日本的霊性との邂逅記
―安らぎの灯,命の水を求めて

宗教学者/般若游神会先達 土肥貞之


<梗概>

 私は自分自身の求道経験の中でさまざまな師や書と出会ったが,それとともに修験道という宗教体験を通じて,日本的霊性の根幹には鈴木大拙師の提唱する禅と浄土の柱に加え修験道という柱を加えることが肝心だと気づいた。その山岳禅定をめぐる験得は「水と火の験」であるが,これらは古神道や密教,インドのバラモン教やヒンズー教にも見られるものである。ところが,この修験道に見られる日本的霊性が,明治新政府の政策によって甚大な受難を受けた。今回の東日本大震災や多くの自然災害をきっかけに,日本の自然環境にふさわしい修験道文化を復興させることは,調和のある人類文化の発展にも寄与するものと思う。

1.日本的霊性と世界の霊性

日本的霊性への誘い
 鈴木大拙が『日本的霊性』を著したのは昭和19年のことであった。その岩波文庫版が出版されたのは昭和47年秋である。大学4年生だった私が本屋でその文庫本に出会って読んだのは,翌48年の秋であった。当時,私は西欧文明専攻の学生で卒業を目前に控えて進路に迷っていた頃だ。専攻の関係上,当然幾冊かの西欧哲学書はかじっていた。また,2年生の時の参禅経験がきっかけとなって禅を中心とする仏教書も独学していたので,卒業論文は西欧哲学と仏教哲学の比較思想論であった。同じ頃「ヨハネ伝」を読んでいるが,聖書と本格的に接することになるのはこの7年後である。そして現在遅ればせながらコーランを読み始めている。
 入学と同時に2年間の学寮生活に入ったが,その寮住みで夜間の望星講座を担当していた岡村愛一先生が幾多の宗教的勝縁をもたらしてくれた。鎌倉の円覚寺に紹介状を書いてもらい,参禅するきっかけになった。しばらくして「こういう本を読んでみるのもいい。あとで感想を聞かせてくれ」といって手渡しされたのは『歎異抄』だった。私が初めて手にした仏教書であり宗教書であった。ある時は老体に鞭打ち,有志学生数名を初春の丹沢に連れて行ってくれ,山小屋をひっそりと営んでいた80過ぎの仙人のような翁にも引き合わせてもらった。それがきっかけで,以後たびたび丹沢山塊(神奈川県)を抜渉するようになり,昭和49年9月3日の塔ノ岳山頂での霊性的体験(後述)を通して修験道の世界にものめり込んでいくことになったのである。
 『日本的霊性』を拝読した頃の私は,宗教という広くて深いジャングルに迷い込んだヒヨコのような存在であるから,なかなかいい本にめぐり逢えたものだと悦にいっていた。
 著者の大拙居士は,私が大学院で師事することになる恩師高山岩男先生のその恩師である西田幾多郎寸心居士の道友に当る方だということを後に師から聞いた。
鈴木大拙によると,日本的霊性とは大別してひとつには禅を,もうひとつは浄土思想という二大柱によって構成されているというのがその論旨であった。戦後,続篇に当る著作の中で,神道にも触れ,日本の霊性的基層をなしている古代よりの日本的心理形態としての神道は,これを是としながらも,他方,戦前戦中に思想的に逸脱し,誤った世界観の実現に狂奔する当時の政治及び軍部と結託して,日本の進路を世界の大勢から逸らしてしまった狂信的神道思想に対しては,これを非としたのである。この意見に私も異存はないが,ただ当時の政界や軍部にも見識のある人物は当然いたわけである。しかし,偏狭で過激な一部の政財界人や軍人の暴走による良識人の暗殺や排除という愚行などが,ひいては国家民衆を魔境に押しやってしまったというべきである(いわば政界・財界・軍事官僚など各界に潜伏していた曲者たちによる鉄の三角同盟を巣窟としたデモーニッシュなパワーがあの歴史的惨劇を招いたという見方もできる。確かに当時のきな臭い状況に酔い痴れ確信犯的に加担した民衆も少なからずいたであろう。しかし,国民の多くは時代と情勢という悪霊にとり憑かれた不幸で悲惨な被害者であったと見るべきだろう)。その際,神道が悪用されたのであり,神道思想のある一面が一部の愚劣な者たちの行動根拠として担がれたのであるから,神道そのものに科はないと思う。
 修験道に深くかかわりはじめた私は,後々「日本的霊性」をめぐってあることに気付いた。それは鈴木大拙の提唱する,禅の柱と浄土の柱に,もうひとつ修験道という柱を加えて,三本柱を基にしてこそ,より安定し奥行きのある日本的霊性論が構築されるのではないかという点である。こうした問題意識を抱いて,30歳を超えたあたりから「修験の道と哲学―日本的霊性の文明学的考察―」という論文を書き始め,その論旨は大方示せたのではないかと考えている。
 修験道という神秘と怪異に満ちた世界を探求する際に,私が執った方法は,天台教学伝統の「行解相応」という行き方である。即ち「行を通じての体験」と「学術による理念」との相剋と対話,いわば実践と理論との弁証法的究明を試みたのである。私は大学院生の 3年間で高山先生の慈育鞭励のもとに「弁証法」をめぐってかなり苦労したのでその経験を錫杖として,山中の獣道に踏み込んで行こうなどといった気負いも多分にあったと思う。

山と求道心 
 私が赴任した某わけあり私立大学で山岳部の顧問を延べ17年間引き受けたのは砂漠でささやかな泉を与えられたような幸運であった。学内政治遊戯に伴う陰湿なハラスメントと「利権」という甘汁が三度の飯よりも好きだというような一癖も二癖もある教授達ににらまれながら息苦しい状況に置かれていた私にとって,この泉は心の渇きを癒すオアシスであるとともにかすかな涼風に身を安んずる隠れ場でもあった。こうしたことから公私にわたって山岳に赴いて行に入る時間を得ることができたのである。丹沢山塊は若き日の私を修験道に導いたホームグランドであった。大峰山(奈良県)では単独で6度行に入ったが,「水の験」を得たかけがえのない聖域である(後述)。そして秋田の太平山では,随意随時ではあったが,護摩の行や回峰行のようなこともした。そして国内の霊山・神山というものも大方訪れることができた。
 道教の修行者である道士は古来,山に修行に入る時は単独を旨としていたといわれている。元来,原始修験道も一人で山に入ることから始まったとされる。後の修験者のように数人で組を成して山中を移動するのではなく,石窟や洞窟などにある期間独りじっと籠って木の実や野草を糧として修行する(臥験)のが原始修験道の姿である。仙人という者はたいがい一人で生活し行動する由縁であろう。その意味で「修験道とは道教の日本版である」と言った学者に私もある意味で同意している。
 日本的霊性というものに深くかかわりながら独特の宗教的文学世界を展開した道教的且つ密教的人物であるところの中里介山(1885〜1944年)によると,「真夜中の山中をたった一人で歩いているような者は天才か狂人のどちらかである」という条があった。私はかつて,大峰山を一人で歩いている行者や男性などに出会わしたことがあるが,どちらも昼のことだった。しかし,夜一人歩きしている人を見たことはない。私は山岳部員達や山仲間と山に入る時以外は,原始修験道を念頭に置いて極力一人で山に入った。確かにリスクも大きく尋常ではないにしても単独登山というものは何処にも認められるものである。ただ移動するのは明るいうちというのが鉄則である。
 ところが私はやむを得ず夜一人で山を歩いたことが何度かあるのである。進退極まって雪中野営したこともあるが,月の明かりに支えられて夜遅く山小屋にたどり着いた時などは,そこに先着者がいた場合,皆それぞれ言い知れぬ反応を示した。ただ私は中里介山の言うように天才では勿論ないし,また狂人でもないと思っている。ただ少しばかり人と比べて変わっているところのある凡人であるとは言えるかもしれない。アフリカのブッシュマンの言い伝えでは,「夜,月の光で原野を歩くのは序の口で,星々の明かりを頼りに歩けるようならば半人前,真のブッシュマンはたとえ真暗闇でも自らの心の灯をよるべとして歩いて行ける者のことである」といった,まるで釈尊の「自灯明の教え」の如きものがある。私は現代文明人からすると多少原始性に憧れを持つ人間なのかもしれない。時々内なる原始性が目を覚まして私に反合目的な試みを促すのである(例えば,大学院生の時,禅宗の山寺に3年近く起居していた時の事である。ひと冬を暖無しに乗り越えようと思い立ち耐寒訓練に入ったが,ある晩後輩が泊まりに来て,「あまりにも寒くて仕方がない」というのでホスピタリティを刺激された私はつい石油ストーブを焚いてしまった。結局この行は満行を目前にしながら失敗に終わってしまった。今夏の猛暑をクーラーを使わずに乗り切ろうと思い扇風機のみで「耐暑訓練」を成し遂げた)。しかしこれから述べるように,こうした点が私にふたつの貴重な体験へ導いてくれた理由であると思うのである。
 修験道という多層世界(マルチバース)を私なりに分析してみたところ,古代神道,道教,仏教のうちの特に密教,原始宗教であるシャーマニズムやアニミズム,そして自然崇拝と祖霊信仰に基づく山岳信仰などがそれぞれ多元的に相即相入し合った,いわばシンクレティック・コスモスであると言うことができる。こうした闇鍋のような得体の知れない精神世界を敬遠する者も多いと思う(例えば,宗教的原理主義者や政治的全体主義者等々)。私の知る限りでは既に肉の衣を脱ぎ捨ててしまった荘子や空海を始めとし,中里介山や南方熊楠,そして西田幾多郎などは大いに食指を動かす世界だと思う。また,ゲーテやピカソ,ベートーヴェンやドビュッシー,あるいはユングやエリアーデ(1907〜86年)。そして4世紀前,マルチバース(multiverse;多元宇宙論)をほのめかしたがために焚刑に処されてしまったジョルダーノ・ブルーノ(1548〜1600年)からアインシュタインそしてホーキング博士にまで連なる,天文・宇宙科学の先覚者達などもそれなりの興味と関心の触手を伸ばす分野なのではないかと思う。殊に古典的アニミズムは多分に迷信的願望や希望的類推に座を譲っているため,今日,これを無条件に受け継ぐことは勿論できない。むしろ現代の量子力学や素粒子論の成果と照らし合わせながらその迷蒙を洗い流し,アニミズムの新たな科学的合理性と思想的可能性を明らかにする秋を迎えている(新アニミズム)。そして今日,なお,神秘の霧に包まれているシャーマニズムの実相も,宇宙物理学をめぐる正体不明の謎のエネルギー(ダーク・エネルギー)をはじめ霊的波動や,超能力,そして道教の伝家の宝刀でもある「気」のエネルギーとともに,その真実相の解明が期待される昨今である。

修験の原意
 「修験道」の修験とは,「修行験得(修行してEQ \* jc2 \* "Font:MS 明朝" \* hps10 \o\ad(\s\up 9(しるし),験)を得る)」を約めたものである。だがこれは,体験を目的としそのための手段として行を修めるといった,いわば目的と手段の二段論法をいっているのではない。道元禅師が悟りを期待して修行するわけではなく,修行する行為そのものの中に既に悟りがあるのだという意味の「修証一等」を唱えたのと軌を一にする。そして「道」とは東アジア共通の哲学的大命題である。道教の古典『道徳経』に,「道 一を生じ,一 二を生じ,三 万物を生ず」とあるように,全存在の根源であるところの道を示している。また,「道」とは中国の老荘思想のみならず,大乗仏教における般若空観思想の主題である「色即是空 空即是色」の法理,さらに西田幾多郎の「絶対無(創造的無)」の哲学とも通底するものである。わが国では,茶道,武士道,芸道などと求道精神と相俟って生活の中に深く溶け込んでいるだけに,日本人の「道」を見る目は哲学的であるといわれるのも頷ける。
 ひと口に「験」といっても,何らかの現象として立ち現われてくるのもあれば,無形無象の「気づき」として心中に去来するものもある。例えば,吉野の金峰山修験本宗前管長の五條順教阿闍梨(故人)は五十路を迎えた秋のこと,行に入っていて,仁王門の石段を下っている時に,ふと,「みんな死んだんだ」という思いが唐突に閃くとともに,それから何の心配もこだわりもなくなってしまったと述べておられる(春秋社『修験のこころ』)。
 ところで,ラテン語のmemento moriは西欧人なら昔から誰でも知っている言葉で,英訳ではremember that you must dieということになり,人生を脳天気に過ごす愚かさを戒める警句でもある。後の西欧実存主義哲学では,「人間とは死に到る存在である」という多少とも心寒くなる表現すら出て来るのである。洋の東西を問わず死への不安とその囚われから解き放たれることは人間にとって重大な宿題であった。五條阿闍梨の気づきは,皆誰も言葉や観念では知っている「そのこと」を全身心を以って「験得」し,体認悟得の境位に立ち到った点が尊いのである。

火の験と水の験
 臨済禅の道場に参ずる一方,丹沢山塊を歩き始めるようになって3年以上経った昭和49年9月3日の夜,はからずも私は塔ノ岳山頂(神奈川県)の尊仏山荘で最初の験を得ることになった。当日の日誌には,「この山行きにて,遂に小生は一生涯決して忘れることのできない一瞬を味わった」という一文がある。日誌を基にその消息を正確に記してみることにしたい。
 晴天の朝を迎えた当日,日帰りのつもりで懐中電灯を持たず,自作の海苔弁当を携えて下宿を出発した。普段とは違い,人の全く歩かない廃道同然の道をわざと選んで登り始めた。あまりにも強い藪に苦闘しながらゆっくり進むが,コースを変更したり,途中落し物をしてそれを捜しに戻ったりして,時間をかなりロスしてしまった。天気も崩れ出し,悪路によるストレスもあって体力もだいぶ消耗してしまった。日帰りは諦めて,鍋割山荘に一泊するつもりで訪ねると閉まっていた。やむを得ず更にその先,1時間以上もかかる塔ノ岳を目指して登る。悪天候に加えて日も暮れてしまった。霧と風と闇の中をヘトヘトになって進む。「山頂の小屋がもし閉まっていたら」という不安が胸中をよぎり,足が一層重くなる。おそらく6時半過ぎ,這うようにして尊仏山荘にたどり着く。「ああよかった。助かった」というまさに「安心即楽土」の境地であった。疲労困憊しているので受付の記帳の文字が乱れきっていた。出された熱いお茶に魂を呼び戻された感じであった。夕食のカレーライスが出てくるまでのわずかの間,私はストーブの前の椅子にもたれ放心状態であった。一歩間違えれば大変な事態になっていたかもしれない。小屋には管理人の小柄な若者ひとりと,72歳の老人を含めた登山客5名,そして虚脱状態になった24歳の私がそこにいた。
 9時の消灯時間とともに人心地のついた私は二階に上がり,夜具の中に身を横たえた。他の客は奥の間で休んでいるので,そこは私だけの静かな聖空間であった。屋根裏の柱に掛けられた1個の灯油ランプ。全身に沁み込んで来るかのようなそのほのかな灯に魅入られていると夢心地の世界に誘われていった。「身心脱落」とか「涅槃妙心」とでも言うべき,軽い解脱感に満たされて,感謝と悦びの波動につつまれた。いままでこんな美しい灯を見たことがないと思った。まさに般若灯王如来の来迎とも称すべきだが,キリスト教的実存主義のガブリエル・マルセルの言を借りれば,それは存在の暗さの中から光り渡る「存在の放光」であった。あるいは,ルドルフ・シュタイナーのように〈意識化され内面化された宇宙叡智が人間の浄化された個我を媒体として愛の衝動となって甦るところの「霊的合一(intuition)」の一形態である〉といった神智学的見解も許されるであろう。この夜の霊灯との邂逅以来,私は自らの「火の験」としてこれをとらえ,思念思索の道しるべとしてきた。
 それから12年を経た昭和61年8月8日,大峰山中(奈良県)に於いて,奇しくも「水の験」に恵まれたのである。俗に「命の水」と言うが,それを身に沁みて感じる時もある。かつて山中で迷って喉が渇き,地面の窪みに溜った雨水を手ですくって飲んだこともある。人間は5日間水を飲めないでいると危険であるといわれているが,たった1日水を飲めないだけでも強い不安に襲われるのである。
 吉野から熊野本宮までの約240キロの奥駈道を9泊10日をかけて駈けた時の事である。7日目には全く水のない状態で歩いた。転法輪岳手前の金剛童子を祀った「持経の宿」の無人小屋で仮宿した翌朝,水場の案内板に従って飲み水を捜しに30分程下って行くと,勢いよく水が流れ出している処にたどり着き,思う存分飲むとともに,その日の行動に必要な水を授かり,とても安堵した記憶が今でも鮮やかに残っている。
 人体は約60兆の細胞で構成されていて,毎日そのうちの約3000億の細胞が自然死を迎え,その分新たな細胞が誕生しているといわれる。これは人体という一種のミニ・カオスにおける死生一体のドラマであるともみなすことができる。そのカオスが水を渇望し,そして水がもたらされた時,人体というカオスは歓びの叫びを発するのではないだろうか(水を身体に降りそそぐことによって,身体と魂の浄化をはかり新たなる蘇りを願う儀礼は,密教の灌頂やユダヤ,キリスト教の洗礼という形であらわれている)。そして,水を欠いた時空においては生命体も文明も発生し得ない事は既に宇宙科学の通説にもなっている。
 古神道や密教では水と火を特に重視している。祝詞には「神火清明 神水清明」という火と水の霊的エネルギーによって身心を清祓しようとする「水火の清め」に因むものや「天の火の気 地の水の気 幸きみたま 奇しみたま 祓い給え 清め給え 守り給え 恵み給え」というのもある。修験道の『床堅願文』には,「白色圓形大悲水」や「赤色三角大智火」という文があり,それぞれ水と火の性質と効力を端的に暗示している。
 また,古代インドのバラモン教やこれを受け継いだヒンズー教でも火を焚いて神を祀る「火法(ホーマ)」が四十四種もあったといわれ,これが後に密教に入って「護摩」となったのであるが,その原型は古代インドにおける錬金術や薬物調理法に認められ,護摩修法に用いられる大型香炉の祖形も錬金炉に由来していると指摘する学者もいる(佐藤任著『密教の秘密の扉を開く』)。また,地・水・火・風・空の五元素論は古代インドの医学書『アーユルヴェーダ』の物質観の基礎をなし,密教もこれを基礎理念として引き継ぎ,自然の大生命に触れていくという根本思想として息づいている。そして,ヒンズー教においては,火と水とは本来反発しあう(相剋)関係にありながらも,こうした対立物が調和統合された際(交合),新たなる創造的エネルギーが現出すると考えられたのである。
             ◇
 40年にわたる私の山岳禅定をめぐる験得は以上の通りである。私はこれらを「水火の験」として受け止め,胸中の宝珠としてきた。この度機会を得てそれを伝えることができたのも時節因縁のなすところだろうか。今ここに敬重の念と感恩の情を込めて,拙ないながらも一偈を呈し,日本的霊性と世界の霊性へのささやかなはなむけとしたい。
 
  歩々是行願  古今之大道
  沐般若涼風  洗心聞清香
  妙灯照安心  慈水立命花
  究盡無身門  霊通游神境
  乾坤得一貞  凡聖平等底
  人生是修験  修験即生活

2.日本の伝統―修験道文化

神仏分離政策と修験道
 修験道は受難と抵抗の宗教でもあった。修験道は歴史の長い流れの中で,神道や民俗信仰と仏教などが習合されながら不思議なシンクレティック・コスモスを形成してきた。その日本独自の文化形態ともいうべき修験道が幕末から明治初頭にかけて,さまざまな弾圧をこうむることになったのである。それは政治的には神仏分離政策に基づく「神仏判然令」や「修験道廃止令」となってあらわれた。それによって修験者はその宗教活動の基礎を根底からおびやかされることになったのである。彼等は神職になるか僧侶になるか,あるいは還俗するかのいずれかの道を選ぶように強いられた。
 そこで,時の為政者達が,何故こうした愚行に及んだのかという点について考えてみたい。まず第一に政治家,官吏,そして一部の知識人たちが西欧の啓蒙主義に影響を受けていたということである。17世紀に起こった西欧近代合理主義思想とこれに続く啓蒙主義思想とは深い相関関係にあり,あたらし物好きの日本人エリートにとっては,それはまさに「文明開化」という宝飾品を納め保つ「玉手箱」のようなものだったのであろう。近代的,あるいは合理的なものは即ち進歩的であるといった短絡的視点から,修験道という得体の知れない精神世界をながめた場合,理解に苦しむのみならず,この怪異な生き物を文明開化のメスによって仕分けしてしまう必要があると錯覚したのではないだろうか。
 第二に当時流行した洋行視察によって,先進諸国の国状や風物を見聞きした彼等は殊に先進国に共通する強いナショナリズムに感服したのである。そして,そのナショナリズムを裏で支えているものが経済力,軍事力のみならず一神教という強い牽引力を持ったところのキリスト教であるということを実感したのに違いあるまい。そして帰国するや,日本を強い国にするためには,官民を挙げてナショナリズムに目覚めさせる必要があり,それには,宗教もこれを裏付けるべく日本古来の伝統宗教である「神道」に一本化・集約化していかなければならないと考えたのだろうと察する。
 当時のエリートから見れば,修験道とは一種の文化的・精神的迷宮とでも見えたのかもしれない。しかし,このラビリンス(labyrinth;迷宮)の土壌において日本人の多様性と民族的活力が培われてきたのである。これを権力によって強引に解体してしまったことは日本人の文化・精神面にわたって計り知れない損害をもたらしたと言えよう。
 しかし,修験道はその受難を乗り越え,戦後みごとに復活した。根がしっかり生きていたからこそ新たな花も咲かせることができたのである。
 古代,日本人は,清泉,滝,古木,森,奇岩怪石,炎,陽光,風雨,山岳,海,気象そして糧食や動植物などに畏敬の念(ヌミノーゼ)と尊崇心を強く持って生活していた。これを「神?信仰」あるいは「かんながらの道」と称する。それは自然一体観に基づく素朴神秘主義の信仰である。それゆえ日本人は「清き明き心」を尊んできた。
 神道という用語が使われるようになったのは中世期からである。既に大陸から道教,仏教,儒教などの哲学性や倫理性の強い思想が伝えられて,これらに接して驚いた素朴な日本人は,それまでの自分たちの「かんながらの道」を,もう少し体系化し,理論の衣を着せる必要があると思ったのである。神道という言葉も中国の文献に出てきたもので,それを輸入したのであろう。
 修験道の出自は,もともとこうした素朴な自然崇拝であるところの原始神?信仰に根を置いている。例えば,役行者などは,初期の密教に多少触れてはいたかもしれないが,それほど仏教的な匂いは強くなく,むしろ多分に原始神道的であり,シャーマニスティックであったと思われる。ところが,空海が入唐求法の末,持ち帰った,完成度の高い中期密教の洗礼によって,修験道はすこぶる仏教的な面構えに変わっていくのである。そして,「かんなながらの道」と「仏教」とはその宗教類型に近似性があり,哲学的媒介性があるかないかの違いだけで「相生」はとても良い関係にある。したがって両者がおのずから身を寄せあっていったのは当然の事である。大陸から渡来した思慮深い婿さんを清き明き心を持った純朴な巫女が見染めて,日本列島という自然に恵まれた環境で夫唱婦随の営みを永続させて来られたのは何の不思議もないのである。それを,啓蒙思想に酔った明治政府の旦那方が一時期無理やり引き裂いてしまったのは,何とも無粋で罪な仕打としか思えないのである。
 ところで,日本が海に囲まれた山岳の多い列島であり,しかも温帯気候にあるという自然条件と日本的霊性とは切っても切れない深い関係にある。例えば,植物のほとんど見られない砂漠地帯や大陸の高地,あるいはモンゴルの大草原,常夏のジャングル,そしてモルディブ諸島や南太平洋の島々のように海洋性に圧倒されている地域などではみなそれぞれ固有の霊性を漂わすであろうが日本的霊性のような神妙清明にして鮮麗強靭なスピリッツは生成し得ないといってもいいだろう。日本は幸運にも山と海とが地勢的にバランス良く保たれている「山海呼応」の好条件にあり,しかも豊かな水に恵まれているという点がこれらを可能にしているのである。
 それゆえにこそ,「山のヨーガ」あるいは「歩くヨーガ」とも称すべき修験道文化が花開き実を成したのだと思う。この貴重な事実と稀有なスピルチュアル・コスモスをもっと世界に発信する務めが我々にはあるのではないだろうか。そして願わくは,生命と地球環境の保全,及び人類と文化・文明の調和進展の道を再検討する一助になればと期するものである。

3.結語

   中秋名月に寄せて

  道,もとより古今なく また東西を絶す
  行を修め験を得んと欲すれば
  願を尚び志を楽しむにしくはなし
  淡々として夢幻の草露を踏み抜き
  無身の門を透過せよ
  而して化と游び,以て四方を撫すは真人の本壊なり 
  すべからく銘ずべし
  自然一体の妙境は脚下にして
  迷悟苦楽の衆峰は唯此の一心山に帰すことを

平成二十三年長月吉日

【プロフィール】どい・さだゆき
1950年生まれ。東海大学大学院文学研究科修士課程修了。大学教員等を経て,現在,般若游神会先達,オリヲン人権ミッション主幹。専攻は宗教学。研究テーマは,禅仏教,修験道,原始仏教,人間と社会における自由と責任など。主な論文に,「西欧近代合理主義思想と空―比較思想試論」「禅の弁証法的考察」「佛教敵実存への一考察」「修験道の道と哲学」他。

(2011年9月20日)