歴史に見る自由で平等の国ミャンマー

元駐ミャンマー大使 山口洋一


<梗概>

 「ミャンマー」と聞くと日本では,スーチー女史と軍事政権のことを連想する人が多いと思うが,この国の歴史を振り返ってみると,農耕民族と仏教国という大きな特徴を持つ国として,元来,平等と個人の自由を愛好する民族であったことが分かる。また女性についても,男尊女卑的な考え方は非常に薄く,かえって女性を尊重する風土があった。自由,平等などは,すべからく西洋由来の価値と考えがちであるが,アジアの伝統の中にもそのような価値が連綿と生きていることを忘れてはならない。

 ミャンマーでは2010年11月7日に総選挙が行われ,この国の政治情勢をめぐる報道が増えてきた。しかしこの国については,相変わらず「軍政=悪玉,反政府勢力=善玉」という受け止め方に従って,投票強制や票のすり替えなどの不正を憶測する報道ばかりが目立つ。それも実際に現場で取材しての実証的な報道ではなく,「どうせ軍事政権下の選挙なのだからインチキに違いない」と決めつけての憶測なのである。軍事政権というだけで,悪者と断定する西洋的「思いこみ」による発想がこうした報道となっているのである。
長年の歴史に育まれ,今日に至るミャンマーの社会の実情を考えると,こうした見方が如何に見当違いな,歪んだ見方であるかを痛感させられる。

1.自由で平等な社会
 11世紀中頃から3世紀近く続いたパガン王国の時代より脈々と受け継がれてきた伝統的なミャンマーの社会は,個人の自由と平等を基本とした社会であることが,なによりも大きな特徴となっている。そしてこの状況は,今日のミャンマーの社会にも深く根づいている。
 この社会体制は,インドがカースト制度による厳格な階級社会であるのとは,著しい対照をなしている。そもそも仏教がカーストによる差別を前提としたバラモン教との対比によって成立し,この無階級平等制という特質ゆえに広まっていった歴史的経過から考えても,仏教国ミャンマーが無階級の平等な社会であるのは当然と言える。この点,日本には仏教は入ったものの,儒教や神道や武士道等,北東アジアないし日本独特の宗教,道徳,倫理が強く作用して,士農工商の身分制度ができたが,これと比べてもミャンマーは大きく異なると言える。
 稲作農耕民族であるミャンマー人の社会が基本的に平等社会であるのは,大地主ができないような社会的仕組みになっていることと関係している。土地は「自然の恵みによって与えられたもの」と観念され,平等に配分される。遺産相続においては,配偶者及びすべての息子,娘が同等の権利を持ち,これらの者の間で均等に分配される。死亡する人の意思で自由に配分することはできない。また,誰でも自分の努力で森林を切り開いたり,沼沢地を干拓して開墾した耕作地は所有することができる。この国が恵まれた自然条件により,新たな土地を開墾して所有地を得る余地が誰にでもある豊かな国であることが,このようなミャンマー特有の社会制度を可能にしてきた。現に今日でもなおミャンマーの耕地面積は国土総面積の僅か13%に過ぎず,まだまだ開墾の余地は残っている。
 「生まれ」がその人物の社会的地位をきめるのでなく,あくまでも当人の能力と実際になしとげた業績によって評価され,社会的地位がきまる。古来ミャンマー人には「太郎」とか「花子」に当たる名はあるが,「山田」「鈴木」といった苗字,つまり「家」と結びついた姓はない。これも平等社会であることと関係している。

2.非世襲制を基本とする無階級の社会
 共同体の意思決定は,一定年齢に達した者が男女の別なくすべて参加する合議体(寄り合い)によって行われる。共同体の長である村長もここで選ばれる。歴史研究者の中には,「地方の村落の首長である村長は世襲制で継承された」と指摘する者もいるが,これは次の村長にふさわしい同等の力量をそなえた者が複数いた場合,村人たちは,現村長の息子にやらせるのが妥当と考えるケースが多く,結果として世襲制のような観を呈する場合が多かったというに過ぎないのであって,決して制度的に世襲制が一般化していた訳ではない。
 ビルマ族がエヤワディ(イラワジ)河畔に住みついて集合体が徐々に大きくなり,やがて国の体をなすようになってからも,王朝が成立して血筋による王位継承が体系化される以前の初期の段階では,国王は国全体の合議で選ばれていた。
 アノーラタ王が11世紀中葉に強大なパガンの王朝を開いた後ですら,第3代のチャンシッタ王は,大臣たちによって選ばれて王位を継承した。第11代のナラティハパティ王に至っては,大臣たちの思惑により,本来王位を継承すべき長子を押しのけて,側室の子であるこの人物が選ばれ,王位に就くこととなった。
残された碑文には,「王(King)」,「統治者(Ruler)」,「支配者(Lord)」,「首長(Headman)」といった表現が,ほとんど同義語として使われている。いずれも国という大集団のトップに立つ者という意味合いであり,王についてのミャンマー人の考え方は「王は君臨する権利を神から授けられたのではなく,選ばれて統治を委されている」という観念が基本になっているのである。
 ミャンマーの社会には,世襲の貴族階級は存在しなかったし,勿論今日でも存在していない。王宮に仕える官吏たちの任期は,その者を召し抱えた王一代限りとされ,次の王が再度同一人物を召し抱えることはあるものの,そうでない限りは職を退いた。いわんや,官吏の子孫が親の後を継いで官吏になるという世襲制は全く存在しなかった。したがって,王宮に仕える者たちが,日本の公家のような特別の社会階級を構成することはなかったのである。
やや世襲制に似た観を呈していたのは,王宮での雑役に類する役務に従事していた特定の職種の者たちであった。王宮の衛士,王の情報伝達員(飛脚に似た走り使い,メッセンジャー),庭師,王宮への食材供給者といった職種である。王は彼らから受けるサービスの対価として,この者たちに応分の土地を下賜し,生活に窮することがないよう配慮した。その代わりこの者たちは,明確に定められた条件のもとに,一定の能力を備える限り,その子孫を親と同一の職種に従事させることができた。これは一見,世襲制のように見えるが,実際は衛士の息子は必ず衛士になるという程,固定的に世襲が制度化されていた訳ではない。ただ,多くの場合,衛士の息子は,幼少の頃から,父親の訓練を受け,経験も積んでいるので,父親の職種を受け継ぐことが多かったというに過ぎない。しかし,息子が出仕し得る成人に達した時,本人の意思で,王宮の役務以外の道を選ぶ自由は与えられていた。
 宮廷内において国王周辺で用いられる言葉は,いくつか宮廷特有の用語はあるものの,基本的には国民一般と全く変わらないビルマ語であった。王様も百姓も同じ言葉をしゃべっており,特別の宮廷用語ができてくることはなかった。
 自然の恵み豊かなこの国では,国王も村人も同じ食べ物を食べ,同じ建築材料で造られた家に住み,衣服すら概ね同じ材質の着物を纏っていた。宮廷に仕える者用にデザインされた特有の衣装と靴を除くと,王様の取り巻きも村人たちも衣食住のすべてにわたり,基本的には同じもので生活していたのである。

3.整備された法体制
 この国に見られる注目すべき特徴として,法制度が比較的しっかりと整っていることが挙げられる。これはイギリスの植民地時代にイギリス流の法制度が整備されたお蔭であるとの指摘がよくなされる。確かにその点は否定できないが,植民地時代に先立ち,パガン王国にまで遡るミャンマー古来の法制度も立派に存在してきたのである。
 ミャンマーの社会は平等社会として発展してきたので,その中で徐々に体系化されてきた法秩序においては,何人も法秩序を超越してその枠外に立ち,法の拘束を受けないということはあり得なかった。王も王に仕える者も,国民一般と同じ法に縛られてきたのである。
 この国の法理論では,法の淵源はもっぱら慣習法であり,体系化されてきた慣習法はすべて民事にかかわるもののみであった。民事については,王が法を制定することも,王の枢密会議が立法を行うこともなかった。
 民事にかかわる最終審は13世紀までは王が一人で行っていたが,その後,王を長とする合議制で最終審が行われるようになった。しかしそうなった後も,この最終審の判事のみならず,王自身までもが訴えられ,被告となることはあり得たのである。現に1810年,権勢を誇ったボドーパヤ王は土地収用の争いで訴えられ,王自身が被告となっているのである。
 他方,刑法に相当するものは,体系化された法制としては存在せず,王が発する国内の平和に関する命令が即刑法となった。王は平和と秩序を維持する責任があり,民はそのための王の命令に従う義務があるとされた。従って,王の命令に背く者は「王の平和」を乱すが故に罰せられるのが当然の報いと考えられた。
 このような王の命令は,それを発した王の一代限りのものとされ,法典として体系化されることはなかった。従って王が崩御または退位すると,次の新王の平和に関する命令が出されるまで,刑事訴追を受けることはなく,民事訴訟により償いの支払いを命じられるのみであった。

4.女性の地位
 この国では古来,女性の地位は高く,決して男性の下位に置かれてはいなかった。記録によれば,王宮における女性の高官はもとより,書記,秘書官などの官吏,女性の村長,銀行家,学者,修道女,工芸職人,楽士などの活躍ぶりが記されており,女性も社会生活における様々な活動に加わっていたことが分かる。寺院の寄進者にも女性の名前が多く見られる。
 このようにミャンマーの社会では,決して男性優位ではなく,男女平等であって,この伝統は今日も変わっていない。親の遺産の相続は男女の差なくすべての子が平等に受け継ぐことや,ミャンマー人の名前は名だけで,苗字がなく,したがって結婚して妻の苗字が夫の苗字に変わることがないことも,その表れである。そもそもミャンマーの家族制度は母系制か父系制かはっきりしておらず,当事者である両家族の間で話し合って,新婚夫婦が新郎の家族と一緒に住むか,新婦の家族と一緒に住むかをケース・バイ・ケースに相談して決めている。こんなところにも,ミャンマーの社会が決して男性優位でないことが窺える。
 しかし実際の社会生活では,男女それぞれの位置づけは異なり,いろいろな差異が見られる。これは決して男尊女卑ではなく,男女それぞれが社会で担う役割が異なっているということであり,何れか一方が他方の上位に立つという上下関係を形づくるものではない。
 家庭内では母親が重きをなす。独立した子が両親を訪ねる時には,先ず母親に挨拶をし,それから父親に挨拶する。母の方が自分を生んでくれたばかりか,成長する過程で世話になった程度がはるかに大きいからなのであろう。一つの単語で両親を並べて言う場合,日本語では「父母」だが,ミャンマー語だと母を意味する「ミ」を父を意味する「バ」より先にもってきて「ミバ」と言う。この女性を先にもってくる言い方は「男女学生」が「チャウンドゥー・チャウンダー」(女子学生・男子学生)であり,「男女の村人」が「ユワドゥー・ユワダー」(女性の村人・男性の村人)となるのも同様である。家庭内で何か重要な相談事があると,おばあさんとか親の伯母さんといった年配の女性がいる場合には,その人たちの意見に耳を傾け,往々にして父親の意見よりも重きをなす。
このように,家庭内では母親や年配の女性に重きが置かれる半面,社会生活ではもっぱら男の仕事とされているものがあり,こうした仕事は女性には相応しくない,すべきでないと考えられている。その最たるものが政治と軍事である。今日のミャンマーでも,女性の政治家はほとんど見当たらないし,女性の政府高官も極めて稀である。軍隊にも,医者とか通信技術者といった補助的な役職での少数の例外を除けば,女性はいない。
 政治,軍事以外にも独占的に男の仕事となっているものは幾つかあり,例えば操)り人形師である。ミャンマーの伝統芸能の一つである操り人形は,今日でこそ時に女性の人形遣いも見られるが,本来はもっぱら男の仕事として受け継がれてきた。人形師は舞台の上部から人形を操る吊り糸を操作すると同時に,台詞を語り,唄を唄って劇を演ずるのであるが,女の役柄の台詞や唄であれば,女の声を出すわけで,日本の歌舞伎や文楽の女形演者と似ている。
このように職業の面で男女の役割に違いがある他,実生活においてもいろいろと社会的な位置づけの差異がある。
 まず仏教の教えでは,解脱して仏陀となった者が到達する涅槃には女性はいない。女性はいかに修行を積もうとも,女性から直接仏陀になることは不可能なのである。従って女性は功徳を積むことにより,先ず来世では男性に生まれ変わり,その上で仏陀を目指すこととなる。寺院では,本尊が安置されている一番奥の一画には女性は立ち入り禁止となっているのが普通である。本尊近くの奥まった区画には僧侶が出入りすることが多いので,僧侶と女性が接することが起こらないようにする配慮からこうなったのである。体のどの部分であろうが,僧侶と女性が触れ合うと,たとえ故意ではなくて起きた偶発事であっても,僧侶,女性の双方にとって罪となる。両者とも仏陀の前に懺悔して,悔い改めなければならない。
 食卓での優先順位は男性が先で,料理をサーブするのも先ず男性からである。男女が歩く時には,腕を組んだり手をつないだりはせず,女性がわずかに遅れて男性の後ろを行く。
 ミャンマーの社会におけるこのような男女の役割や位置づけ及びそこから来る種々の社会習慣は,概ねパガン王国の時代に根付いたものが当然のこととして受け継がれてきており,これに疑問がさし挟まれることはない。このような差異が男尊女卑として捉えられることはなく,従って女性解放運動などは起こる気配すらない。
 この国には「鳥が鳴いても夜は明けない」(Kye ma tun lo mo ma lyin)という諺がある。夜明けに鳴くのはどこの国でも雄鶏にきまっている。ちなみにその鳴き声「コケコッコー」はミャンマー語だと「アゥ・イーイー・オゥ」となる。この至極当たり前のことを述べた諺は,「女性には向かない,もっぱら男性のやるべき仕事,男性が担うべき役割分担がある」ことを言わんとしている。決して男尊女卑を表しているのではなく,男女の位置づけの差異を述べているに過ぎない。日本の諺には「女賢しくして牛売り損なう」というのがあるが,これは男尊女卑の色彩が濃厚な日本の伝統社会から生まれたものであり,「なまじっか女性が出しゃばるべきでない局面で,賢こぶる女性が余計な口をさし挟むと,ろくな結果にならない」ことを言わんとしている。一見同様のことを述べているように見える二つの諺が,社会的背景の違いから,異なる意味合いで用いられているのは興味深い。

5.三種類の奴隷
 パガン王国の時代以来,ミャンマーの伝統的社会には,一種独特の奴隷制度が存在してきた。勿論今日では,奴隷制度は消滅しているが,長らく存在し続けてきたこの制度は,自由と平等を基本とするこの国の特徴を反映した制度だったのである。
 ミャンマーでは奴隷といっても,主人が生殺与奪の権利をもつ西洋の奴隷とは全く異なり,奴隷は,相応の食事,衣服,医療の提供を受け,妥当な扱いを受ける権利をもち,主人に対して,これを要求できた。このように奴隷の人権は尊重されていた訳であり,実際上は奴隷というよりも,一種の年季奉公のようなものだったのである。奴隷に烙印が押されることなど,もとよりなかった。
 奴隷には,@戦争での捕虜となった者,A借財を返済し得ない破産者,B寺院付きの「パゴダ奴隷」と僧院付きの「僧院奴隷」の三種類があった。
 戦場で降参して捕虜になった者や債権者からの借金で首が回らなくなって者は奴隷となったが,何れも奴隷の身分は一代限りにとどまり,子孫にまで累が及ぶことはなかった。つまり捕虜にせよ,破産者にせよ,奴隷というステータスは非世襲だったのである。しかもこうした者たちは,金を払って自由を買い戻すことができたし,又他所の村に逃亡してしまうこともできた。自由を買い戻す対価は,当時,奴隷の取引でつけられていた奴隷一人分の値段であり,わずか銅五ヴィスという決して高価なものではなかった。また逃亡奴隷は,契約違反,債務不履行といった民事上の責任追求は免れなかったが,刑事罰を科されることはなかった。残されている記録によると,奴隷をめぐる係争事案は多かったようであるが,すべて「奴隷を横取りした」ことに対する申し立て,つまり,元の主人から逃げ出して,新たな主人に仕える奴隷をめぐり,新たな主人に対して訴訟が起こされているものであり,奴隷本人を訴えているケースは見当たらない。
 各寺院に所属した「パゴダ奴隷(paya kyun)」及び僧院に所属した「僧院奴隷(kyaun kyun)」の存在はこの国特有の制度である。寺院にせよ,僧院にせよ,これを維持管理し,機能させて行くには各種の要員を必要とする。建物の管理・補修のための技術要員,清掃人,僧衣を洗濯する人,花を飾ったり,蝋燭を替えたり,祭りの準備を整える者,下男・下女等々,相当数の要員がいないと寺院や僧院は運営,存続していけない。こうした各種の役務に当たる要員が「パゴダ奴隷」であり,「僧院奴隷」だったのである。従って,こうした奴隷の職分は明確に規定されており,寺院や僧院の運営全般をとり仕切る総務的役割の者,記録をつける書記,建物の保全管理を受け持つ大工や工芸職人,楽士,清掃・洗濯などに当たる雑役夫(婦)等々である。これらの者たちには,その生活を支えるために,一定の土地が与えられた。
 こうした人たちは「奴隷(kyun)」という呼ばれ方はしていたものの,実態は奴隷には程遠い存在であった。在家信者が直接涅槃に至る道の閉ざされた上座部(小乗)仏教では,在家である限り少しでも多く功徳を積んで,輪廻転生のサイクルでのよりよい生まれ変わりを来世に期すほかなかった。寺院や僧院での奉仕は,まさに功徳と考えられ,人々は競って「パゴダ奴隷」や「僧院奴隷」を希望し,嬉々として奴隷になったのである。こうした奴隷になると彼らには,その生活を支えるために,一定の土地が与えられたばかりか,食事も給されて,待遇は悪くなかった。しかも税金が免除されるという特別のステータスを享受することも王から正式に認められていた。終身雇用が約束され,孫子の代まで職の心配のない「パゴダ奴隷」や「僧院奴隷」には,とりわけ工芸職人や楽士などの職種では,競ってなる者が多かった。
 そして,この奴隷の場合には,子孫も代々このステータスを受け継ぎ,奴隷奉仕を続ける慣わしとなっていた。つまり世襲されるのが一般的だったのである。従って,この「パゴダ奴隷」や「僧院奴隷」は,平等社会であるミャンマーでの唯一の例外として,身分が固定化し,特別の社会階層を形成していた。
しかしすべての「パゴダ奴隷」や「僧院奴隷」が固定的身分であったかというと,必ずしもそうではなく,パガン王朝時代の記録には,王が雨安居の時期に限って〇〇僧院に「僧院奴隷」二百人を提供したといった記述も残されている。これは王が特定の祈願成就のためや何か祝賀の機会に,一種の喜捨として一定期間に限って,奴隷提供を行ったものと考えられ,奴隷になる人たちは一定期間の勤労奉仕のような受け止め方で,功徳を積みに出掛けたのである。そればかりか,王が自分の子どもたちを一定期間パゴダに奴隷として提供し,後にパゴダに身受け金を支払って,買い戻すということすら行われていた。
 今日では寺院や僧院の管理運営は近代化されて,管理委員会(Board of trustees)によって行われ,「パゴダ奴隷」や「僧院奴隷」の制度はもはや存在しない。管理委員会は維持,管理,運営,修復,改善の一切をとり仕切り,日々のお賽銭を初め喜捨される金品の管理を含む経理もすべて引き受ける重大な責任をもつ。そのメンバーは,人格高潔にして模範的信者と目される者の中から四,五年の任期で選任されるが,今日では政府(地方では政府の地方出先機関)がこれを指名している。管理委員になる人は,就任するに当たって,一定額の供託金を納め,委員会の業務は不正が生じないように第三者機関の監査を受け,万一不正が発覚した場合には供託金は没収される。
 労働奉仕的な種々の役務は,管理委員会の下に多くの仏教奉仕団が組織され,奉仕団の人たちのボランティア活動で行われる。清掃奉仕団,供花奉仕団等々,分担する役割毎に,さらに清掃ひとつをとっても月曜日の受け持ち,火曜日の受け持ちと,曜日毎に分担するグループが設けられており,それぞれ細分化された仕事に当たっている。ある時,筆者はシュエダゴン・パゴダを訪れ,広々とした石畳の回廊を散策していると,後から横一列になって,各自箒を手にして石畳の床を掃き清めながら,どんどん参詣人を追い越して前に進む一団に出会ったことがある。そぞろ歩いている一般の参詣人と変わらない普段着姿の人たちであるが,彼らの統制のとれた能率的な仕事ぶりに感心した。これがまさに奉仕団の人たちだったのである。
 それでは今日では,かつての「パゴダ奴隷」や「僧院奴隷」が全く姿を消してしまったのかというと,唯一の例外として過去の名残をとどめているのがザガインの町の北の近郊にあるカウン・フムドー(Kaung Hmudaw)パゴダの奴隷である。1636年にタロン(Thalon)王によって建立されたこの寺院は,女性の乳房を思わせる半球形の独特な外観を呈しているので,俗に乳房のパゴダと呼ばれている。昔からこのパゴダのための奴隷たちはパゴダの近くに土地を与えられ,そこに住みついた。彼らはセ・ティ(Se Ti)村,スワン・チェ(Hswan Chet)村,レ・フロ(Let Hlot)村の三村を形成し,セ・ティ村の住民は音楽を奏でること,スワン・チェ村の住民は料理をつくること,レ・フロ村の住民は踊りを舞うことをそれぞれ職業とした。住民たちは代々自分たちの職業を忠実に受け継いできており,定められた職を離れると,癩病になるという迷信が信じられてきた。
 独立後のウ・ヌー政権の時代,いっさいの奴隷制度を廃止するという政令が出され,すべての奴隷は形の上ではなくなった。しかしこれら三村の人たちはこうした迷信もあって,今日でも実際上自分たちの職業を守り続けている。外部の人は結婚相手としては,これら三村の出身者を敬遠する。定められた職業に縛られることを嫌うからである。

6.結語
 自由や平等といった観念が,あたかもフランス革命に端を発してヨーロッパに広まった思想を,遅れていたアジアの国々が有り難く受け継いだものであるかの如く思い込んでいる人が多いが,これはとんでもない間違いであって,アジアでは夙にパガン王国において自由で平等な社会が実現されていたのである。ついでに述べると,米国が普通選挙を実施できたのは,1964年の東京オリンピックの後であり,「米国が日本に民主主義を与えてくれた」などと考える向きは,お目出度い御仁と言う他ない。ベルギーやスイスが婦人参政権を認めたのも日本より後であり,いわんやパガン王国以来のミャンマーの社会に比べれば,女性の地位は千年も遅れていたことになるのである。

(2010年11月27日)