生物学から見た「死」のある意味−利他的な遺伝子の役割

東京理科大学教授 田沼靖一


<要約>

 古来より人類は,避けられない宿命である「死」についていろいろと思索してきた。宗教・文化・芸術などを通して死に関する多くの精神的遺産が歴史の中に蓄積されている。しかし,死の意味についての明確な答えは未だ得られていない。生命科学は,これまで主として生の面に関心を向けて研究してきたが,ここにきて「死」のメカニズムを生物学の視点から解明する潮流が現れている。そこでは,これまで難病とされてきた疾病に対する治療法に関して新たな方向性が示されようとしている。本稿では,生命体の基本単位である細胞に「死」が遺伝子としてプログラムされていることについて述べる。そして,人間にとって死のある意味とは何かを,「死の遺伝子」の存在から考えてみたい。

 生命科学を含む諸科学・技術や医学・薬学分野における医療の目覚しい発展によって,日本は世界有数の長寿国となった。その反面,社会のさまざまな場面で「死」にかかわる複雑な問題と直面しなければならないことも多くなってきた。折りしもわが国は急速に高齢社会を迎え,「老いと死」の問題は避けては通ることのできない課題となっている。これまで生命科学では,「生」の面に焦点を当てた研究がなされてきた。しかし,細胞レベルの死を科学的に深く掘り下げることによって,逆に「生」に対する新しい視点が拓かれてくるのではないだろうか。
 そこで,本稿では細胞死の研究をもとに,死のある意味について考えてみたい。死の遺伝子が一つひとつ細胞の中にプログラムされ,それによって寿命が決まることが,科学の面から理解されるようになれば,生きることの意味,新たな死生観を見出すことができるようになると思うからである。

1.細胞の死
 生物は細胞と個体という,少なくとも二重の生命構造をもつ存在である。「死」について考えようとすれば,生命の単位が細胞にあるので,その中に個体の死を決定する要因が隠されていると考えられる。そこでまず,細胞レベルでの死について見てみよう。
 細胞の死というと,古くから「ネクローシス」(necrosis:壊死)という言葉が知られている。これは簡単に言えば,火傷や打撲,毒物などにより突発的に過剰な刺激を受けることによって起こる細胞死,いわば事故死のようなものである。ネクローシスでは,細胞膜が崩壊して細胞内容物が流出し,そこに白血球が集まって炎症反応が引き起こされるために,患部に浮腫,発熱,痛み,かゆみなどが生じるのが特徴である。
 ところが,生物の細胞にはネクローシスとは違ったタイプの死,すなわち正常な生理状態で細胞が自ら死を決め,エネルギー(ATP)を使ってきちんと死んでいく機能を内蔵していることがわかった。この死は,遺伝子によって制御(プログラム)された死といえる。このような‘自殺’ともいえる細胞死を,生命科学では「アポトーシス」(apoptosis:自死)と呼んでいる。
 その例を挙げれば,私たちの手足の指の形は,母親の胎内で,ある決まった時期に決まった数だけ指の間の細胞が自らアポトーシスを起こすことによって自死し,彫刻を刻むように形作られていく。また,オタマジャクシがカエルになるとき,不要になる尻尾が消えるのもアポトーシスによる現象である。そのほか,赤血球,リンパ球などの血液細胞,皮膚の細胞などは,その役割を終えると老化して自ら死んでいく。そしてウィルスに感染した細胞や発ガン性物質の作用を受けて異常をきたした細胞も同様に,アポトーシスによって死んでいく。
 アポトーシスの場合は,細胞が縮小して核が断裂して細胞片の中に取り込まれていき,マクロファージなどによって貪食除去されるので,ネクローシスのような炎症反応は見られない(図1)。
 ところで細胞は大きく二つに分けられる。一つは脳の神経細胞や心臓の心筋細胞のように生まれてから何十年もの間,高度な機能を果たす「非再生系細胞」であり,もう一つは血液細胞や肝細胞のようにある一定の周期で生まれ変わる「再生系細胞」である。アポトーシスは,幹細胞(さまざまな組織や臓器に育つ能力と自己複製能を備えた細胞)の増殖分裂によって置き換わることのできる再生系細胞に起きることがわかっている。
 一方,近年の生命科学の知見によって,非再生系細胞の死は,アポトーシスとは違ったメカニズムで起きていることが分かってきた。すなわち,幹細胞がほとんどなくなり,高度に分化した機能を長い期間果たし終えたあとの死で,この非再生系細胞の死の様式を私は,「アポビオーシス」(apobiosis:寿死)と呼んで区別した。もし,記憶や思考など脳の高次機能を司る神経細胞や,心臓の鼓動を担う心筋細胞がアポトーシスによって細胞交替してしまったら,個体の同一性や統一性,さらには生命の維持もできなくなってしまうことだろう。
 細胞死の観点から,生命体の中の細胞社会をみると,アポトーシスを起こす集団とアポビオーシスを起こして死滅する集団の二つがある。アポトーシスは,円環的に循環する再生系細胞宇宙の中の細胞死の様式(置き換え可能な再生系の細胞に備わった細胞消去の機能)である。それに対して,アポビオーシスは,直線的に徐々に数を減らしていく円錐状の非再生系細胞宇宙の中の細胞死の様式(置き換え不可能な非再生系細胞に賦与された個体消去の機能)ということができるだろう。これら二つの死があることによって,どちらかが尽きた場合に,その生命体は個体の死を迎えることになる(図2)。
 なお,幹細胞といっても,無限に分裂増殖できるのではなく,その回数には限界があることが知られている。これが「ヘイフリック限界」といわれるもので,いわゆる分裂寿命である。この分裂寿命によって,ある器官の機能が一つでも不全になれば個体に死が訪れるようになる。
 この地球上に生息するほとんどの多細胞生物が,このような二重の死のメカニズムをもっていることから,細胞死を遺伝子に組み込むことによって生命を更新することが,もっとも効率的かつ安全な「生」の戦略だということができよう。
 もし「死」がなかったらどうなるか。古い親の個体はずっと生き続け,その卵子と精子が合体して子が生まれ,それらもずっと生きていく。生きる時間が長いほど,遺伝子,とくに生殖細胞の遺伝子にも傷は残るようになる。傷を持った生殖細胞から生まれた子孫はその傷を持って生まれてくるので,さらに傷が蓄積されていく。生物学的法則によれば,傷を持つ生物同士が合体するとダブルに傷を持つ確率は大きくなる。そしてその種は,絶滅に追い込まれる確率が高まっていく(遺伝的荷重)。つまり,遺伝子的変異が積み重なり重荷となっていくと,種(遺伝子プール)が絶滅することになってしまい,究極的には,遺伝子自身が生き残れなくなってしまう。そこで,遺伝子は,自身が生き残るために,長く生きた古い遺伝子にたまった傷をきちんと個体ごと消去することによって,生命の更新を介して恒続しようという戦略をとったのであろう(遺伝子から観た新たな生命観)。
 ところでガンは,アポトーシスの観点から見ると,「死を忘れた細胞集団」といえる。ガン細胞は,何らかの理由で細胞増殖の亢進が起こった上に,アポトーシスが抑制されることによって発生する。これとは逆に,エイズは,HIVの感染によって免疫反応を司る正常なリンパ球がアポトーシスを起こして死滅することが原因で,免疫不全が発症する。
 また,アルツハイマー病では,アミロイドβと呼ばれるタンパク質が脳内に蓄積することなどによって,神経細胞が異常なスピードでアポビオーシスを起こしてしまうために発症する神経変性疾患であると考えられる。
 このようにアポトーシスやアポビオーシスの異常が,重篤な疾患の発症メカニズムに密接にかかわっていることが分かってきている。現在,世界中の研究機関や製薬会社がこのメカニズムを研究することによって,“アポトーシス疾患” に対する新しい治療薬や治療法の開発に精力的に取り組んでいる。

2.「死」の誕生と「性」
 それでは,アポトーシスとアポビオーシスという二重の細胞死のプログラムは,どのようにして多細胞生物の遺伝子に組み込まれるようになったのだろうか。
 生命進化の過程をみると,生物の始まりは今から約38億年前に,生命のもとである遺伝子のセット(染色体)を一組しかもたない細胞からなる生物,すなわち「一倍体細胞生物」であった。その後,15〜20億年ほど前に,母親(メス)と父親(オス)からくる遺伝子のセットの両方をもった二倍体細胞からなる生物が誕生した。さらに約10億年前になると,いくつかの細胞が集まって一つの個体をなす多細胞生物が誕生したと考えられている(図3)。
 大腸菌のような一倍体細胞生物は,一個の細胞が一つの個体を形成しており,その細胞の中にある遺伝子のDNAが複製され二倍化し,細胞分裂を繰り返して増えていく(無性生殖)。無性生殖では生活環境が整えば,個体が無限に分裂を繰り返して増殖できることから,基本的には「死」は存在しないし,親も子も存在しないことになる。もちろん栄養の枯渇や不慮の事故などによる死はあるが,細胞自ら積極的に死に向かうことはない(図4)。
 ところが,二倍体細胞生物(多細胞生物)は,ヒトであれば約100年というように,個体の寿命が「死」として規定されている。生殖細胞を介して増殖していくシステムを有性生殖というが,この有性生殖のシステムを獲得した二倍体細胞生物の細胞には,二重の死がプログラムされており,その個体に死の現象が確実に見られるのである。この観点からいうと,「死」の対極的な存在は「生」ではなく「性」であり,「死」は「性」と裏腹の関係にあることになる。
 現在,地球上に繁栄している生物種の大部分は有性生殖をしている。繁殖の観点からすれば,無性生殖の方が有性生殖に比べてはるかに簡単で有利なように見える。有性生殖では,DNAの倍化にはじまりDNAの組み換えを伴う減数分裂による配偶子の形成,異性の配偶子との合体による受精卵の形成など,一連の複雑な過程を経なければならず,多くのエネルギーと時間を費やすことになる。また遺伝子組み換えによってせっかく新たな環境に適応している遺伝子の組成を壊してしまうことになる。それにも拘らず有性生殖をする生物が多いことは,進化学上の一つの不思議とされてきた。
 それでは一体なぜ,有性生殖が進化してきたのだろうか。有性生殖によって生まれる子は親とは遺伝的に少し異なっている。有性生殖の本質は,遺伝子の組み換えによって遺伝子をシャッフル(混ぜ合わせ)して,バラエティに富んだ子をつくることである。つまり,同じ遺伝子組成を持った個体が二度とつくられないのである。有性生殖は,それによってできてくる新たな遺伝子セットを持った子が良いものであれ,悪いものであれ常に新しいものにつくり直してしまう。この有性生殖のシステムの出現によらなければ,現在生息しているような多種多様な生物は出現してこなかったと考えられる(図5,6)。
 ところで生物は,生きていく過程において,紫外線や放射線を浴びたり,食事の中にある発ガン性の物質や,ストレスによって生じる活性酸素などによって,常に遺伝子は傷ついている。生命は遺伝子が受けた傷を修復する機能を備えているが,修復するにしても傷を100%完全に修復することはできない。そうすると残った傷が徐々に蓄積されることになる。遺伝子の傷が蓄積されることによって,例えば,細胞がガン化したり,細胞の機能がおかしくなったりするなど,いろんな異常細胞が生じてくる。
 有性生殖を介して新たに配り直される遺伝子が存続していくためには,このような有害な遺伝子が蓄積しているもとの古い遺伝子と混ざり合うことを避けなければならない。さもなければ遺伝子傷(変異)が積み重なってしまい(遺伝的荷重),それを放置しておくと,進化どころか,その種の存続すら妨げられるおそれが出てくる。こうした危険性を確実に回避するために,古い遺伝子を個体ごと消去する必要があった。そこでアポトーシスとアポビオーシスにより,それぞれ再生系と非再生系の細胞に二重に死をプログラムすることで,どちらからでも死ねるようなシステムにしたのではないかと考えられる。
 また,生殖細胞にも死のしくみを組み込み,減数分裂によって生まれる卵子または精子,その合体である受精卵の異常をチェックして不良なものを排除できるようにした。とくに受精卵の段階では不良品を確実に選別する必要がある。事実,受精卵は,二倍,四倍,八倍と分裂して八細胞期になったあたりで,その後さらに分裂増殖を繰り返して発生を続けていくか否か,言葉を換えれば,「生きるべきか,死ぬべきか」を自分で判断しているのである。このまま発生してもうまく行かないと判断した場合には,細胞死のスイッチを入れて自ら消滅していくのである。
 いずれにせよ,新たな生を更新するために死が必要であったといえる。「性と死」によって新しい生を更新できなかった生物は,進化することもできないし,繁栄することも不可能であった。つまり,「性と死」の術を知らなかった生物は「生」を閉じるしか道はなかったといえる。

3.利他的遺伝子
 かつて英国の動物行動学者リチャード・ドーキンスは,遺伝子を「利己的な存在」と表現した。生物の本質の一つが自己増殖性にあり,それを遺伝子を殖やす行為と考えれば,生物は単なる遺伝子の乗り物であり,遺伝子は利己的な存在といえるかもしれない。
 しかし,アポトーシスやアポビオーシスという「プログラムされた死」の存在と,そのプロセス,役割などが明らかになっているいま,私は「利己的な遺伝子」とはまた違った遺伝子の姿があるように思う。
 ここでアポトーシスやアポビオーシスという二重の死によって,DNAが規則的に切断される点が重要である。それゆえ細胞死の本質は,「遺伝子による自らの消去機能」にあると言えると思う。この「自らを消し去る(自己消去性)」というふるまいは,遺伝子が「利他的な存在」であることを強く示唆しているのではないだろうか。
 遺伝子は,自身の繁栄を目指すという意味においては利己的な存在と言えるし,実際,無性生殖のみを行なう細菌は,そのようにしか見えない。しかし,有性生殖のシステムを持つようになった生物は,利己的だけでは生きていくことができないのである。
 多細胞生物は,「死の遺伝子」を獲得することによって,自己と同じものをつくれない有性生殖のシステムと,個体の永遠性を失ってしまう死のシステムとの協同作用による新しい生命の誕生を生み出すことができるようになった。この有性生殖のシステムは,本質的にはランダムな遺伝子の組み換えであり,利己的とも利他的とも言えず,むしろ中性的である。「死のシステム」こそが,まさに利他的な遺伝子の反映と言えるだろう。したがって,この細胞死を司る遺伝子は,新しい個体にとって利他的に働いていることになる。
 死の遺伝子は,一見生命の連続性を断ち切ってしまうように見える。しかし,そうではない。遺伝子として死が組み込まれることによって,生命の連続性が不連続的に保たれているのである。恒存には「自死性」が必要なのである。つまり,「遺伝子が真に利己的(自己的=selfish)であるためには,利他的(altruistic)に自死的(suicidal)である必要がある」ということだ。「死の遺伝子」によって生来,利他であるということが,必然的に自己性生む重要な要因になっているのだと考えられる。

4.<生―在―滅>の生命循環
 生命の特徴の一つは,自己組織能をもつことである。RNAやDNAの断片,タンパク質の一部がある条件の中に置かれると,自律的に集まってきて一つの秩序を持った集合体が形成される。とくに膜で仕切られたある「生命の場」とでもいう環境が満たされると,それまでばらばらに存在していた要素が集合し,生命としての自己組織化が起こってくる。ここで重要な点は,ある一つの集合体が形成されたとき,そこには個々の要素のもつ性質だけでは説明のつかない新たな性質が階層的に賦与される点である。
 例えば,タンパク質の合成を行なう細胞小器官であるリボソームは,RNAとタンパク質の複合体であるが,これらの構成要素をばらばらにしてしまうと,それらの要素単独ではとてもタンパク質合成はできない。しかし分離されたそれらの要素をある条件下で混ぜ合わせると自律的に集合し,タンパク質合成能をもつリボソームが再構築される。
 細胞レベルでも同様で,神経細胞の個々の細胞を取り出しても脳の高次機能はなかなか説明できない。神経細胞は脳の中で自分の占めるべき位置を知り,神経回路網を構築して,自律的に秩序を形成することで想像もつかないほどの記憶や思考といった高度な機能が現れてくる。生きている状態には,自己組織化によるさまざまな機能を持った相が階層的に存在しているのである。
 最初の生命体は,自己組織能と自己増殖能から自己を創生することに留まっていた。これが<生―在>だけの世界である。それから何十億年もかけて自己消去能を獲得した生物が現れた。自己消去能を獲得することによって,初めて自分と同じではないもの,少し違った自己を創生する能力を持った生物が誕生した。「死」なしでは,新たなアイデンティティをもった個体の創生も望めないし,存在も不可能になってしまう(図7)。
 多様に変化し続ける環境の中で,生命体が生き続けるためには新たな選択肢が多ければいいわけだが,多様化の体制を確実なものにするためには,有性生殖によって新たに配り直された遺伝子が,良いか悪いかを選別する機構が必要である。また,遺伝子に蓄積された変異をキャンセルすることも必要となる。この選別と浄化が,細胞死によってなされているのである。生命の多様化と個別化は,まさに細胞死という利他的な自己消去能の獲得によって実現可能となった。そして自己消去能を獲得できなかった生物は,有性生殖を行なう一段階上の生命システムの相に転移することはできなかったといえよう。
 この死の入る空間はデザインされたとしか言いようがない。それは遺伝子の重複の遊びの中から,実際にはありようもない小さな確率的な偶然の積み重ねによって生まれてきたと考えられる。
 ヒトのような高次の生命システムは,無性生殖の生物のように連続系ではなく,個体の死という確かな不連続点を通過する連続系になっている。この不連続を伴う連続性を保証するためには,生命システムの中に「時間」のファクターが組み込まれなければならない。生命を「自律的に自己を組織化する自己言及的な閉鎖系(オートポイエーシス・システム)」と考えれば,生命体は,自己言及的に時を刻むメカニズムをそれ自身の中に備えているのだろう。生命体の中の分子や細胞が自己消去していくメカニズムのなかに,過去の結果として前後の時間が刻み込まれていると考えられる。その個が全を認識し,オートポイエーシスを起こすことによって全としての調和が保たれる中に,時間が死とともに浸透しているのであろう。

5.有限な人生と老いの意味
 私たち人間は,細胞と個体という二重の生命構造からなっている。細胞を「個」とすれば人間は「全」である。そして「個」としての細胞が自分自身の役割を果たし,自ら死んでいくことによって,「全」としての人間は生きていくことが可能になる。
 人間を「個」ととらえれば,「全」は地球となり,同様に,人間が地球の中でさまざまな役割を果たして,時が来れば「二重の死のプログラム」によってその個体を消滅させていく。さらに地球を「個」とすれば,宇宙が「全」となる。惑星と宇宙の「個」と「全」の関係も,やはり死と生の営みが繰り返されていると考えられる。
 このように,生命体は,「死」や「消滅」によって「個」や「全」の時間が有限になると同時に,時間に限りのない「永遠」に還ることが可能になるのだろう。
 「死」は,遺伝子,細胞,生物(人間),地球,宇宙という階層構造をなして存在している。ここにはすべてのものが流転するというようなダイナミックな大循環が見られる。変化しないものは存在しないのである。これが「自然の摂理」ではないか。「死」は全ての生命(宇宙生命)の根底にあるものであり,また生命は「死」の中に営まれているということができるだろう。必然の死からみると,生はほんの偶然の授かりものであり,生かされているのだと感じる(図8)。
 生命体の中に存在する「死の遺伝子」が,生来,利他的であることを考えると,その反映としての私たち個体も,究極的には他のために生きるべく生まれてきた存在といえるだろう。人間は,自分の子孫ばかりではなく,他者をも,そしてすべての生命を救うことを目的として生きる存在として生を与えられているのであろう。それが人間の本来の姿であるべきことを「死の遺伝子」は語っているのかもしれない。
 プログラムされた細胞死による生物の寿命,その宿命には,同時に個としての一回性の自由な夢が与えられている。とくに人間だけに与えられた長い老いの間は,自分を見つめなおすための大切な時間であり,そこで「自分とは何か」のアイデンティティを問えるのだと思う。人間の寿命が100年足らずに設定されているのは,その脳力で変わりゆく環境のなかで,同一性と個別性を保ちうる限界を見越してのことかもしれない。「死」は,いかに生きるかを考える前提として意味を持つものだと思う。それに近づいていく老いの時間は,新しいものの創生を見届けることのできる豊潤なときとなるであろう。そう考えると,老いと死のある意味は,有限の時間の中で自己を完結するととともに,次の世代に何か善いプレゼントを残すことにあるのではないだろうか。無限に残るものは,善い精神のみであることを想って。

(2011年1月18日)

<参考文献>
1)田沼靖一『遺伝子の夢−死の意味を問う生物学』NHKブックス,1997年
2)田沼靖一『ヒトはどうして老いるのか−老化・寿命の科学』ちくま新書,2002年
3)田沼靖一『ヒトはどうして死ぬのか−死の遺伝子の謎』幻冬舎新書,2010年