中国の少数民族政策に見る殖民地主義と文化的ジェノサイド

静岡大学教授 楊 海英

<要旨>

 近代中国の歴史の中で,文化大革命は漢人を中心とする共産主義中国の本質を如実に表す一大事件であった。その最初の犠牲のターゲットがモンゴル人であり,約150万人のうち34万人が「反革命分子」や「民族分裂主義者」として逮捕された。この文化大革命的な政治手法は,今なお国内の少数民族政策として踏襲されている。その手法とは,少数民族が少しでも自らの権利を主張したりすると,たちまち「分裂独立志向」とのレッテルを貼るやり方である。これはまた現代における殖民地主義であり,マイノリティ・ジェノサイド,文化的ジェノサイドだと指摘することができる。「民族問題」にジェノサイドが伴われていた事実から,中国における少数民族の大量虐殺の歴史に対する研究は喫緊の課題といえる。

1.はじめに

2012年夏の7月7日に「植民地文化学会」主催の国際シンポジウムが開催された折,中国(大陸),台湾,朝鮮半島,日本などの研究者が集まり,殖民地に関連する発題と議論が交わされた。東アジアの研究者が集まって殖民地について議論をすると,戦前の日本帝国主義の殖民地支配に関する議論となることが多いが,最近,とくに若手研究者の間では近年の中国の帝国主義的な動きを研究対象として扱い,その殖民地主義的な性格についても議論しようとする傾向が見られる(注:本稿では,人間を移住させて統治するという意味を込めて「植民地」ではなく「殖民地」という用語を使う)。
 ここ数年来,私は中国理解の新しい視座として,とくに中国内の少数民族政策に関して,中国の帝国主義性,殖民地支配の特徴を取り上げていたこともあり,同学会に招聘されて発題することになったのであった。私はその場で,「過去の日本帝国主義の殖民地支配研究も重要ではあるが,しかし同時代に現在進行形の中国の帝国主義・殖民地支配についてもっと注目する必要がある。それは19世紀から20世紀の帝国主義・殖民地支配とは違った特徴を,現代中国のそれが持っているからである」というような趣旨の発題を行なった。それに対して,若手研究者はだいぶ共鳴してくれたが,年配の方や親中国的な左翼研究者には受け入れにくいようであった。
 彼らが中国の帝国主義・殖民地支配について受け入れにくい背景にはいくつか原因があると思う。
 一つは,近現代史研究から考えるときに,日本の研究者が中国の帝国主義問題を取り上げようとすると,中国人研究者から逆に「過去の日本帝国主義の問題」について批判されるのではないかと恐れているように思う。しかし,日本は敗戦後,民主主義の道を60年以上も歩んでくる中で左派や右派の関係なく日中戦争についても真摯な議論を積み重ねてきた。日本の戦後の(平和に向けた)努力と歩みについては正当に評価を下すべきではないか。ゆえに(不足な部分があるとしても)批判の矢が返ってくるのを心配する必要はないと思う。
 さらに付け加えれば,アジア近現代史研究における「日本絶対悪説」あるいは「日本悪玉論」がある。近現代の出来事や歴史について解釈するとき,日本を巨悪にして全く善なる側面をもたぬ存在として描く学術研究は公正ではないと思う。善悪で分別しようという視点のみでは歴史研究としては進まない。世界史的な視野が不可欠である。
 もう一つは,中国に対する畏怖の念であろう。二千年以上に及ぶ長い日中関係の中で日本には,永年に亘って中国は文化的遺産を日本に伝授してくれた国だとの理解があるために,悪く言うことは失礼になるのではないかという「へりくだった」思いがあるように思う。
 しかし,事実を検証してみれば,中国が一方的に教えてくれたというよりは,日本が主体的に自国に必要な内容を取捨選択しながら日本化した形で受容してきた歴史であった。例えば,漢字にしても,中国の漢字(漢語)そのものを導入したというよりは,一種の記号として取り入れたというのが正確なところではないか。
 私はこれまで,漢人が支配者となる国家を創ろうとする中国と,その中国による統合に反対して別の国民国家を建設しようとしたモンゴル人たちが大量虐殺された経緯を長年にわたって研究してきた。その分析の中で,「マイノリティ・ジェノサイド」にこそ社会主義中国による,対少数民族政策の強権的で,暴力的な本質が内包されていると考えた。
 内モンゴルの歴史を見ると,150万人ものモンゴル人たちが漢人の奴隷に転落した。中国共産党は,未曾有の規模で漢人を移住させ,すべての遊牧民を強制的に定住させ,その刃を「中国に忠誠を誓わない分裂主義者のモンゴル人」に向けたのであった。これは「中華中心思想」あるいは「漢人優越思想」と共産主義思想が結合して巨大な暴力的な潮流となって,モンゴル人をはじめとする少数民族を呑み込んだジェノサイドであった。
 中国がマイノリティに対して暴力を発動するイデオロギー的背景について,もう一つ付け加えれば,マルクス・レーニン主義の唱える発展段階論と漢人たちの自己尊大な精神とが一体化した点がある。
 日本経由のマルクス・レーニン思想が輸入される前は,「天下の中心」に住む漢人が辺境の民(例えば匈奴)を踏みつけようという発想だった。そのような差別的な発想に西洋起源のイデオロギーが潤色されて,「先進的な漢」対「立ち遅れた奴隷社会の匈奴」というような構図が形成される。ここに至って,先進的な社会が「立ち遅れた社会」に暴力を働くのも「正義の戦い」もしくは「解放」であるという論理が登場する。「遅れた連中を解放して先進社会に迎え入れる」という理屈である。
 20世紀にこの「馬踏匈奴流の社会主義思想」(これを表した石像も西安市郊外にある)が悪魔に化けて,「遅れた少数民族」を例外なく打ちのめした。「先進的な漢人」は「解放」という旗印を掲げて辺境に侵入し,大量殺戮を長期間にわたって行なった。辺境諸民族の故郷を暴力で持って占領する行動を「正しい解放」「より高い次元の社会への飛躍」だと位置づけると,次の段階における粛清も当然,正当な「革命行為」となる。「正しい戦争」に抗した勢力は「反革命的分裂活動」でしかない。
 このようにして,モンゴル人やチベット人に対しては何をしても「絶対的な善なる行為」だと中国人にのみ正義があり,「少数民族の抵抗は醜悪な行為だ」という発想が生まれる。これは今の中国でも公然と奨励されている。
 そこでここでは,中国内少数民族との接触史を殖民の視点から見つめなおしながら,文化的ジェノサイドに関連して論述してみたい。

2.中国の殖民地支配と文化的ジェノサイド

 一般に殖民地支配の特徴は,征服者を定住させ,もとの先住民を搾取し,抑圧する点にあり,その際には「文明化の使命」を大義名分とする。こうした特徴は,現代中国の少数民族政策にも顕著に現れている。以下,具体的に見てみよう。

(1)大漢人主義
 2012年秋に中国共産党中央委員会総書記に就任した習近平は,その演説の中で社会主義,共産主義ということにはほとんど触れず,「中華民族の復興」を何度も強調した。「中華民族の復興」とは何か。それは中華帝国の復興であり,中華とは漢人中心の伝統的な文化・思考である。大漢人主義ともいえるもので,自国に対しては中華民族の復興,日本に対しては反日を唱える,一種のナショナリズムになりつつある。
 実は,共産主義体制になる以前から漢人にはそのような発想があった。孫文も大漢人主義を唱えたように,漢人にとっては非常に根が深い問題だ。孫文や周恩来も,漢人を中心とする国を立てることを考えていた。孫文のときから今に至るまで,少数民族を支配して大中華を復活させたいという思考は変わることがない。これは別の言葉で表現すると,漢民族中心の帝国主義的膨張であるから,必然的に周辺国に対しては殖民地をつくっていく。
 昔からモンゴル人,チベット人,ウィグル人,満洲人が,漢人にとっての伝統的境界線であった「万里の長城」の内側に入ることを,侵略(「異族入侵」)だととらえてきた。近代の日本帝国主義も同様に侵略ととらえた。ところが,逆に漢人が「万里の長城」を越えて周辺世界であるモンゴル,チベット,満洲に入ることは,侵略ではなく「開疆拡土」と称する。自分のやることはいいことで,他人がやることはすべて悪という発想だ。尖閣諸島や南シナ海の問題でも,自分がその領域を支配することは「わが国の領土を守る」とするが,他国が同様の領土的な主張をすると「けしからん」という。この中国の発想こそ帝国主義的,(自己中心的な)殖民地主義的発想である。

(2)経済的略奪
 かつてヨーロッパ諸国がアフリカを殖民地支配したときに,地下資源をはじめとするモノを略奪し,それを本国の発展のために使った。現在の中国のやり方を見てみると,チベット,ウィグル,内モンゴルから,地下資源を採って漢人の発展に使っている。それが必ずしも現地の人々(少数民族)の利益につながっていないばかりか,かえって現地の人々の貧困化をもたらしている。「漢人が豊かでそれ以外の少数民族は貧乏」という経済格差が政府の指導によってつくられた。これは殖民地的略奪である。
 実際に内モンゴル,ウィグル,チベットに行って現地調査をしてみると,軒並み所得が低い。地下資源を開発する人から工場・農場経営者まで,みな漢人が占めている。かつては石炭や金属資源などが発見されると,それを内地に運んでいくという略奪であった。しかし最近では,運んでいく側面も残っているが,現地に工場を作っても現地人を雇用せず,わざわざ内地から漢人を呼んでくるか,地元の漢人を優先的に雇っている。漢人が少数民族を搾取する構図が定着している。
 海外に出て行って資源開発から工場生産まですべて漢人に利益が回るようになっているのと同じ構図が,国内でも行なわれている。しかし,これはむしろ国内のやり方で海外展開をしていると見るのが正確だろう。この点が,中国流殖民地支配と西欧流のそれとの違いだと思う。
 ヨーロッパ諸国の場合は,第三世界に出て行って開発を行なっても必ず現地人を雇っていた。ヨーロッパの場合は,ヨーロッパ人が支配の頂点に立てばいいのであって,きつい労働や役務は現地人が担う。ところが中国の殖民地支配は,頂点から底辺まで中国人が独占する完全な搾取だ。モンゴル人はそれを「権力を握る役人からトイレの掃除まであらゆる就職のチャンスを漢人に取られた」と主張する。その結果,個人はいうまでもなく,少数民族全体が貧困化しているのである。

(3)文化的同化政策(文化的ジェノサイド)
 中国人(漢人)は,「相手を文明化させている」という使命感をもって,遅れた連中(少数民族)を開化していると考えている。頭から「少数民族は遅れている」「(文化的に高いレベルにある)われわれは援助に来た」と発想する。表現としても,「役立つことをしに来た」「助けに来た」という。
 そして「あなたがたは遅れているので,文明化する必要がある。ゆえに文明人の言葉(中国語)を話し,文明人(漢人)のような生活をすべきだ」と考えて,そうするようにしむけるというあからさまな同化政策を行なっている。これはまさに「文化的ジェノサイド」である。こうした「文化的ジェノサイド」という見方は,最近,チベットのダライ・ラマ法王や,ウィグルの指導者ラビア・カーディル女史も主張している。
 この一例として,翻訳語の改変について述べてみたい。
 多民族国家と称する中国は,政権確立以来長く「民族」をnationと理解し,同国の英字新聞でもその用語を使ってきた。ところが,1990年代以降,「民族」という用語をやめて「族群」ethnic groupという言葉を使い始めた。この概念を主唱したのは民族学者馬戎で,彼はその根拠をいくつか述べている。その一つは,中華民族という上位概念とそれに属する下位の諸民族が同じ「民族」を用いると混乱する。そして少数民族にnationalityを賦与すると,民族自決権などを連想させ,ゆくゆくは分裂主義運動を起こす危険がある,と説明するのである。
例えば,モンゴル民族はMongol NationからEthnic Mongolsとなり,チベット民族はTibetan NationからEthnic Tibetanに改変されたのである。こうしたことに対して私は,モンゴル人や朝鮮族は国境を挟んで同じ民族がいるわけだが,国境の向こう側の民族も同じようにEthnic Mongols,Ethnic Koreanなどと呼ぶのかと皮肉ったことがある。中国国内はEthnic Mongolsで国境の向こう側がMongol Nationというのでは説明がつかない。
 Ethnicとなると国内の文化的な違いに過ぎないという意味になる。日本で言えば,関東人と関西人の違い程度に矮小化されてしまう。そうなると歴史性や政治的違いを認めなくなり,みな同じ民族だという考え方だ。そして,少数民族が正当な権利を主張しても,「中国に民族問題はない」という結論になり,あるのは単なる刑事事件に過ぎないとするのである。
 南京大学の汪応果・名誉教授は,「中国には一つの民族しかない。それは中華民族である。・・・各級の民族自治政府をすべて撤廃して,真の族群間の平等を実現させ,分裂の芽を事前に摘もう」と述べた(2009年)。ここで言う「族群間の平等」とは,少数民族が完全に漢化=中華化した暁の姿を夢想しているに違いない。

(4)高圧的な帝国主義的膨張政策
 もう一つの特徴は,「解放」という旗が色あせた後,「開発」「発展」という新しいスローガンを発見して,中国人は殖民行為を一層強化してきたことである。いわゆる「西部大開発」であるが,この背景には,漢人は常に先進的で少数民族は永遠に助けを必要とするヘゲモニーがある。そして開発と発展によって少数民族が豊かになれば,「野蛮人」たちも固有の宗教文化と伝統的な遊牧経済を放棄して,民族問題の武器も捨てて偉大な中華の天蓋に帰順するに違いないと考えているようだ。しかし,現実は今まで以上に同化される危険性が危惧される。
 内モンゴルについてみてみよう。
 戦後間もなく内モンゴルを自国に併合した中国は,「沙を混ぜる」と称して,漢人殖民を組織的に進めてきた。1945年頃500万人いた漢人は,いまや3000万人に達し,「主体」とされるモンゴル人の7倍近くとなった。
 「生態移民」と称する強制移住政策の下で,漢人たちはどこに移り住もうと,現地の自然環境を一切構わず犂を入れて種子を播き,収穫して初めてその地を占領したと実感する。内モンゴルを併合した後,中国は5回にわたって大規模な草原開墾を実施して,美しいステップを荒れた沙漠に変えてしまった。これはまぎれもなく「開発」と称した略奪であり,内モンゴルを殖民地としてしか見ていない政策の表れであろう。
 その結果,沙漠化が至るところで弊害をもたらしている。ところが,草原を開拓して沙漠化をもたらしたのは漢人であるにもかかわらず,環境破壊の罪人はモンゴル人とその家畜群に転化された。遊牧民が何千年にわたって暮らし続けてきても沙丘ひとつ現れなかったのに,漢人が侵略してきてから,たった数十年で黄沙が世界中に飛散するようになった事実を中国政府は頑として認めようとしない。
 中国人は,全く異なる文明を持つ人々を脅威と見なして中国に同化させるため,牧畜を軽視し農耕を重視する政策が強制された。それはまずモンゴル人の経済基盤を破滅させて,その後に文化と政治面での同質化を図る戦略に基づく文化的ジェノサイドであった。その過程で,効率のよい同化政策を進めるために,とくに文化大革命期にはモンゴル人の大量虐殺というジェノサイドを発動したのであった。

(5)テロを利用した弾圧
 今日,中国は米国主導の国際的な「テロとの戦い」を利用して少数民族側からの真の自治を求める希望をテロだと解釈し,厳しく弾圧する姿勢を強めている。自治権拡大要求や統一国家からの離脱願望を故意にテロと歪曲する政治的手法は,文化大革命中に少数民族側からの主張をすぐさま「民族分裂的な行動」だと定義した理論に根ざしている。
 この最も顕著な例の一つが,「上海ファイブ」という中国主導の国際協力組織(SCO)による周辺国へのアプローチである。中国に住む「テロリストと極端な宗教主義者,極端な民族分裂主義者」らを叩き潰そうとしているのである。
 例えば,漢人とウィグル人との間の衝突事件については,すぐに「テロだ」と規定して対処する。国営のシンクタンク報告書にも,新疆ウィグル自治区でテロ事件が頻発していると述べて裏づけする。対イスラームの関係で「テロ」と規定すれば国際社会も反対しないので,弾圧がやりやすいわけだ。
 しかし,それ以上に過激な漢人による抗議行動が万人の単位で国内で毎日のように起きている。規模と激しさで比べても比較にならないのに,少数民族の抗議行動を針小棒大に扱って対処する。これはダブル・スタンダードだ。

3.中国の今後

(1)毛沢東の神格化
 最近の反日暴動で毛沢東の写真を掲げたものが見られたように,今なお毛沢東に対する中国人の憧憬がみられる。それはなぜか。
 一つは,毛沢東が国内で文化大革命をはじめとして暴力的な統治を行ない多くの犠牲者を出した事実について,教育の中でまったく教えられていないために,中国人民は毛沢東の暴虐性について知らないのである。
 文化大革命について,現在の中国政府は建前上,否定している。文革後復活した鄧小平は,毛沢東の評価について「功績が7割で,過ちが3割」と言った。そして文化大革命の実態究明や研究について「粗く書くべき」で「細かいことを書く必要はない」との談話を発表した。その上で,中国共産党宣伝部は,「文化大革命史に関する専門書と論文を慎重に扱うよう」に通知をし,「枝葉末節に至る細かい描写は論争を引き起こし,民族団結のために不利である」と指摘した(1986年11月)。さらに同宣伝部は各出版社に対して,文化大革命関連の書物を出版しないように指示をした(1988年12月)。国内に向けては共産党にとって不都合な歴史を忘却させ,外国に対しては「侵略の歴史」を政治カードとして切るという二重の歴史観をもつのである。
 もう一つは,毛沢東が強権的政治を行なったことは,最近では一般人民もうすうす理解しているが,中国人は伝統的に権威主義的,中央集権的な傾向が強く,強い皇帝や権力者に対して従うという性質がある。魯迅が指摘した「奴隷根性」である。意外に思うかもしれないが,中国人は権力を振るう暴力的君主に対しても従うところがあるのだ。魯迅が述べたように,「暴君の下には暴民がいる」のだ。暴君だけが暴力的統治をしているだけではなく,暴力を好む無数の暴民がいるから,暴君による暴力的統治がはびこるのである。暴君一人だけで成立する政治形態ではない。文革も一種の群集運動であったわけで,そこでは多くの人民が殺されるなどの犠牲になったが,それは毛沢東一人がそうしたというよりは,暴君に乗じて暴力行為を働いた暴民が行なったことは否定できない。こうしたことは,日本人にはなかなか理解できないかもしれない。
 一般の中国人(漢人)たちはこぞって共産党政府を熱烈に擁護する。文化大革命中であろうが,現在だろうが,少数民族に侵入してきた漢人は常に政府側の主張に賛同する事実と性質は同じである。私はこうした彼らのやり方を「二次的虐殺」と認識している。

(2)人道主義的思想の不在
 中国の将来について「中国は将来,変わるか?」とよく聞かれるが,私は「変わらない」と答えている。それは中国には人道主義的思想の土壌がないからだ。二千年にわたって培われてきた権力にこびる,権力に弱い,権力に従う思想はあるのだが,個々人を大事にし,命を尊重するという人道主義的思想の土壌がない。それゆえ今後も変わらないだろう。
 例えば,ネットやデモにおけるスローガンを見るとよくわかる。「何千万人死んでも,釣魚島を守ろう」「何千人死んでも,日本と戦おう」。これは中国人が,命を軽視する思想の表れといえる。太平洋戦争の日本でさえ,国民の半分が死んでも鬼畜米英と戦うというスローガンはなかったと思う。これは中国の歴史的な中で蓄積されてきたメンタリティだ。
 同じ東洋諸国といっても,朝鮮や日本が違うのはなぜか。それらの国には,西洋起源だけではない人道主義的思想(ヒューマニズム)の伝統が定着しているが,中国にはそれがないからである。朝鮮半島には,近世にキリスト教が入りヒューマニズム的な思想が定着している。
 同じ中国人といっても台湾は,オランダ統治の時代からの影響もあり,先住民の命を大切にする思想や,日本統治時代に影響を受けたヒューマニズム思想などがあって,大陸の人々とはだいぶ違う。外省人がやって来ても,台湾の風土に同化されてしまって変化している。
 中国古代思想の一つ儒教思想の中で,孔子・孟子はいいことを説いているのだが,よく読んでみると,それらは実現して欲しい理想世界の話であって,彼らが生きていた時代においてそのような理想世界は見出すことができなかった。中国が孔子や孟子のふるさとではあっても,儒家が説く理想世界は一度も実現していない。日本人はそれを善意に解釈しているために,中国を美化しすぎているように思う。
 また,儒教と道教はあまり人間を重視する思想ではなく,ヒューマニズムとは抵触する部分がある。加えて共産党は,そういう儒教・道教を壊してしまったから,いまは何もない「思想的空白の時代」になってしまった。さらに「共産主義」もない。今あるのは,権力とカネだけだ。それゆえ外敵を作り出す必要がある。その一番のターゲットが日本だ。国内的にはナショナリズムを煽り,外には敵をつくる。

(3)少数民族問題の解決の道
 中国は少数民族問題を解決することは出来ないのではないか。チベットで僧侶の焼身自殺があれだけ多いのは,チベット仏教という信念があって抗議行動に出ているためだ。仏教は他人に対しては暴力を振るわないが,自己を犠牲にして抗議行動に出ているわけで,非常に強い抗議行動といえる。ウィグルの場合は,イスラーム世界と連動しているので,そう簡単には中国の支配に治まることはない。モンゴルも,独立国家が隣にあり,自分たちはチンギス・ハーンの子孫だという強烈な信念がある。
 モンゴル民族について言えば,半世紀前の文化大革命中に未曾有の虐殺を経験したモンゴル人たちは,今でも「心が殺された」「魂胆が殺された」と表現する。それは中国が内モンゴル自治区でいかなる圧政を敷いても,もはや抵抗できる人物が完全にいなくなった現実を意味している。その結果,今日のチベット人や新疆ウィグル人たちのように果敢に立ち上がることができなくなってしまったのである。
 ところで,中国をはじめ世界各地に民族問題が多発しているのは,根源的には第二次世界大戦の戦後処理が火種を埋め込んだためだと認識している。
モンゴル民族も朝鮮民族も,同じ民族が分断されてしまった背景には,ヤルタ協定による対日敗戦処理で大国の意のままに決められてしまったことがあった。その結果,モンゴル民族は内外に,朝鮮民族は南北に,ドイツは東西にそれぞれ分断された。欧州はドイツの統一と東欧問題を解決して戦後処理を済ませたが,アジアは戦後の後遺症を未だ解決できていない。南北朝鮮,内外モンゴルの分断に加え,イデオロギー的には中国と台湾に分断されている。
 こういう背景を考えると,二国関係だけを解決しようとしてもだめだ。しかもそれぞれに日本の過去と密接に関係している。近代になり国民国家を樹立する流れの中で,モンゴル人は漢人とは別の国家,モンゴル人だけの国を創ろうと立ち上がった。清朝崩壊後にモンゴル高原は独立を実現させたが,漢人軍閥に抑えられていた内モンゴルは独立には合流できなかった。内モンゴルのモンゴル人たちは民族主義の政党(内モンゴル人民革命党)を1925年に結成して民族自決運動を繰り広げた。やがて満洲国が1932年に成立し,徳王のモンゴル連盟自治政府も1937年に登場する。どちらも日本の力を借りて民族自決を実現させようとした政治運動であった。近代のモンゴルは,日本と中国の殖民地と化していたのである。
 また,チベット問題はチベット仏教を切り離して解決できないし,ウィグルはイスラームというように宗教問題が深くかかわっている。今後,戦後体制の見直しが進められることによって,東アジアの民族問題が流動化する可能性がある。むしろ民族問題は激化するに違いない。

(2012年11月22日)

プロフィール Yang Hai-ying
1964年内モンゴル自治区オルドス生まれ。北京第二外国語学院大学卒。89年来日。国立民族学博物館・総合研究大学院大学博士課程修了。文学博士。現在,静岡大学人文社会科学部教授。モンゴル名はオーノス・チョクト。専攻は,文化人類学。主な著書に『墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上・下)『続 墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』『草原と馬とモンゴル人』『モンゴル草原の文人たち』『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料』(1~4)ほか。2010年『墓標なき草原』で司馬遼太郎賞を受賞。