市場開放と日本の農業強化戦略―オランダ・モデルに学ぶ

東京大学大学院准教授 川島博之


<梗概>

 日本経済再生のための新たな方向性として自由貿易に基づく,二国間,多国間の経済協定推進の動きが示される中で,最大の課題は農業問題とされ,市場開放派と農業保護派との間で熱い議論が繰り広げられている。農業保護派は食糧危機説や食料自給率低下を根拠に農業保護を訴えているが,これらの説には問題点が多いことが分かる。いずれにせよ,日本農業を国際競争力あるものにしていくためには,問題点を正しく理解し,その上で選択と集中の原則により日本農業の取るべき戦略を考えるべきだ。具体的には,コメは開放の例外扱いとし,広い土地がなくとも大規模化が容易な分野(畜産と野菜)に集中していくべきであろう。

環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)が政治課題に上ったときに,菅首相はその協議開始に意欲を示したが,それに対して農業関連団体や地方議会などから農業保護を訴える反対の主張が提起され対立した。振り返ってみると,このような対立は農業分野の市場開放が取りざたされるたびに何度も繰り返されてきたことであった。しかし残念ながら真の解決に向けた方策について合意できず,農業自体も国際競争力を備えられないままに,ピントのずれたちぐはぐな農政によってますます弱体化している現状である。
 その背景には,農業問題に関して冷静な思考ができない日本人特有の問題があることを日本人自身が分かっていないことがある。そこで,まずそのトラウマについて考察し,日本の伝統・文化を考慮しながらも,市場開放という方向に向けてどのような農業戦略が考えられるか,述べてみたい。

1.「食糧危機」というトラウマ
(1)終戦直後の「飢え」の経験
 日本は「食糧危機」という言葉に,異常なほど敏感に反応する社会だと思う。その基底には,太平洋戦争終了前後(とくに昭和20年秋から翌年夏ごろ)に都市部在住の国民が等しく「飢え」を経験したことがあったと考えられる。
当時日本政府は,戦争末期の昭和20年に入ると米国との本土決戦に備えて,壮年までも徴用する「根こそぎ動員」を行なった。農村部に残っていた30代の農家の担い手まで戦争に動員されたために農村では人手不足に陥った。また肥料工場も爆撃で壊滅しつつあり肥料が絶対的に不足するなど,農業をめぐる環境は最悪の状態であった。その上,昭和20年は冷害の年であったので,作況指数は67まで落ち込んだ。それ以前にも昭和20年ほどの冷害の年はあったが,作況指数がそこまで落ち込むことはなかったことからも,この年の厳しさが伺える。
 この結果,昭和20年の秋口(終戦直後)になると,食料不足が現実化したのである。戦争中は,1942年に作られた「食糧管理法」に基づく配給制度のおかげで,貧しいなりにも食べることはできたのだが,終戦とともに食べるものにも事欠くようになったのである。
 当時の日本はマクロに見れば,「配給制度」が非常にうまく機能していた。もちろん当時「ヤミ米」といわれたように横流しをした人もいたが,終戦直後ですら配給制度が比較的うまく機能した。そこには日本人の非常に生真面目な国民性に負うところもあったと思う。結果的に日本国民が等しく皆飢えを経験することとなった。農村以外の都市住民は,政治家や軍人など一部の例外を除いて,ほとんどが貧富の差なく,同じ分量だけ配給される食糧以外,市場で手に入れることができなくなったのである。
その結果,戦後社会をリードした政治家やマスコミ人,社会的指導層の人々の多くが「飢え」を経験し,「食糧危機」に対して異常なほど敏感に反応するようになったのである。
 昭和20年秋以降,戦地から多くの復員兵や引揚者が戻ったために農村の人手も増えて,翌昭和21年には作柄が平年値まで回復した。しかし,この1年余りの期間は,日本にとって「異常な年」であった。当時の新聞などマスコミを調べて見ても,「日本で何百万人も飢え死にするのではないか!」といった記事が出てくる。おそらく65歳以上の世代の人たちには,この経験が潜在記憶としてしっかり刻み込まれ,それが一種の「トラウマ」を形成していると思う。今後,2世代も経過するとこのようなトラウマも消えていくに違いない。実際,現代の若者には食糧危機の意識は非常に乏しいようにみえる。
ある意味で,飢饉や飢餓は,世界史においてそれほど珍しいことではない。戦後の歴史に限ってみても,途上国がそのような事態に陥ったときには,何万人,何十万人という餓死者が出ているが,しかし富裕層は以前と変わらない生活をしているという構図がある。どこの国でも食糧危機に襲われたときに最初に苦しむのは,社会的弱者であって,富裕層は食料価格の上昇という程度の問題で,食べられないところまでは行かないのが一般的な傾向であった。ゆえに,インドなど途上国の専門家に会って直接話した私の経験からも,彼らの中で食糧危機をことさら憂うる人はほとんどいなかった。その点で,日本人の心理状態は異常としかいいようがない。
(2)「食糧危機」への過剰反応 
 1973年の「第一次石油ショック」も,食糧危機に敏感な日本人に大きな影響を与えた。ほとんどの天然資源を海外に依存する日本では,海外で何か事態が起きたときに,天然資源のみならず食糧も入ってこなくなるのではないかという不安を多くの人がもっている。おりしも,その前年にローマ・クラブが『成長の限界』という本を出して,人口爆発と経済成長によって地球の環境・資源の限界を訴えていた。
 その後,95年には米国の環境学者レスター・R.ブラウンが『だれが中国を養うのか?』という著書を著し,12億人の中国が先進国化すると世界中から穀物を買い漁るようになって食糧危機がおとずれると警告した。
 こうした節目節目の警告や出来事によって,多くの日本人は迫りくる食糧危機,食糧争奪の時代を強く意識するようになったと思う。
 しかし,冷静に分析してみると,1970年代の石油ショックから,レスター・ブラウンの90年代半ばまでは,食糧危機説は一般の人々の間では忘れられていた。それはその間,穀物は生産過剰気味で価格も安定しており,原油価格も比較的安定していたためであった。さらに,95年からすでに15年も経過した現在ですら,レスター・ブラウンが予言したような事態は起きていないことかららも,彼らの危機説の杜撰さがわかると思う。
 詳しくは拙著『「食糧危機」をあおってはいけない』を参照して欲しいが,レスター・ブランの予測の前提が間違っていたと思う。彼は米国人であるがゆえに,豊かになると誰でもみな米国人型の食生活になると無意識に考えていたようだ。しかし,実際に中国が経済発展して行きついた先の中国人の食生活は「日本人型」であった。私はアジア諸国の経済と環境の関係を研究してきたが,どこの国でも概ね日本人型の食生活に収斂していくことが分かる。日本人は,肉や牛乳の消費量は米国人の五分の一程度,チーズはほとんど食べない。
これまで海外に行って現地の知識人などと話をしてみても,「食糧危機」を心配する論調が国中をにぎわすような国はほとんどない。世界の先進国で,食糧危機に強く反応するのは日本くらいだと思う。
 世界が食糧危機に陥るかもしれないから,食料自給率を高める必要があるという考え方から,「食糧安保論」や「食料自給率向上」の基本的発想が出てくる。しかし,『食糧危機をあおってはいけない』でも述べたように,世界が21世紀中に食糧危機に陥る可能性はほぼないし,さらに日本が世界から食糧が全く輸入できない状態になることも,ほぼないと考えられる。
 その最大の要因は,世界の人口増加が鈍化しピークを迎えつつあるという事実である。フィールド・ワークとしてアジアの農村部をあちこち歩きながら現地に行ってみると,日本の農村地帯を歩いているのとほとんど変わらないような印象だ。タイでも農業の担い手はすでに高齢者で,若者は大体都市に出て行って農村部には見られない。タイは合計特殊出生率が2を割って(1.81,国連推計2008年版),少子化への道を進んでいる。その他のアジア諸国も事情は大同小異である。
 かつてインドは強固なカースト制度のゆえに永遠に発達しない国だと考える専門家が多かった。しかし,ここ十数年間の経済発展を見ると,そのような固定観念を破って非常に眼を見張る変化がある。十年後には,合計特殊出生率が2を割ることも考えられ(現在,2.76,国連推計2008年版,2025-30年に1.95と予測),やがてインドも人口増加が鈍化するだろう。多くの人口学者がアジア諸国の老齢化を指摘し始めている。アフリカについては,人口増加が予測されるものの面積が広いために,インドなどと比べても過密度が低く問題にならない。
 また,中南米やアフリカなど食糧生産余地のある地域は,政治的問題のために食糧生産は増えないとの説もあるが,その可能性があるのは,せいぜいサハラ砂漠以南の地域くらいで,それをもって日本の食糧危機に結びつけるのは論理の飛躍であろう。
 直近の出来事でいえば,2008年は世界中で「食糧危機」を思わせるようなことが起きたために,同年8月には世界の大半の国々が参加して「食糧サミット」(FAO主催)がローマで開かれた。このとき国連世界食糧計画(WFP)のジョゼット・シーラン事務局長が「食糧は棚に並べてあるのに,高値によって民衆が市場からはじき出されている」と述べたように,この年の危機は食糧生産不足が真の原因ではなかった。食糧は十分あるのに価格高騰のために貧困層の人たちが買えずに困窮したということであった。こう考えてみると,日本が今後食糧危機に襲われる可能性は低いと思われる。

2.「食料自給率」という呪縛
 実際には食糧危機の可能性がほとんどないにも拘らず,日本で食糧危機,食料自給率向上が叫ばれた背景には,農水省や学者の思惑などもあるだろう。しかし善意に解釈すれば,前述したように食糧危機というトラウマをもった人たちが,純粋に食糧危機を心配されて発言されたことではなかったかと思う。だが,これは世界の情勢を冷静に分析することに欠けていたといわざるを得ない。
 日本は今後,超少子高齢社会に入っていくので,世界の情勢を的確に分析しながら,世の中の構造を成熟(老齢)社会に見合ったものに変えていかないといけない。高度成長時代のように経済・財政に余力のある時代はすでに過ぎ去ったのに,現在の農業政策は余計なところに力を注いでいるという気がする。その一つが「食料自給率向上」である。
 詳細は拙著『「食料自給率」の罠』に譲るが,食料自給率アップのためにいかに努力してもせいぜい50%止まりである。それは農水省もわかっていることなのだが,食料自給率40%と50%の違いは何かといわれても,はっきりしない。10%アップしたところで,日本農業が強化されるのか,はなはだ疑問である。それよりは「選択と集中」によって,真に足腰を強くする農業改革を進めることがいま求められている。
(1)安い穀物価格と余り気味の農産物
 それではなぜ,食料自給率にこだわることがいけないのか。
 世界に食糧危機は来ていないし,それどころか実は,世界全体の食糧は余り気味なのである。それゆえWTOなどの貿易交渉で農産物が議題に上るのである。農産物の需給が均衡していれば,市場原理で解決してしまうはずだ。WTOやガットで農産物交渉がまとまらなかった最大の原因は,欧米双方ともに農産物が過剰気味でそれを輸出に回しているので,互いに買ってもらえるようにと輸入補助金などについて交渉をして対立していたのだ。日米のコメ問題も同様で,日本のコメが余り気味であると同時に,米国のコメも余っているために,米国は自国産のコメを日本に輸出したい。そこで交渉となるのである。
 余り気味の商品は,経済学の原理によって価格が安くなる。例えば,トウモロコシ1トンの値段は食糧危機が叫ばれた時期ですら3〜4万円,安いときには2万円を割り込んでいた。一人が必要とする穀物は年間200キログラムといわれるので,値段にすると年額1万円にも満たない。このように穀物の国際価格は安いのである。
 日本が穀物自給率を上げるためには,国内で作るしかない。日本では1ヘクタールの農地を持つ農家が平均的だが,ここで小麦を生産すると年5トン程度の収量なので,値段に換算すると仮に1トン=3万円としても15万円程度にしかならない。これではやっていけない。いくら食料自給率を上げるためにといわれ,しかもわずかな補助金をもらったところで,農家のインセンティブは上がらない。農家としては,政府の指導でやむなく不承不承作るようなもので,それではいつになってもうまくいかないし,税金も無駄になってしまう。このような形の農政が何十年も行なわれてきた。
 もう一つの方法としては,農地の規模拡大である。先の例で言えば,1ヘクタールで15万円であれば,10ヘクタールで150万円,100ヘクタールで1500万円となる。100〜200ヘクタール規模というのが米国農民の一般的姿であるから,彼らは1500〜3000万円の売上で,収入は700〜1000万円程度になる。国際価格の安い穀物は,大規模経営でなければやっていけないのである。ところが,日本にはそう簡単に規模拡大が進まない歴史的事情がある。
(2)規模拡大が進まない理由
 まず,日本の農村では深刻な過疎問題がある。日本の伝統的農村では,1ヘクタールの農地を持つ農家に5〜6人が住むのが一般的で,村全体で100ヘクタールあれば500〜600人が住む村落を形成した。ところが農地の規模拡大を進め一戸が100ヘクタールを所有するとなると,残りの人たちの行き場がなくなってしまい過疎化が一層進むことになる。一方で,政府は過疎化対策を進めており,矛盾する施策を同時に展開しているわけだ。ちょうど,アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものである。
 第二に,歴史的要因がある。日本では,江戸時代の初めごろに小家族制が定着した。それはお墓に象徴的に現れているように,土地は長男に相続しながら代々引き継がれてきた。すなわち多くの農民は,「土地」は先祖代々受け継いできたものであり,さらには子孫に代々引き継いでいくという意識をもっていたので,そう簡単に売ったり買ったりしない。それゆえ,米国のように規模拡大は容易に進まない。
 また農地の賃貸も簡単ではない。
 戦後の農地解放のときに,農民の半数は小作人であったが,彼らもだいたい1ヘクタールの農地を耕作していた。GHQの指令の下に,非常に廉価で小作人に農地が払い渡された。GHQの超法規的措置による農地解放の経験によって地主の心には,「土地は貸しておくと,いつか取られてしまう」という不安が残り,それがトラウマになったのだと思う。現在制度的には,借主よりも貸主の権利が保護されるしくみになっているのだが,それでもトラウマによって同じように土地が取られてしまうのではないかという不安があるようなのだ。土地を貸す場合にも,親戚やかなり仲の良い人にしか貸さない。それゆえ,借りられても一箇所に集積されず飛び地となることも多いために,農作業効率が非常に悪い。
 昨今,TPPの件が持ち上がったときに,「農地法を見直し規制緩和をして効率を上げ,規模拡大をしよう」と菅首相も叫んだ。しかし,米国とは歴史的背景が全然違う日本で,米国流のやり方はそのまま通用しない。米国で経済学を学んだ経済学者の意見だけを聞いていては,現実に合った政策はできないと思う。それをもとにいくら農業改革委員会を設置して議論したところで現場の農民は見向きもしないのである。菅首相がやろうとしている農業政策は,まさに素人の医者が手術をするようなものだ。
 第三に,農地は農地として利用するよりも,開発に伴う他用途転用して売買すれば数十倍,数百倍以上の値段がついて売れるために,農民の中にはその投機を狙う人も少なくないことがある。例えば,現在は二束三文の価値にしかならない農地が,リニアーの駅ができるとなると高く売れると期待してなかなか売らない。
そのような農民を神門善久教授(明治学院大学)は「偽装農民」だと称した。農業の場合,固定資産税や相続税が安いので,投機を狙いながら,農業をやりたくないのに,農家の真似ごととして農業をやっているというのである。ただ,私は彼らを「偽装農民」として非難することはかわいそうだと思う。農業は決して有利な産業でもないし,実際彼らとて好き好んで「偽装農民」をしているわけではない。「偽装農民」から土地を取り上げて,規模拡大を進めるという考え方には,やや無理があるように思う。経済論理だけで進めても,現場はひとつも動かないのである。

3.日本農業強化のための戦略
(1)コメは例外扱い
 まずコメ問題は,市場開放から除外すべきだろう。TPPなどの市場開放・自由化を進めるにしても,農業のすべての分野を開放するのではなく,コメは例外扱いとする。例えば,韓国は米国とのFTA交渉においてコメだけは例外扱いするという方針で交渉を進めている。日本もそのような力量を示して,交渉に当たって欲しいと思う。コメは,日本の歴史・伝統・文化,土地問題と深く絡んでいるので,例外扱いとするのがよい。
 ここで日本農業が産業全体に占める位置について見ておこう。
 農業全体の売上規模は8.5兆円で,このうちコメ関連が1.8兆円,畜産が2.5兆円,野菜が2.1兆円となっており,コメは全体の2割強でしかない。それゆえコメは例外としても問題ないだろう。ちなみに,日本の企業の売上ランキングでいえば,上位57〜58位程度で,中堅企業規模である(参考:ヤマダ電機の売上高は2兆円,2010年3月)。他の産業と比べてみると,コメの占める位置はそれほどまでに小さくなっている。
 また日本のコメの値段は海外と比較するとかなり高い。今の値段の半分程度にまで下がれば,日本のコメは商品価値が高いので海外でも勝負できるといわれる。そうなるとコメ関連の売上は半分の0.9兆円産業になってしまう。今後,いくら努力しても売上が減っていく趨勢にあるので,十年後には1兆円規模になるのは明らかであろう。
 こう考えてくると,コメは日本人にとって産業政策として優先的に何とかしなければならないというよりは,伝統文化として守っていくべきものと考えて,扱いを変えていく発想の転換が必要であろう。実際,農業交渉で米国もコメは例外でもいいと考えているようだ。市場規模が小さいので無理やり参入したところで大きな利益を得られる見込みは少ないからだ。
コメに関しては,定年帰農の視点もある。年金が保証されているシニア世代の人が,田舎に戻ってそこそこの農業を営むと,地方の過疎化対策にもつながる。また儲けだけに走る必要がなければ,環境に配慮した多面機能の向上,有機栽培などの意味でも農業をやってほしい。
(2)畜産と野菜への集中とオランダ・モデル
 第二は,集中と選択によって日本の特色や制約条件を考慮しながら,逆にそれを積極的に生かせる分野に特化して強化するという考え方である。
 すでに述べたように,狭い農地で効率よく生産性を上げられる分野は,畜産と野菜である。例えば,最近の鶏舎をみると何層にもなったところにたくさんの鶏が飼われており,ある意味で工場化している。野菜でいえば,レタスはコメと違って年に5回も収穫が可能だし,「野菜工場」も出現してきている。これらに共通する点は,広い土地が要らないことである。コメや穀物の場合は,米国並みに100ヘクタールほどの広い農地が必要だが,これらの場合はせいぜい数ヘクタールでも十分採算が可能だ(表1)。
 そして畜産と野菜の政策については,オランダ・モデルが参考になる(表2)。
 オランダの事情を見てみよう。オランダはフランスから小麦を買って家畜の飼料としている。生乳は余り高く売れないので生乳の多くはチーズなどの乳製品に加工する。オランダはそのチーズを「ゴーダチーズ」(Gouda)としてブランド化した。おなじゴーダチーズの中でもオランダのものは値段が高い。日本のマーケットでも,ニュージーランドやオーストリア産のチーズは安いが,オランダ産のゴーダチーズは高い。チーズを余り食べない日本人には理解しにくいが,ヨーロッパの人たちはチーズが好きなので思い入れがあって,ブランドとしていいものは高くても買うのである。
 これまで日本の農業は,商品まではしっかり作るのだが,その販売・販路についてはおろそかにしてきた。安い牛乳をそのまま売っていては儲からない。いかに付加価値をつけて売るか,さらには市場,販路までも開拓しなければ,利益につながっては行かない。これがまさに「農業の六次産業化」の考え方である。
 講演などで地方に行って地元の首長と話をしてみると,「六次産業化する」と豪語するのだが,実際には商品開発までがせいぜいで,販路やマーケット開拓まではほとんど考えていないし,戦略もない。例えば,「夕張メロン」の失敗例に見られるように,市場をどこに求めるかの戦略が不足していた。日本のような少子高齢化が進む社会には,食品をたくさん食べる層は少ないのに,国内だけを市場として狙っていては将来性はない。むしろ市場を海外に開放しなければならない。
 TPPやFTAの話になると,地方の方は「市場開放は日本農業にとって害毒だ」と主張するが,発想が逆だ。人のモノを買わなければ,自分のモノも買ってもらうことはできないのが,互恵関係を基本とする自由貿易の原則である。高い品質のモノを作り,そのマーケットは世界に求めなければならない。
 オランダの人口は1,653万人だが(2009年),彼らは自国民に向けてチーズを作っているのではない。EU圏は人口が5億人規模なので,そこに市場を開放しながら同時にそれをマーケットとしているのだ。同様に,日本がTPPやFTAに入ることはマーケットを広げるという意味で非常に有利な条件なのである。
 やはり農業で儲けようと考えれば,工業分野がそうであるように,真剣に頭を働かせて血の滲むような努力をしてこそ可能性が出てくる。試行錯誤しながら,中にはつぶれるものもあるだろうが,そうした過程を経ながら本当に強いブランドができていく。これまで日本農業は過保護すぎた。オランダはEUという共通の文化圏の中で,たぐい稀なブランド開発に成功した。スペインは,「イベリコ豚」というと商品をブランド化し,レストランともコラボしながらブランド・イメージを高める努力をした。日本農業には,このようなマーケット戦略が決定的に不足している。
東アジアはコメ文化圏なのでコメ食の人が喜ぶ肉とは何かを考えてブランド開発をする。日本国内でいえば,同じブタの産地である鹿児島県と茨城県を比べてみると,鹿児島の黒ブタはブランド化に成功したが,茨城は近くに首都圏という大消費地があるためか,ブランド化の努力をあまりせずうまくいっていない。また中国では,中国産の食品に対する不信感もあって,「日本は嫌いだけれども日本産は安心だ」という人も少なくないので,中国と農業関係のFTAを結び日本の農産物をもっと売り込む。
すでに述べたように,畜産と野菜については全く自由競争に委ねるのがよいと考える。この分野について保護措置を講ずると,大規模化して積極的にやろうとしている人の気持ちを阻害してしまうことになりかねない。
(3)農業の担い手問題
 近年,農民の高齢化が進み日本農業の将来を心配する向きもあるが,むしろそれによって高齢者がリタイアーし,やる気のある若い人たちの所に農地が集積して大規模化が進むことにつながるだろう。もっとはっきり言えば,農業の担い手が不足しているのではなく,多すぎるとさえ言える。担い手が多すぎては規模拡大ができないと考えるべきだろう。
 表1を見ると,採卵鶏をしている農家は1962年に400万戸ほどあったのに,2006年には3,740戸となったが,逆に一戸当たりの鶏の頭数は24羽から48,315羽に増えた。規模拡大を進めるためには,担い手が多すぎては困るわけだ。
 私の考えでは,コメ作を除けば日本でプロの農業人口(専業農家)は3〜5万人程度で十分ではないかと考える(現在は,兼業農家を含めて260万人,2010年)。ただし果樹については,コメと畜産・野菜の中間的な性格があるので,一概には言えない。
 農業が産業として儲かるとなれば,やる気のある人は参入していくのが自由競争社会の特徴だ。実際,畜産と野菜の分野に関しては,高齢化や担い手不足ということにはなっていないし,成功している人が少なくない。つまり規模拡大を進めている人たちは,農業分野(畜産や野菜)でも儲け始めているのである。

(2010年12月21日)