21世紀型パラダイムの提唱―「責任化」「身体化」「関係化」の行動様式

桜美林大学大学院客員教授 財団法人地球共生ゆいまーる理事長 橋本晃和


<梗概>

 戦後日本の政治を振り返るときにいくつかの節目があったと思うが,1989年はその中でも大きな節目であった。このころを前途として世の中の潮流が大きく変化したにも拘らず日本の政治は,そのしくみや構造,人々の発想が変わらず,従来のままのやり方で進んできたためについに閉塞状況に陥り,昨年不可避的に「政権交代」が起きたといえる。これからは,欲望民主主義,欲望の経済学を超える新しいパラダイムとして,「責任化」「身体化」「関係化」という行動様式をもとにした考え方に転換していく必要があると考える。

1.政権交代の歴史的意味
 ここ数十年の歴史的流れを振り返ってみると,「1989年」は大きな節目の年であったと思う。世界史的に見ると,中国の天安門事件があり,ベルリンの壁崩壊を経て冷戦時代の終結という出来事があった。日本では,昭和天皇の崩御とそれに続くバブル経済の崩壊によって,昭和の時代が終わり,平成時代が始まった。これらは象徴的出来事であった。戦後の経済成長期から始まった右肩上がりの時代が終焉すると同時に,それはまた新しい時代の予兆でもあった。このときから今日まで,「失われた十年」「失われた二十年」と言われて今日に至っている。日本にとってはさらに厳しい時代が待っている。
 「1989年」から20年を経た昨年,歴史的な政権交代が起こったわけだが,一般の有権者が大きな変化を起こしたのはなぜだったのか。
 先に述べたように,「1989年」を前後として世の中の潮流が大きく変化したにもかかわらず,国内を見ると右肩上がりを前提とした経済・社会政策が相変わらず行われ,世界の構造が変化しているのに,米国にだけ盲目的に頼っていく外交姿勢などが継続したままだった。この20年間に歴史的な大変化が進行していたにも拘らず,国内の政治のしくみや構造,そして人々の発想自体も変わっておらず,それらの間で齟齬を引き起こしたのだと思う。しかし,大きな歴史的トレンドの中で,一般国民が理屈を抜きにして「もうこれではやっていけない」と本能的に感じて起こした選択行動が,今回の政権交代であったと思う。
 しかし,政権交代は目的ではなく,あくまで手段である。「新しいブドウ酒は新しい皮袋に入れよ」と言われるように,その目的・目標は,「安心,安全,安定」と信頼が保障された生活をどのように実現させるかという点になければならない。
 現実の日本社会は,それらがみな崩れてしまっている状態だ。その象徴的できごとが,母親による子どもの虐待事件,高齢者の孤独死,百歳以上の高齢者行方不明の問題などで,「信頼の“絆”が切れてしまった社会」になった。そのような深海に頭を突っ込んでしまい,頭を上げられずにあえいでいるのが今の日本社会の現状と言えよう。
 こうした背景を考えると,昨年の政権交代は,「起こるべくして起こったできごと」であった。

2.21世紀型パラダイム
(1)パラダイム・シフトの必要性
 以前から英米型の二大政党による政権交代のできる政治の実現が主張されていたが,実際にはそのような様相には至っていない。昨年の政権交代で民主党主導の政権がスタートしたが,その過程で民主党議員のさまざまなスキャンダルや事件があるたびに民主党支持率の低下があったものの,それによって自民党の支持率が上向くことには繋がらなかった。
 二大政党政治であれば,与党の支持率が落ちた場合,有権者の票が野党支持へと流れるのが普通だ。ところが,今夏の参議院議員選挙でも明らかになったが,与党民主党や自民党の支持が低迷し,特定の政党支持をもたない「無党派層」が膨らんで,今回は民主党票が「みんなの党」に多く流れたのであった。こうした大きな歴史のトレンドを捉えずに,従来の発想で対処しようとしていては,野に下った自民党の再生・復活の道はないだろう。
また民主党にしても,向後3年近くは議会多数派を維持するので政権の座にいるとしても,中・長期的にみた場合に,そのときに向けた新しいパラダイムの準備ができているかとなると心もとない限りだ。民主党は,マニフェストで理想を掲げはしたものの,例えば,埋蔵金が本当にいくらあるのか,地域主権・一括交付金の問題,米国との対等外交をやろうと言っても経済・外交の理念なくしてはできない。デフレ脱却の道筋が出来ないのもその例である。外交でいえば,尖閣列島にみる対中国外交の稚拙さである。
 戦後の政治史における本格的な政権交代が起こったのだから,政治の枠組み,発想を大転換する必要がある。
重要なことは,戦後政治史を振り返ってみたときに,これまでも大きな変化が起こっていたのに,その変化に対応できなかったのである。いま社会が変化しているのに,その変化に応じた変化の仕方が変わらなかった,その結果,本格的な政権交代が起こらなかったといえる。
 もう少し具体的に述べてみよう。これまでの自民党政治は,派閥政治を基本として展開してきた。それゆえ派閥の領袖が交代することが「擬似政権交代」と見られた。しかし,その擬似政権交代によって自民党政治のやり方は変化しなかった。小泉政権のときには,「自民党政治をぶっ壊す」とのキャッチ・フレーズを掲げ,「変化のふり」をして,国民をふらふら,きょろきょろさせて選挙で心をつかみ圧勝した。だがそれは真の変化ではなかった。本格的な変化をして政権交代をしたのが昨年の選挙であり,今回の政権交代でその変化の仕方が完全に変わったのである。しかし,政権交代はあくまで手段であるから,どのようなパラダイムにシフトしようとするのかがいま問われていることを知るべきだ。

(2)日本の「こころとかたち」に基づくパラダイム
 次に,新しいパラダイムを考える前提として,現在の日本がかかえる問題点について考えてみる。私は,日本が機能不全に陥っている元凶として次の三つを考えている。
(拙著 『21世紀パラダイムシフト 日本のこころとかたちの検証』参照)
@先送り主義(事なかれ主義)
A護送船団方式(集団主義)
B情報の非公開(身内主義)
 これらは日本の20世紀型パラダイムであるから,これを打ち破った方式が定立できれば21世紀型パラダイムが出来上がる。現在は,それらをまさに模索中・進行中である。それゆえ金融再生法,ダム建設中止問題などで,ゆりもどし現象も起きている。
 最近のメディアは,「民主党政権は何を目指しているのか分からない。目指す国のかたちが見えない」などと批判しているが,しかし当のメディア自身も新しい国のかたちを示せていない。私は,「かたち」だけでは不十分で,国にも「こころとかたち」があると考えている。その中でも国(日本)の「こころ」がより重要だ。
 「日本のこころ」として私は,「和」と「仁」(人を許し互に支えあうという意味)を考えているが,それらは日本人が本来もっている根本精神だと思う。日本人は歴史的にも海外のものを取り入れることはうまかったが,これからの世界をリードするような哲学や思想はなかなか出てこなかった。
 20世紀は大きく二つのイデオロギーによって導かれた時代であった。その一つは社会主義経済と共産主義,もう一つは資本主義経済と自由主義である。それらは日本にとっては,みな輸入されたものであった。それでは日本には歴史上,固有のイデオロギーはなかったのであろうか。
私は,鎌倉時代に起こった鎌倉新仏教,つまり法然,親鸞,栄西,道元,一遍,日蓮などの「仏教イデオロギー」はまさに日本固有のイデオロギーであったと考える。その上に,儒教の精神が植えられた。こうしてできた日本の精神の特徴は,他のイデオロギーを批判したりはしないことだ。それらを象徴的に表すものが「和」と「仁」であり,これを私は,「和様化イデオロギー」と呼んでいる。
 ところで,民主党政権の外交姿勢をめぐって,「親中国」「米国重視」などの議論があったが,その議論の前に考えるべきことは,日本の自立した外交姿勢を問わなければならない。ここで重要なことは,すでに述べたように「日本のこころとかたち」をよく考えて外交姿勢を立てることである。
 「日米同盟を基軸とする」という考え方があるが,それは日本の生き方として重要な方針である。しかし日本人古来の「こころ」の観点,あるいは思想・文化の観点からいうと,それは仏教や儒教思想であるから,そのような「根っこ」の点で言えば中国や韓国との関係を密にすることは当然のことだといえる。
 日本の土壌は,中国や韓国と同じ文化圏に根っこがあるので,その部分では共に生きるという姿勢が大切だ。ただ,政治・外交政策となった場合は,「日本のかたち」の問題であるから,イデオロギー的に共通である米国との関係(日米同盟)を基軸とすることが重要になる。
 日本人の「こころ」に基づいた日本人らしさをもっと出して,「かたち」として表現する努力がより一層必要だと思う。その「かたち」が,具体的な政治課題であり外交政策ということになる。
 こうした21世紀のパラダイム・シフトを進めようとする真摯な努力に対して,最も阻害しているのがメディアだ。20世紀型のパラダイムを超えて新しいパラダイムで,いま日本が直面する諸課題に向かっていかなければならないときなのに,メディアを中心とした勢力は旧パラダイムで語っているために日本の未来,行く末が全く見えてこないのである。全国紙の毎日の社説を見ているが,そのほとんどは読むに耐えないと言ったら言い過ぎだろうか。私はこれを「メディアの劣化」と呼んでいる。

(3)「ウェル・ビーイング」(well-being)という価値
 次に,経済分野に目を転じてみよう。経済の目的は「よき状態にあること」,「よく生きること」(well-being)にあると思う。ノーベル経済学賞の受賞者アマルティア・セン教授が「ウェル・ビーイング」(well-being)ということを強調したように,それに尽きると思う。デカルトは「我思う,ゆえに我あり」と述べたが,本来はトクヴィルも述べているように「我ある,ゆえに我思う」であるべきだ。「よい人生を生きるためにどのような状態でありたいのか」を求めるのが人間の本性であり,その目指す方向は「安定した,安心した状況でありたい」。これがまさにウェル・ビーイングの意味である。これこそ21世紀型パラダイムのキー概念の一つである。
 「成長戦略が必要だ」との主張をよく聞くが,それは当然だ。しかしその前に,どのような生活のあり方を一般国民が望んでいるのかについて,しっかりと議論し方向を定めておかないといけない。成長戦略が先にありきでは,ウェル・ビーイングには繋がらない。今の政治は,その部分が欠如しているために,大衆の心を捉えることができない。
 現今の経済問題でいえば,まずデフレからの脱却が先決事項である。名目成長率−実質成長率=インフレであるわけだが,それがマイナス状態になっているのが今のデフレ現象だ。デフレ経済が続く限りは,ウェル・ビーイングにはつながらない。バブル崩壊後,始まったデフレは今日まで20年近く継続しているが,おそらく少なくとも向後10年間は続くだろう。国内政治や経済において,もっと根本的な部分を見つめて対処していかなければならない。
 いまは一国だけで経済の建て直しができる情勢にない。それゆえ世界全体で妥協し合える,譲り合うことができる,我慢し合える状況に変化させていかなければならない。なぜなら,20世紀の資本主義,市場経済は「欲望の経済学」に基づいていたからである。
 「自由」は正義の概念とともに人間の持つ本質的欲求であり,根源的価値を構成する。自由を阻害する規制や障壁がいたるところで顕在化している一方で,責任を欠いた自由に翻弄されていることも指摘しなければならない。責任を欠いた自由を「欲望」という。バブルに翻弄された経済の営みは,まさに「欲望」の経済学であった。
 それゆえ人類に残された課題として,「世を経(おさ)め民を済(すく)う」経済学は,いかにして「欲望」から脱却した経済学をつくり得るかにかかっている。いま緊急の課題となっている環境問題や人権問題も,脱「欲望の経済学」,脱「欲望の民主主義」を構築し,機能させることができなければ,人類の地球上での生存は長くは望めないだろう。
 昔から人間の欲望をどうコントロールするかということが考えられてきた。自由は尊いけれども,責任のない自由は「暴走」だ。地球全体の人類が,より多くの人々がウェル・ビーイングであるためには,欲望の経済のメカニズムをどう回避していくかがカギとなる。
ところが,二酸化炭素排出などの環境問題で言えば,米中はほとんど理解が乏しい。そういう分野について,日本はもっと言うべきことを主張すべきだ。環境学者の中には,今のまま進むと100年後に地球,人類は食べていけなくなると予想する人もいる。ゆえに人間の欲望のメカニズムをいかにして回避していくかが最重要課題である。ウェル・ビーイングを考えたときに,それに直結するのが環境問題なのである。
 さらに言えば,経済分野では格差の問題がある。第一は,世代間格差・世代内格差である。同じお年寄りでもお金持ちとそうでない人に分かれる。30代半ば以下くらいのワーキング・プアーなどの人たちは,就職できない,生活設計ができないなど非常に厳しい環境に置かれている。
 これは21世紀になって顕在化してきた問題だ。江戸時代でもこれほどの格差意識はなかったと思う。長屋に住んでいて貧しくても互に助け合って生きることができた。当時は,そのような共同体意識,人と人との絆,今日でいうところのセーフティ・ネットが機能していた。ところが現在は,そうした社会機能がほとんど消失してしまった。
 第二は,地域間格差。日本でいうと,都道府県別というよりは,市町村別のコミュニティ間の格差である。生きていくのにかかる生活費用の格差である。例えば,沖縄は都道府県別所得で見ると全国でも最下位圏であるが,人と人との間の助け合いの精神が今でも残っているために年収が200万〜300万円程度でも生きていくことができる。いま日本では年収200万円以下の人が1000万人を超えている。そうした観点からすると,県別で経済格差を比較しても生活の実相を反映していないことになる。
 米国は金持ちと貧困層が混在する国だが,金持ちが積極的に寄付行為をしており,地域のボランティアなど相互扶助の仕組みもあって,格差を是正する装置が機能している。ところが日本には,現在はまだそうした装置が機能していないので,格差社会が生まれ,大変なことになってしまったのである。

3.「ゆいまーる」の提唱
 20世紀は近代化が完全に行き詰まった時代であった。『日本辺境論』(内田樹著)によれば,日本は辺境に位置していたのだが,近代以降日清・日露戦争の勝利を契機に自国を「中華」の位置に据えようと考えた。
 朝河貫一(1873〜1948年)は,日露戦争終結直後ごろに,次のように述べた。
 「余は日本の大事につきて,あえて当路者(注:重要な地位にある人・当局)および国民の深慮を請わんと欲す。人生最大の難事は実に周囲の境遇と一時の感情および利害とを離れて考えかつ行うにあり。克己とは,すなわちこれなり。しかるに,危機に際してはこの最大の難事こそかえって最大の必要事なる場合も少なからず」(朝河貫一『日本の禍機』より)。
 すなわち,日本がアジアの中心(中華)に立って,韓国や中国を従え,さらには東南アジア諸国も従えて植民地支配すると,その先にはろくなことはないと看破したのである。実際,日本は太平洋戦争に突入して,悲惨な結末を見た。その結果,戦後,拡張主義の悲劇を二度と起こさないことを誓い,戦後日本の発展のキーワードは,「ドルの傘」「核の傘」「憲法9条の傘」となったのである。
 しかし,そのような時代は過ぎ去り,21世紀における新しいパラダイムをどうするかは,まだ定まっていない。日本人の生きる価値尺度,スタンダードを変えていく必要がある。
 先述した日本が抱える三つの問題点を解決するために,それぞれに対して私は次のような一元論に立ったパターンで克服することが可能だと考える。
@先送り主義(事なかれ主義)
→時間が経っても,空間が移動しても責任から逃れられない(責任化)
A護送船団方式(集団主義)
→情報の担い手が変わっても,他人のせいとすることはできない(身体化)
B情報非公開(身内主義)
→自己―他者関係からも逃れられない(関係化)
 以上の「責任化」,「身体化」,「関係化」に基づく行動様式が確立されたとき,21世紀のパラダイム文法として機能するだろう。
 情報二元論に立つ西欧型の情報型アプローチでは,イデオロギーの絶え間ない紛争・対立がやがては戦争となっていく。かけがえのない地球社会にあって,人類がこれ以上互に傷をつけていけば,自分たちの生存・共生までも困難になると芯から気づいたとき,互いがいかにして「折り合い」をつけていくことができるかにかかってくる。この「折り合い」の社会的実現によってこそ,共存・共生の地球社会が可能となる。それを一言で表した言葉が,沖縄方言で「相互扶助」「お互いに支えあって生きていること」を意味する「ゆいまーる」なのである。
 その実践的例を挙げれば,「感謝される外交」である。以前,日本が太平洋諸国(12カ国の島嶼国+ニウエ・クック諸島)にODA援助をして国連での支持票を獲得しようとしたことがあったが,日本以上にお金を出す中国にさっさと持っていかれたことは記憶に新しい。今後も「カネ」で中国と渡りあっても勝ち目がないことを教えている。島嶼国だけでなく小さな国はある意味で非常にしたたかだ。このようなことにならないためにも,援助国の人々のウェル・ビーイングに直結する共生の援助のあり方が求められている。

参考文献:橋本晃和著『21世紀パラダイムシフト 日本のこころとかたちの検証と創造』 (冬至書房 2007年)

(2010年9月17日)