日中異文化理解のために
―儒教思想からのアプローチ

法政大学教授 王 敏


<梗概>

 古来,東アジア地域は中華文明の影響圏にあって,儒教・仏教などの思想が基層文化を形成してきた。しかし,その理解においては,各国の風土に基づく差異が見られる。その違いについて無理解のまま交流・交渉が行なわれると,不信や誤解につながりやすい。とくに儒教思想は中国文化の核でありながら,中国や韓国(朝鮮)の理解と日本の理解との間には大きなずれを生み,歴史認識の対立や日中・日韓の政治をこじれさせ解決を難しくさせる背景となっている。相互の文化を「同文同種」として見るのではなく,異文化理解の視点を持って当たっていくことが重要である。これは自国文化の特徴や個性を知ることにも通じて,他国との交流・交渉に欠かせない基本認識である。

1.東アジアの共通文化としての儒教思想

 中国人の私に儒教的思考について再認識させてくれたきっかけが,日本留学の体験であった。そのとき最も強く感じたことは,日本の文化や生活の中に儒教的な要素がたくさんあり,それがいまも厳然と生きているということであった。例えば,「君子の交わり」などの言葉である。このことを通して改めて祖国・中国を振り返ってみたときに,母国にいて見えていなかったことを認識するようになった。
 具体的に言えば,日本語である。その中の格言や四字熟語などをみると,その多くが儒教の考え方に由来することがわかった。言葉(日本語)が生きている限り,日本にも儒教思想が生きている,「言霊」として残っており,それは非常に強いものだと思った。
 日本の教科書の中で,国語には現代文と古典があるが,古典の中に「漢文」が一つの位置を占めている。最近はその分量が減ってきているとはいえ,世界中で古典中国語でもある漢文を教科の一つとして扱っている国は日本以外にないと思う。つまり,漢文は日本文化,教養の一部,つまり外国語としてではなく日本語の一部として扱っている。外国のものという意識ではなく,日本文化の一部として,ちょうど「空気」のように認識して取り入れている。ライシャワー博士が言ったように,日本は世界でも最大の儒教国の一つである。このことを,日本人はふだん意識しないか,ふだんから気付かないでいるかしている。
 中国の歴史を見ると,秦の始皇帝が焚書坑儒を行い,近代では五・四運動の中に反孔子運動があり,さらに文化大革命の中で「批林批孔」運動が展開されたように,儒教を弾圧した歴史があった。しかも為政者のみならず,国民のレベルでも儒教をなくそうとした運動があったのに,現代中国においても儒教思想はしっかりと生きている。中国人の精神構造と思考回路に儒教は根を張り,同時に枝葉も儒教でほとんど埋まっている。中国人の核として体質化し,太い骨組みだからしかたない。儒教に教えられて原理原則にこだわる主体的な生き方を尊ぶ思考が,いまもなお,変わらずに継続されている。
 それではなぜ儒教は根強いのか。それは,日本同様,中国においても儒教思想が言葉として残ってきたことが大きいのではないか。中国でも日本でも,儒教思想が「儒教」として意識されないままに言語の中に残った。例えば,「学而治之」など。しかもそれは人々の生きる知恵として,あるいは心情,行動の指針としての言葉として残っている限り,儒教思想はその社会に続いていくと思う。このことは,私が日本に留学して生活してみなければ分からなかったことであり,大きな収穫であった。立場を変えてみれば,日本人も同様だと思う。言葉は空気のようなものだから,日常生活では意識しないが,異文化に触れることで初めて自覚する。中国人である私にとって,日本体験が中国を知るきっかけになった。中国を再認識する鏡となった。
 古代から中国文化の影響圏にあった朝鮮半島やベトナム,その他の華僑の住む地域を検証してみても同様であった。例えば,韓国は国の文字として現在,ハングルを使っているけれども,ことわざや警句はほとんど中国文化,とくに儒教思想に由来するものである。かつて漢字文化圏の中で,儒教思想は共通(基層)文化を形成していたのである。
 かつてライシャワー博士をはじめ西欧の研究者たちは,日本の高度成長とそれに続いて東アジアの国々が発展してきた背景について研究したが,その結論の一つは儒教文化であった。現代中国の発展の基礎にも,儒教文化があったといえる。中国は改革開放政策以降,このことを意識し始め,まずは経済分野に特化してそれを活かしたわけである。
 ただそのことについてよく研究しているのは,日本や韓国,シンガポールなど中国以外の国々であった。こうした点を総合してみると,儒教文化は現代社会の発展に有効であるということになる。これらの知恵を整理してこれからの世界の発展に生かすことができると思う。混迷する現代世界の未来に対して,一つの解決のヒントになるのではないか。
 グローバル化した世界で相互理解や互恵関係を構築する上においては,政治,経済などを中心に交流が活発化しているだけに,基層文化についての理解がないと相互理解が逆に不信や誤解につながっていってしまう。

2.日中間で違う儒教理解

 日本と中国の間には昔から「同文同種」という思いが強くある。ときには相互理解の助けになるが,分かっているという思いが先入観になって往々にして誤解のもとにもなる。
 例えば,「椿」という漢字を見れば,当然,日本人は「ツバキ」の木になるが,これが中国では「香椿(チャンチン)」,すなわちセンダン科の落葉高木を指す。初夏に白い花をつけて街路樹としてよく見かける。中国で日本の「ツバキ」をいうなら「山茶」と書く。たいていこんがらがってしまう。
 このように日中は互いの現代文化に対して,古代と同格の「同文同種」の先入観を排除しなければならない。日本人は漢文と儒教の教養から中国と中国人をよく分かったと思い込み,中国人は中国文化の亜流と見て日本人も同じように考えると見なす。その上に近代の歴史が影を落としてさらに複雑な見方を形成している。
 長い伝統がある日中両国は,独自の文化を育んできた。価値観,宗教,文学,思想などに異質の発展をみた。文化交流は相互の文化理解が基礎になければならない。互いの文化を尊重することが不可欠である。しかし現代日本人は,儒教の考え方がしみこんだ中国文化を理解できないでいるし,中国人は日本文化の独自性に気づかない。儒教思想は日中両国の生活の中に深く染み込んでいるだけに,微妙な違いがいろいろなところに見られる。そこでその実例をいくつか挙げてみよう。
(1)チャングムの話
 韓流ブームで日本でも人気を博したドラマ「チャングムの誓い」は中国でも流行した。その物語の中には儒教思想に基づく要素が随所に見られるが,日本人と中国人が見る見方には若干差があるように思われる。韓国は中国で生まれた儒教を忠実に吸収した国であり,古くから「儒教の模範国」とさえ言われてきた。
 女官チャングムが陰謀によって宮廷を追われ済州島に流されてしまい,医女への道に再出発をかけたときに,倭寇の一団に襲われる事件が起きた。倭寇は,病に倒れた首領の治療のために島に上陸してきたという。チャングムが医女見習いであることが分かると,倭寇は,治療しなければ島民をひとりずつ殺していくと脅迫し,チャングムもやむなく治療した。倭寇が去ったあと,役所はこの事件に関してチャングムを利敵行為として処断し逮捕した。
 この行為は,日本人からは無慈悲な権力者の横暴と映ったようだ。しかし中国人,韓国人には大義を重視する儒教の教えに従ったことだとして,逮捕も当然と受けとめる。儒教の教えでは,いかなる脅迫にさらされても敵に協力することは不義であり許されないからである。例外はない。日本人には不条理でも,儒教に基づくと条理になる。
 自分の身を捨てても信念は曲げてはならないことは,個人の人生観から国家・世界観まで変わらない中国人の価値基準となっている。
 数年前に韓国では,「親日反民族行為真相糾明委員会」が政府によって設置され(2005年),日本植民地下で日本軍に協力した人及びその子孫を探し出し,リストを作成して財産まで没収した。これも儒教思想であれば理解できるものである。
(2)南宋の岳飛と秦檜
 中国史をみると,12世紀の人物である南宋の武将・岳飛と宰相・秦檜の話は,有名である。
 宋は北方民族の国・金によって1126年に滅ぼされたが,その一部が南方に逃げて南宋を建てた。しかし金の攻勢は止まず,武将岳飛は徹底抗戦を叫んで戦い,連戦連勝であった。これを苦々しく思ったのが,宰相秦檜である。秦檜は,金との講和を進める上で厄介者と映った岳飛を戦場から引き上げさせ,謀反を企てた罪を作って逮捕し,挙句の果てには投獄して自害させた。
 ところが,民族の英雄と慕った岳飛の謀殺が明らかになると,彼を慕う民衆の高まりに押されて南宋は,一武将に過ぎなかった岳飛に「王」の称号を与え,都臨安(現・杭州)に顕彰の廟を建てた(「岳王廟」)。反対に,秦檜に対しては,900年以上経った今も侮辱的な「漢奸」と呼んで軽蔑し続けている。
 杭州の「岳王廟」に入ると岳飛の墓碑があるが,その前に墓碑に向かって跪いた秦檜夫婦の像があって,後ろ手に縛られた上半身裸の姿で鉄柵に囲まれている。まさに詫びる姿である。ここを訪れた人々は,秦檜の像に対して傘や棒で叩いたり,ツバを吐きかけたりしている。大義に反した「売国奴」として秦檜にいまなお懲罰を加え続けている。しかも,秦檜の子孫も今も苦汁をなめているのである。
 また日本では余り非難を聞かない周恩来に対して一部の中国人の見方には評価しないところもあると聞く。なぜかといえば,周恩来を批判して「愚忠」という言葉が使われている。毛沢東を諌めずにただついて行っただけではないかという意味だ。日本の「忠」は,ある特定の個人を対象にしているから,その人が暗愚であっても「忠」を尽くすことを想定できる。中国では,特定人物への「忠」ではなく,特定の倫理道徳の代表者となる者への「忠」であるべきだという考え方である。
 日本における判官贔屓とは対照的である。源義経が圧倒的な権勢の兄・頼朝に追い詰められて死に至る悲劇に同情が集まる。このとき多くの日本人は,義経について思想的な吟味をほとんどしてない。英雄につきまとう哀感を第一にしているようだ。中国人は勝敗を基準にしないのが普通だ。仁・義・礼・智・信にふさわしい人物かどうかを第一にして,勝者も敗者も判断している。
 日本では歴史の再評価もよく行なわれ,定説の見直しもさかんである。徳川家康について,豊臣秀吉に比べて人気が低かったとき,山岡荘八が超大作を書き上げてベストセラーとなり,評価が高まった。日本で人気のある楊貴妃も,中国では唐朝を揺るがした傾城の美女として,いわゆる悪女のレッテルが張られており,その部分の評価は今でも残されている。
(3)死生観
 一般に中国では,敵を弔い,供養する発想はない。日本では戦場で慰霊することがたびたび行なわれた。日中戦争でも従軍僧もいたという。日中が全面的戦闘状態にあった1937年7月から45年8月まで,「朝日新聞」(東京版)には,日本軍が戦死した勇敢な中国軍兵士を慰霊したという記事が少なくとも15本掲載された。このことは中国の新聞「新民報」(1938年3月26日付)でも「日本軍が党軍(国民党軍)の飛行士を埋葬する」ことを「義挙」とし,僧侶の読経,お花を供えたことも記されている。
 日本史を遡れば,敵への慰霊行為は特別な現象ではなかった。蒙古襲来では蒙古軍の戦死者も含めて慰霊のため北条時宗が襲来の翌1282年に円覚寺を建立した。沖縄戦における戦死者を慰霊する「平和の礎(いしじ)」には敵軍である米兵も刻まれている。古くから日本人には「怨親平等」思想があるとされ,敵味方なしに死者の共生を願う日本人の宗教心を表した文化現象といえるであろう。
 一方中国では,例えば,大連に残る日本軍による敵(中国軍)への慰霊碑について,「大連市観光ブック」の説明文には,「殺人の罪を隠すための偽りの行為」とある。死生観や宗教観を文化という角度から分析すれば日中の違いが際立つ現実が伝わるのである。
 宗教学者・山折哲雄氏は,「死者を許す文明」と「死者を許さない文明」という分け方をし,A級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝問題で,「日本人は死者を責めないけれども,中国人は死者であっても許さない」という中国人学者の言葉を引用して解説した。日中(韓)の間に横たわる懸案事項の解決には,異文化理解の視角も分析作業の際不可欠であろう。
(4)思想・理念にこだわらない日本
 日本文化には思想を簡単に取り替える仕掛けがあるように思う。これは服の着替えを連想させる。思想に基軸が置かれていないから,異文化思想との衝突が少なくてすみ,異文化や違った価値観についても受け入れやすい。日本文化の基軸は感性のほうでないか。不動の思想が共有されない文化に育てば思想の着替えはしやすいわけである。
 近代史をみると,幕末において薩英戦争,下関戦争によって「攘夷が不可能」との認識に至ったとたん,薩摩・長州の有力藩は開明派に転じてしまう。攘夷論が果たして理念であったかどうか,疑われるであろう。川の流れが掘削によって川筋を変えられるように,攘夷も一つの流れであったのではないか。
 明治維新で儒教の国から西洋思想にさっと乗り換えたり,第二次世界大戦後,瞬く間に民主主義国家に変貌する日本を見ながら,不思議に思われる。倫理や理念を原則にして行動する国のありかたから見れば,日本は「変節」を繰り返してきた国として映るのである。一方,キリスト教,イスラーム,儒教などの文化圏の人々は,思想を放棄する仕掛けを持っていないように見える。それは思想がなくては行動だけで動かない精神構造になっているからと考えられる。
 こうした日本人の思考は「やさしさ」「和」と表現できるかもしれない。周りを気遣う優しい思いやりは,仲間はずれを避けて「転向」ないし「変節」と思われる行為も許容するのである。
 日本は関係性思考を生かした取り組みにおいて柔軟性があると思われる。一方,中国など固定性思考との相互交流で多面的な活用をしてきたが,そのありかたを外国に説明するとなると,課題がまだ残されていると思う。
(5)日中の儒教思想理解の違い
 中国人は儒教思想を理念,モラル,あるいは生きるための知恵として考えるが,日本人は教養,知識として考える傾向がある。中国では一人前の社会人の条件として身につけるべきものが儒教思想であり,西欧の聖書に相当するものといえる。生きる人間の理想像,モデルとして儒教の説く人間像を目の前におくのである。
 それゆえ中国では古典(儒教思想)は過去の知識ではない。今現在の日常生活をよくするためのバイブル(生きた知恵)として使う。それで過去と現在がつながり,長い目で見る見方が生まれる。
 多くの中国人は意識はしていないと思うが,自分の主たるアイデンティティを儒教に求める。ただ私はそれを儒教といわず,儒教的考え方,儒教的生活の知恵と言っている。現代中国人の多くが論語や古典を読んでいるかどうかの問題ではなく,伝統的な儒教的考え方を生活の中で身につけているからである。
 中国や韓国などのように儒教思想を基盤とし,一つの思想を絶対化した文化では,その思想を文化の血液とし,遺伝としている。体質化した文化に異文化を注入することは難しい。とくに相反する思想に転換すれば裏切りとされ,変節に等しい処遇を覚悟しなければならない。激しい思想闘争を伴うのも必然である。中国史では仏教と自生の儒教との間で何度も闘争があった。
 日本人も古典を学んでいるが,どちらかというと教室での教養ということが多い。一般論だが,現在の仕事や生き方の知恵袋として古典をみていない。中国や韓国は同じグローバル化の世界の中に生きていても,その深層には儒教思想,古典が生きている。しかし日本人は,その深層に原初的自然信仰と伝統神道的なものもあり,中国や韓国とはやや違っている。
 中国と同じ漢字を使う「同文同種」の隣国であるのに,日本はなぜ倫理道徳中心の絶対価値を受け入れなかったのか。それはおそらく日本では風土文化に合わせて中国文化を吸収するという選択の機能が働いたからではないか。
 例えば,日本では李白・杜甫よりは,白居易の方が好まれるようだ。それは白居易の方が花鳥風月の自然や,哀愁や心情を詠ったものが多く,日本人の感性に合うからだ。一方,中国での位置付けは断然,李白・杜甫の方が高い。古来「詩は志なり」といわれ,詩は倫理道徳と一体となり,儒教教育の教材とされてきた。ところが,日本では和歌でも俳句でも自然を多く詠い,漢詩に対する好みでも選択して,白居易ファンが多くなるのであろう。

3.異文化理解の道

 一般に外来文化の受容においては,学習→反発・批判→折衷・創造の過程を歩むものである。それぞれの段階において共通している精神的要因として見逃せないのが比較である。外来文化に触れたときに,最初に起こる比較は自分たちの文化とどう違うかである。次第に比較事項をどれが合理,有利,現実的,または進んでいるか遅れているか,取捨選択しながら多岐に演出されていく。好き嫌いの感情も比較する中で起こる。ある程度の学習過程を経て自分たちの存在を考え出すことと無関係ではない。そうすると,外来文化との折衷の上に新しい文化創造への激しい動機が膨らむ。創意の時代精神である。日本の対中国文化の関係はこのような経過を踏んだに違いない。
 中国の文化は中国という土壌で生まれたものであって,すべてが日本の環境にそのまま即応するものではない。日中間の現代文化に共通点があるといっても,それは古代日本が輸入した中国文化を日本の土壌に合うように取捨選択したのであって,日本独自の文化に改変されている。
 近代に入り,日本が西洋文化と向き合うようになったとき,中国文化との経験が繰り返されたと思う。中国文化と西洋文化を比較する作業がまず行なわれたであろう。複数の外来文化を目前に置き選択を迫られたとき,比較するのが最も普通の行為である。日本にとって比較手法は,つねに自然発生的な壮大な歴史的プロジェクトであった。
 一般論として,自国の文化を知ることを通して誇りを抱く。自国の文化を誇れる心情を持つことによって他国の人々の文化観を図れば,「等身大」という言葉の極意が分かってくるはずである。しかし,文化の違いによって,違うものへの排除感覚が無意識に誤作動してしまうことが往々にある。等身大の姿勢が日常化になりにくい面がある。総じて,日中間には,自国文化を知ることが異文化を知る基礎であるという認識が薄いように思われる。
 日本はもっと自己認識をすべきだろう。総じて日本には,自国文化を知ることが異文化を知る基礎であるという認識が薄いように思われる。自分の特徴,長所・短所をよく認識すれば,相手とどう付き合うべきかは見えてくる。自己認識抜きの付き合いは,無理を生ずる。別の言葉で言えば,自己認識を通して自分ができることとできないことの区別がはっきりしてくるので,それに応じた交渉を考えることが可能となる。
 これまで欧米の思考様式について日本人は全身全霊を投入して学んできた。しかし,学ぶことは,西欧先進国だけにかぎらないことも理解して欲しいと思う。焦点は違うが,途上国からも学ぶことはあるはずである。とくに近代以降日本は,近隣諸国である中国・韓国から学ぶことを怠ってきたように思う。これから日中韓はグローバル社会でも重要な役割を果たす国々なので,近隣諸国の伝統思想である儒教思想についてもっと自覚的に学ぶ必要がある。そのうえでバランスをとった考え方のできる国になってほしい。
 日中韓はものごとの判断基準がそれぞれ違う。中韓はだいたい儒教的思考を基本とするが,戦後生まれの日本人はそのような考え方がなさそうに思える。日本は近代以降基本的に欧米を見本として生きてきた。それはそれなりに必要な過程であったと思う。しかし,いまも日本は中韓よりも欧米志向になっており,これまでの過程を経て欧米的な志向を訓練してきた。これから中韓とうまくやっていかなければならない時代が来たときに,それだけでは片手落ちとなってしまう。それは日本のジレンマだ。
「洋才」はあくまでも「漢才」と並んでいて,「和魂」の両輪であることを再認識していただきたい。バランスのとれた等身大の文化観をもてれば,西洋とアジアとを問わず,異文化圏の人々に理解されるように日本文化を説明できるはずである。この基本的な問題意識を強く持ってもよいのではなかろうか。
 とりわけ政治の波風の立つことの多い日中間やアジア諸国の間では,対話を可能にする原風景として共通認識の構築が迫られている。それが「共同知」として共有できれば,両国の交流現場に活用できるであろう。
 相互に摩擦の多い日中関係を友好的な状態にしていくためには,政治中心の対立・相違に目を向けるのではなく,共有している部分を土壌に対話を促進することではないかと思われる。両国をつなぐ最も有効な土壌と言えば,文化であろう。
 古代の日中間には663年,朝鮮半島の統一化のなかで白村江の戦いという国家間の武力衝突があったにもかかわらず,遣唐使の派遣・受け入れは中断しなかった。それは純粋な文化使節団であり平和使節団でもあり,経済的な領土的な野望がなかったからであろう。後に,倭寇の侵犯が原因で日中関係が冷え込んだ時期にも,中国に渡った東大寺僧・然(938〜1016年)が,時の皇帝と対話したことが「宋史・日本伝」に実録されている。悪い日本のイメージばかりではなかったことが分かる。
 文化土壌が政経問題,国際関係,外交問題における分析・判断の基礎に当たるが,その差異によって相互の認識と判断基準に無意識の影響をもたらしているという認識が必要である。したがって,文化交流による相互理解を進めれば,政治,国際関係,外交の分野でも反目が減っていき,前向き方向に向かわせる連動的効果が得られるに違いない。

【プロフィール】ワン・ミン;Wang Min
1954年中国河北省承徳市生まれ。大連外国語学院日本語学部卒。四川外国語学院大学院修了。お茶の水女子大学で博士号(人文科学)を取得。現在,法政大学国際日本学研究所教授。同済大学(上海)客員教授,中華日本学研究協会副会長も務める。専攻は,比較文化,日本研究。主な著書に,『中国人の愛国心―日本人とは違う五つの思考回路』『謝々!宮沢賢治』『日中2000年の不理解』『日本と中国―相互誤解の構造』『鏡の国の日本――参照枠としての日中関係』など多数。

(2011年8月2日)