膨張する中国とどう向き合うか

拓殖大学総長・学長/経済学博士 渡辺利夫

1.尖閣諸島中国漁船衝突事件―ミュンヘン会談

 2010年9月に尖閣諸島で中国漁船衝突事件が起きた。友人と話をしたとき,事件後の日本政府の対応を称して友人は「これはミュンヘン会談ではないか」と揶揄した。後でよく考えて見ると,彼の発言は正しい洞察であった。
 ミュンヘン会談(1938年9月)の概略は次のようなものであった。ヒトラーがオーストリアを併合し,その後さらにチェコスロバキアのズデーテン地方を併合しようとしていた。その動きを周辺国が憂慮する中,英国のチェンバレン首相がミュンヘンに飛んでヒトラーと会談をした。長い会談の末,チェンバレン首相は「ズデーテン地方をヒトラーの要求どおりにしてやれば,彼の欲求が充足されて膨張への野望も収まるのではないか」と考えた。同首相は,もともと平和主義的,宥和外交を推進するタイプの政治家であった。結果的に,ミュンヘン会談でヒトラーの要求をのんだことからチェコスロバキアのズデーテン地方はドイツに編入されてしまった。このことはヒトラーに対して,「強く押して出れば周辺諸国は引く」という学習効果を与えてしまい,その後の第二次世界大戦の悲劇へとつながった。
 中国漁船衝突事件後の日本政府の対応を見ていると,まさにミュンヘン会談と類似した展開のように感じられる。
 海上保安庁の巡視船に二度も体当たりした中国漁船に対して,日本政府は船長を公務執行妨害で逮捕したものの,ほどなく処分保留のまま釈放してしまった。日本政府はおそらくそのような対処によって事件の幕引きを図ろうと考えたのだろうと思う。事実,最近の官房長官の発言(「われわれは那覇地検独自の判断を尊重する」)からも,そのことははっきりわかる。
 当時,船長の釈放に関して那覇地検は,「日中関係の将来について考慮するならば,これ以上船長を拘束して捜査を継続するのは相当でない」と発言した。これは政治的判断以外の何ものでもない。検察官の職務とは,警察(ここでは海上保安庁)から送致された事件についてさらに独自に捜査した上で,これは起訴すべきか,不起訴処分とするかを,法と証拠のみに基づいて決定することだ。刑事司法においては起訴権限は検察官が独占するとされるほど強力なもので,何ものにも拘束されずに法と証拠のみに基づいて決定する権限を有する。そのような検察が「日中関係の将来について考慮」というような(政治的)判断をもとに結論を下したのは奇妙なことだ。
 那覇地検次席検事の発言を聞いたとき,「これはひょっとして,『自分(地検)が言えないことを政府によって言わせられているのだ』ということを言外に言いたかったのではないか」とも思った。
 地検に政治的判断ができるわけはない。政治的判断が可能なケースとは,法務大臣の(検察に対する)指揮権発動の場合である。法務大臣が「被疑者はクロに限りなく近いが,日中関係の将来もあるから釈放しよう」という政治的判断をして検察を指揮することはできる。そうであれば法の一貫性は担保される。しかし,今回は指揮権発動なしに,地検に政治的判断をさせたのである。
 しかし,心ある日本人の5名が不起訴処分に対する不服申し立てを行なった。その結果,那覇検察審査会が設置され,昨年春に「起訴相当」の結論が出された。それに対して那覇地検は再捜査の上で再び「不起訴相当」の結論を出す。海上保安庁については捜査をしたが中国側に対しては捜査をやらないままの不十分な結論である。「日中刑事共助条約」(政府や在外公館を通さずに司法当局相互が捜査資料の提供を受けることができる)によって,中国側に対する捜査は十分可能であったはずだ。二度目の検察審査会が設置されここでも「起訴相当」との結論が出された。検察審査会が二度「起訴相当」の判断を下した場合は,強制起訴としなければならなくなる。これが昨年夏であった。その後,起訴がなされないまま推移していたので,どうなっているのかと心配していた。
 今年3月15日になって,ようやく強制起訴がなされた。刑事訴訟法によれば,起訴状が2カ月以内に被疑者に送達されなければ公訴棄却になるという。船長は中国に帰国してしまっていて不在である。中国政府の拒否によって,起訴状は船長に送達されず2カ月を過ぎた5月17日,公訴棄却になってしまった。
 結局,政治判断がなされ,その政治判断はおかしいということで司法手続きに入ったものの,それも時間切れで元の木阿弥になってしまった。日本にとってこの事件は「なかった事件」かのように扱われてしまったのである。中国に対しては,「押し込めば日本は自分たちの主張どおりに進む」という学習効果を与えてしまった。まさに「ミュンヘン会談」と同類のものであった。

2.「韜晦」戦略―生成と放棄

 「韜晦」は「韜光養晦」の略であるが,韜=包み隠す,晦=くらますの意で,全体としては「才能や本心を隠して人の目をくらます」という意味になる。
 中国は搶ャ平時代より「韜晦戦略」(外国に悟られないように力を蓄え,しかるべきときに備える戦略)を採用してきた。搶ャ平時代の象徴的事件といえば,天安門事件(1989年6月)がある。当時,中ソ和解に向けてゴルバチョフ大統領が訪中し趙紫陽総書記(当時)と握手を交わそうとしていたときで,世界中のマスメディアの関心が北京に集まる目前で起きた凄惨な事件であった。ライブで世界中に伝えられ,世界中が大きな衝撃を受けた。西側諸国から対中経済制裁が課せられ,中国は国際的に孤立するという厳しい状況に陥った。このような中で,最高指導者搶ャ平は韜晦戦略をもって対応すべしと指導者を諭したのである。
 日本の近代史に似たようなものを見出そうとすれば,日清戦争後に三国干渉を受けたときの「臥薪嘗胆」であろう。「ロシアによって日本の最も重要な戦利品である遼東半島を清国に還付せざるを得ないのは,まことに屈辱的だ」と,議会の野党,ジャーナリズムなど朝野を挙げてそのように訴えた。しかし,「所詮,戦争とは国力・軍事力の差だ。もしロシアが独仏と連合艦隊を組んでやってきたら,日清戦争で疲弊している日本に勝ち目はない」と受け止め,臥薪嘗胆により次の機会に備えようとしたのである。そして10年後に日露戦争に皮一枚で勝利したのであった。
 中国は,韜晦戦略を立てた後,20年以上にわたって年率二桁の軍事費増強を進めてきた。その結果,軍事力は少なくとも20倍ほどに拡大し,いまや韜晦戦略を放擲して,軍事力を世界に見せ付けた方が自分の主張を通しやすいと考えるようになった。尖閣諸島での中国漁船衝突事件,南シナ海を「核心的利益」と主張して強硬な行動に出ていることなどは,その現れである。また,中国の艦船が宮古海峡を経て外洋に出て沖ノ鳥島付近で演習を行い中国に戻っている事実が,『防衛白書』に記録されている。もはや韜晦戦略を放棄した中国としては,日本人の神経を逆なでしたところで何も臆することはないということであろう。
 こうした中国の行動に対して日本政府は,いちいち抗議をするわけでもなく,せいぜい遺憾の意を表明するくらいで終始している。残念と言わざるを得ない。民主党政権は,対中外交で見るべき成果はなく,そもそも対中戦略そのものがないのではないか。
 岡崎久彦氏の最近の発言にも見られるように,中国はいまや「愛国無罪」など反日運動を公然と出来る状況にはない。2005年に国連事務総長による日本の国連安保理入り発言問題などをきっかけに反日運動がおこった。成都,北京,上海へと拡大したが,中国政府は反日運動がいつ反党・反中央政府の運動に転化するかもしれないとの恐怖を持ち,一気に押さえ込んだ。それ以来,反日運動はほとんど起こっていない。いま中国では反日運動ができにくい状態にある。日本は中国の押しまくりで譲歩を重ねてきたが,いまこそ押し戻すチャンスではないかとも思う。
 領土問題では,日本に有利なように一つひとつの機会をとらえて,薄紙を一つひとつ重ねていくような努力をすべきだ。石原東京都知事が尖閣諸島を購入することを発表したとき,日本の大手新聞の論調は二つに分かれた。産経と読売が賛成し,朝日・毎日・日経はやるべきではないと主張した。こうみると,尖閣問題は日本国内の国論の問題でもある。しかし,主権の問題をそのような国論に任せておくことはできない。実効支配が必要である。例えば,尖閣諸島に常住する人間を配備し,日本の主権が及んでいることを明確にすべきである。

3.中国とはいかなる存在か−「後れてやってきた新帝国主義国家」

 それでは中国をどう見るべきか。
 清は,明に比べ版図が約3倍になった。清に含まれていたチベット,モンゴル,ウィグルと清王朝との関係は非常に緩やかな関係,ある意味の冊封体制であった。そこの土地に住む人の統治権を冊書として与え,チベット王,モンゴル王,ウィグル王を認知した。朝貢すれば,各異民族の言語,風俗・習慣,宗教は旧来のままでよいという,多分に独立的色彩が強い「分治」政策を行なった。帝国を拡大していくためには,ローマ帝国と同じように,分治方式でやるしかなかった。
 しかし,列強に侵略されて中国の「屈辱の近代史」が始まった。中国が列強と対抗するためには列強と同様の「主権国家観念」を持たなければならず,そのためには国民の政治的凝集が必要になった。凝集力を沸き立たせるものはナショナリズムであり,「振興中華」が叫ばれた。孫文の「興中会」もその一つだ。振興中華には漢族,満族,モンゴル族,チベット族,ウィグル族の五族が含まれ,政治的凝集のために「五族協和」のスローガンを掲げた。しかしその内実は,「漢族ヲ以テ中心トナシ満蒙回藏四族ヲ全部我等ニ同化セシム」(孫文),つまり「同化政策」であった。つまり主権国家観念の導入によって,少数民族は抑圧の対象になったのである。これが中国の帝国主義の始まりである。
 その後,中国は共産革命から毛沢東と搶ャ平の時代を経て,国力を充実させ軍事大国になり,現在対外侵略をはかるまでになっている。まず狙っているのは清朝時代の冊封国であったベトナム,朝鮮だろう。さらに旧冊封体制の中に入っていたネパール,シャム(タイ),ビルマ(ミャンマー),フィリピンなどである。このような大清帝国の領域であった地域の復元が図られているというのが,中国に対するこれまでの議論であった。
 しかし,最近では第二列島線といわれるグアム,小笠原諸島のラインにまで兵力を進出させ,米艦隊のアクセス・ディナイアルを企てている。そこをどうみるか。私は,第一に「大清帝国の後裔」そして「後れてやってきた帝国主義」の二枚が重なっていると考えている。
 一昨年の中国漁船衝突事件の乱暴狼藉ぶりは,いかにも好戦的であったが,事件発生翌日の全国紙の社説の見出しはほとんどが「強硬で理不尽な中国の行動」といったものであった。「理不尽な」という書き方はいかにも情緒的で,日本の戦略のなさを自ら暴露する表現ではないかと思う。興隆期の中国であればこのような行動をとるのは当然であり,中国には中国の理があって行動している。それを怜悧に見据えて守りの戦略を立てなければならないにもかかわらず,それを「理不尽」と言っているようではどうにもならない。
 もう一つの印象は,中国の行動を見ていると,まるで自分(日本)の古い自画像を見ているように感じるということだ。一国のナショナリズムが勃興し国力が充実してくる時代局面にあっては,どの国も対外膨張主義をとったという歴史をもっている。日本も同様であった。
 日本は,日清戦争によって台湾・澎湖諸島などを獲得して半世紀余り日本領として支配した。その後,朝鮮半島を支配し,満洲に進出して満洲国を建国,さらに大陸内部へと入り込んで行った。善悪の問題はさておき事実の問題として,日本にも対外膨張を行なった帝国主義の時代があった。ドイツ帝国の膨張主義は,第一次大戦,第二次大戦の淵源になった。また米国は,東部13州から出発し,中西部を開拓し太平洋に到達してフロンティアの消滅と思われたが,海の向こうに「西部」があることに気づき進出。カリブ海のプエルトリコ,キューバを植民地や保護領にし,パナマ運河の永久航行権を獲得すると,大艦隊を太平洋に派遣した。ハワイ,グアムを取得し米西戦争に勝利してフィリピンを得た。そして機会均等,門戸開放というスローガンを掲げて中国大陸にも関与した。このように世界の国々は,帝国主義的な対外膨張を行なった時代局面をもっている。
 自分たちがそのような過去を持っているにもかかわらず,中国だけは同様の行動を取らないと考えるのは,驚くほどのお人よしと言わざるを得ない。中国は,20年余にわたり二桁の軍事膨張を続け,いよいよ韜晦戦略を放擲して対外膨張しつつある。ソ連崩壊によって北の脅威から解放された中国は,自分のエネルギーを海洋に向けて放射し始め,大陸国家から海洋国家への変容を遂げつつある。ゆえに陸海軍の中でも海軍増強のピッチが非常に早い。
 こうした観点から,中国は「後れてやってきた新帝国主義国家」である,というのが私の現代中国に対する理解である。

4.海洋国家同盟の意義に目覚めよ−日英同盟破棄の轍を踏むな

 それでは,このような状況の中で,日本はどう対応していくべきか。結論を言えば,現在与えられた条件の中で安全保障を確保しようとすれば,世界最大の(海洋)覇権国家である米国と同盟を強固に維持すること,このことが最も重要である。
 現在の日本の防衛政策の基本は専守防衛であり,また現政権は非核三原則を制度化しようとしている。そんな太平楽を並べられるのも,実は米国という同盟国の核の傘によって守られているがゆえである。集団的自衛権は,日米同盟の前文を始め,国連憲章にも記載されているように,国家が固有に持つ一種の自然権と考えてよい。しかし,集団的自衛権は「保有しているが行使できない」との内閣法制局の解釈に日本政府が縛られるという,奇妙なことが起きている。
 集団的自衛権の行使を控えながら自国の安全保障を守ろうというのであれば,世界最大の(海洋)覇権国家米国との絆を深めるよりほかに方法はない。誰が考えても,これ以外の方法は見つからない。同盟関係の深化の努力なくして日本の安全保障は守られない。日本を取り巻く東アジアの現情勢は,それほど甘いものではないとの認識が必要である。
 集団的自衛権が自然権だとすれば,憲法を改正しなくても,首相がその行使を宣言する,あるいは閣議で集団的自衛権の解釈変更を決定すれば済むことである。法理念のレベルで言えば,それで何の問題もない。法理念は変更できないが,これは国の政策の問題であり,政策は変更することが可能である。
 世界で最も強い(海洋)覇権国家との同盟を維持することが,日本の安全保障にとって最重要のテーマである。そのような同盟を失うことによって,悲劇的状況に陥ったという歴史的経験を,日本は近現代史において持っている。それは日英同盟の生成と廃棄である。
 日英同盟条約は,明治35年(1902年)1月に締結され,大正10年(1921年)12月のワシントン会議で廃棄された(1923年8月失効)。この間,明治末年の十年と大正期の十年の20年余りの期間,日英同盟は日本の安全保障をパーフェクトに守ってくれた。当時英国は,七つの海を支配し陽の沈むことのない帝国を築いた世界最大の海洋覇権国家であった。その国と同盟を結ぶことができた。それが「坂の上の雲」の時代の日本を作り上げたと言っても過言ではない。また日英同盟があったがゆえに,日本は日露戦争を皮一枚でも勝利することができた。当時の過激な帝国主義が角逐する世界にあって,日本の領空,領域が奪われなかったのもこの条約のおかげであった。
 この時期は,日本にとって青春時代ともいうべき時代であった。学術・芸術の振興,日本の産業革命勃興期で,住友・三菱・三井・安田などの世界的な財閥企業が興隆した。何よりも「大正デモクラシー」といわれる,世界に先んじた民主主義を開花させたのもこの時代であった。普通選挙法が制定されたのは大正14年であったが(それに基づく選挙の実施は昭和3年から),それは大正デモクラシーの最大の産物といえるものであった。納税額の如何にかかわらず25歳以上の成年男子のすべてが投票権を有するという法律が,欧米の国ではなく,まさに日本で開花したのである。日本の民主主義は第二次世界大戦後にGHQが導入してくれたものだと考える人が多い。そのような解釈が学校の歴史教科書にも反映されているようだが,それは間違いである。こうした恩恵も,日英同盟の帰結がもたらした副産物であった。
 日英同盟が廃棄がされると同時に,日本は奈落の底に落ちて行った。なぜ廃棄されたのか。端的にいえば,米国の介入(容喙)のゆえである。
 日英同盟ゆえに,日本は第一次世界大戦に参戦せざるを得なかった。英国など同盟国が大戦に勝利した。英国の同盟国であった日本は,敗戦国ドイツが中国や太平洋地域にもっていた権益を引き継ぐことになった。この大戦はヨーロッパを主戦場としていたために,日本は直接被害を受けなかっただけでなく,戦場に大量の戦略物資を送り,経済・産業の発展がもたらされた。米国も同様であった。米国は物心両面で英国を支援したが,戦場から免れて経済力・軍事力を著しく増大させた。
 第一次世界大戦はヨーロッパが主戦場だったために,戦勝国である英国も廃墟同然であった。その結果,大戦後米国と日本が覇権国になり,日米間の覇権争奪戦が始まった。米国は日本を怜悧に見ていた。小さな国・日本がこれほどの国力を持ったのはなぜか。それは日英同盟という絆があったためだと考えた。この絆を断ち切れば日本の国力はたいしたことはないと判断し,日英同盟の断絶を企図するようになった。
 第一次世界大戦の戦後処理を決めるパリ講和会議で,米国は日英同盟廃棄に向けた努力を進めることに失敗したが,2年後のワシントン会議でその目的を果たした。大戦で疲弊した国々の間には,多国間の枠組みで平和を維持しようと考える雰囲気があった。そこで米国は「二国間同盟は古い考えだ。日英米仏4カ国で安全保障を進めよう」と提案して日英同盟の廃棄を迫った。だが,この4カ国同盟が平和に向けて機能することはなかった。
 日英同盟廃棄に向けた米国の工作は,まず英国を口説き落とすことから始まった。英国は同盟廃棄の意図はなかったが,第一次世界大戦では米国から物心両面の支援を得ることで勝利に結びつけることができたことにより,一種の「負い目」を感じていたのかもしれない。米国も言葉巧みに説得を続けた。
 そもそも日英が接近して同盟を結んだ背景には,アジアにおけるロシアの南下政策を阻止するという共通の利害があった。ロシア軍が満洲に配備され,鴨緑江を越えてくれば朝鮮半島に入り,さらに対馬海峡を越えて日本に直接やってくれば,日本はロシアの保護国あるいは植民地になりかねないという恐怖感を,日本人はもっていた。英国は当時,香港,九龍半島をはじめ長江流域に大きな権益を持ち,それがロシアの南下政策により潰えてしまうのではないかと恐れた。そうした共通の利害が日英同盟締結につながったのである。
 当時は艦船の時代であり,船の排水量で軍事力が計られた。日英の排水量の合計は,世界主要国の排水量の合計を上回っていたため,この同盟によって日英は,絶対的な優位性を保つことができたのである。
 外交とは「武器を用いないでする戦争だ」とも言われる。米国は次のように英国を説得した。「日英同盟は,ロシアの南下政策に対抗して生まれたものだ。しかし,ロシアは革命によって国内が混乱しており,南下する余力はない。それにも拘らず日英同盟が存在するのは,米国を仮想敵国とするのか?」それに対して英国は,「もし日本が米国に対抗するような姿勢を見せたら,われわれが抑えましょう。そのような条項を加えてもいい」とまでいったが,米国は頑として聞かなかった。結局,米国の説得によって日英同盟は廃棄された。
 そうなると日本は,独力で軍事力増強を図って軍事大国化の道を選択するしかなく,一人孤独の道を走っていった。山東半島から始めて中国大陸への侵略を進めたが,グランド・デザインもないままの侵略であったから,大陸中心部で足を取られて自滅していった。このように日英同盟の廃棄が,大東亜戦争,太平洋戦争における日本敗北の直接的原因であった。
 このように世界最強の(海洋)覇権国家と手を結んでいた時代の日本は,実に幸福な青春を楽しむことができた。しかし,日英同盟が廃棄されて以降の日本は,不幸の道を進むこととなった。
 その予兆であるかの如く,大正12年には関東大震災が発生,翌13年には米国で排日移民法が成立,以後戦争の道を突き進んだ。

昭和2年 山東出兵
昭和3年 張作霖爆殺事件
昭和5年 ロンドン軍縮会議
昭和6年 満洲事変
昭和7年 満洲国独立,五・一五事件
昭和8年 国際連盟脱退
昭和11年 二・二六事件
昭和12年 支那事変勃発
昭和15年 日独伊軍事同盟
昭和16年 真珠湾攻撃
昭和20年 日本降伏

 このように見てくると,日本は日英同盟破棄以降,「坂の上」から一直線に転がり落ちるかのようであった。日英同盟の廃棄は悔やんでも悔やみきれない事件である。これは日本の近現代史における大きな教訓であると思う。
 獨協大学名誉教授の中村粲氏(1934-2010年)のことばを引用する。
 「わが国はその後(=日英同盟廃棄後)極東情勢の混乱に単独で対処するほかなかった。最も同盟の必要な時期にそれがなかったのだ。日本は自ら望まずして孤立へと追いやられたのである。以後,大東亜戦争に至るまで,わが国が歩んだ孤立と苦難の道のりを思うとき,日英同盟消滅せざりしかばの感を深くせざるを得ない」。
 日英同盟廃棄は慙愧に耐えないことであったが,当時,最大の覇権国家米国の容喙によって余儀なくされたという「言い訳」はできるかもしれない。
 しかし,いまの日米同盟の危機は,米国という相手国の核の傘によって安全が保障されている当事国日本の「不作為」によって発生しているという点に大きな問題がある。何の思慮もなく,「国外,少なくとも県外移設」と,思いつきのように発言した普天間飛行場移転問題に端を発する危機である。それまで関係者の努力によって積み上げてきた合意がストップし,混沌状態がいまなお続いている。そして修復の努力もなされておらず,かえって米国の信頼を失うばかりであった。
 結論を言えば,世界最強の(海洋)覇権国と同盟を結んでいた時代に,日本の安全保障はパーフェクトに保たれ,そうでない時期は不幸な時代であったということである。日英同盟は海洋国家同盟であった。米国は,太平洋と大西洋に挟まれた巨大な島と考えれば,日米同盟も海洋国家同盟とみることができよう。
 そしてこの同盟の有効期限を少しでも先へ延ばしていくことが,所与の条件の中でわれわれがやらねばならないことである。日本が核武装するという選択肢もあるわけだが,現在の与えられた条件の中で核武装することは,極東アジアのパワーバランスを一挙に崩して日本を不利な状況に追い込みかねない。ゆえに現在の与えられた条件下では,日米同盟の深化が最重要事項であるといえる。
 核についてさらに言及すれば,「一旦緩急あらば核を持ちうるぞ」という工程表を作っておくことは,抑止力の点で一考に値するのではないかと思う。ある条件が生じた場合には,一定の手順を踏んで核を開発し保有するとの一枚の工程表を作っておくのである。日本の原発技術水準の高いことは世界の周知するところである。現代は原発から核兵器への転用が容易な時代であり,原発をうまく運転していくことが「核抑止力」にもつながる。そして工程表の最後に次のような文言を入れておく。「広島で20万人,長崎で10万人,合計30万人の犠牲者が生まれたが,このような惨劇を二度と引き起こさないためにも日本はこの工程表を発表する」と。
 核論議は誤ったシグナルを送ることになりかねないとの意見もあるが,逆だと思う。核に対する日本の世論は多様であるということを正確に外国に発信することは却って抑止力につながる。ただし問題は,日本の核保有工程表が米国との間でどのような折り合いをつけて発表できるかだろう。一般論からいえば,現在軍事予算の大きな削減を余儀なくされる中,日米同盟を健全に保っていくためには,日本がより多くの負担を負わなければならないとの趨勢はよく考慮しておかなければならない。

5.指導者の資質―陸奥宗光の日清戦争

 激動の時代にあって危機を予見しながら,それが現実となった場合には,迅速な行動を取る。そのような能力と気概をもつことが指導者の重要な要件の一つではないかと思う。戦時はもとより,平時にあっても危機を予見しそれに備える。今日の中国を築いた軍人や政治家の能力は,幕末から明治にかけて活躍した日本の指導者の資質とはおよそ異なる。
 ここでは指導者の資質の中で,陸奥宗光に見る迅速さを取り上げて紹介したい。陸奥宗光が生きた時代は激動の時代であった。
 日清戦争のころの朝鮮は李朝末期で,清とは君臣関係にあった。当時李朝は,政争と内乱に明け暮れていた時代であった。乱が起きるたびに朝鮮は清に派兵を要請して乱を治めてもらっていた。そのような情勢下では,日本の独立は保てないと当時の日本の指導者たちは考えた。そこで彼らは朝鮮を清から独立させようと考え,これを日本の最高の外交命題としたのである。それゆえ下関講和条約では,その第1条で「朝鮮は自主独立の邦なり」と記した。逆に言えば,これを名分にして清と戦争をしたのであった。
 この条約を下関(馬関)で締結したのが,明治28年4月17日で,法的手続き上必要な天皇の批准を得たのが4月20日であった。ところがいわゆる三国干渉が行なわれたのは,同年4月23日であった。それに対して日本の朝野は,欧州の横暴は絶対許せないと声を挙げた。しかし,陸奥宗光はポピュリストではなかった。当時の国際情勢を怜悧に見つめて「臥薪嘗胆」を訴えた。
 日清戦争当時,大本営は広島にあり,明治天皇をはじめ元勲など指導者の多くが広島にまだいた。仏独露三国の公使が東京の外務省を訪ねて勧告をしたことを受けて,伊藤博文は病気療養中の陸奥宗光外相を兵庫県の舞子に訪ねて対応を話し合った。最終的には,臥薪嘗胆で行くしかないということになった。
 5月に入り明治政府は三国干渉を受諾,天皇批准(詔勅)が5月10日に行われた。つまり三国干渉がなされてから受け入れまでの期間はわずか18日間であった。通信・交通手段の未発達の時代に,これだけの短期間にこれほどの重要課題を迅速に決定したのであった。もしこのような重大事項についての瞬時の判断を間違ったならば,日本はおそらくかなり高い蓋然性で滅亡していたことであろうと思う。
 陸奥宗光の著書『蹇蹇録』の最後には,次のように記されている。
――畢竟我に在ては其進を得べき地に進み其止らざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は當時何人を以て此局に當らしむるも亦決して他策なかりしを信ぜむと欲す。余が嘗て三國干渉概要に於て「此の紛糾錯雑なる外交事局を僅々二週間の間に結了し危機一髪の厄運を将に発せむとするに防ぎ百戦百勝の結果を将に失はむとするに収めたるは一に廟議其機に投じ事の宜きを得たるに職由せずむばあらず。是れ即ち大詔に所謂今に於て大局に顧み寛洪以て事を処するも帝國の光榮と威厳とに於て毀損する所あるを見ずとの聖意を奉體したるに外ならず」と言ひしも亦此が為なり。

 2009年民主党による政権交代が行われたが,その後の外交を見ると何の進展もなく,むしろ日米関係など退歩するような展開であった。陸奥宗光が当時見せたような「迅速性」に全く欠ける外交を現政権がやっているのは残念でならない。民主党が307議席という圧倒的な議席を握るという権力を持ったときが,十年前に交わした日米合意を実現する絶好のチャンスであった。そのときの指導者の失機(逸機)が,現在の混乱をもたらしているわけだ。
 私は以前「海洋の共同体」ということばを使ったことがある。わが国は四方を海に囲まれ,外的に本格的に襲われたことがなかったために,国全体が大きな一つの共同体として歴史的に形成されてきた。ある面でそれは幸せであったかもしれない。しかし,国家としての意識は非常に希薄であった。国家意識は対外的緊張時に,外国からの攻めを受けたときに形成されるものだが,その機会が歴史上ほとんどなかった。
 ある古代史家は,日本が国家の観念に目覚めたのは歴史上2回しかなかったと言っている。一つは,唐・新羅の連合軍が本格的に日本に攻めてこようとした古代律令制の時代。もう一つは,幕末維新のときから今大戦で敗戦するまでの期間である。サンフランシスコ条約後,米国の完全な庇護の下で日本は,経済発展に専念していくことができた。国家の観念が必要な時期に,国家の観念を摩滅させてしまった。それは一面では幸運であったが,他面からいえば不幸であった。
 現代は「新冷戦」にまだ染まっているわけではないが,基本的構図からいえば,「新冷戦時代」が始まりつつあるのではないかと思う。このような時代にあって,国家観念が摩滅された日本の生存空間はどの程度のものであるのか,この点が問われなければならない。今日,わが国が直面する困難な諸問題は,ほとんどがここから発しているからである。
(2012年6月5日)
プロフィール わたなべ・としお
1939年甲府市生まれ。慶応義塾大学卒業,同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授,東京工業大学教授を経て現職。外務省国際協力有識者会議議長。第17期日本学術会議会員。アジア政経学会理事長(元)。山梨総研理事長。JICA国際協力功労賞。外務大臣表彰。正論大賞。『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞),『開発経済学』(大平正芳記念賞),『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞),『神経症の時代』(開高健賞正賞),『新 脱亜論』(文春新書)など。