所有権の誕生と現代における「入会」(コモンズ)の再評価

上智大学法科大学院教授 加藤雅信

<梗概>

 現代社会において所有権は最も基本的概念の一つであるが,所有権という概念がどのようなメカニズムで発生したかについての研究はそれほど多くはない。そこで文化人類学的,実証的アプローチをもとに(土地)所有権のない社会や曖昧な社会をフィールド調査しながら,その根源に迫った。その過程で,いま日本ではほとんど忘れられてしまったような「入会」(コモンズ)を所有権発生のメカニズムの観点から再評価してみた。有限な資源の循環を図る入会権は,資源・環境問題の解釈に有効な視点を提供しているように思う。

はじめに

 法律学,なかでも私が専攻している民法学の領域では,所有権は最も基本的概念とされながら,所有権とは何か,それはどのようにして発生したかについてはほとんど論じられることもなく,所与のものとして扱われている。とくに土地所有権は,国家――というよりは,それ以前の萌芽的存在である,いわゆる「クニ」――の誕生と同時に,その形成過程において生まれてくる概念であり,土地所有権の発生と「クニ」の誕生とは,いわば車の両輪の関係にある。所有権の発生・起源に関する研究は法制史が扱うわけだが,この学問は文献に基づく実証主義を原則とする。ところが,所有権の発生は文献が出現する以前のことであるから,法制史的に検討することはできない。そこで法律学では,所有権があることを前提にして所有権の移転等については議論するが,根源にまで遡って所有権の誕生を検討することはしなかったのである。
 私は所有権概念の発生について,哲学的アプローチではなく,実証的にアプローチしようと考えた。つまり,文化人類学的調査を通じて接近し,土地所有権のない社会,あるいはあいまいな社会を踏査しながら所有権概念発生のメカニズムについて研究をしたのである。
 そこで本稿では,資本投下と生産性の観点から(生産財の)所有権発生のメカニズムを概観しながら,土地の生産性が高くもなく,ゼロでもない中間段階の地帯に発生する入会(コモンズ)について考えるとともに,その現代的な再評価を試みた(なお詳しくは加藤雅信『「所有権」の誕生』三省堂を参照)。

1.土地所有権発生のメカニズム

(1)資本投下と所有権の発生

 土地所有権に限れば,今日の先進諸国でそのような概念がない国はない。ところが,遊牧社会や狩猟採集社会を基盤にする国にはそれがない。例えば,モンゴルを例に挙げてみよう。もちろんモンゴル人民共和国(1924-92年)の時代には,社会主義国家であるから私有制につながる土地所有権がないのは当然であるが,それ以前のモンゴル社会においても土地所有権はみられなかった。また1992年に社会主義体制から転換してモンゴル国になったが,同国の国会では土地所有を認めるべきか否かの大議論になった。土地所有権を認めない人々は,土地所有はモンゴルの伝統的な風土,善良なモラルに反すると主張した。
 なぜ土地所有権は,遊牧社会や狩猟採集社会になくて農業社会にはあるのか。ごく普通の発想から言えば,農業社会で農業を行なう場合には,苗を植える,草取りをする,水を引くなどの作業がある。こうした農業投資の成果である収穫物が秋になって誰かの手に渡ってしまうとなれば,汗水たらして働こうとはしない。その人を保護する必要が出てくる。その人を保護し農業投資を促すためにはどうすればよいか。個々の農業のための資本投下をする人に土地所有権という概念を与え,「土地からの収穫物はあなたに帰しますよ」とすれば,インセンティブが与えられて一生懸命働くだろう。たくさんの人が農業投資をするように保護するとコミュニティー全体の生産量も増える。農業投資をする個人を保護し,コミュニティ全体の農業生産の極大化を図る。これが土地所有権発生のしくみである。 
 遊牧社会は自然に自生する植生を動物に食べさせるが種まきはしない。遊牧社会では,労務投下を伴わないような自然草原で遊牧しているかぎり,別段土地の私有を観念する必要は生じない。むしろ遊牧社会にあって土地の所有を観念することは,社会構成員の自由放牧の阻害要因となるであろう。
狩猟採集社会においても,基本的には遊牧社会における土地所有概念欠如の状況と同じ状況が存在する。狩猟も採集も同様に自然の動植物を利用するだけで基本的に資本投下をしない。そうなると土地に対する資本投下を考える必要がなく,遊牧社会や狩猟採集社会には土地所有権が発生しない。
 それでは,そういうところで所有権を考える必要はないのか。そうではない。遊牧社会でも,家畜の子の飼育など家畜に対する労務・資本投下は行なわれるので,家畜に対する所有権を認めないと家畜の世話をする人がいなくなってしまう。こうした社会では,家畜上の所有権を認めて第一次的には個別の遊牧業従事者を保護し,マクロ的には当該社会の遊牧生産量の極大化をはかることになる。つまり,ここでの権利の観念は,土地に向うのではなく家畜に向うのである。
例えば,イヌイット社会では,昔は槍を使ってセイウチなどの大型海獣を捕獲していた。大型海獣との戦いでは,万が一のときは自分の身にも危険が襲ってくる。そういう危険な状況の中で,一番槍を立てる人,二番槍を立てる人,三番槍を立てる人,・・・それぞれの危険度に応じて動物のいい部位がもらえるかが決まってくる。そうなると危険を冒してでも海獣の捕獲に積極的に取り組むようになり,イヌイット社会での収穫物の増大につながる。
 資本投下の点でもっと興味深い事例として,アフリカの狩猟採集民族の「騎馬猟」というやり方がある。何日にも亘って馬に乗って獲物を追い詰めていくと,獲物はくたくたになってしまうのでそれを捕獲する。そのとき捕獲物は誰のものか。実は馬に乗って狩をした人の所有ではなく,馬の所有者のものとなる。獲物を捕獲するために最も資本投下をしたのは,労務として獲物を追った人ではなく,その社会において非常に高価な馬を所有する人なのである。資本投下者を保護することは,その社会の生産量を増加させるための基本的発想なのである。
 近代社会になり工業が盛んになると,工業を発展させるためには発明・発見を促し,技術を不断に革新していく必要がある。発明は天才のような人がやる場合もあるが,普通は研究開発投資を行い,頭脳明晰な人材を集めて行なう。その結果として新技術が創生される。それを別の人に真似されて持っていかれては,わざわざ投資して技術開発をする人はいなくなる。そこで工業社会では工業生産を発展させるために,発明・技術開発をした人に特許権などの知的所有権を与える。開発した内容について一定期間独占的に利益が確保できるような措置をとれば,多くの人が競って技術開発に取り組むようになる。
 昔の農業社会において土地所有権が発生したこと,近代社会において知的所有権が発生したこと,どちらも個人の私欲を刺激し,個別の資本投下者を保護することによって,その社会全体の生産量の極大化を図ろうとしたのである。このように生産財に関する所有権の機能は,その生産財に対する資本投下を保護し,資本投下にインセンティブを与えることによって,資本投下者個人を保護するとともに,社会全体の生産力の増強をはかることにあった。これが所有権発生の基本構図である。

(2)消費財所有権発生のしくみ

 これまで言及した土地所有権,知的所有権のどちらもモノを作るための財産(生産財)である。ただ所有権の問題は,生産財だけではなく消費財にも関係している。これまでの論理は,消費財所有権についての分析に対しては十分ではない。ネパールのラウテ族居住地の権利という形で非生産財の分析も試みてきたが,力点が若干違っていた。そこで現在は,消費財の所有権の分析に取り組んでいる。
 消費財所有権の問題で最も重要な内容は食べ物である。食べ物が生産された後,それがどのような形で所有権とからんでくるのか。食べ物は人間だけではなく,動物も食べる。例えば,イヌの群の中に肉片を投げ込むと,強いイヌが独占する。ニホンザルの場合は,序列順位の上のサルがまず取るようであるが,最初にエサをとったサルが弱いメスザルあるいは子どもザルであったときに,強いサルもそれを奪うことができない。誰かが先にエサを握ってしまったら後からはそれを奪えない。また,チンパンジーの場合は,エサをとった後に分配行動に出る。分配では,分配される側も自分から奪ってはいけない。このように所有から分配が始まる。霊長類の場合は,先に握った者に所有の権利が発生する。
 この行動パターンは,実は人間の幼児と類似している。幼児が最初におもちゃをつかむとそこに優先権が生じる。このような先占による所有という発想は,霊長類や人間の幼児に見られる。
 先に述べた生産財の所有権は,社会の発展のための構図であったが,先占を契機に所有を認める権利関係は,争いごとを避けるためのしくみと考えられる。つまり後者は世の中の秩序を保つために先占した者を保護し,平和を保つという機能をもつ。所有権にはこの二つの側面がある。

2.入会権とその現代的意義

(1)資本投下と生産性の観点から見た入会権

 土地所有権のない遊牧社会であるモンゴルの調査の後,ヒマラヤの高山地域に位置するネパールを訪ねた。ネパールは基本的に農業国であるが,高度4000メートルくらいになると耕作限界となっている。そこでこの国の土地保有の権利関係を調べてみた。
 その結果,高度の低いところは耕作地に石囲いがなされ私的所有権の確立が見られ,4000メートルよりかなり上の高山地域で利用していない土地は無人の地域であった(かつては無主物であったろうが,現在は国有地)。ところがその中間に,村落構成員以外の利用を排除するが,村落の構成員は誰が使ってもいいという共同放牧地が必ず存在した。
この事情はブータンなどヒマラヤ山岳地帯に共通する内容であった。その他の地域も含めて調べてみると,低地における耕作地,高地における共同体的放牧地,更に高地の無人地帯という三段階構造は,ヒマラヤ地域を越えて普遍的に存在するように思われる。これは高度による差異というよりは,土地の生産性の高さに応じて発生していると考えられる。
 農耕をやると必ず所有権が発生するかというと,実はそうではない。モンゴルなどに行くと,雨水だけを利用して農耕を行なう人々がいるが,そこには土地所有権は発生しない。日本では,アイヌは漁撈を主とする狩猟採集民族だが,彼らも若干は農耕を行なっている。例えば,コタンの一画に畝を作って耕すが,耕したところは他の人は使うことができない。しかしその畝が消えたら誰が使っても構わない。
 農業投資の観点からすると,投資量の少ない形態の農業として焼畑農業がある。乾季が始まるときに森林・原野・畑などに火をつけて燃やすと雑草の種も焼けて肥やしになる。大きな木の幹は火によって焼け焦げるのだが,再び芽を出してくる。このようなプロセスを経るのでそれほど投資をしない。そして何年か農耕を繰り返すと地力が衰えるので別の所に移動する。しかし,いくつもの箇所をまわって一定の年が経つと元のところに戻ってくる。これが焼畑の循環である。焼畑の循環地に土地所有権があるか。はっきりした土地所有権を認めるまでの必要もないが,全く認めないわけにもいかない。焼畑は常に入会とは限らないが,入会地と焼畑が重なるところも多い。実際にも,焼畑の土地所有は個人所有ではなく,村の所有,一族所有など集団所有のケースが多い。
 入会について説明すれば,次のようになる。
 入会団体たる村落共同体の構成員がそれぞれに私的独占的利用を主張するほどには土地の生産性が高くなく,しかし全体的利用価値は一定程度存在するので,土地の再生産のサイクルを確保し,過大利用による土地の困窮化を避けるべく,入会団体としての村落共同体の管理下におかれ,他の村落共同体ないしそこの構成員に対しては利用を排除する,という意味での排除性を確保する必要性があるような土地が「入会地」であり,その利用に対応した権利構成が「入会権」である。
 以上をまとめると図3のようになるだろう。
 土地の利用状態をその生産性の高い順に並べると,①私的所有地,②入会的共同利用地,③権利意識を伴わない,利用頻度の低い共同利用地ないし利用されない荒地という図式になる。生産財所有については,資本投下とその成果の確保のために「権利」概念が発生するという命題に即して言えば,次のようになる。まず,生産性の高い土地は,歴史的に農耕の用に供されてきたのであり,耕作・施肥・灌漑等の労務その他の資本投下が行なわれる畑や水田については――社会主義体制がとられない限り――私有制が敷かれており,法的には私的所有権が発生する。
 それに対して土地の生産性がそれほど高くはなく,土地に対する投資が経済的には意味をもたないが,過大利用が土地の再生産のサイクルを妨げ,その困窮化を招くような場合には,入会団体その他によって,内部的には団体構成員に対する利用規制がなされ,外部的には団体構成員以外の者に対する利用排除が行なわれることになる。ここでは私的独占ではなく,共同体的独占が執り行われている。さらに土地の生産力が低く,団体によって土地の利用規制をするだけのコストを土地の生産力が下回るような場合には,その土地は荒地,沙漠として所有権やその他の権利概念の観念されない,遊牧や狩猟採集の世界となる。

(2)資源の循環を図る入会

 入会地については農業がよく引き合いに出されるが,最も典型的なものとしては漁業入会をあげることができる。漁業の場合,昆布や魚にしてもある時期になってみんなが一度に採り始めると資源が枯渇してしまいかねない。そこで漁業入会を設定し,参加できる人,解禁日や採取期間,採取条件などを決めて制限する。そうすることによって翌年のために資源を保護し循環させることができる。
 原理的に言えば,漁業資源が枯渇しないかぎり自由漁業という社会制度は維持することができる。しかしわが国の地先海面その他に見られるように,漁業主体が多くその結果漁獲が過大であれば漁業資源の再生産サイクルが維持されなくなる恐れがあるために,漁業主体の制限や漁業利用の規制を図ることが必要になる。これが漁業入会権の発生のメカニズムである。
ところが近年のように,漁獲技術が発達してくると遠洋漁業といえども,魚類の再生産の量を上回る捕獲をすることも可能となるために資源の枯渇が憂慮される事態となった。クジラの捕獲に対する規制はその例である。捕鯨禁止がなされる前に,一時期,自由捕鯨ではなく,南氷洋のクジラに捕獲の量的制限を設定した時期があったが,これは南氷洋を漁場とする巨大な世界的レベルでの入会権の設定とみることができる。マグロなども同様である。漁業技術の発達により資源の再生産を上回る技術をもったために,資源保護ために入会的に規制するか,完全に禁止するという方法を取ることになる。
 大気汚染も同様である。自然の浄化力が人間の汚染する速度よりも上回っていたときは問題なかったが,それが逆転したときに地球の大気汚染が地球レベルで問題視され始めた。そこで二酸化炭素排出量の規制などを議論するようになった。これはまさに入会的発想である。資源・環境問題解決へのアプローチは,構造的に見れば入会権的な発想といえる。
 資源の循環を図るのが入会の目的である。その対象物はみな自然の産物である。土地に関していうと,地味が豊かで耕し肥料をやれば豊かに農産物を生産できるところは,土地所有権の対象となる。しかし耕してもたいした生産物ができないが,薪や牛馬の飼料となる草が取れるならば,それらが枯渇しない程度に翌年に向けて制限管理しておく必要がある。入会は過大利用となるので最後は疲弊するともいわれる(ギャレット・ハーディン「コモンズの悲劇」1968年。なお入会権のことを最近では「コモンズ(commons)」ということが多いようだ)。しかし疲弊しない程度に利用していく智恵を人類は古代からもっていた。それがまさに入会権の起源であった。
 入会という言葉で呼ぼうが呼ぶまいが,入会権は一つの社会的必要性から必然的に生じた人類の叡智だったのであり,現在でも同じような必要性が生じた場合には,別の名前をまとって出現するだろうと思う。

(3)人間の欲望と社会制度

 土地について日本でも古代より班田収受の法のような,「公地公民」という考え方があった。それにしたがって男女に土地を均等に割り当てた。これは一見平等に見えるが,与えられた土地が,川に近いところ,山に近いところ,平野など,その地理環境条件によっては,同じ面積が与えられたとしても土地の生産性については平等とはいえない。そこで「土地の割り替え制」が生まれた。例えば,土地A・B・C・Dとあった場合に,それぞれの土地所有者が何年かごとに循環していく制度だ。そうすることによって土地の地理環境条件の不平等さを平均化することができるという考え方である。
 沖縄には長い間この考え方に基づく慣習があった。ただしこれには問題もあった。例えば,5年間使う場合に,最初の何年かは熱心に土地に肥料を施したりするのだが,最後の頃になると人に渡すからという動機で肥料をやらなくなり,結果として土地の疲弊化が進んでしまった。このように公共財の発想は,私欲を刺激することと逆のベクトルが働くことも事実だ。つまり,かつてのソ連や中国などの社会主義的農業の失敗を思い起こせばわかる。中国は人民公社のやり方では一生懸命働かないので,農民に自留地を与え,余剰農産物の処分の自由を与えてインセンティブを高めたのであった。
 人間は人のためにやろうという心もあるのだが,一般には,自分のためという動機が人のための動機よりは大きい。このような現実を見据えて社会制度を整えていくことが,所有権概念の基礎にある。

3.現代社会における入会権

(1)入会権の消滅

 伝統的な農業入会のもつ意味は,現代においてはむしろマイナス要因として作用している。農村入会の代表的なものとしては,燃料としての薪や,下生えの利用等の牛馬の飼料が中心であったが,昭和30年代の燃料革命以降は里山の木を利用する人がいなくなり,牛馬の代わりに耕運機などの農業機械が導入された。人が利用しなくなった結果,里山が放置されるようになった。そのような土地を,例えば,スキーのゲレンデ開発,ダム建設など,新たに使う場合,入会権に関する権利関係が変わってくる。
 従来は,「離村者失権の原則」であった。村を離れて大都市に行ってしまった人は,里山の木の利用や牛馬のための草利用ができなくても,特に文句を言わなかった。ところが,スキーのゲレンデ開発やダム建設となると,その買収による金銭取得がおこる。そうなると都会に出て行った人も急に関心を示すようになり,自己の権利を主張し始める。つまり入会権の入会的利用が消滅したときの,入会権の本来的性質といわれた離村者失権の原則は,薪でも草木でも都会人等には意味がないのであまり問題にならなかったが,巨額の金銭を生むようになると,この原則は崩壊していく。
 入会の利用は共同利用が典型であるが,「割り地利用」という個別利用の方法もある。それはある一定の土地を借りて年間に一定額の利用料を払うという方法である。どこかの会社に山を貸し出しするという賃貸型もある。それらの収益は村全体のために使うが,その土地の利用価値が減っていくと,土地の権利を放棄し,借りる人もいなくなることにつながる。ただ裁判所はそのような土地に対しても一般的に入会権を認める傾向がある。それは入会権の研究者は「入会権の消滅」をなかなか認めたがらないためである。
 入会権には,共有の性質を有するものと(民法263条),地役権の性質を有するもの(民法294条)があり,入会的利用がなくなると,後者は消滅するが,前者は単純な共有となる。ただ裁判所はそれをなかなか認めたがらない。その結果,例えば,ダム建設によって水没する土地について,その所有者の家族・親族が死亡したり,ばらばらになってしまってどこにいるか分からない。そうなると権利金の支払いができなくなるなど非常に複雑になっていく。入会としての実態がなくなったときには,現実を直視して,入会権が消滅したと考えなければならない。

(2)新しい取り組み「人役権」

 新たな農業振興に向けた農地の集約化を進めるに際して,農地の所有権,山林所有権,入会権が阻害要因になっているとの言説がよく聞かれる。いま民法改正の作業が行なわれているが,その中で私たちのグループでは,新しい制度を提案している。
 その一つが「人役権」である。この考え方は,限界集落救済,新規大規模土地開発などに応用できると思う。民法改正試案では次のような規定を設けている。

第212条(人役権)
法律の規定に従い,他人の土地を自己の便益に供する権利を設定した者の権利行使については,(新)第201条(地役権の付従性)を除くほか,この章の規定を準用する。

 例えば,限界集落と呼ばれるような過疎地の山林をNPOなどが管理する場合に,先祖伝来の地であるのでその所有者は山林を手放すことはしない。しかし一定期間についてその管理をNPOに任せて山林の管理を行い,期間が終了したら戻してもらうという契約をする。これを「人役権」(山野目章夫)という。人役権は一つの私権であるが,所有権を手放したくない中で調整を図る新しい考え方である。
 また,現在は開発されていない広大な土地で,一定の雰囲気の街並みをそろえた,高級感あるニュータウンを開発する場合,開発会社ないし管理会社はその土地全体に人役権を設定し,分譲土地の使用方法を一定程度規制した人役権をつけて売り出す。そうするとその人役権の内容に即して,ある種の調和のとれた街並みの開発ができ,それを維持することが可能となる。これによって過疎地にも適用でき,新しいビジネスモデルとしても活用できる。

(3)知的所有権と国益・公共益

 土地所有権は永遠に続くが,工業社会の発展のために知的所有権がつくられた。テクノロジーの権利を独占することによって,新規テクノロジーの開発意欲が高まり,新テクノロジーが普及すれば社会全体が発展する。そのために知的所有権を観念しようという考えが出てくる。
 これは期間を限定して,一定期間,権利者に利益を独占させるものだが,特許権と比べると著作権は保護期間が長い。新テクノロジーを開発した人は,権利の保護期間が長くければ長いほど多くの利益が得られるのでいいわけだ。ソフトウェアは知的所有権のひとつだが,米国はソフトウェア開発の最先端にあるために,著作権としてできるだけ長く保護したいと考えた。これに抵抗したのがかつての通産省であった。つまり特許権と同じようなプログラム権法のような形で保護期間を短くしようとした。日本でもソフトウェアの開発をやっているが,米国ほどではない。そこで米国に長期間にわたって保護されると日本としては不利益をこうむるから困ると国益重視の立場から考えたのである。一方,日本の文化庁は,省益を優先して考えて米国同様に著作権に入れたいと考えた。結局,力の関係と国論の分裂で日本は米国に負けてしまったわけだが,その背景には日本国内で国益を重視した通産省と自己の省益を重視した文化庁の角逐があった。
 いずれにしても,IT技術を普及させるためには,新技術開発のための新規投資をした人を保護しなければならないので,ソフトウェアを知的財産として保護しようという考え方それ自体はまっとうな発想であるが,保護態様にはいろいろな考えがありえたのである。
 最近では,公共財の発想に基づくものも現れている。例えば,インターネットフリー百科事典「ウィキペディア」にはみんなが書き込むことができるわけだが,そこには著作料の支払いはない。それによって人類全体の知的水準が高まり,多くの人が容易に知にアクセスできるようになった。何か事業をやるときには,儲けを優先したい人と,それほどでもない人がいる。「ウィキペディア」を始めた人は後者の部類だろう。

(2012年6月14日)