。京都大学法学博士。専攻は,政治学,政治思想。現在,大阪国際大学名誉教授,日印友好協会理事長,アジアネット代表,21世紀日亜協会常務理事。主な著書・編著に,『インド世界を読む』『インド亜大陸の変貌』『南アジア』『近代日本のアジア認識』ほか多数。