持続可能な社会のライフスタイルとは?
―ネイチャー・テクノロジーによる生命文明の創出

東北大学大学院教授 石田秀輝

<要旨>

 2011年3月11日の東日本大震災は,多くの日本人にさまざまな面で目を覚まさせるできごとであった。とくに福島原発事故はわれわれにエネルギー問題をはじめ地下資源に依存する近代型テクノロジーによる拡大一辺倒の社会のあり方を反省させた。こうしたできごとがなくても早晩,有限な地球環境の限界に近づくことが予測される中,今こそ近代型テクノロジーのしくみを淘汰して,自然をベースにした新しいライフスタイルに基づく持続可能な社会構築に向けて日本が本領を発揮していくときだと思う。その技術的基礎が,まさにネイチャー・テクノロジーである。

<はじめに>

 私は数年前に現した著書『自然に学ぶ粋なテクノロジー』(2009)の中で「生物多様性の劣化,エネルギー・資源の枯渇,地球温暖化など,すべてのリスクが2030年ごろに収束し,危機的状況を迎えることになる。・・・2030年ごろまでが勝負のようである」と書いたが,東日本大震災後の日本の状況を見るにつけ,そのとき指摘したことが目の前で起きた,予測した内容を20年早く見た(デジャビュ=既視感)という印象であった。この震災を契機に地球環境の劣化を克服する道を,日本が世界に対して先駆けて示していかなければならないという強い思いを抱いた。
 上記の書を出したとき,専門家から(危惧し過ぎだと)おしかりを受けたほどであった。しかし,今回の大震災をきっかけに,今の地球環境は2030年どころかそれまでも持たないのではないかと危機感を抱く人が増えたようだ。
 「今年は異常気象だ」と毎年繰り返し言い続けているうちに十数年が経ってしまった。十数年前と比べてとんでもないことが現在起きているのに,まるで「ゆでガエル」のように全く気がついていない。残された時間はわずかである。今のテクノロジーのままでやってゆけば,確実に文明崩壊につながってしまう。今求められているのは,生きることを楽しみ,ワクワクドキドキしながら心豊かに暮らすことができる新しい文明創出に必要な,新たなテクノロジー観を定立することだ。それが現代の技術者としての役割だと思う。
 そこで本稿では,近代産業革命以来続いてきた地下資源型文明の発想から転換して,自然の恵みを生かした生命文明創出に向けた新しいテクノロジー観について紹介したい。

1.新しいテクノロジー観とは

(1)地下資源型文明の基礎となった近代型テクノロジー
 テクノロジーは人類に多くの夢をかなえてくれた。テクノロジーのお蔭で,人々は多くの労苦から解放され,たくさんの利便性がもたらされた。テクノロジーがつくり出した多くの作品は地上を走り,空を飛び,地球の反対側の人たちとも対話ができる世界を作り上げた。その一方で,世界を小さくし,時間の流れを加速させ,より多くの格差を生み出した。
 毎月のように新製品が発表される携帯電話やコンピュータ・・・。あふれんばかりの最先端テクノロジーの中に生きながら,われわれは真の豊かさを実感しているだろうか。いくら飲んでも渇きが癒されないような,そんなもどかしさを感じているのではないか。
 大量のモノに囲まれた生活の中で,われわれの夢は物欲に変わり,飽くことのない消費は地球環境に深刻な影響を与えるほどになった。もちろんテクノロジーが悪いわけではない。テクノロジーは,単に人間の際限ない欲望につき合わされ,暴走する文明を作り出してしまったに過ぎない。
 このように際限のない物欲とそれを支えるテクノロジーの肥大化が人間活動の肥大化を加速させ,資源・エネルギーの枯渇,生物多様性の劣化,水や食糧の不足などのリスクを生み出した。
 地下資源型文明を支えてきた近代型テクノロジーは,自然支配を基盤とした産業革命以来のテクノロジー観であった。自然の循環と決別して自然の上に人間の王国を築いて生きることを見事に表現したのがデカルトやベーコンであった。このテクノロジーにおける自然観の欠如が,近代型テクノロジーの暴走を許したのである。
 その典型的な最近の例が,エコ商品である。「環境にやさしい」といってエコ製品をどんどん生産し,その消費をあおった結果,地球環境問題が却って拡大している。例えば,今の冷蔵庫は20年前の20%のエネルギーで動く。古い冷蔵庫に替えてそんな高効率の製品が売れると,家庭内のエネルギー消費はどんどん増加する一方だ。またエネルギー・ゼロ住宅に住む人は,いくら使ってもゼロだと思っているから,実は最もエネルギーを消費している。エコ商品なら(環境にやさしいから)どんどん買っても問題ないという発想だ。しかしそれは確実に環境負荷につながっている。
 もちろん,経済成長,資本主義が悪いわけではない。近代経済学の父と言われるアダム・スミスは,『国富論』(1776年)を出す前に『道徳情操論』(1759年)を著し,人間相互が互いに気づかい合うという信頼の上に競争を成立させなければならないことを説いた。しかし,現代の(強欲)金融資本主義は,その土台を完全に無視した資本主義になってしまった。
 今度の震災復興についても,そういう観念から抜け切れない政府は,「復興」の努力ではなく「復旧」の努力に変わってしまった。復旧こそが真のソリューションだと信じている。その発想は,物質消費=経済成長という地下資源型文明の足場から抜け切れていない。私の主張は,経済成長を否定するのではなく,その足場を変えようということである。豊かになることはいいことだが,単に我慢して実現するのでもなく,従来の方法で実現するのでもなく,足場を変えて新しい豊かさの概念を作り上げて進める。そのためにネイチャー・テクノロジーを追求するのである。

(2)自然をベースとしたテクノロジー観
 それでは,足場を変えてものを考えるとはどのようなことか。
 これまでわれわれは,環境要因と経済成長(豊かさの追求)を別個のものとして考え,両者を相対立する要因として取り扱ってきた。そしてその二つの山の重なりの部分を「エコ」と称してその努力をしているわけだが,その発想は,依然として地下資源型文明の発想でしかない(部分最適)。そうではなく全体最適として考えることが発想の転換であり,それこそが重要なのだ。そのような過去の文明の鎖から解き放たれなければならない。
 限られた地球の中で70億人類の豊かさを実現するための生命文明という新しいテクノロジー観は,実は46億年の地球史の中で完璧な循環をつくりあげた自然の中に隠されている。自然から学ぶことには,大きく二つある。
 一つは,完璧な循環を最も小さなエネルギーで駆動する自然である。それはきわめてシンプルで驚くべきメカニズムに支えられていると同時に,地球にないものをつくり続けてきた近代型テクノロジーとは対極にある。そのような自然の凄さを賢く生かすテクノロジーに改めてスポットライトを当てる必要がある。
 もう一つは,自然のもつ倫理観である。お腹を空かせたカマキリがいても隣のカマキリがそれを満たしてくれはしない。虫たちの世界では,欲が満たされないことの当然の帰結として淘汰が起こっている。そして個としては利己的であっても完璧な循環をつくり上げ,総体としては利他的な構造を自然がもっているからである。一方,人間は利己的であるがゆえに文明崩壊に向って全速力で進んでいる。それは人間がテクノロジーを道具として淘汰を避け,自然を消耗させてしまったからだ。
 われわれは1992年リオの地球サミット以来,持続可能性を一生懸命追求して来たのだが,現実には理想を求めれば求めるほど理想から乖離してしまった。なぜ乖離してしまったのかについて,根源的に議論する人がいないし,しっかりと追求する人もいない。そこで自然の前に頭を垂れてもう一度考えてみよう。自然のメカニズムやシステムだけではなく,社会性についても,もう一度原点から学びなおさなければならないというのが,私の発想の出発点であった。
 テクノロジーについていえば,人間は産業革命以来,自然と決別したテクノロジーをつくる努力をしてきた。その結果,物欲をあおるテクノロジーが生まれ,それが今の地球環境問題を作り上げた。ならば自然と決別しないテクノロジーは物欲をあおらないのか。精神欲をあおって物欲をあおらないことが証明できれば,自然をベースにしたテクノロジー(ネイチャー・テクノロジー,詳しくは石田著『地球が教える奇跡の技術』を参照)の価値観が出てくる。
 その一つのヒントが,江戸時代の“産業革命”である。産業革命の定義を「テクノロジーが庶民のものになる」とすれば,江戸時代の産業革命は英国より50~100年早かったといえる。例えば,からくり,金魚の品種改良などのテクノロジーは日本中にカタログ販売されながらも,大量生産,大量消費には結びつかなかった。それはみな“遊び”(エンターテインメント)に行きついた。その究極が「粋」(意気)という概念である。
 それでは英国の産業革命との違いは何か。その一つは,英国の産業革命は自然との決別によって成功したが,日本は自然観を捨てなかったことである。日本はその自然観を現代でも捨てていない。西洋では天上に神がいて,地上にはモノしかない。一方日本の自然観は,地上に神とモノが同居する世界,神とモノが合体して一つのモノの中に宿っているという概念で,それが「精神欲」をあおるのである。そのため産業革命が大量生産,大量消費に向わなかったと考えている。
 過去20年余りを振り返ってみたときに,環境に関するテクノロジーで欧米から出たものは一つもない。もちろん環境問題を牛耳るためのルールは欧米でたくさんつくられたが,テクノロジーとなると何もない。環境問題に関するテクノロジーのほとんどが日本発という現実がある。結論として,新しい概念のテクノロジーを日本が創り出せなかったならば,世界は終わりだと言っても過言ではない。

(3)四つの淘汰
 生物が利己的でありながらも総体としての自然が完璧な循環を維持できているのは,淘汰の原理が働いているからである。利己的人間はテクノロジーを道具として使用し淘汰を避けたがゆえに文明崩壊に向って突き進んでいる。それを避けるためには,人間も自ら淘汰を起こす必要がある。もちろん人として生きることを楽しむという前提を残してである。そこから生み出される文明は,環境的制約の中にありながらも生きることを楽しむ,豊かなライフスタイルであり,従来の発散型ライフスタイルでは決してない。そのためには次の4つの淘汰が必要になる。
①第1の淘汰:「非最適化テクノロジーの淘汰」
 まず,われわれの物欲だけであらゆるものを満足させようという考え方を淘汰しなければならない。機能だけを追求するテクノロジーから,環境を基盤とした機能追求型テクノロジーへの淘汰である。これはすでに,「エコ」という形で進行中である。エコ家電,エコ・カー,エコ住宅など,あらゆるものが「エコ」となり,「エコ」でなければ売れない時代となった。大量生産,大量消費の時代からは決別できてはいないが,より低環境負荷へという意識は確実に広がっている。しかし,何かと何かを置き換えていくのがエコの段階で,ここに限界がある。
②第2の淘汰:「最適化テクノロジーの淘汰」
 あらゆるものがエコとなったとしても,地下資源型文明の恩恵にどっぷり浸かっていることには変わりない。そこで第2段階では,エコ・テクノロジーすらも捨てる。捨てられない利便性であれ,その優先順位によって何を捨てるかが決まってくる。より利便性を担保しなければならないものだけを残して,一つずつ捨てるのである。
 この徴候は日本でも既に見られる。日本では先進国で初めて国内の車の台数が減少に転じた。エコ・カーへの移行とともに,カー・シェアリングなど車そのものを手放す行為が始まっている。車を持つことのステータスの時代は終わり,それに代わる多くのおしゃれなアイディアが生まれ始めた。電動アシストを含む自転車,1万円近くもする箒が売れるのも,その一例と言えよう。
エコ商品だとしても,なくてもいいと思うものは自分が直接関与することによって「素敵なもの」に変えていこうという発想だ。例えば,エコの掃除機よりも箒の方が楽しい。何でも電子レンジで料理するよりも,みんなで一緒に素材から料理をつくる方が楽しい。このようなステップに行く。これがモノからコトに行く一歩手前だ。物欲をあおるところを超えて,ちょっと精神欲をあおりかかっている。
③第3の淘汰:「行為の淘汰」
 地下資源型文明を基盤にした従来のテクノロジーの延長ではなく,生命文明を基盤にした新しいテクノロジーによる「モノ」から「コト」への転換である。
 第2段階までは,従来のテクノロジーを使った徹底した省資源,省エネ技術が可能にしてくれるが,第3段階はそれではうまくいかず,トランス・テクノロジー(移管テクノロジー)の世界である。従来のテクノロジーを使いながらも,生命文明創出へ近づいていくというプロセスとなるだろう。
 例を挙げると,エアコンを使わずに,エアコン機能である温度や湿度の調節を,無電源で床や壁・天井がやってくれる「無電源エアコン」のようなネイチャー・テクノロジーである。また資源に関しては,「都市鉱山」がある。
 ネイチャー・テクノロジーは,単にエアコンの機能を他のものに置き換えることにとどまらず,自然を手本とした発散型ではない超省資源,省エネ・テクノロジーである。誰でもそのテクノロジーを理解でき,そのテクノロジーを使いこなすことに「参加」でき,その結果としてそれに「愛着」をもち,それがきっかけとなり「新たなコミュニケーション」が生まれる。このようにネイチャー・テクノロジーは「自然」「コミュニケーション」「愛着」「簡明」の要素をもつ「粋」(意気)なテクノロジーであり,テクノロジーそのものが精神欲をあおる新しい概念なのである。
④第4の淘汰:「ライフスタイルの淘汰」
 ネイチャー・テクノロジーを組み合わせながら,自然や太陽の恵みを可能な限り活かし,生きることを楽しみながら,循環型社会の創出につなげていく。これこそが,地下資源型文明から生命文明創出へのドアを開けることになるのである。
 ところで,「循環型社会」と「持続可能な社会」を同じものと考えている人が意外に多いが,実は全く違う。循環型社会とは,インプット(エネルギー,資源)を減らすことでアウトプット(廃棄物,排気ガス)が減り全体が循環する仕組みのことで,地球のことを考えたものづくり社会ともいえる。1990年代に流行ったリサイクルは,新たにインプットから大量のエネルギーを供給して新しいものに作り変えているだけであった。しかしその後単なるアウトプット管理からインプット管理の必要性が認識されるようになった。
一方,持続可能な社会とは,それにもう一つのファクター,人のことを考えたものづくり(人の欲を満足させることを肯定)も視野に入れ,両者が同時に成立し調和したときに,持続可能な社会となる。これは豊かで環境負荷も低い社会である。
 循環型社会だけを考えるならば,極端な話,ものづくりをせずに配給制にする方法や我慢する方法もあり,ものづくりは不要で企業は要らなくなる。しかし人間が生活する以上,そういうわけにはいかない。
 なぜモノをつくるのか。それは人の欲を満足させるためだ。企業の役割は人の欲望を満足させることであり,それが豊かさにつながる。しかし人の欲だけを満足させると,物欲だけがあおられ,地球への負荷が大きくなる。人の欲を満足させることと,循環型社会を同時に成立させるという新しい概念は,従来の延長的発想からは出てこない。足場を変えて,豊かさの価値観,概念を変えなければならない。そのときのポイントが精神欲である。
 その次が,ライフスタイルを変える段階。例えば,毎日風呂に入ることを我慢するのではなく,「風呂に入る」ことを違う形で表現する。環境と豊かさという二つの山があるときには,風呂に1回入ると200リットルの水と,それを沸かすためのエネルギーが必要だ。しかし2030年にそのエネルギーが不足するのであれば,入る回数を減らしたり,入る代わりに体を拭くというように我慢するのではなく,そういう制約条件の中でも豊かさを追求すると何が見えてくるか。そこで水不要の風呂(例:泡の風呂)に毎日入ればいいという発想が出てくる。これが足場を変えるということだ。
 震災のときも同様のことをやってみた。避難所で「(不要な)電気を消して」と何度言っても,子どもたちはなかなかやらない。それは我慢になるからだ。しかし「この灯りは要るのかな?」という言葉を掛けると,たちまち子どもたちは自分で考えて次々と(不要な)電気を消し始める。それは楽しいからやるのだ。
 楽しさがないと人生をやってられない。同じことをするにしても,制約の中の豊かさという発想をすると楽しみとして取り組むことが可能だ。このような楽しみと豊かさを絶対捨てない発想の転換が,モノからコトへの転換という新しい概念である。

2.新しいライフスタイルの社会を構想する

(1)自然を求める人間の本性
 第4の淘汰を実現するためには,これまでの延長線上に考える(フォアキャスティングforecasting=今日を原点として将来を展望するやり方)のではなく,新しい方法で構想する必要がある。われわれは「バックキャスティングbackcasting」という手法を使ってそれを試みた。その主なプロセスは次の通り。
①例えば,2030年の時点に立って制約因子の中で安全・安心・快適な暮らしのシーン(ライフスタイル)を考えたくさん書き出す。
②暮らしのシーンを構成するテクノロジーの要素を抽出。
③2030年に必要なテクノロジーを自然の循環の中から見つけ出す。
④地球に最も負荷のかからないテクノロジーとしてリ・デザインする。
 その過程で,抽出された一つひとつの将来のライフスタイルについて,多くの人に「好きか?嫌か?」と社会重要性を尋ねてみた。その結果,この調査を通じて人々に共通する評価指標を引き出すことができた。その評価指標を見ると,一番強いのは「利便性」(22%)で,次が「自然」(20%),三番目が「楽しみ」(19%)であった。
 この結果を見てうれしかったのは,一般に多くの人は利便性を圧倒的に求めていると予想していたが,それと同じ強度で自然や楽しみを求めていたという事実である。自然を基盤とするテクノロジーとライフスタイルにおいて自然を求めることで一致した。これによってわれわれは,将来を照射したときにネイチャー・テクノロジーの概念をもっと強く出してもいいという自信を持つことができた。
 さらにこの「楽しみ」や「自然」を求める構造が解明されれば,われわれはもっといいライフスタイルと,それに必要なテクノロジーが更に明快になっていく。今それを研究している。現在,東北地方での90歳の方々への聞き取り調査が終わり,次に四国・九州に足を伸ばし,今夏から米国サンフランシスコ,今秋から欧州に足を伸ばす予定である。人々のもつ自然観,自然への意識を調べるつもりだ。
 「楽しみ」にしても,従来の「楽しみ」の概念とは違った「楽しみ」があるのではないか。現在90歳代の人たちは,「今は便利になったけど,昔の方が楽しかった」と回顧することが多い。その「楽しみ」とは何か。彼らは今が便利になったことを理解しながらも,「昔の方が楽しい」というときの「楽しみ」は,われわれが(本性的に)求めようとしている楽しみと大きくずれていないと考えている。
 仮説的には,「自然に生かされていることを知りながら,自然を活かす,自然をいなす(自然と闘わない)」,そういう楽しみを望んでいるのではないか。単に森の中に行くというような自然を求めているのではなく,変化する自然,自然の素材をうまく使って,その中で自分の楽しみを作り出すというような楽しみである。そこで私も試験的に研究室という閉鎖された個室をやめて大部屋に移動し,すだれで仕切った空間をつくってみた。従来の概念で生きる人には違和感があるようだが,大衆的には違和感というよりは,楽しいと表現する人の方が多い。
 自然との係わり方を人間は忘れてしまった。高波が来れば防波堤を造ればいいという発想しかできなくなってしまった。それは伝統的日本人がよしとしないものだ。今度の震災復興でも,さらに大きくて強固な防波堤を造ろうとしているが,そのような防波堤を造れば海・山の環境連関のサイクルが崩れてしまう。「森は海の恋人運動」(畠山重篤)を評価する一方で,実際には(霞ヶ関の人は)防波堤を造ろうとする。大きな矛盾のあることに気付いて欲しい。

(2)大量消費時代の終焉
 これからはモノが売れない時代になる。その典型が白物家電だろう。そのうち自動車もその方向に移行するだろう。これまでは量の時代であったが,これからは質の時代となる。時代の趨勢はこうなっている。
 これからはモノを大量に作り広く売る時代ではなく,貸し借り(リース,レンタル)が主流となる時代だ。つまり第一段階として,サービス業型製造業に転換していく。そのサービスをする中で,モノの質をあげていく。第二段階は,第一次,第二次,第三次産業が相互に連関した新しいサービス業型製造業に進化・発展する。
 今のテクノロジー製品は富める2割の人にしか供給されてない。1日1ドル以下の人々を除く6割の人々にも,新しいテクノロジー観は適用できるし,リッチな2割の人々にも使える。そうなるとマーケットは一気に4倍に拡大するわけだ。今のやり方で利益が出るうちはいいが,早晩利益が出なくなる(売れなくなる)のだから,それまでにもう一本別のレールを早く敷くことだ。
 既に述べたように,先進国ではじめて日本国内の自動車の台数が減少し始めた。日本で車が売れないから,途上国の金持ちを対象に売ろうとしても,世界中の自動車メーカーが同じことをやっていけばいずれ飽和状態に達するのは見えている。そうなると自動車の下請け業者はもっとたいへんだ。しかし車がない社会でも移動媒体は必要だ。車という概念から離れて新しい移動媒体の概念を先取りして創り上げる。そうすればものすごい可能性が山ほどある。従来型の思考回路で考えるから儲からないのだ。しかし,視点(スタンドポイント)を変えれば儲かる道はある。
 とくに若い人たちは車を買わなくなってきた。モノを買うという概念が希薄化しつつある。いまはソフト屋の全盛時代で,若者の間では,映画(DVD)・音楽(CD)のレンタル,貸し借り,ネットからのダウンロード,自然体験(稲刈りなど)等が流行っている。
 そもそもエネルギーが枯渇したときには,中国で生産したものを日本に輸入する,東北地方で生産したものを東京に送るということは通用しなくなる。将来はあらゆるものが地産地消型の産業構造となり,それらがゆるくネットワークを結ぶというしくみだ。
 例えば,気仙沼や石巻は魚などの水産物を中心とした食の町,山形であれば農を中心とした食の町,あるところは機械産業を中心としたサービス業の町などである。それらがゆるくつながっていく。今は漁村で獲れた1万円の魚が東京に行くと10万円になってしまうが,地産地消型の構造になっていくと仲買など中間マージンがなくなるのでモノの価格も安くなる。漁村では漁師や調理師の養成学校を作り,地方の中でもヒトとモノを循環させていく。何でも東京などの大都市に持って行ってしまい,残り物を田舎に残すのではなく,東京の人も「一度は気仙沼に行って食べたい」というような魅力ある街にしたい。それが新しい時代の価値観ではないか。
 
(3)超高齢社会への対応
 日本は近い将来,超高齢社会になるといって心配されているが,それでも問題ないという発想からスタートしないといけない。そもそも第一次産業には定年はなく,健康で動ける限り生涯働く社会だ。なぜ第二次産業と第三次産業だけが,定年制を設けて定年後は何もするなとしたのか。何もしないから急に体力も衰え,病院通いが増える。第一次産業の人々は,第二次産業や第三次産業の人よりも収入は少ないが,ちゃんと生きている。ゆえに第二次産業,第三次産業も定年なしとすれば,超高齢社会も当たり前のように受け止められるようになる。つまりライフスタイルとワークスタイルがオーバーラップしなければならないのである。第一次産業は完全にオーバーラップしているが,第二次産業と第三次産業は,それらを分離させてしまった。
 ライフとワークを近づけていく努力が必要だが,そうなると当然生産性は落ちる。その分(人の)数でこなしていく。モノの売れない時代なので,生産性は落としてもいい。それよりも地産地消型のネットワーク社会になれば,御用聞き的なサービスやものづくり,サービス業型の産業に変わっていくので,人(労働力)が必要になる。給与を減らしても人を増やす形で労働市場を形成する。ここで一番必要なことが定年制の廃止とライフとワークをオーバーラップさせることである。
 そうなると在宅勤務が可能となり,このような仕事は70歳でも80歳でも健康な限りやれるだけやっていく。給与は暮らす程度にあればよい。このやり甲斐が人を豊かにする。ライフとワークがオーバーラップするところから「やりがい」「生きがい」が生まれてくる。このような構造の社会に持っていけば,労働人口は増え,高齢化も前向きに受け止められ,おそらく医療費も抑制されるだろう。
 そもそも定年制は終身雇用が前提でなければならない。終身雇用制度をなくしながら,定年だけはしっかり残すということは,まったく論理矛盾だ。そのため企業に尽くすことにすべてを捧げた人生を歩む企業戦士が生まれてしまった。ライフとワークが乖離したときに,彼らはライフの中で豊かに暮らすことをすっかり忘れてしまった。家は帰って寝るだけ,子どもの顔を見たこともない人に限って,定年になって何ができるかというと「部長ができます」という笑い話がある。それでは本末転倒だ。そこを直さなければならない。
 家族と一緒に暮らすことと仕事が全く乖離してしまった。これが(強欲)金融資本主義の結末だ。つまり,カネがすべての価値基準(ものさし)となってしまった。伝統的日本人は,そうした中に“浪花節”をうまく入れ込んで生活してきたが,それが失われてしまった。いまこそ“浪花節”が必要な時代になったと思う。

3.新しいものづくりのあり方

(1)日本のものづくり精神
 江戸時代の1633年に第1次鎖国令が出され,1639年の第5次鎖国令で「鎖国」が完成したと言われるが,その後も一部の港を通じて海外との交易を続けていた。当時の人口3000万人(18世紀初頭以降)を内需だけで養えるようになったのは19世紀初頭であった。その段階で完全な鎖国に到達したと言える。
 江戸時代末期のコメの収率は,1970年代のアジア諸国に匹敵,もしくはそれを上回る水準であった。開墾できる可耕地はほとんど耕作地化されており,単位面積当たりの生産性向上が求められた。最小費用・最大効率の経済原理に従って,家畜の飼育をやめ畜力から人力への移行を進めた。英国の産業革命が機械の使用を通じて生産性向上を図る「資本集約・労働節約型」であったのに対し,江戸時代のそれは「資本節約・労働集約型」であった。つまり人が徹底的に働くことで収率を上げるという産業革命をやった。それを「勤勉革命」と言う(速水融)。
 欧米人の眼から見ると,人間が牛馬に代わって働くことは奴隷のやることだという。にもかかわらず,なぜ日本人はそうしたのか。そこには日本人独特の自然観があった。あらゆるモノに神が宿っていると見るので,「ありがたい」という思いが湧いてきて一生懸命に働いたに違いない。そこから徹底的に働くという美徳が生まれた。「もったいない」「粋」(意気)というのも,そこで成熟した概念だ。
 もったいないから大切に使う,丁寧に作り上げるという精神が,日本のものづくりの根底を支えている。職人が徹底的にものづくりに励むとモノにも魂が宿り,無名の職人の作品も美しい(「民芸」=柳宗悦)となる。そのような概念が今も生きているからこそ,どういうわけか同じ機械を使っても(外国人のものづくりは)日本人にかなわない。それによって日本は,高度な品質管理を達成したと思う。
 そのような概念をいまこそもう一度整理整頓して,モノをつくるという価値観にプラスアルファした価値観,すなわち伝統的自然観をベースにした地産地消型のサービス業型ものづくりのしくみを創り上げていくことが,資源もエネルギーもない日本が世界から尊敬されるための唯一のソリューションではないかと考える。そのプロセスがモノからコトへの転換でもある。従来型の大量生産,大量消費は,誰が考えてももはや期待できない。

(2)顔の見えるものづくりと発想の転換
 将来のものづくりはどのような形態なのか。大量に作らない,人間の顔が見えるようなものづくりだろう。かつてソニー・ブランドはそのような性質を持っていた。ソニー・ブランドと言えば,技術系の顔が見えてくるような丁寧なつくりで,少々値段は高いが,ソニー製品を持っているだけで自慢できる。最近,野菜や果物ではそうした生産者の顔が見えるようなものが出てきた。そのような概念に基づくものづくり,壊れたら修理して長く使う,長く使うことを自慢する。そのようなものは大量生産する必要はないし,地産地消型でいい。
 私のメガネもそうだ。メガネそのものは安いのだが,注文してから何年もかかる。待つこと6年であったが,その間にこのメガネの価値が私の心の中でどんどん膨らんでいった。価値がモノの中から滲み出てくる。これが物欲から精神欲への転換である。
 また以前私はブランド品の腕時計を使っていたが,いまは手巻きの懐中時計を持っている。これは毎朝巻いてやらないと止まってしまう。毎朝巻くことで愛着がわいてきて捨てがたい。いまや何ものにも替え難いものになった。毎日ちょっとずつ遅れたり,進んだりするのを見ながら,時計のご機嫌を知ることになる。かつて手巻きの柱時計を巻くのは子どもの役割だったが,それをきっかけに家族間の対話が進んだ。
 東日本大震災のとき「絆」ということが盛んに言われた。絆は仲良しだけでは形成されない。制約があるからこそ確固たる信頼関係が生まれ,それが絆となっていく。インターネットやメールといった利便性だけでは本当の絆は生まれないと思う。
 人間がテクノロジーに直接関与できなくなると,そのときテクノロジーから大切な価値観が失われていく。いま自動車が売れなくなった。なぜか。もちろん背景としては,物欲から精神欲に移行しつつあるという時代変化もあるだろう。それよりも車に触れられない,車を開けても(電子化されてしまい)どこに何があるかよくわからなくなった。ブレーキを踏むと自分の意思に反して勝手に止まってくれる。それでは人間は楽しくない。車の調子が悪いなと感じれば,ボンネットを開けて一つひとつの部品を見て触りながらその不調を感じる。ハンドルを握って路面のでこぼこが感じられる。そのように機械を使いこなしているという肌感覚をもててこそ,機械に愛着を持つ。
 機械に愛着がわかなくなると,修理もおろそかになり,長く大切に使わなくなる。一方,自動車メーカーは際限なく安全性を追求する。今の1.6トンの自動車には400kg以上の安全装置が装着されているという。60kg程の人間を運ぶのにそんなに多くの複雑な装置を持った1.6トンの車が本当に必要なのか。またエコ・カーとして1リットルで何キロ走れるという効率ばかりを強調していて,メーカーに罪悪感はないのか。どこかおかしい。どこかでボタンのかけ違いがあったに違いない。かつての価値観の延長線上にしか見ていない証左だ。いまこそ足の位置を変えなければならない。
 今のエネルギー消費は,バブル期最後の1990年代初めの約3割増だ。当時と比較していま果たしてどれほど豊かになっただろうか。むしろ当時の方がエネルギー使い放題で豊かだったような気もする。せめて3割減らすのは何も問題ないと思う。3割を何かに置き換えるのではなく,3割減らしたところからスタートしたら何が見えてくるか。
 現在の7割のエネルギーで暮らしてみよう。1973年のオイルショックのころ,それ以降10年間一切エネルギー消費を増やさずに,経済成長を達成することができた。今われわれが切羽詰まっていないだけだ。切羽詰まっているのは東北地方だけだ。東北地方は,震災前のフル稼働の59%のエネルギー消費でやっている。いまこそ切羽詰まらせよう。まず7割で暮らそう。その気になれば暮らせるはずだ。さらに,二酸化炭素や地球温暖化問題もあるから,新しい技術を使って,例えば自然エネルギーを使ってどれだけ化石エネルギーを減らせるかに挑戦しよう。
 しかしそうしたときに重要なことは,楽しく取り組むことだ。環境問題というと,誰も楽しい話をしない。我慢することばかりだ。今日を原点にして将来を考えるという思考回路しかないからだ。将来のライフスタイルから発想するという思考回路がないと画期的な技術革新は生まれないと思う。

(2012年9月19日)

プロフィール いしだ・ひでき
1953年岡山県生まれ。78年伊奈製陶株式会社(現,(株)INAX)入社。同社空間技術研究所基礎研究所長,技術統括部空間デザイン研究所長,技術戦略委員会・環境戦略委員会兼任議長CTOなどを経て,2004年東北大学大学院環境科学研究科教授,現在に至る。工学博士。専攻は,地質鉱物学,材料化学。ネイチャー・テクノロジーの普及に努めるとともに子どもたちの環境教育にも取り組む。地球村研究室代表,ネイチャーテック研究会代表,ものづくり生命文明機構理事,アースウォッチ・ジャパン理事等も務める。主な著書に,『自然に学ぶ粋なテクノロジー』『地球が教える奇跡の技術』他。